学位論文要旨



No 118783
著者(漢字) 山田,俊弘
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,トシヒロ
標題(和) 17世紀西欧地球論の発生と展開 : ニコラウス・ステノの業績を中心として
標題(洋) The Emergence and Development of the Theories of the Earth in Seventeenth-Century Western Europe : A Special Reference to Nicolaus Steno's Works
報告番号 118783
報告番号 甲18783
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第502号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 講師 岡本,拓司
 東京大学 教授 磯崎,行雄
 法政大学 教授 谷本,勉
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は,次の問いに答えることにある.すなわち,近代地質学の先駆者と言われる人々が,17世紀といういわゆる科学革命の時代に,どのような文脈においてその仕事を成し遂げたのかということである.たとえばステノ (Nicolaus Steno, 1638-1686) は,「地層累重の法則」のような層序学的諸原理や,「面角一定の法則」のような結晶学的諸規則を,どのようにして見出したのだろうか.また近代的な意味における層序学も結晶学も確立していなかった当時にあって,その見解はどのように受容され,あるいは受容されなかったのか.この時代に地質学や鉱物学のディシプリンが存在しているようには見えないとしたら,これら諸分野の知識はどのような形で組織化されていたのだろうか.

これらの問いに有効な答えを与えるため,科学史家たちのこれまでの所説を検討して次の二つの仮説を立てて歴史学的な調査と検証をおこなった.第一に,ディシプリンのような安定した形態ではないが,地学的知識を伝承する一定の著作活動が存在し,17世紀には一つの「ジャンル」と呼び得る「地球の理論」という形の地球論的分野の著述形態が成立していたと仮定した (第1章, 1-2節).この仮定に立って,これら地球論的なテーマを扱う著作群ならびに著作者たちとステノとの影響関係を多面的に追うことにより,地球論的分野を探求する人々の知的なネットワークが実態として存在していたことを証明しようとした.第二に,ステノは当時の地球論的な話題をめぐって枢要な位置を占める人物であると仮定した (第1章, 1-3節).この仮定は,第一の仮定を検証するための探求の過程で,ステノの位置を個々のケースについて測定することで点検し得ると考えた.この結果は当然従来のステノをめぐる歴史記述の妥当性をチェックする機能を果たすはずであるし,地学的知識の歴史記述の枠組みに何らかの示唆を与えると期待される.

まず次のような準備研究をおこなった.第一に,ステノの生涯を研究し,彼のコペンハーゲンにおける出身階級,就学時代におけるデカルト思想と医化学派の学者からの影響,ライデン大学での医学博士号の取得,パリ滞在後フィレンツェの実験アカデミーに迎えられ1667年にはルター派からカトリックに改宗したこと,スピノザやライプニッツといった当代第一級の哲学者たちと浅からぬ交わりがあったことといった諸点を明らかにした (第2章).第二に,ステノの6件の地学的著作をとり上げて内容を分析した (第3章).ステノ研究において第一級の価値を持つ学生時代のノート『カオス手稿』 (1659) や討論用の小品『温泉論』 (1660) から,すでに気象論的・地球論的な関心に基づく考察が見られ,『サメの頭部の解剖』 (1667) と地学史上著名な『プロドロムス (固体論)』 (1669) における,物体の発生と成長の問題を「固体のなかの固体」として包括的に論じる意図が理解される.地層相互の積み重なり,フォッシルの再解釈,鉱物結晶成長の規則性,さらにこうした自然物の相互関係を順次性として読みかえることによって地球史の再構成に至るというステノの重要な貢献はこうした文脈において再評価されなければならないことが判明した.また付随的な二つの資料『洞窟に関する書簡』 (1671) と『装飾品についての論説』 (1675-77) においては,それぞれ水循環に関わる所見や,科学史家間における解釈上の問題点について,一定の見解を得た.第三に,17世紀西洋地球論の前提となる16世紀後半の知的状況を概観した (第4章).特にこれまでの科学史記述が不十分な三分野,アグリコラに代表される鉱山学,全世界の記述を目指す「コスモグラフィア」としての地理学,百科全書的な自然誌なかでも鉱物誌の探索に意を用いた.その結果,従来の天文学革命に付随する地球論の生成という観点を見直し,むしろ「天文学革命」と相互規定的な地理学分野の変動に,17世紀西欧地球論の大きな前提を見出すに至った.この変動は,現象的には,地誌的・自然誌的諸情報の世界化であるが,認識論的な変化をも含むものであり,「地理学的転回 (geographical turn)」という筆者独自の命名をおこなった.

