学位論文要旨



No 118780
著者(漢字) 冨樫,祐一
著者(英字)
著者(カナ) トガシ,ユウイチ
標題(和) 離散的反応系 : 分子の離散性がもたらす状態遷移
標題(洋) Discrete Reaction System : Transition induced by Discreteness of Molecules
報告番号 118780
報告番号 甲18780
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第499号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 助教授 佐々,真一
 東京大学 教授 佐野,雅己
内容要旨 要旨を表示する

反応系において、分子が離散的な存在であることによって、系の新たな振舞いが生ずる可能性について論ずる。

反応系の振舞いを考える際には、各成分の量(濃度)を変数とした微分方程式を用いることが多い。実際には、各成分は分子からなるものであり、その量(分子数)は離散的(整数)でしかありえない。分子が比較的多いうちは、ゆらぎを連続的なノイズと見なす確率微分方程式的な手法を用いることができる。さらに分子が少なくなると、その離散性そのものが無視できなくなる。

本論文では、微分方程式・確率微分方程式を用いた方法では現れない、分子の離散性が本質的であるような現象の可能性を、計算機シミュレーションに基づいて論ずる

離散性による自己触媒系の状態遷移(第2章)

分子数の離散性による、連続極限(速度方程式)では現れないような新たな状態への遷移について論ずる。

モデルとして、4 種類の成分からなる自己触媒的な反応のループXi+Xi+1→2Xi+1(反応速度定数ri)を用いる(X5≡X1)。反応容器(体積V )は、物質浴(各成分Xiの濃度si)と接しており、拡散による分子の出入り(速さDi)があるものとする。

ここでは全ての成分が等価(ri = r、Di = D、si = s)な場合を考える。連続極限では、各成分の濃度xiは安定固定点(xi = s)に収束してゆく。V が十分に大きければ、系の振舞いはこれにゆらぎを加えたものとみなせる。

V が小さくなると、各成分Xiの分子数Niが0にまで達するようになる。N2=N4=0(1-3 rich 状態)もしくはN1 = N3 = 0(2-4 rich 状態)に達すると、反応が完全に停止する。ただ1個の分子の流入によりNiが急激に変化する(スイッチする)性質を持つことから、これらの状態をスイッチング状態と呼ぶことにする。

スイッチング状態は、分子数が、それが離散的であるがゆえに、完全に0にまで達することによって生じている。体積Vを変化させると、スイッチング状態への明確な遷移が見られる。各成分の分子の平均流入間隔1/DsVが、反応のタイムスケール1/rsより長くなることが、スイッチング状態が生ずるための条件である。

離散性による状態遷移がもたらすマクロな性質の変化(第3章)

第2章で論じた離散性による状態遷移が、過渡的な現象にとどまらず、系のマクロな性質にも影響を及ぼしうることを示す。ここでは各成分の長時間平均濃度xiを考える。

再び、第2章の自己触媒的な反応ループを用いる。今度は、パラメタri, Di, siが成分ごとに異なる場合を考える。

スイッチング状態が生ずるための条件は、各成分の分子の平均流入間隔1/DsVと反応のタイムスケール1/rsとの関係によっていた。パラメタが成分ごとに異なると、これらのタイムスケールにも成分ごとに違いが生ずる。

連続極限ではxi はV によらない。分子の離散性を考えた場合、V が小さくなりスイッチング状態が現れるようになると、 ̄ xiに変化が生ずる。

この変化を生ずる機構を、Case I 流入の離散性と反応速度の関係 Case I' 流入の離散性の非対称性 Case II 流入の離散性と流出の速さの関係に分類して考える。

離散性による反応拡散系の定常状態の変化(第4章)

反応拡散系において、分子の離散性によって成分の局在が生じ、それによって連続極限(反応拡散方程式)とは異なる定常状態が生ずることを示す。

濃度の低い成分Aと、それによって生成される成分Bを考える。分子がその寿命の間に拡散してゆく距離の典型値(Kuramoto Length) l=√2Dτを考える(Dは拡散係数、τ は平均寿命)。

生成された分子Bの寿命が短いか拡散が遅く、BのKuramoto Length がA の平均分子間隔よりも十分に短ければ、成分B はA分子の周りに局在することになる。もし、成分Bの局在によって何らかの反応が(一様分布の場合よりも)加速されるならば、連続極限(反応拡散方程式)で考えた場合とは定常状態が変化する可能性がある。

例として、2次反応を含む反応拡散系を用い、定常状態の変化を議論する。

離散性によるパターン生成(第5章)

分子の離散性が、反応拡散系のパターン生成にも影響を及ぼしうることを示す。

第4 章で考えたように、分子の離散性は、成分の局在による定常状態の変化を生じうる。また、分子が有限時間内に拡散してゆく範囲は有限であり、拡散方程式のように無限遠まで瞬時に広がることは実際にはない。分子の離散性は、この2つの効果を通じて、パターン生成にも影響を及ぼしうる。

