学位論文要旨



No 118800
著者(漢字) 金,銀淑
著者(英字)
著者(カナ) キム,ウンスク
標題(和) フーリエ変換ミリ波分光による炭化水素ラジカルの分子構造と分子内運動
標題(洋) Molecular Structure and Internal Motion of Hydrocarbon Radicals by Fourier Transform Millimeter-wave Spectroscopy
報告番号 118800
報告番号 甲18800
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4453号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 末元,徹
 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 教授 藤森,淳
内容要旨 要旨を表示する

フリーラジカルは不対電子を持っている分子種、または不安定な短寿命分子種のことを言う。フリーラジカルは化学反応中間体として広く知られており、その分子構造、電子構造を明らかにすることは基本的重要性をもっている。また大気化学においてはフリーラジカルの分光データに基づいて大気汚染物質の微量成分組成を調べることに応用されている。電波天文学においても、実験室での分光データにより星間空間での分子種を同定し、星間分子雲での化学、物理環境や化学反応過程を調べることができる。マイクロ波分光によるフリーラジカルの回転スペクトルの測定は詳細な分子構造の決定に有効であり、多くのフリーラジカルに対して研究が行われてきた。しかし、数原子程度からなる基本的分子であっても双極子モーメントが小さいため、あるいは化学反応性が高いため、そのスペクトルが知られていないものは多い。それらの回転スペクトルを検出することは分子科学のみならず大気化学、星間化学への応用において重要である。

マイクロ波分光は主に分子の回転準位間の遷移を測定する。マイクロ波分光は分解能が非常に高いため、超微細構造を精密に測定することが可能である。超微細構造とは分子中の核スピンによるエネルギー分裂のことで、それを解析することで、分子構造や電子状態に関する様々な情報が得られる。特にマイクロ波分光でよく用いられているフーリエ変換ミリ波分光計は,双極子モーメントの小さな分子であってもその回転スペクトルを検出できる特徴がある。また、超音速ジェットを用いるためラジカルやイオンなどの化学反応性の高い分子の分光に適している。本研究室にあるフーリエ変換ミリ波分光計はこれまで40 GHz領域で おもに用いられ、その威力を発揮してきた。さらに、測定可能な周波数領域を拡張した結果、現在は8-85 GHz領域まで高感度、高分解能の測定が可能であり、基本的な分子のスペクトルに対応できるようになっている。私は、これまでフーリエ変換ミリ波分光計を用い、いくつかの基本的な炭化水素ラジカルに着目し分光実験を行った。具体的な対象としては、エチルラジカル (C2H5)、ビニルラジカル (C2D3)、シクロプロピルラジカル (C3H5)、そしてHCCS (DCCS) である。炭化水素ラジカルは有機化学反応において重要な役割を果たすため、様々な分野で興味が持たれてきた。しかし、基本的な炭化水素ラジカルであるエチル、ビニル、シクロプロピルは化学反応性が高く、双極子モーメントも小さいため、それらのスペクトルを測定するのは非常に困難であり、特にマイクロ波分光において測定できた例は殆どなかった。分子物理学や電波天文学において、これらの分子の回転遷移を測定することは大きな意義があり、また微細や超微細構造を調べる事で分子内運動や電子状態についての情報が得られると考えられる。そこで、本研究ではフーリエ変換ミリ波分光計を用い、エチル、ビニル、シクロプロピル、そしてHCCS (DCCS) ラジカルの回転遷移を測定した。それらを以下に述べる。

エチルラジカル (C2H5) は基本的なアルキルラジカルであり、メチル基の内部回転運動やメチレン基の反転運動を伴うため、分子構造や分子内運動に興味が持たれている。本研究ではエチルラジカルの101-000遷移を探索し、電子スピンや核スピンによって分裂した30本のスペクトル群を測定した。それらは複雑なパターンを示したが、ゼーマン効果をもとに帰属をつけることができた(図1)。そして、予想された分子定数を用いたスペクトルパターンに基づき、最小二乗解析を行った結果、22本の遷移が内部回転量子数 m=0 の状態(A"2)のスペクトルとして解析できた。回転定数や微細、超微細構造相互作用定数をはじめて決定した。さらに、微細、超微細構造の強度パターンについて遷移間の強度の混ざり効果を厳密に考慮したシミュレーションを行い、測定したパターンを説明するとともに、数本の帰属できないスペクトル線も拾い出すことができた。また、今回の研究結果から、メチル基の内部回転運動のポテンシャルのエネルギーバリアーの低いことが確認できた。

