学位論文要旨



No 118769
著者(漢字) 石濱,史子
著者(英字)
著者(カナ) イシハマ,フミコ
標題(和) 絶滅危惧植物サクラソウの種子生産に対する空間構造の影響 : その保全遺伝学的研究
標題(洋) Effects of spatial structure on the seed reproduction of an endangered herb, Primula sieboldii : the conservation genetic study
報告番号 118769
報告番号 甲18769
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第488号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 嶋田,正和
 東京大学 教授 高橋,正征
 東京大学 助教授 伊藤,元己
 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 横浜国立大学 教授 松田,裕之
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

生物の個体群の存続には、個体数だけでなく、遺伝的多様性の保全が重要である。遺伝的多様性は、環境変動への適応・抵抗性の獲得・近交弱勢・遺伝的和合性などを通じて、個体群の動向や存続可能性に大きく影響する。よって、植物の種子繁殖は、個体数の増加だけでなく、多様な遺伝子の組み合わせを生じることで個体群の存続性に重要な役割を果たす。

植物の種子生産には、個体群サイズ・個体の空間配置・他個体群からの距離などさまざまな空間要素が影響することが、これまでの多くの研究で明らかにされてきた。絶滅危惧植物の保全の際には、これらの影響を考慮することが不可欠である。空間要素が介在する主なメカニズムとして、他殖性で虫媒の植物では、送粉者の行動パターン、遺伝的に和合な交配相手との配偶、近隣個体との血縁関係などが考えられる。しかし、自然個体群では多くの場合、空間要素と環境条件が連関しており、各要素が花粉流動と種子生産に及ぼす影響を独立に評価することが難しい。このような状況では、野外で実験的に設定した個体群と多型性の高い遺伝マーカーを組み合わせる研究手法が特に効果的であろう。しかし、植物で実際に適用した研究例はまだない。

他方、最適な保全策を評価・選択するためには、モデルによる予測が必須である。虫媒の花粉流動に関しては、これまで花粉の持ち越しに基づくいくつかのモデルが用いられてきたが、非均一な空間におけるポリネーターの行動を十分に考慮したものはなく、また、十分に高い空間解像度を持ったデータに基づいた検証も行われているとはいえない。

本研究では、マルハナバチ媒花である異型花柱性のサクラソウにおいて、個体群の空間構造とその遺伝的要素が種子繁殖に与える影響を定量的に把握し、予測・評価モデルを構築する。具体的には以下の4点を目的とする。(1)遺伝的に和合な交配相手(異型モルフ)の局所密度が花粉流動と結実数に及ぼす影響を、実験個体群とマイクロサテライトマーカーを用いた父性解析によって評価する(第2、3章)。(2)実験個体群・自然個体群での観察により、ポリネーターの訪花行動に対する空間構造の影響を評価する(第4章)。(3)マイクロサテライトマーカーの遺伝子型から、自然個体群における遺伝構造を推定する(第5章)。(4)空間構造の影響予測のために不可欠である、訪花行動を考慮した花粉流動予測モデルを構築し、行動観察から推定したパラメーターと父性解析の結果を用いて、モデルの記述力を検証する。(第6章)

低密度個体群での局所的な異型モルフ密度の影響

絶滅危惧植物は生息地分断化などによって、個体群サイズが縮小している場合が多い。小個体群では、遺伝的に和合な交配相手の空間的配置が種子繁殖に深刻な影響を与える可能性がある。本章ではまず、個体株がパッチ状に分布する低密度の個体群で、局所的な異型モルフの密度が結実種子数・花粉流動のパターンに与える影響の把握を試みた。

異型モルフ密度を制御した実験個体群(線密度0.13ラメット/m)を長野県軽井沢町で野外に設置し、結実数の調査とマイクロサテライトマーカーを用いた花粉と種子の散布距離の推定を行った。その結果、結実数にはパッチ内の異型モルフの有無が有意に影響していた。すなわち、低密度個体群での種子繁殖成功には、ごく近傍の交配相手の有無が重要であることが明らかになった。さらに、花粉流動はその大半がパッチ内で生じ、ごく限られた範囲であった。なお、平均種子散布距離も10.4 cmと非常に短距離であった。

