学位論文要旨



No 118774
著者(漢字) 麦谷,綾子
著者(英字)
著者(カナ) ムギタニ,リョウコ
標題(和) 乳児期における視聴覚音声口形マッチングの発達的検討
標題(洋)
報告番号 118774
報告番号 甲18774
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第493号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 開,一夫
 東京大学 助教授 池上,高志
 東京大学 助教授 藤垣,裕子
 東京大学 助教授 植田,一博
 東京大学 教授 長谷川,寿一
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

乳児期の音声知覚の発達は言語獲得過程の根幹をなしている。音声知覚においては聴覚情報だけでなく、視覚による口の動きの情報も大きな役割を担っており、音声と口の動きを視聴覚的に統合する音声口形マッチングは、人間の音声言語コミュニケーションにおいて重要な意味を持つ機能である。したがって言語獲得過程におけるこの機能の出現時期と発達特性を検討することは、言語獲得の初期過程を明らかにする上で欠くことはできない。

乳児の音声知覚の発達において音韻の聴覚知覚が母語の音声言語体系に特化すること、また視聴覚の統合様式は母語によって異なることが示されている。したがって音声口形マッチングにおいても、音声環境による影響を受けた母語依存的な発達過程が存在する可能性は十分に考えられる。しかし従来の乳児の音声口形マッチングに関する知見は英米圏で寡占的に取得されたものであるため、母語依存的な発達過程についての十分な検討がなされていない。また母音とともに音声を構成する二大要素である子音のマッチングについてはほとんど報告がない。本研究ではこのような背景に基づき、(1)音声口形マッチングにおける母語に依存的な発達過程(第2章)(2)子音要素の音声口形マッチング(第3章)の二点を検討することを目的とした。

日本人乳児における母音音声口形マッチングの実験的検討(第2章)

第2 章では音声口形マッチングにおける母語依存的な発達過程の検討を目的とした。英語圏乳児において音声口形マッチングが繰り返し報告されている母音/a//i/について、二画面選好注視法と一画面注視法の2 種の手法を用いた6つの実験により日本人乳児の音声口形マッチングを検討し、英語圏乳児において得られている知見と比較した。

実験1-1 5、8、11 ヶ月齢児を対象に二画面選好注視法による実験を行った。同期して/a/と/i/を発声する2つの顔を左右に並べて画面に視覚提示しながら、/a/(もしくは/i/)を聴覚提示し、音声と口形が一致する顔と一致しない顔のどちらを選択的に注視するのか検討した(二画面選好注視法)。その結果、5 ヶ月齢児は/a//i/いずれの音声を聴取した場合も、右側に提示される口形/a/に対する選好反応が出現した。また8、11 ヶ月齢児はともに母音/a/を聴取したときは口形/a/を選択的に注視したが、母音/i/を聴取しても特定の口形への選択的な注視は起こらなかった。

実験1-2 5、8 ヶ月齢児を対象に、音声を伴わない二画面選好注視法によって特定の口形に対する視覚的な選好の存在を検討した。その結果、8 ヶ月齢児において口形/a/に対する選好反応が得られた。この結果と実験1-1 で得られた8 ヶ月齢児の結果を比べたところ、口形/a/に対する視覚的選好は音声/a/を聴取することでより強くなること、音声/i/を聴取することで消失することが示された。したがって、乳児が音声/a//i/と口形の間に何らかの対応関係を見出していることが示唆された。また5 ヶ月齢児において口形/a/に対する視覚的選好がなかったことから、実験1-1 で右側提示される口形/a/への選好が出現したのは、5 ヶ月齢児が音声/a//i/をともに口形/a/とマッチングしていたためだと考えられる。

実験1-3-1、2 実験1-1、1-2 の結果を踏まえ、乳児の音声と口形の一対一対応の理解を検討した。8、11 ヶ月齢児を対象とし、/a//i/いずれかの発話時の顔を単独で視覚提示しながら、その口形に一致する音と一致しない音を交互に聴覚提示したときの注視時間の変化を計測した(一画面注視法)。8 ヶ月齢児は母音/a/を聴取すると口形/a/への注視時間が長くなったが、母音/i/では同様の傾向は得られず、実験1-1 と整合する結果となった(実験1-3-1)。11ヶ月齢児では、音声/i/を聴取すると口形/i/に対する注視時間が長くなる可能性が示された(実験1-3-2)。したがって母音/a/に関しては、日本人乳児が少なくとも8 ヶ月齢までに音声と口形の一対一対応を理解し、音声口形マッチングをしていることが示された。一方で母音/i/については、11 ヶ月齢まで一対一対応を理解している確かな証拠は得られなかった。