以上の予備的研究を土台に,先の二つの仮定を検証するため,ステノの業績と関わりが深い人物とその仕事を時代順にとり上げ17世紀地球論の展開を記述した.ここに含まれる人物は,デカルト (Rene Descartes, 1596-1650),ガッサンディ (Pierre Gassendi, 1592-1655),ウァレニウス (Bernhardus Varenius, 1628-1650),キルヒャー (Athanasius Kircher, 1602-1680),フック (Robert Hooke, 1635-1703),バルトリン (Erasmus Bartholin, 1625-1698),スピノザ (Baruch Spinoza, 1632-1677),ライプニッツ (Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716) である.

まず,デカルトの機械論的な地球論を検討し (第5章, 5-1節〜5.2節),『哲学の諸原理』 (1644) 第4部の記述をもって,西欧地球論の一タイプが成立したことを示した.また論敵であったガッサンディの地球論的な考えとの対比を行い,特に死後出版の『哲学集成』 (1658) に歴史的自然誌的関心に依拠した地球論的領域が明瞭に存在することを指摘した (第5章, 5-3節).しかもその研究をステノが『サメの頭部の解剖』で参照しているのが確認できるので,従来のデカルト主義の文脈におけるステノの地質学的仕事の評価は限定的としなければならない (第5章, 5-4節).ガッサンディのステノにとっての役割を以上の観点から確定し,デカルト重視のヒストリオグラフィに対しガッサンディの役割を明確化できたことは本論文の成果の一つである.

以下,ウァレニウスの『一般地理学』 (1650) に見られる新科学の発展を踏まえた地理学の構想 (第6章),17世紀地球論史で見逃すことのできないキルヒャーの『地下世界』 (1665) に見られる「ゲオコスモス」論 (第7章),近代地質学誕生の記述においてステノとならんで高い評価が与えられるフックの『地震論』 (1668) に見られる自然誌収集への関心と物理的モデル (第8章),ステノの師の一人であるバルトリンの『氷州石の実験』 (1669) に見られるデカルト光学の応用と鉱物誌記述という側面 (第9章),ステノがライデン大学の学生であったとき親交のあったスピノザの『神学政治論』 (1670) に見られる聖書に対する歴史的研究法の適用 (第10章),地質学的にはステノに多くのものを負うライプニッツの『プロトガイア』 (1691/ 1749) に見られる総合的な地球観 (第11章) を検討した.

なかでもスピノザの『神学政治論』中に見られた聖書のテキスト批判に基づく成立史的な研究方法とステノの『プロドロムス』における自然の事物から地球史を再構成する地史学的な研究方法は,その現在主義的な歴史研究の態度を共有する一方,前者の聖書に真理を読み込むことを一貫して拒否する態度と後者の信仰主義の立場において決定的な違いを有している点を指摘できる.これらは17世紀西欧における歴史学的研究方法の二つの重要な到達点と言える.このような自然学や地球論的な観点からのスピノザ−ステノ関係に関する立論はこれまでになく,科学史研究における本論文の貢献の一つである.

以上のような歴史記述と検討の結果,著述上の影響関係や人的な交流,実地の討論,野外調査など,地球論と結びつく具体的な関係性の存在が立証できた.たとえば,ステノとデカルト,ガッサンディ,ウァレニウスとの間には著作上の影響関係が認められ,またバルトリンやスピノザ,キルヒャー,ライプニッツとの間には,著作ばかりでなく実際の交流関係のなかでの相互の影響があったことが確認できた.この過程でお互いの業績の受容や批判が行われ,またフックやボイルの例に見られるように,優先権の主張もなされていた.このように,「ディシプリン」というほど安定していないが,かなり開放的な,学術的議論の社会的ネットワークが存在し,これに裏打ちされた一連の著作活動の系譜,すなわち地球論的な著述という一つの「ジャンル」の存在を実証することができた.