高密度個体群での局所的な異型モルフ密度の影響

本章では比較的密度が高く、個体が連続的に分布する実験個体群(北海道日高地方に設置。2.1ラメット/m)で、花粉流動と種子生産パターンに対する異型モルフ密度の影響を明らかにすることを第1の目的とした。第2に、長花柱花と短花柱花(自家あるいは同型他家の不和合性の程度や繁殖器官の位置が異なる)で、花粉散布距離と異型モルフ密度の影響を比較した。これらにモルフ間で大きな差があった場合、送粉者制限下で交配システム(異型花柱性)の崩壊がもたらされる可能性がある。

結実数の調査と遺伝解析の結果、高密度の個体群でも、近傍の異型モルフ密度が低いジェネットは結実種子数が低下した。花粉散布距離は平均5.2mと短距離であったが、低頻度ながら、実験個体群外の複数の父親からも、長距離の花粉流動が見られた。よって、両モルフともに高密度条件下でも局所的異型モルフ密度が種子繁殖成功に強く影響する。

また、長花柱花は、短花柱花よりやや広い範囲の異型モルフ密度とも結実数が強く相関した。父性解析の結果でも、長花柱花は5m以上離れた個体からも比較的多く受粉する傾向があり、自家および他家受精も起きていた。よって、長花柱花はより広い範囲の父親から受粉でき、また、異型モルフの花粉が制限されても結実可能である。このように、送粉者制限下では、長花柱花は短花柱花より種子繁殖成功度が高く、長期的には交配システムの崩壊がもたらされる可能性が示唆される。

個体群の空間構造に依存したポリネーターの訪花行動

パッチサイズ(パッチ内の花数)及びパッチ間隔がポリネーターの訪花行動へ与える影響の把握、およびモデルにおける訪花行動のパラメーターの推定を目的とした。これらは、実験個体群及び自然個体群(共に日高地方)の双方での、エゾトラマルハナバチ女王の訪花行動の観測によって分析した。

その結果、パッチ当りの訪花頻度にはパッチの平均開花数とパッチ間隔が有意に影響した。また、パッチ内での訪花数は、パッチの平均開花数・再訪花・パッチの間隔・連続訪花長に依存した。

いずれの個体群でも、パッチ間移動は大半が隣接パッチへの移動であり、花粉流動の大半はごく近距離からと推測された。1回の連続訪花の長さは10花未満の短いものが多く、これらは多数の父親からの低頻度/長距離花粉散布に寄与すると思われる。これらの推測は、父性解析の結果(第3章)とも一致する。また、パッチの大きさが花粉散布距離に影響する可能性が示唆された。

なお、この章で推定された回帰係数等は、第6章のモデルのパラメーターとして用いた。

自然個体群における遺伝構造

自然個体群では近縁な個体が集中して分布する傾向があるため、隣接個体間の交配では近交弱勢が発現し、繁殖への寄与が低下する可能性が大きい。本章では自然個体群での遺伝構造を明らかにし、それに基づいて近隣個体間の交配における近交弱勢の可能性と、有効な遺伝子散布距離の推定を行った。

北海道日高地方の自生地においてサンプリングを行い、マイクロサテライトマーカーの遺伝子型から、Loiselleら(1995)の方法により相対血縁度を推定した。その結果、特に血縁度が高い(>0.05)のは、5m以内と推定され、花粉散布距離(第3章)とほぼ同等であった。5m離れた個体間の交配で生じた子の適応度低下は、血縁度の指数に近交弱勢が比例し、自殖で生じた子の適応度低下を90%と仮定した計算から、約19%と推定された。これらの結果から、自然個体群での血縁構造に由来した近交弱勢が、遺伝子散布距離に影響していると考えられた。

花粉流動予測モデルの構築と検証

植物個体群の空間構造に依存したポリネーターの訪花行動の変化が、種子繁殖のパターンにもたらす影響を予測するモデルを構築した。モデルでは以下の仮定をおいた。(1)ポリネーターによるパッチ内での訪花数は、パッチ当たりの開花数に依存する。(2)パッチ間の移動はパッチ間のステップ距離とパッチサイズに依存する。(3)花粉の持ち越しは指数関数的に減衰する。

実測された花粉散布距離の頻度分布と果実当たりの父親数は、全てモデル予測の95%信頼区間内にあり、モデルがこれらの予測に関してある程度の記述力を持つことが確認された。感度分析の結果、パッチ数が4以下では大きく花当り繁殖成功が低下し、モデル予測からも近傍の交配相手密度の低下が種子繁殖成功に大きく影響することが示された。

