学位論文要旨



No 118773
著者(漢字) 中嶋,瑞穂
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,ミズホ
標題(和) 自然画像を対象とした視覚復号型秘密分散の物理的実現法
標題(洋)
報告番号 118773
報告番号 甲18773
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第492号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山口,泰
 東京大学 教授 川合,慧
 東京大学 教授 山口,和紀
 東京大学 助教授 高橋,成雄
 東京大学 助教授 田中,哲朗
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

人間の視覚特性により,それまで見えなかったものが突然現れる「隠し絵」や「だまし絵」は,古来よりさまざまなものが考案されてきた.一方,昨今ではデジタルカメラや計算機の発達により,写真などの自然画像を入手し,計算機処理することが広く行われるようになった.本論文では,複数の画像をOHP シートなどに印刷して重ね合わせると,隠された自然画像が見えるという隠し絵の作成方法を提案する.

本研究と関連の深い研究として,視覚復号型秘密分散が挙げられる.これは暗号復号のために計算機を用いることなく,人間の視覚システムによってメッセージが復号できる暗号の一形態である.視覚復号型秘密分散の1 つである,(k, n) しきい値視覚復号型秘密分散の概念図を図1 に示す.ランダムノイズ状の暗号が印刷された複数のOHP シートがあり,このうち任意のk 枚以上を重ね合わせると暗号化されたメッセージが復元されて見えるが,いかなるk-1枚以下の組み合わせでもメッセージの情報は漏れないという仕組みである.視覚復号型秘密分散においては通常,各OHP シートにはランダムな砂の嵐状の模様が印刷されている.これに対してOHP シートにランダムな模様ではなく,何らかの意味ある画像が表示されていれば,OHP シートが暗号情報に関係していること自体も隠蔽できる.このような細工を施した視覚復号型秘密分散を,特に拡張視覚復号型秘密分散という.本論文では,グレースケールやカラーの自然画像を対象とし,OHP シートに印刷された2 枚の画像を重ね合わせると,隠されていた別の画像が見えるという隠し絵の構築法を議論する.これは暗号分野の用語で言うと,(2, 2) しきい値の視覚復号型秘密分散および拡張復号型秘密分散に相当する.本研究では,2 枚のOHP シートに表示される画像をそれぞれシート1,シート2 と呼び,特に両者を区別する必要がない場合には単にシートと言う.またその2 枚を重ね合わせて見える秘匿画像をターゲットと呼ぶ.

従来の視覚復号型秘密分散の研究は基本的な視覚復号型秘密分散に関するもの,拡張視覚復号型秘密分散に関するもの,グレースケールおよびカラー画像を扱うものの3 種に大別できる.しかしこれらは皆,暗号研究の一つとして位置づけられており,暗号の安全性が絶対的な前提条件だった.この前提のもとに,秘密分散のためのスキームの提案や,埋め込み可能な画像情報の制約に関する論理的解析を行っていた.これに対して本研究の対象は自然画像の隠し絵であり,自然画像の画質を損なわないよう画像の階調や色の再現性に配慮する必要がある.また隠し絵としての価値を考えると,人間の手で重ね合わせることで容易にターゲットが視認できる点も重要な条件となる.従来の視覚復号型秘密分散の研究では,自然画像を対象として画質の保持に努めたものや,実際にOHP シートに印刷して重ねる際に生じる現実的問題を考慮したものはなかった.一方本研究で扱う隠し絵は,隠し絵として楽しめるものである限り,セキュリティの観点では妥協できる面がある.すなわち,シートからターゲットの画像が予想できなければ,ターゲットの情報が多少シートに現れても特に問題ではないと考えられる.ここでは,本研究で扱う隠し絵を広義の暗号および視覚復号型秘密分散ととらえ,2 枚のシートにターゲットを隠すことを「暗号化」,シートを重ね合わせてターゲットを得ることを「復号」と呼ぶことにする.

視覚復号型秘密分散とハーフトーニング

視覚復号型秘密分散は,印刷分野でよく利用されるハーフトーニングと,シートの重ねあわせに対応するブール代数に基づいたスキームである.ハーフトーニングとはプリンタのトナーやインクのように,オンとオフの2 値のみを表現できる出力装置で,多階調を疑似表示するための技術である.画像の1 ピクセルは,ハーフトーニング手法の1 つである濃度パターン法により,シート上の有限個の透明もしくは不透明のサブピクセルで表現される.画像のピクセルを有限個のサブピクセルで表現可能な透明度として量子化する際には,誤差拡散法などの量子化手法が用いられる.

