学位論文要旨



No 118775
著者(漢字) 岡林,則夫
著者(英字)
著者(カナ) オカバヤシ,ノリオ
標題(和) 低速多価イオンによる F/Si(100) 表面からの F+ 脱離
標題(洋)
報告番号 118775
報告番号 甲18775
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第494号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 増田,茂
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 教授 塚田,捷
内容要旨 要旨を表示する

イオンを表面に照射すると,運動量移行および電子励起により,表面を構成する原子分子が,中性またはイオンの状態で放出される.一般に,前者の運動量移行による現象はKinetic Sputtering(KS)と呼ばれ,後者の電子励起による放出現象は電子遷移誘起脱離(DIET:Desorption Induced by Electronic Transitions)と呼ばれる.このような現象は,物質の改質として利用されており,工業的に重要な意味がある.また,放出二次イオンの質量分布を測定する事は,表面の組成分析において有用である事が知られている.通常イオンのエネルギーが数keV/u以下のエネルギー領域ではKSの効果が支配的となるが,数十keV/u以上のエネルギー領域では DIET の効果が顕著になる.イオンは運動エネルギーの他にポテンシャルエネルギーを持っているので,通常KSが重要とされるエネルギー領域でも,DIET が重要になる場合がある.このような現象は,イオンのポテンシャルエネルギーに起因することからPS(Potential Sputtering)と呼ばれる.近年の多価イオン源の発達に伴い,多価イオンによるPSの研究が盛んに行われるようなった.その結果様々な標的に対し,劇的な二次粒子収量の増加が報告され,多価イオンによる表面組成分析や表面加工の可能性が示唆された.しかしながら,この分野の研究はまだ初期の段階にあり,その素過程は詳しく解明されていない.

イオン衝突によるPSの研究では,フッ素がよく対象として取り上げられる.大きな電気陰性度のため KS に起因する正イオン放出が起こりにくい,従って PS 過程が観測しやすいという理由からである.本研究では,このようなPS研究の典型例であるF+の多価イオンによる脱離過程解明を目的としている.標的としては,ESDIAD (Electron Stimulated Desorption Ion Angular Distribution)により吸着構造が詳しく調べられているF/Si(100)表面を採用した.測定法としては,時間分解能が高い( Δ≪10 ns)二次元位置検出器を用いたイベント毎の二次イオン検出法を採用し,飛行時間と二次元位置,三次元運動量,放出エネルギーと放出角度の三次元情報を測定した.飛行時間法を用いているので入射粒子の数を抑える事ができ,イオン照射による表面状態の変化の無い実験が可能になった.また大口径(40mmΦ)の検出器を用いているので,全ての方向に放出される F+を検出することができた.多価イオン照射の前後には表面状態の変化が無い事を確認するために ESDIAD の測定を行った.

入射イオンはArq+で,価数qは4から8まで,入射エネルギーは 1.5 keVから 5.0 keVまで,入射角は 22°から 65°まで変化させ,収量や三次元情報を系統的に測定した.図 1 に 3.9 keV Arq+ (θi =30°)照射により放出される F+の収量を入射イオンの価数の関数として示す.ここでθi は表面垂直方向から測った入射角である.図からわかるようにF+収量は価数の約3乗に比例して増加していた.この結果はF+脱離において価数(ポテンシャルエネルギー)が重要な役割を果たしている事をはっきりと示している.収量の価数依存性は,多くの PS の研究で重要な判断基準となるが,水素以外の表面吸着原子のイオン化脱離収量が強い価数依存性を示す事は,本研究で初めて明らかになった.なおAr6+に対するF+収量は,ESD の場合の最大 F+収量と比べると二桁大きな値であった.図 2 に 3.9 keV Arq+ (θi=35°)照射によりF/Si(100)から放出されるF+のエネルギー分布を示す.F+の放出エネルギーは,価数によらず,2.0±0.6eVに最大値をもち,KS に特徴的な数百 eV までおよぶテールは確認されなかった.またエネルギー分布の入射エネルギー依存性および入射角依存性は確認されなかった.従って,本研究で調べた範囲では,F+脱離は PS に起因している事がわかった.さらに,図 3 に示したように,F+の表面に平行な成分(横方向)の運動量分布は,価数によらず,[011 ] と[011 ]方向に沿ってそれぞれニつのピークを持つ四回対称の分布を示していた.この方位角に関する対称性は,Si(100)表面上のフッ素の吸着状態を反映していた.F+の極角分布は,価数によらず,18±4°に最大値を持,Si9H12F2クラスターに対して行われた第一原理計算によるSiFボンドと表面垂直との間の角度23°と近い値であった.このように,イオン衝突により放出される二次イオンがボンドの向きに沿って放出される場合がある事は,本研究で初めて明らかになった.なお横方向の運動量分布および極角分布についても,入射エネルギー依存性,入射角依存性は確認されなかった.以上の結果からArq+照射により脱離されるF+は,本研究で調べた範囲では,SiFボンドの向きに沿って放出される事がわかった.従って,PS過程はより具体的に,SiFボンド内の反発力に起因している事が特定できた.この結論とAr6+照射に対するF+収量がESDの場合のF+収量の最大値よりも二桁大きかった事を合わせて考えると,多価イオンはシリコン表面上のフッ素に対して,高感度で吸着状態を分析できる有効なプローブであることがわかった.