このようなモデルは保全政策への応用が期待される。例えば、限られた個体から個体群の復元を行う場合に、個体群の種子生産の量と質を最大化するような最適個体配置を予測・評価に応用可能である。また、植物の繁殖様式の進化には、個体群の空間構造に依存した自殖や近親交配の頻度が強く影響すると考えられ、本研究で開発したモデルは、このような進化メカニズムを理解する上でも貢献するだろう。今後は、受粉後過程および近交弱勢の実態とその遺伝的機構の解明に基づいてモデルを改良し、より現実的な予測を目指したい。

審査要旨 要旨を表示する

植物の種子繁殖は、受粉により多様な遺伝子の組み合わせを生じることで、個体群の存続性に重要な役割を果たす。種子繁殖には株の空間配置が大きく影響することが知られており、絶滅危惧植物の保全では、その考慮が不可欠である。本論文は、絶滅危惧植物サクラソウ(Primula sieboldii)のマルハナバチによる受粉と種子繁殖を対象に、野外で株の空間配置を操作した実験個体群、多型性の高いマイクロサテライトDNAマーカーによる花粉親株の推定、そして、定量的予測力のあるモデル解析の、3つの方法論を統合させた貴重な研究である。

本論文は全部で7章からなり、第1章は序論で、研究の背景が述べられ、サクラソウの繁殖様式(異型花柱性)について紹介している。これは、雌蕊[雌しべ]が長く雄蕊[雄しべ]が短い長花柱花と、雌蕊が短く雄蕊の長い短花柱花の、異型株間でのみ受粉が成立する交配様式である。

第2章では、局所的な異型株の密度が、個体数密度が全体的に低い個体群において結実種子数や受粉による遺伝子流動に与える影響を解析した。長野県軽井沢町で、パッチ(一群の株)を小川沿いに15m前後の離れた間隔で配置し、各パッチは異型の株数が操作してある。これにより、結実数にはパッチ内の異型株の有無が有意に影響しており、低密度の個体群での種子繁殖成功には、ごく近傍の交配相手の存在が重要であることを明らかにした。第3章では、北海道日高地方に設置した高密度実験個体群で、異型株数を操作したパッチを1〜2m置きに連続して多数並べた実験を行っている。その結果、花粉散布の推定距離は、個体群外からのまれな受粉を除くと、平均約5mと短距離であり、高密度の個体群でも、ごく近傍の異型株密度が種子繁殖に大きく効いていた。異型花柱性植物の種子繁殖で、近隣の異型株密度が大きく影響することを示したのは、本研究が初めてである。

第4章は送粉者であるトラマルハナバチ女王の行動解析である。これにより、パッチ当りの訪花頻度には、パッチの平均開花数とパッチ間隔が有意に影響し、パッチ間の移動は大半が隣接への移動であり、花粉流動の大半はごく近距離からと推測された。これらの統計データは、後で第6章のモデル解析に使われる。第5章は自然個体群における血縁株の分布の把握である。近縁な個体は集中分布する傾向があるため、個体数が極端に減少した絶滅危惧植物では近交弱勢が発現する可能性が大きい。それを明らかにするため、北海道日高地方の自生地において、株ごとのマイクロサテライトDNAの遺伝子型から相対血縁度の空間分布を推定した。その結果、血縁度が特に高いのは各株から半径5m以内であり、これは第3章の花粉散布の推定距離と同等である。その範囲で近交弱勢が強いことが明らかになった。

第6章は、受粉による遺伝子流動が種子繁殖にもたらす影響を予測するモデル解析である。これまでの章の結果をもとに、植物個体群の空間構造に依存した送粉者の訪花行動と、送粉者の移動に伴う花粉流動の動態を記述する個体ベースモデルを構築した。シミュレーションの結果、予測された花粉散布距離の頻度分布と果実当たりの父株数は、第2章・第3章の実測結果と適合した。また、感度分析の結果、モデルの予測としても、近傍の異型株密度の低下が種子繁殖の成功を大きく減じることが示された。第7章は、全体の結果をまとめて、総合的に考察している。

本研究は、以上のように、実験個体群の操作とマイクロサテライトマーカーによる高精度の父性解析、そして受粉の個体ベースモデルの、3つの方法を統合して植物の種子繁殖にアプローチした世界的にも類を見ない研究である。その成果として、近隣の異型株密度が種子繁殖の成功に重要であることが浮かび上がった。また、本論文で開発したモデルは、保全政策に貢献するだけでなく、植物の繁殖様式の進化を理解する上でも役立つだろう。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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