シートを重ね合わせてターゲットを得る操作は,サブピクセルのブール積に相当する.たとえばシート1,シート2 の透明度,t1, t2 がそれぞれ4/9, 5/9であるとき,シートのサブピクセル配置を図2上段のようにすれば,重ね合わせた結果のターゲット透明度tT は4/9となる.また同じシートの透明度でも図2下段のようにサブピクセルを配置すれば,tTは0 となる.このようにシートの透明および不透明サブピクセルの配置を調整することにより,ターゲットの透明度を制御できる.

ハーフトーニングによって2 値化された画像の重ね合わせはブール積となるが,この際,2 枚のシートとターゲットのピクセルの間には次のような制約条件が存在する.ここで,t1, t2, tT はそれぞれ,シート1,シート2,ターゲットのピクセルの透明度を表す.シートの画像のダイナミックレンジをt1, t2 ∈ [L, U] とするとき,(1) 式を常に満たすターゲット画像のダイナミックレンジは,となる.(1) 式は暗号化のための必要十分条件,(2) 式は十分条件である.

ブール代数に基づくアプローチによる自然画像の扱い

まず従来から用いられているブール代数に基づくアプローチで,自然画像の暗号化を試みた.従来手法で前提とされていた十分条件が満たされるダイナミックレンジは非常に狭いため,暗号化によって自然画像の画質が著しく低下する.そこでダイナミックレンジの制約を緩和する方法を考察した.本研究では画像のダイナミックレンジを(2) 式よりも広く取ることを許すとともに,誤差拡散法を拡張し,量子化誤差に加えて必要十分条件の違反量を近隣のピクセルに分配することで(1) 式の制約違反を解決した.この制約の緩和法はセキュリティ上の脆弱性につながるものであるが,この点についても検討し,セキュリティ低下を最小限にするためのダイナミックレンジ決定法の提案も行った.さらに2 枚のOHP シートだけでなく,3 枚以上のOHP シートに複数の画像を暗号化することも可能であることを示した.

連続量的アプローチによる自然画像の扱い

自然画像の画質を向上させるためには,ダイナミックレンジ幅だけでなく階調数も重要な要素である.従来型のブール代数に基づくアプローチでも原理的には階調数を無限に増やせるが,階調数の増加にともなってサブピクセルが小さくなるため,2 枚のシートを重ね合わせるのが困難になる.そこで中間階調が増えても人間の手で重ね合わせやすい暗号化手法として,ドット分散型ではなくドット集中型のハーフトーニング手法を利用することを考える.しかし単なるドット集中型では,シートの透明度のみでサブピクセルの配置が決まってしまい,ターゲットの透明度を制御できなくなってしまう.本研究では透明・不透明の2 値ではなく,中間的なグレーを導入することによってこの問題の解決を図る.さらに,位置誤差を含んだ重ね合わせ画像を計算機でシミュレートし,画質評価の指標であるPSNR 値を求めることによって,この連続量的な手法が位置誤差に関して頑健であることを検証した.

カラー自然画像のための視覚復号型秘密分散

より一般的な自然画像としてカラー画像を扱う手法を検討する.自然画像の隠し絵では,色の再現性は欠くことのできない条件である.そこで,視覚復号型秘密分散において適切に色を再現する手法について考察した.具体的には,一見一様な中間色に見える2 枚のシートを重ねると,隠された自然画像のターゲットが見えるというスキームである.このスキームの実現方法として,シート1 は透明および不透明サブピクセルからなる市松模様,シート2 は表示色およびその補色のサブピクセルからなる市松模様として,両シートを重ねるとシート2 の補色部分がシート1 の不透明部分にマスクされる,という方法を考案した.ただし,シート1 の市松模様には入力された自然画像の情報が全く含まれておらず,本手法は暗号の「秘密分散」としては機能していない.画像を安全に隠蔽するスキームの構築は重要な課題ではあるが,本研究ではカラー自然画像の扱いが主眼であり,自然画像の色を忠実に再現できる方法を検討した.ここで重要となるのは,シート2 の表示色と補色の決定法である.シート2 全体として一様な中間色を実現しつつ,ターゲットが元の画像の色を適切に再現できるものでなくてはならない.この問題を解決するため,計算機でよく用いられるRGB 色信号空間ではなく,知覚色を表現できるCIE-XYZ 色空間において,表示色と補色の計算を行う.表示色および補色の決定方法としては,出力機器で表示可能な色範囲から平行六面体を切り出す方法と,必要に応じて各色の彩度情報を変更する方法の2 つを提案した.プリンタでは出力機器の特質に由来する技術的困難があるものの,ディスプレイやプロジェクタなどの加法混色に基づく出力機器では好ましい結果が得られ,手法の基本的な有効性が確認できた.