例として、第4 章の反応拡散系で、拡散係数が成分ごとに異なる場合を考える。連続極限(反応拡散方程式)ではパターンは生じないのに対し、分子の離散性を考えた場合にはスポット状のパターンが生成する場合があること、またそれが上の2つの効果で説明できることを示す。

離散性による反応ネットワークのスイッチ(第6章)

反応が複雑なネットワークをなしている場合に、分子の離散性が与える影響について論ずる。特に、少数個の分子によって反応ネットワークの振舞いがスイッチされる可能性について考える。

前半では、4成分からなる反応ネットワークモデルを用いて、スイッチとして働く簡単な例を示す

系が大きい(分子が多い)時には、その振舞いは安定固定点の周りのゆらぎとしてとらえられる。系が小さくなると、いずれかの成分の分子数が0に達することにより、これとは別の2つの状態が現れる。これら3つの状態の間で、分子の流入に伴う自発的な遷移が観測される。この現象は、分子の離散性による反応ネットワークの変化(切り離し)ととらえることができる。

後半では、多数の触媒反応がランダムに結合した系を用いて、分子の離散性を利用した状態のスイッチについて考える。外部から分子を加えた時の状態変化を観察する。

系が小さい場合には、いくつかの成分の分子数が0 に達することによって新しい状態が生じており、少数個の分子を加えただけで別の状態にスイッチする。このため、同じ濃度に相当する分子を加えた時にも、系が大きい場合と比べて大きな変化を生じやすい。

離散性によるネットワーク構造の変化(第7章)

酵素反応のネットワークを意識した複雑なネットワークで、分子の離散性がネットワークの実効的な構造にどのような影響を及ぼしうるか考える。

反応のモデルとして、ビット列の連結・切り離しA + B → A|B*, A|B* + C →A+BC(A, B, C はそれぞれビット列)を用いる。反応がランダムに結合したネットワークを考える。存在可能な分子(ビット列)の種類は非常に多いが、実際に存在する成分はそのごく一部である。このため、実効的な(起こる可能性のある)反応のネットワークは、全ての反応のごく一部に限られる。

生物の細胞を意識して、外部から低分子(短いビット列)が供給されており、細胞内の物質の総量(総ビット数)が閾値を超えたら2つに分裂するとした。細胞間の競合は考えず、一方の娘細胞のみを取り出してシミュレーションを行う。

反応ネットワークのある部分が、その部分に属する成分と外部から与えられる低分子のみから、その部分に属する全ての成分を再生産できるならば、その部分は存在し続けることができる。系の大きさ(分裂閾値)を変えると、このような再生産可能な部分ネットワークの性質が変化する。外界からの成分供給の変化や特定の成分への攻撃によっても、性質の変化が見られる。これは環境に対する反応ネットワークの適応と考えることができる。

【第2章】(上)スイッチング状態にある系でのNiの変化の例。(下)指標z≡(x1 +x3)-(x2+x4) の分布の例。z=±4 のピークがスイッチング状態に対応する。V の変化に対し明確な遷移が見られる。

【第3章】Vを変えた時の平均濃度xiの変化の例。連続極限では生じない大きな変化が見られる。

【第4章】成分X1, X2 の分子数の変化の例。連続極限(共に0に収束する)とは定常状態に変化が見られる。

【第5章】各成分の空間分布の例。スポット状のパターンが現れている。

【第6章】(前半の4成分モデル)Vが小さい時の、各成分の分子数Niの時系列の例。3つの状態間での遷移が見られる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は反応系において分子の数の離散性によって生じる新たな振舞いを様々なシミュレーションと理論的解析を通して一般的に論じたものである。

本論文は8章140ページからなる。第1章は導入説明、以下2-7章では分子数の離散性がもたらす新しい現象が論じられる。第2章では離散性による自己触媒系の状態遷移、第3章ではそれがもたらすマクロな性質の変化、第4章では離散性による反応拡散系の定常状態の変化、第5章ではその結果としての新しいパターン生成がシミュレーションを通して発見され、またそのしくみが詳しく議論される。第6章では離散性による反応ネットワークのスイッチ、さらに第7章では、より大規模なネットワーク構造の変化が論じられる。第8章では論文の結果がまとめられ、その意義が議論されている。

化学反応系の濃度の変化やその定常状態を考える際には、各成分の濃度を変数とした微分方程式を用い、必要に応じてそのまわりのゆらぎを連続的なノイズと見なす確率微分方程式的な手法を用いることが多い。しかし実際には、各成分は分子からなるものであり、その量(分子数)は離散的(整数)でしかありえない。分子数が比較的多いうちは、連続的記述は有効であるが、分子数が少なくなると、数の0,1,2,,,といった離散性は無視できなくなる。本論文では、微分方程式・確率微分方程式を用いた方法では現れない、分子の離散性が本質的であるような現象の可能性を、計算機シミュレーションに基づいて論じ、そのしくみを解明している。