ビニルラジカルは化学反応の重要な中間体として知られており、CC-Hα変角振動のトンネリング運動に大変興味がもたれている。大振幅CC-Hα変角振動を持つビニルラジカルのトンネル効果に興味を持ち、その重水素化物 (C2D3) の回転遷移 (101-000) に着目した。実験はC2D3BrをArの中に0.5%混ぜ、パルス放電ノズルで放電することによって生成した。C2D3のl01-000遷移を探索した結果、44.4 GHz 領域で33本のスペクトルを検出した。得られたスペクトルは複雑な微細、超微細構造パターンを示す。そのスペクトルパターンを調べるため、ESRの研究結果や関連分子(CH2N、C3D)の研究結果から超微細構造定数を推定し、それに基づいてスペクトルパターンを調べた。その結果、予想されたスペクトルパターンは実測のものとよく対応することがわかった。また、測定した微細、超微細構造を帰属した結果、基底状態v=0 (Iβ=1、Iα=1) のスペクトルのみならず、トンネル分裂した上の状態v=1 (Iβ=2, 0、Iα=1) のスペクトルも測定されていることがわかった(図2)。最小二乗解析の結果、回転定数および微細、超微細構造相互作用定数を決定した。今回決定された超微細構造相互作用定数に基づき、CC-Dα変角振動によるトンネル分裂エネルギー幅の下限値を推定した。

シクロプロピルラジカル (C3H5) はα位の水素原子 (Hα) が三員環面に対して反転運動していることが知られている。これまで、ESRスペクトルや ab initio 計算によってシクロプロピルラジカルの分子構造や分子内ポテンシャルが調べられてきたが、他の分光学研究は殆ど報告されていない。本研究ではシクロプロピルラジカルの分子構造やHα原子の分子内反転運動を詳しく調べるため、回転スペクトルの測定を行った。まず、111-000純回転遷移周波数を ab initio 計算結果や赤外領域での研究結果に基づいて予想し、実験を行った。その結果、37.5 GHz 領域で7本のスペクトルを検出した。引き続き、110-101遷移周波数領域を予想し、探査した結果、10570 MHzから10630 MHzまでの領域で35本の常磁性を持つスペクトルを検出できた。スペクトルが観測された周波数が、ab initio 計算から予想される周波数に近いこと、そして、電子スピンおよび5つの水素核の核スピンによって非常に複雑な微細、超微細構造パターンを示していることから、それらはシクロプロピルラジカルの回転遷移であると結論した。

最後にHCCSとDCCSの回転スペクトルの研究について述べる。硫黄を含む炭素鎖分子HCnSは2Πiの基底電子状態を持つフリーラジカルである。酸素を含む対応する炭素鎖分子HCnOは一般に非直線構造をとることが示されており、それらとの関係でHCnSの分子構造や電子状態に興味が持たれる。そこで、私はHCCSおよびDCCSの低い回転量子数の遷移を詳しく調べた。6-48 GHzの範囲での測定の結果、2Π3/2及び2Π1/2の両方の状態についてHCCSの場合3つの回転遷移で20本のスペクトルを、DCCSは4つの遷移で34本の回転スペクトルを得た。今回測定した周波数を用いて最小二乗法解析を行って初めて超微細構造相互作用定数a、b、c、dを決定した。またbとcに基づいて計算したフェルミ項の値から、端の炭素でのスピン密度は43 % であることがわかった。スピン密度を詳しく検討したところ軌道角運動量の quenching の程度は大きくないことがわかった。このことからHCCSでは Renner-Teller 効果の影響はHCCOほど顕著に現れていないことが確かめられた。

