学位論文要旨



No 118801
著者(漢字) 黒田,直史
著者(英字)
著者(カナ) クロダ,ナオフミ
標題(和) 反陽子の大量捕捉と超低速反陽子ビームの生成
標題(洋) Accumulation of a large number of antiprotons and production of an ultra-slow antiproton beam
報告番号 118801
報告番号 甲18801
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4454号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 片山,武司
 東京大学 教授 高瀬,雄一
 東京大学 教授 吉田,善章
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 高エネルギー加速器研究機構 教授 西山,樟生
内容要旨 要旨を表示する

反陽子を大量に電磁トラップ中に捕捉し,超低速ビームとして引き出すことは,反水素原子の大量合成や物質と反物質との束縛系である反陽子原子の生成に欠かすことのできないものとなっている。それら反陽子を含むエキゾチックな原子の生成過程はそれ自体が興味深い研究対象となるばかりでなく,反物質を含む原子/分子の振る舞いや,その結果可能となる精密分光を通じて物質と反物質のCPT対称性を実験的に研究することが可能となる。例えば反陽子と陽子の束縛状態 (pp) を生成するには,真空中で水素ガス標的に水素のイオン化エネルギー以下の超低速反陽子ビームを照射することが必要である。同様に,反水素原子生成においても,陽電子と反陽子の再結合の断面積は反陽子と陽電子の相対エネルギーが低ければ低い程増大する。これらのことから,超低速の反陽子が必要とされていることがわかる。一方,陽子-陽子衝突で生成される反陽子の運動エネルギーは、その閾値 (5.6 GeV) 付近においてもGeV程度あり、ここで必要となるエネルギー領域にするためには9桁以上もエネルギーを落とす必要がある。そこで,本研究では,CERNで稼働中の反陽子減速器(AD)を用い,それと高周波四重極減速器(RFQD),多重電極トラップ (MRT) 及び超低速反陽子輸送ビームラインを組合せるという,これまでに無い手法により,反陽子を電磁トラップ内に大量に捕捉,冷却し,トラップから超低速反陽子ビームとして引き出す手法を開発した。また,その過程で反陽子と電子からなる2成分非中性プラズマのダイナミックスを研究した。

CERNでは,Ir 標的に26GeV/cの陽子ビームを照射して反陽子を生成し,AD内で確率冷却と電子冷却という二種類の冷却方法を駆使してGeV領域のエネルギーを5.3 MeVにまで減速し,1ショット当たり (2-3)×107個の反陽子ビームを供給している。これをRFQDでおよそ110keVまで減速した上で,2.5Tの超伝導ソレノイド磁場中に設置されているMRTに入射した。その際MRTの上流に設置した減速箔(膜厚90μg/cm2二枚重ね)で反陽子をさらに10keV以下まで減速し,反陽子捕捉電圧をハンドリング可能な領域にとどめている。MRT内部は,巨視的な時間反陽子を安定に閉じ込めておく為に極高真空 (10-12 Torr 以下) を維持することが重要である。減速箔は,10-9 Torr 程度にあるビームラインとの真空隔壁としての役割をも担っている。MRT周辺の極高真空は,MRTを納めている真空容器(ボアチューブ)を液体ヘリウムで10K以下に冷却することで達成した。各装置で減速,冷却された後の反陽子のエネルギーを表1にまとめた。

MRTは,円筒状の電極を14個,同軸上に配置し,静電場と静磁場の組合せによって荷電粒子を閉じ込めるペニングトラップ型の電磁トラップで,それぞれの円筒電極に独立にポテンシャルを与えることが出来る。これによって,回転楕円体プラズマの平衡状態の外部電位に一致する調和ポテンシャルを外から与えることが出来,プラズマを安定に閉じ込められるようになっている。10keVの反陽子の捕捉は以下のように二つの反陽子捕捉用電極(UCE及びDCE,図1参照)を用いて行なう。MRTに入射された反陽子パルスは0Vに保たれているUCEを通過し,,DCEに達する。DCEに-10kVを印加しておくことで,ここに到達した反陽子を反射出来る。反射された反陽子が再びUCEに達する前にこれに-10kVをかけることにより,反陽子はこの二つの電極間に捕捉される。この反陽子はトラップ内に予め閉じ込められていた電子プラズマと衝突を繰り返し,次第に冷却される。強磁場中にトラップされている電子はシンクロトロン放射によって自動的に冷却されるため,結果的には反陽子と電子はともに環境温度程度にまで冷却される。これまでに閉じ込めた反陽子の数は最大でADからの1ショット当り,1.2×106個であった。これはRFQDを用いずに減速箔のみで反陽子を捕捉,ペニングトラップに閉じ込めた他グループによる最大値2.5×104と比べれば約50倍の高効率になっている。また,ADからの反陽子ビームを蓄積する技術も試み,5ショットの蓄積で最大4.8×106個の反陽子を閉じ込めることが出来た(この時,1ショット当り約0.9×106個閉じ込められているのでほぼショット数に比例して蓄積された)。これまでに蓄積された反陽子数として最大のものである。