3.2 keV Arq+ (θi =30°)によりF/Si(100)表面から放出されるF+とSi+の入射イオンあたりの収量.縦軸,横軸共に対数表示.Si+収量は価数依存性が無いが,F+収量はq3に従って増加している.

3.9 keV Arq+ (θi=35°)によりF/Si(100)表面から放出されるF+のエネルギー分布.

3.9 keV Arq+ (θi=35°)によりF/Si(100)表面から放出されるF+の表面に平行な成分の運動量分布.最大値が1になるように規格化している.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、第1章序論、第2章実験装置、第3章実験結果、第4章考察、第5章まとめ、の全5章からなっている。第1章ではイオンと表面の散乱における2次粒子放出現象を手短にまとめると共に、本研究の目的、問題意識を提示している。第2章では、実験装置の概略、試料作成法の詳細、データ解析法等、得られた実験結果を議論するのに必要な事項が記載されている。第3章が本論文の主要部で、放出されたF+イオンの3次元運動量分布、それから得られる放出エネルギー分布や放出角度分布の特徴、特に、入射イオン価数依存性、入射角依存性、入射エネルギー依存性がまとめられている。第4章は、低速多価イオンによって引き起こされたF+イオンの放出過程に関する考察が述べられている。

低速多価イオンは、運動エネルギーに比べてポテンシャルエネルギーが大きい特異なプローブで、これが表面に近づくと、fs 程度の間に 0.1nm 程度の領域から多数の電子を奪い去るため、通常では実現できないような局所的な強い帯電と、それに伴う粒子放出を引き起こすと考えられている。しかしながら、これまでのほとんどの研究例は、表面状態が特定されていない、あるいは、プローブとなるイオンにより表面が荒れている等のために、粒子放出機構について信頼性の高い議論をすることは困難であった。

本研究では、100eV/u 付近の非常に低速のアルゴン多価イオンを用い、これをよく定義された(well-defined)フッ素終端Si(001)面に照射した際、放出されるF+イオンのイールドと3次元運動量を測定している。これから、F+イオンがSi-Fボンドの向きに沿って放出されることを初めて明らかにした。特に、本研究では実験中の表面状態の変化を極力避けるため、ほぼ 100%の検出効率を持った時間敏感型大口径2次イオン位置検出器を用いることにより、再現性のよい観測を可能にしている。

価数qが4から8、運動エネルギーが 1.5keVから5.0keVまでのArq+イオンを用い,これを入射角 22°から 65°まで変化させて入射し、放出されるF+イオンを系統的に測定している。これにより、F+収量がほぼ価数の3乗に比例して増加すること、すなわち、F+脱離現象が、入射イオンの価数、あるいは、ポテンシャルエネルギーに支配された現象であることを明らかにした。このような強い価数依存性は、これまでには水素終端された表面で確認された例があるのみで、多価イオンによって引き起こされるイオン放出現象を理解する上で重要な情報を提供すると期待される。

さらに、放出F+イオンの3次元運動量分布は、多価イオンの入射価数、入射角度、入射エネルギーによらず,その中心値は一定の方向に向いていることを明らかにしている。これは、F+収量が入射価数に非常に強く依存していることと好対照で、F+の収量に大変な影響を与えた入射イオンは、一転して、F+イオンの放出エネルギーや方向には何の影響も与えないという大変興味深い結果になっている。

申請者はさらに、F+イオンが、やはり、価数、入射角によらず、方位角方向には4回対称で、極角方向には 18±5°(表面垂直方向を 0°とする)にピークを持つことを示し、これが Si9H12F2クラスターに対して行われた第一原理計算による SiF ボンドの角度23°と誤差の範囲内で一致する事を明らかにした。同様にして、F+の放出エネルギーも評価され、2±1eVとなることを示した。この値はやはり、多価イオンの価数、運動エネルギー、入射角に依存せず、従って衝突のダイナミックスではなく、標的の性質によって決まるものであることが明らかとなった。申請者は、さらに電子衝撃によるF+イオン生成過程も観測し、多価イオンによって引き起こされるF+イオン放出過程との共通点相違点を明らかにした。

以上、本申請者は、低速多価イオンとフッ素終端された Si(100)面というよく定義された表面とを組み合わせ、F+イオン放出が入射イオンの価数の3乗に比例して増加すること、F+は、イオンの価数、運動エネルギー、入射角に依存せず、元々の Si-F ボンドの方向に放出されるという大変興味深い現象を見いだし、これが新しい表面の元素分析技術にも応用できる可能性を指摘した。本研究は数名の共同研究者と共に進められたものであるが、実験テーマの設定、それに伴って必要となるサンプル作成法の開発、実験の遂行、その後のデータ解析、すべて本申請者が主体的に進めたものである。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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