ゼーマン効果に基づいて帰属をつけたエチルラジカルのスペクトルの例

ビニルラジカル (C2D3) の101-000遷移のスペクトルパターン

審査要旨 要旨を表示する

不対電子を持つ分子種あるいは不安定な短寿命分子種をフリーラジカルと呼ぶ。フリーラジカルは化学反応中間体として知られており、その分子構造や電子構造に関する分光データは分子科学のみならず、大気化学や電波天文学においても重要性を増している。マイクロ波分光の手法を用いたフリーラジカルの回転準位間の遷移(回転スペクトル)の測定は分子構造の詳細な決定に有効である。特にフーリエ変換ミリ波分光計を用いれば、双極子モーメントの小さな分子でもその回転スペクトルを検出できる。さらに、超音速ジェットで試料分子を供給することにより、化学反応性の高いラジカル分子の分光測定も可能となる。

論文提出者はまず、これまで40 GHz領域に限られていたフーリエ変換ミリ波分光計の測定可能な周波数領域を拡張し、8〜85 GHzの範囲で高感度かつ高分解能の測定を可能とした。この分光計を用いて、エチルラジカル (C2H5)、ビニルラジカル (C2D3)、シクロプロピルラジカル (C3H5)、さらにHCCS (DCCS) について分光測定を行った。特にマイクロ波分光の高い分解能を生かし、微細構造や超微細構造の観測とその解析から分子内運動や電子状態について新しい知見を得ることに成功している。

本論文は全8章からなる。第1章では研究の背景と本論文の構成・概要を要領よくまとめている。第2章では実験データの解析に必要な理論の基礎について述べ、第3章では本研究に共通する実験手法についてまとめている。

第4章では、エチルラジカルの101-000遷移を探索し、電子スピンや核スピンによって分裂した30本のスペクトル群を測定し、ゼーマン効果を用いて帰属を行った。最小二乗解析の結果、22本の遷移が内部回転量子数 m=0 の状態 (A2") のスペクトルであることを示すと共に、回転定数や微細および超微細構造相互作用定数を初めて決定している。さらに、メチル基の内部回転運動のポテンシャルのバリアーが十分低いことを示している。

第5章では、大振幅CC-Hα変角振動を持つビニルラジカルのトンネル効果を調べることを主目的とし、その重水素化物 (C2D3) の回転遷移 (101-000) を探索した結果、44.4 GHz領域で33本のスペクトル線を検出することに成功している。微細および超微細構造を帰属した結果、基底状態のみならず、トンネル分裂した上の状態のスペクトルも観測されていることが分かった。最小二乗解析を行って回転定数や微細および超微細構造相互作用定数を決定すると共に、CC-Hα変角振動によるトンネル運動のエネルギー分裂幅の下限値を推定している。

第6章では、シクロプロピルラジカルの分子構造やHα原子の分子内反転運動の詳細を調べるため、その回転スペクトルの測定を行っている。最初に、111-000純回転遷移周波数を予想してから実験を行った結果、37.5 GHz領域で7本のスペクトル線の検出に成功した。さらに、110-101遷移周波数領域を予想して探査した結果、10570MHz〜10630 MHzの領域で35本の常磁性スペクトル線の検出に成功した。観測された周波数が ab initio 計算から予想されたものと近いこと、並びに、スペクトルが電子スピンおよび5つの水素核の核スピンに由来すると考えられる複雑な微細および超微細構造パターンを示すことから、観測されたスペクトル線はシクロプロピルラジカルの回転遷移に対応するものであると結論付けている。

第7章では、HCCSおよびDCCSの低い回転量子数間の遷移に対応するスペクトルを観測し、その分子構造や電子状態に関する知見を得ている。6-48 GHz領域での観測の結果、2Π3/2および2Π1/2の2つの状態について、HCCSの場合3つの回転遷移で20本のスペクトル線を、DCCSの場合4つの回転遷移で34本のスペクトル線を検出している。最小二乗解析を行って超微細構造相互作用定数を決定すると共に、水素核に隣接する炭素におけるスピン密度 (43 %) を評価した。スピン密度の詳細な検討の結果、軌道角運動量の quenching の程度が大きくないこととHCCSでは Renner-Teller 効果の影響がHCCOほど顕著でないことを明らかにしている。

第8章で本研究のまとめを述べると共に、今後の課題について展望している。

本研究で得られた一連の結果は、大気化学や電波天文学においても重要な炭化水素ラジカルの新たな基礎分光学的データおよび知見として高く評価できる。

なお、本論文の主要部分は指導教官らとの共同研究であるが、装置の改造、実験の遂行、データの解析のいずれにおいても論文提出者が主体となって行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

したがって、審査委員全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認める。

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