我々は,この反陽子の冷却過程を,電子プラズマの静電振動の時間変化から,非破壊的に観測することに初めて成功した。本研究では,プラズマを閉じ込めている調和ポテンシャルを形成している電極の一つからパルスを印加して電子プラズマの軸対称モードを間欠的に励起し,それを他の電極から読み取った。図2(1)は観測された (3,0) モードの周波数の反陽子入射直後からの時間変化である。右の縦軸は周波数変化を温度に換算したものである。これは,プラズマの温度が十分低い場合に Dubin により求められた冷たいプラズマの分散関係を用い,これに温度効果を入れて解くことで求められた。この結果から,電子プラズマは反陽子の入射によって最初の5秒程度の間に0.6eV程度まで熱せられ,その後10秒以上その温度を保った後,入射から35秒程度経過した頃には元の温度に戻っていることがわかる。これは,反陽子ビームと電子プラズマの非弾性散乱過程と電子プラズマの冷却過程を考慮したレート方程式を解くことによりほぼ説明できた。

さらに,プラズマの温度,形状に依存性を持たないことが知られている (1,0) モードの周波数をやはり反陽子入射直後から測定し、図2(2)のような結果を得た。周波数は低い側にシフトしている。これは,反陽子が冷却され,調和ポテンシャル内に電子と共にトラップされると反陽子の作る場によって実効的に調和ポテンシャルが浅くなる為と理解される。同時に本来の(1,0)周波数より400 kHz程低いところに,反陽子雲と電子雲の遠心分離に起因していると考えられる,もう一つの振動モードも初めて観測された。

こうして冷却された反陽子は,調和ポテンシャルをゆっくりと浅くしていくことで下流に向けて引き出される。この時,電子を同時に閉じ込めたままポテンシャルを浅くしていくと,電子の空間電荷ポテンシャルと相殺する深さ付近から浅い所で一部の反陽子が引き出されずにトラップ中で失なわれることがわかった。これは,反陽子をポテンシャル内に保ったまま電子だけが出ていける程度の時間 (〜550ns程度) ポテンシャルを開閉して電子を追い出すことで回避出来ることがわかった。

超低速反陽子輸送ビームラインは,トラップ内で冷却された反陽子を反陽子原子生成等を行う実験槽まで輸送できるよう設計制作された。ガス標的を用いる実験槽内では真空度は10-6 Torr 程度と悪化する為,反陽子を閉じ込めているMRT部分とは真空的に分離しておく必要がある。これは、引き出されたビームを3組の静電レンズによって収束させ,その節の部分に差動排気用の可変絞り機構を設置することで実現した。図3は最初の静電レンズの後方に設置されたMCPで得られた250eVの超低速反陽子ビームの2次元プロファイルの例である。ほぼ計算通りのプロファイルとなった。さらに,引き出しビームラインの最下流,トラップの中心からおよそ3.5m下流まで,103個のオーダーの反陽子を10,100,250,500eVという従来にない低エネルギーで輸送することに成功した。

各装置で減速,冷却される反陽子のエネルギー

MRT及び超低速反陽子輸送ビームライン(一部のみ)の概念図:軸上の磁場分布Bzも上部に与えてある.

(1);電子プラズマの (3,0) モードの反陽子入射後からの時間変化及び温度変化.(2);(1,0) モードの時間変化.点線は反陽子が無い場合の (1,0) 周波数の位置を示す.