実験1-4-1、2 日本人乳児において母音/i/の音声口形マッチングが認められなかったのは、実験で用いた口形/i/の視覚刺激が英語様調音に近かったためかもしれない。そこで日本語構音の口形J/i/(水平方向への口唇の引き伸ばし小)を新たな視覚刺激とし、8 ヶ月齢児を対象に二画面選好注視法(実験1-4-1)および一画面注視法(実験1-4-2)による再検討を行った。その結果、口形J/i/と母音/i/をマッチングしている証拠はいずれの実験においても得られなかった。

本研究から母音/a/については少なくとも8 ヶ月齢までに音声口形マッチングが可能になることが明らかとなったが、母音/i/については11 ヶ月齢でも一対一対応の理解に基づく音声口形マッチングの明確な証拠は得られなかった。英語圏の乳児は、さらに低い月齢でも/a/と/i/をともに音声口形マッチングできることが二画面選好注視法により確認されている(Kuhl 1982、Patterson 1999)。英語圏乳児と日本人乳児で得られた結果が異なることから、母語の影響を受けた日本人乳児に特有の音声口形マッチングが存在することが推察される。

日本語の話し番葉には母音/a/が/i/よりも多く出現し、英語では逆に/i/が/a/よりも多く出現する。また英語の母音/i/は口唇の水平方向への引き伸ばしが強く、視覚的にもわかりやすい。このような量的・質的な知覚経験の差が、乳児の音声口形マッチングに影響を与えている可能性が考えられる。また、幼児を対象とした先行研究から、構音運動の経験は音声の視聴覚統合に影響することが示されている(Desjardins1997)。日本人8 ヶ月齢児においては母音/i/よりも/a/の発声頻度が高いことから、構音経験の有無が乳児の母音音声口形マッチングに影響を及ぼしている可能性が考えられる。

乳児における子音要素の音声口形マッチングの検討(第3章)

第3章では乳児の子音要素の音声口形マッチングを検討することを目的とし、音節/pa/と/wa/および両唇震え音と口笛を対象に二画面選好注視法と一画面注視法を用いた4つの実験を行った。

実験2-1 5、6 ヶ月齢児を対象とし、単音節/pa//wa/について二画面選好注視法を用いて音声口形マッチングを検討したが、/pa//wa/ともにマッチングの証拠は得られなかった。

実験2-2 実験2-1で子音のマッチングの証拠が得られなかった理由として、乳児は知覚の時空間分解能が低いために、持続が短く瞬間的に提示される子音をうまく処理できていなかった可能性が考えられる。そこで8 ヶ月齢児を対象に、子音要素でありながら発音を持続して提示することができる音声(両唇震え音・口笛)を刺激として用い、二画面選好注視法による検討を行った。その結果、両唇震え音については画面右側に音声と一致する口形が提示される場合のみ、音声口形マッチングが可能であることが示唆された。一方、口笛についてはマッチングの証拠は得られなかった。

実験2-3 8 ヶ月齢児を対象に、音声を伴わない二画面選好注視法によって両唇震え音と口笛の口形に対する視覚的な選好の存在を検討した。その結果、特定の口形に対する視覚的選好はなく、両唇震え音を聴取した際に実験2-2 で得られた右側に提示される一致口形への選好反応は、音声を聴取することで始めて出現することが確認された。

実験2-4 8 ヶ月齢児を対象に、一画面注視法を用いて両唇震え音と口笛の音声口形マッチングを検討した。その結果、両唇震え音を聴取したときのみ音声が口形と一致している顔の注視時間が長くなった。この結果は実験2-2 と一致しており、乳児は両唇震え音に関しては音声と口形の一対一対応が理解できていると考えられる。

実験2-1 では単音節をマッチングしている証拠は得られなかったが、実験2-2、2-3、2-4の結果から、子音要素である両唇震え音の一対一対応を乳児が理解し、音声口形マッチングしていることが示された。この結果は、乳児が子音要素のマッチング自体は可能である一方で、通常の子音のように瞬間的に提示される音はマッチングが難しくなることを示している。音声口形マッチングが可能である両唇震え音は8 ヶ月齢児では極めて頻繁に発声されるため、第一章で指摘した乳児の構音経験が音声口形マッチングに影響している可能性が改めて示唆された。

おわりに

母音(実験1-1:5 ヶ月齢児)や両唇震え音(実験2-2)において、一致する口形が右側に提示されたときのみ音声とマッチングできるという本研究の結果は、子音や視覚的な顔の情報、および音声の視聴覚統合の処理が左半球優位であることと整合している。また本研究において乳児は音声と口形が一致している刺激に対して一貫して注意を向けた。この指向性は、乳児の発話者に対する注意を自動的に喚起し音声知覚の促進に寄与していることが推察され、言語獲得における方略の一つとして捉えることができるであろう。