おわりに

本論文では,自然画像を対象とした隠し絵の構築法について研究した.まず本研究と関連の深い視覚復号型秘密分散の研究を概観し,暗号化の制約条件である画像ダイナミックレンジの制約を提示した.この制約は非常に厳しく,暗号化された自然画像の画質が大幅に低下してしまうことから,制約を緩めて画質を維持する手法を提案した.また従来手法では画像の階調数を増やすと,サブピクセルが細かくなるため人間の手でシートを重ね合わせにくくなるという問題点があったが,本論文では連続量的アプローチを導入し,復号時の位置誤差に頑健で,多階調表現が可能な暗号化手法を考案した.カラー自然画像の視覚復号型秘密分散においては,適切に色を再現する手法について考察した.具体的には,一見一様な中間色に見える2 枚のシートを重ねると,自然画像のターゲットが復号されるスキームを提案した.このスキームを実装し,複数の出力機器を用いて実験を行い,手法の基本的な有効性を確認した.

(k, n) しきい値拡張視覚復号型秘密分散の概念図

シート1,シート2 のサブピクセルの配置とターゲットの透明度の関係

審査要旨 要旨を表示する

人間の視覚特性を利用することによって,それまで見えなかったものが突然に現れる「隠し絵」や「だまし絵」は,古来よりさまざまなものが考えられてきた.一方,近年のデジタルカメラや計算機の発達により,現実風景などの自然画像を獲得し,これを計算機処理することが広く行われるようになっている.本論文は,複数の透明シートを重ねると隠された自然画像が現れるという隠し絵の枠組みを研究対象とし,新たな技術を提案・開発したものである.

本論文は全6章から構成されている.まず第1章においては,視覚のみによって復号可能な視覚復号型秘密分散と呼ばれる暗号と本研究との関連性が概説され,自然画像を扱うためには画像のダイナミックレンジ,階調数,色の再現性などが,問題となることを指摘している.第2章では,視覚復号型秘密分散に関する従来の手法について,その得失を詳細に議論している.また,プリンタや印刷機のようにトナーやインクのオンオフ2値のみで画像を表示するためのハーフトーニング技術との関係を明らかにし,暗号化の条件となる画像のダイナミックレンジに関する制約を示している.

第3章では,従来の視覚復号型秘密分散が依拠しているハーフトーニング技術とブール代数に基づく手法を発展させて,グレースケール自然画像を扱う方法を提案している.ここではハーフトーニング技術の1っである誤差拡散法を拡張することで,画像のダイナミックレンジを拡大し,出力画像の画質を改善することに成功している.また,この応用として,3枚以上のシートの組合せによって,複数の画像を暗号化する手法も提案している.

第4章では,多階調のグレースケール自然画像を対象とした視覚復号型秘密分散の実現法として,新たな連続量的アプローチを提示している.従来の視覚復号型秘密分散は,画像の2値化とブール演算をベースとしていた.このような手法でも,画像の1ピクセルを複数のサブピクセルで構成すれば,原理的に階調数を無限に増やすことができる.しかし,実際にはサブピクセルが相対的に非常に小さくなるため,2枚のシートを正確に重ね合わせて復号することは急速に困難となる.この手法は画像を単純に2値化するのではなく,任意のグレー値を利用することでドット集中型のサブピクセル配置を可能とし,階調増による画質改善と位置誤差に関する頑健性の両立を図るものである,さらに,この連続量的なアプローチが画質改善と位置誤差頑健性の双方を実現することを,計算機シミュレーションによって検証している.

第5章では,より一般的な自然画像としてカラー画像を扱う手法について議論している.従来の手法でも,複数の異なる色を表示することは可能であったが,実際に目的とする色を作り出すことはできなかった.自然画像を対象とする場合には,適切な色の再現は不可欠な要素となる.ここでは,シート全体を中間色とするために,再現すべき色から表示色とその補色を求める手法を提示している.プリンタでは出力装置の特質に由来する技術的困難が残されているものの,液晶ディスプレイやプロジェクタなどの加法混色に基づく出力機器では好ましい結果が得られており,手法の基本的な有効性が確認されている.最後に結論として,第6章で上記の各章で示された知見や技術について整理している.

以上のように本論文は,透明シートを重ねることによって現実風景などの自然画像が現れる視覚復号型秘密分散の課題を示すとともに,それらの問題点を解決する新しい技術の開発に成功している.特に第4章で提案されている連続量的アプローチによる視覚復号型秘密分散は,これまでにない新しい着想に基づくものであり,多階調でありながら位置誤差に頑健な暗号化を実現したことは,本論文の独創性と有用性を示すものとして高く評価される.したがって,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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