トラップから引き出された250eV反陽子ビームの2次元プロファイルの例

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなり、第1章は超低速反陽子を必要とする学術的背景、第2章は実験装置、第3章は反陽子の蓄積・閉じ込め実験結果、第4章は蓄積反陽子の冷却、第5章は超低速反陽子の引き出しと輸送、について述べられており、第6章は結語である。

反陽子を大量に電磁トラップ中に捕捉し,超低速ビームとして引き出すことは,反水素原子の大量生成や、物質と反物質との束縛系である反陽子原子の生成などの研究に欠かすことのできない実験技術である。これらのことから,長年大強度超低速の反陽子が必要とされてきた。本論文は欧州原子核研究機構 (CERN) において、それを実現した研究の集積である。

まず反陽子生成は26GeVの陽子をイリジュウム標的に衝突させ、陽子−陽子衝突で生成させている。生成された反陽子の運動エネルギーは、生成の閾値エネルギー付近においてもGeV程度あり、超低速エネルギーにするためには9桁もエネルギーを下げる必要がある。本研究では、CERNで稼働中の反陽子減速器(AD) を用い,それと高周波四重極減速器(RFQD),多重電極トラップ(MRT)及び超低速反陽子輸送ビームラインを組合せるという手法により,反陽子を電磁トラップ内に大量に捕捉,冷却し,トラップから超低速反陽子ビームとして引き出すことに成功している。

実験に用いた装置の概略は以下のとうりである。AD内で5.3MeVまで減速された反陽子は、1ショット当たり2x107個取り出される。これをRFQDで110keVまで減速し,さらに2.5T の超伝導ソレノイド磁場中に設置されているMRTに入射している。その際MRT の上流に設置した減速箔(膜厚90μg/cm2二枚重ね)を通過させることにより、反陽子をさらに10keV以下まで減速している。MRTは,円筒状の電極を14個,同軸上に配置し,静電場と静磁場の組合せによって荷電粒子を閉じ込めるペニングトラップ型の電磁トラップで,それぞれの円筒電極に独立にポテンシャルを与えることが出来る構造である。これによって,回転楕円体プラズマの平衡状態の外部電位に一致する調和ポテンシャルを外から与えることが出来,プラズマを安定に閉じ込めている。10keVの反陽子の捕捉は二つの反陽子捕捉用電極のポテンシャルを時間的に変位させる方法を用いて行なっている。このようにしてトラップ内に捕捉された反陽子を予めトラップに閉じ込めていた電子プラズマとの衝突の繰り返しで,次第に冷却される。強磁場中にトラップされている電子はシンクロトロン放射によって自動的に冷却されるため,結果的には反陽子と電子はともに環境温度程度にまで冷却されている。

本実験において、これまでに閉じ込めた反陽子の数は最大でADからの1ショット当り,1.2x106個である。これは従来他のグループによるRFQD を用いずに減速箔のみで反陽子を捕捉,ペニングトラップに閉じ込めた値、2.5×104と比べれば約50倍の高効率になっている。また,論文申請者らはADからの反陽子ビームを蓄積する技術も試みており,5ショットの蓄積で最大4.8×106個の反陽子を閉じ込めることに成功している。この数はこれまでに蓄積された反陽子数としては過去最大のものである。

さらに論文申請者らは、この反陽子の冷却過程を,電子プラズマの静電振動の時間変化から,非破壊的に観測することに成功している。プラズマを閉じ込めている調和ポテンシャルを形成している電極の一つからパルスを印加して電子プラズマの軸対称モードを間欠的に励起し,その振動の周波数変化を、他の電極から読み取る方法を考案した。観測された(3,0) モードの周波数の反陽子入射直後からの時間変化からそれを電子温度に換算し、電子プラズマは反陽子の入射によって最初の5秒程度の間に0.6eV程度まで熱せられ,その後10秒以上その温度を保った後,入射から35秒程度経過した頃には元の温度に戻っていることを明らかにした。これを反陽子ビームと電子プラズマの非弾性散乱過程と電子プラズマの冷却過程を考慮したレート方程式を解くことによりほぼ説明している。さらに,プラズマの温度,形状に依存性を持たないことが知られている(1,0) モードの周波数を反陽子入射直後から測定し、周波数は低い側にシフトしていることを発見している。これは,反陽子が冷却され,調和ポテンシャル内に電子と共にトラップされると反陽子の作る場によって実効的に調和ポテンシャルが浅くなる為と解釈している。同時に本来の(1,0) 周波数より400kHz程低いところに,反陽子雲と電子雲の遠心分離に起因していると考えられる,もう一つの振動モードを初めて観測している。

このように本論文は大強度超低速反陽子ビームの生成に成功した貴重な研究であり学術的価値は極めて高い。

なお、本論文は、山崎泰規・小牧研一郎氏らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験立案、遂行、解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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