この探求過程で同時に,こうしたネットワークにかかわりを持っただけでなく,そのなかでもかなり重要な役割を担ったステノ像が現れてきた.したがって第二の仮定であった,ステノが地球論の展開史のなかで占める重要な位置を,以上の限定の範囲内で認めることができる.アメリカの歴史家グラフトン (Anthony Grafton) がその16-17世紀の年代学史研究から導き出した「歴史革命 (historical revolution)」という概念を援用すれば,17世紀西欧の地球論の歴史は,空間の均質化の認識という「地理学的転回」を前提として成立し,これに続く時間の斉一化に基づく歴史意識の変革すなわち「歴史革命」の過程をよく映し出した領域であると言える.ステノはこの過程で出現した特徴的な人物であり,きわめて明晰な形で自然誌を再解釈して地球史を建設する原理を示したのである.

以上の研究成果から,われわれの17世紀西欧地球論の歴史という地学史記述には,デカルトやキルヒャー,フック,ステノ,ライプニッツという定番の登場人物のほかに,スピノザが含まれなければならず,さらにさかのぼってガッサンディまで登場させる必然性が出てくる.アイルランドの地学史家ヘリス=デイヴィス (G. L. Herries Davies) の言う「ステノ革命」論は以上の限定の範囲内で理解されるべきであり,また他方アメリカの哲学史家アリュー (Roger Ariew) がライプニッツにことよせて主張する中世思想の復活という地質学史に適用されたデュエム的テーゼは,上記のような17世紀地球論の新規性ゆえに,退けられることになる.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、17世紀デンマークの学者ニコラウス・ステノ (1638-1686) の地球論を中心として、デカルトの『哲学の諸原理』(1644年)に発し、ライプニッツの『プロトガイア』(1691年執筆・1749年刊)に至る17世紀地質学革命の様相を克明に再構成し、さらにはステノの種々の地質学的論考のラテン語テキストを邦訳して提供してなった極めて卓越した研究である。

山田氏は、まず17世紀の地球論が、デカルト『哲学の諸原理』の思弁的方法のみならず、ガッサンディの遺著『哲学集成』(1658年刊)を特徴づける経験主義的方法に起源をもっていたことを確認する。また、ステノがウァレニウスの『一般地理学』(1650年)から学ぶことから独自の地質学的思索を始め、学生時代の草稿『カオス手稿』(1659年)や『温泉論』(1660年)には、すでに後年の成熟した地球論の萌芽が見られることを確かめる。さらに、画期的な『サメの頭部の解剖』(1667年)や『プロドロムス(固体論)』(1669年)には、キルヒヤーの『地下世界』(1665年)、フックの『地震論』(1668年)、師の一人に数えられるエラスムス・バルトリンの『氷州石の実見』(1669年)と同様の地平に立った知的努力が見られるとの認識を得ている。そして、ステノの地質学的知見が、哲学者のスピノザの懐疑主義的聖書観と対照をなし、またライプニッツの地質学に確かな影響を及ぼしていたことをも解明している。

総じて、近代自然科学が生誕した科学革命の時代とされる17世紀の地質学が、天文学革命ほどドラスティックではないが、前時代の大航海時代に開始された地理学的認識の一新の影響を受けた「地理学的転回」と呼ばれるべき大きな変動として捉えられるべきことを確認し、アメリカの歴史家グラフトンのいう「歴史革命」の確かな一環をなしていたと主張している。

本論文の独創的貢献をもっと詳細に個別的に述べれば、以下のようになるであろう。

17世紀西欧の地球論の中核部分を、ステノのラテン語テキストを地道に解読することによって明らかにしたこと。

デカルトの思弁的方法のみならず、ガッサンディの懐疑主義的・経験主義的方法が地質学においても影響力をもっていたことをステノの著作を検討することによって解明したこと。

16〜17世紀に起こった「歴史革命」の一環として地質学の認識の転換は理解することができ、天文学における革命ほどではないが、地質学の認識転換もが科学革命の重要な構成要素として捉えられることを示したこと。

本論文は、その研究手法の地道さと研究射程の広大さによって際立っている。提示した地質学理論の認識論的基礎をもっと先鋭に剔り、地質学史のその後の発展をも捉えていれば、論文はもっと壮大な読み応えある作品になったていたかもしれない。けれども、山田氏はそのことを十分に理解しており、また本論文の地道な学問的姿勢の範囲で十分以上の包括性を打ち出しているので、審査委員全員は、本論文をもって学位取得のためには十二分であると判断した。本論文は、山田氏が世界的に第一線に立ちうる科学史家であることを示した。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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