本研究では乳児の音声口形マッチングとその発達に焦点をあてた検討を行い、音声知覚において乳児が視聴覚情報を利用するための素地についての知見を得た。今後は、言語獲得過程のどの時期に、どのような文脈において乳児が視聴覚情報を利用しているのかを検討したい。また、本研究で得られた結果は構音・知覚経験が音声口形マッチングに影響を及ぼすことを示唆しており、この影響の詳細についてもさらに検討を進めていく予定である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,音声言語コミュニケーション能力の発達的基盤となる前言語期における音声知覚を,音声口形マッチングー音声と口の動きの視聴覚的な対応付けーに着目して実証的に論じたものである.具体的には,(1)音声口形マッチングの発達過程は母語依存的か否か,(2)乳児期において子音要素の音声口形マッチングは可能なのか,という2つの問いに答えることを目的とし,生後5ヶ月から11ヶ月の日本人乳児(延べ301名)を対象として実施した一連の実験・調査結果について論じている.

これまでの研究から,音韻の聴覚知覚が母語の音声言語体系に依存して乳児期から発達的に特化していくことが広く知られている.これに対して,音声口形マッチングは聴覚のみならず複数の感覚モダリティ(視覚と聴覚)間の統合を必要とする機能であり,こうした機能も母語依存的に獲得されているかどうかは非常に興味深い問題である.しかしながら,乳児における音声口形マッチングに関する知見はすべて英米圏で取得されたものであり,これまで母語依存性に関して全く検討されてこなかった.また,子音は母音とともに音声を構成する二大要素であるにもかかわらず,その音声口形マッチングの初期発達についてはほとんど報告がなされていない.上述した2つの問いはこうした背景に基づいて発せられたものである.

音声口形マッチングにおける母語依存性の問題に対する本論文のアプローチは,まず日本人乳児を対象として系統だった実験を行い,その結果を英米で行われた先行研究の結果と詳細に比較するというものである.日本人乳児の音声口形マッチングの発達過程について調べるため,母音/a/と/i/に関する6つの実験が行われている.実験方法としては,この分野で標準的に用いられている二画面選好注視法に加え,一画面注視法と呼ぶ手法を独自に開発しこれを用いることで,信頼性の高い結果が得られている.一連の実験結果を要約すると,英語圏の乳児を対象とした先行研究とは異なる,日本人乳児特有の発達過程があることが示されている.英語圏乳児では,生後4.5ヶ月の時点で母音/a//i/ともに音声と口形をマッチングしていることが繰り返し報告されている.これに対して日本人乳児の場合,母音/a/に関しては,少なくとも8ヶ月齢までに音声口形マッチング可能であることが明らかになったものの,母音/i/については11ヶ月齢でもマッチングをしている証拠が得られなかった.この差異は如何なる要因によるものなのか.本論文では,実験研究に加えて,乳幼児に向けて発せられた日・英双方の発話データベースにおける母音の出現頻度の分析,および,乳児の構音経験に関する養育者へのアンケート結果から考察している.日本語の話し言葉には母音/a/が/i/よりも多く出現し,英語では逆に/i/が多く出現する.また,英語の母音/i/は口唇の水平方向への引き伸ばしが強く,視覚的にもわかりやすい.論文では,こうした知覚経験の差が,音声口形マッチングに影響を与えていると推察されている.

乳児期における子音要素の音声口形マッチングの問題に関しては, 4つの実験を行うことで検討している.まず,/pa/と/wa/の音声口形マッチングについて,二画面選好注視を用いた実験を行った結果,/pa//wa/ともにマッチングの証拠は得られなかった.この結果をふまえ,論文では,乳児は知覚における時空間分解能が低いために持続が短く瞬間的に呈示される子音をうまく処理できていない,との仮説を立てている.この仮説を実験的に検討するため,続く3つの実験では,子音要素でありながら発音を持続して呈示することができる音声(両唇震え音・口笛)を刺激として用いている.一連の実験結果から,8ヶ月乳児は子音要素である両唇震え音に対して口形とのマッチングが可能であると示された.これらの結果は,乳児が子音要素のマッチング自体は可能である一方で,通常の子音のように瞬間的に呈示される音はマッチングが困難であることを示している.

本論文においては,特に次の2点が高く評価された.(1)従来,英語圏でのみ得られていた乳児の音声口形マッチングの知見に対して,日本語環境で養育された乳児を対象として体系的な実験を行うことにより,母語依存的な発達過程の存在をはじめて明らかにした点.(2)これまでほとんど報告がなされていなかった子音の音声口形マッチングに対して,持続可能な刺激を呈示するという斬新な着想に基づく実験から,知覚的な分解能の制限を除けば,乳児でもマッチング可能なことを示した点.また,これら2点に加えて,音声口形マッチングに限らず音声知覚一般の発達過程を知覚経験や構音経験に関連づけて詳細に考察した点についても高く評価できる.

以上のように本論文は認知科学および発達科学の分野において十分高い水準にある.したがって,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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