第2、3章では、粒子の出入りのある、小さな容器内での反応系を例として、分子数の離散性による、新たな状態への遷移について論ずる。モデルとしては、4種類の成分からなる自己触媒的な反応のループXi+Xi+1→2Xi+1反応速度定数ri)を用いる(X5≡X1)。反応容器(体積V)は、物質浴(各成分Xiの濃度Si)と接しており、拡散による分子の出入り(速さDi)があるものとする。

第2章では反応係数、拡散係数、物質浴の濃度が各成分ごとに等しい場合を例にして、Bが小さくなると、N2=N4=0(1-3 rich 状態)とN1=N3=0(2-4 rich 状態)の間をスイッチする状態が現われることが示される(各成分の分子数Ni)。この変化は秩序パラメータN2+N4-(N1+N3)の分布が1山から2山へ変わる、転移として表現される。1-3rich、2-4richの状態では反応が完全に停止するが、ただ1個の分子の流入によりNiが急激に変化することに着目してこの転移の起こるしくみが説明される。

第3章では、物質浴の濃度などが成分ごとに異なる場合を用いて、第2章で論じた離散性による状態遷移が、長時間平均をとった、系のマクロな性質にも影響を及ぼしうることが示される。具体的には、連続極限では各成分の平均濃度XiはVによらないが、Vを小さくするにつれて、このXiに段階的な変化が生じる。この変化を生ずる機構が、Case I-流入の離散性と反応速度の関係、Case I'-流入の離散性の非対称性、Case II-流入の離散性と流出の速さの関係に分類して論じられる。以上、2、3章ともに連続的記述ではあらわれない、離散性による転移現象であるが、2章の結果は2次転移的、3章の結果は1次転移的ともみなされる。

ここまでは容器内では粒子がよく撹拌されている場合であるが、空間構造まで考えて離散性の効果を論じたのが4、5章である。

第4章では反応拡散系において、分子の離散性によって成分の局在が生じ、それによって連続極限(反応拡散方程式)とは異なる定常状態が生ずることが示される。まず、濃度の低い成分Aと、それによって生成される成分Bを考える。この系の場合、分子がその寿命の間に拡散してゆく距離の典型値、Kuramoto Length l=√2Dτが重要な基本的なスケールである(Dは拡散係数、τは平均寿命)。もし生成された分子Bの寿命が短いか拡散が遅く、Bの Kuramoto LengthがAの平均分子間隔よりも十分に短ければ、成分は分子の周りに局在することになる。そこで成分の局在によって何らかの反応が一様分布の場合より加速されるならば、連続極限で考えた場合とは定常状態が変化する可能性があり、実際、この反応加速率の安定固定点として、離散性による新しい定常状態が理論的に求められる。その例として、2次反応を含む反応拡散系のシミュレーションを行い、理論値と定量的に合致することが示される。

第5章ではこの結果をふまえて、分子の離散性が、反応拡散系のパターン生成にも影響を及ぼしうることが議論される。ここでは、第4章の反応拡散系で拡散係数が成分ごとに異なる場合を考え、連続極限(反応拡散方程式)ではパターンが生じないのに対し、分子の離散性を考えた場合にはスポット状のパターンが生成することが数値的に示され、説明される。

6、7章では反応が複雑なネットワークをなしている場合に、分子の離散性が影響して状態のスイッチを起こす可能性が議論される。まず、4成分からなる反応ネットワークモデルを用いて、少数個の分子によって反応ネットワークの振舞いがスイッチする簡単な例が示される。第7章では、酵素反応のネットワークを意識した複雑なネットワークで、分子の離散性がネットワークの実効的な構造を変化させることが示される。具体的にはビット列の連結・切り離しとして高分子の触媒反応ネットワークをモデル化し、その系が外界の変化に適応してスイッチし、多種類の分子を再生産することが示される。

このように、冨樫氏は本論文において、分子数の離散性がもたらす新しい状態への転移を、撹拌系、反応拡散系、反応ネットワーク系で発見、それを説明することに成功している。現在、細胞内での反応ダイナミクスは理論的にも興味を持たれているが、その場合、しばしば分子数は非常に少ない。一方微小リアクターによる実験も最近進展している。こうした問題に対し、数の少なさが単にゆらぎを増大させるのでなく新しい状態をもたらすという、冨樫氏の結果は大きな意義があり、将来的にはその実験的検証も議論されて来よう。また、第4章で導入された反応加速率の固定点としての状態転移の定式化は新しい理論として注目に値する。もちろん、今後理論的につめるべき問題も残ってはいるが、本論文は離散性による状態変化という新しい分野を切り開く上で重要な寄与を与えていると考えられる。

なお、本論文の第2章、第3章はそれぞれすでに論文が出版されており、第4章は現在投稿済み (査読中) である、さらに第5-7章の結果も投稿準備中である。これらは金子邦彦との共同研究であるが、いずれも論文の提出者が主体となって行なったもので、提出者の寄与がほとんどである。

以上の点から本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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