学位論文要旨



No 118812
著者(漢字) 中尾,正治
著者(英字)
著者(カナ) ナカオ,マサハル
標題(和) イヌ・ミルク・リゾチームのフォールディングの解析
標題(洋) Studies on the Folding of Canine Milk Lysozyme
報告番号 118812
報告番号 甲18812
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4465号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 能瀬,聡直
 東京大学 教授 和達,三樹
 東京大学 教授 小林,孝嘉
 東京大学 教授 陶山,明
 東京大学 教授 川戸,佳
内容要旨 要旨を表示する

蛋白質のフォールディングはDNAからの転写、翻訳を経て得られたアミノ酸の一時配列が生体内で「蛋白質」としての機能を持つ天然の特異的な三次元立体構造に変換される過程であり、遺伝情報発現の最終段階と考えることができる。従って、蛋白質がフォールディングするメカニズムを明らかにすることは生物物理学にとって非常に重要なテーマの一つである。

平衡条件下における変性剤によるアンフォールディング転移が様々な蛋白質で測定された結果、いくつかの蛋白質で転移の中間体が観測された。この中間体は主鎖二次構造が天然構造類似で分子形態はコンパクト、さらに分子内部の側鎖のタイトなパッキングが失われているという共通特徴があったので、この中間体のことは「モルテン・グロビュール状態」と呼ばれるようになった。さらに、このモルテン・グロビュール状態が、様々な蛋白質における巻き戻りの速度過程の初期に蓄積する中間体であることが、実験の結果から考えられている。

イヌ・ミルク・リゾチームは129残基、分子量およそ14,600のカルシウム結合蛋白質である。X線結晶構造解析により構造はすでに明らかになっており、二つのドメイン、αドメイン、βドメインから構成されている。αドメインは主に4本のαヘリックスからなり、βドメインは一連のループ構造と3本の反平行βストランドで構成されている。この構造は同じ構造ファミリーに属する他のカルシウム非結合型のリゾチームやαラクトアルブミンと相同である。

イヌ・ミルク・リゾチームの平衡条件における熱変性実験の結果から、このリゾチームは熱変性の過程において他のリゾチームやαラクトアルブミンと比較して、より安定でかつより天然構造類似なモルテン・グロビュール中間体を形成することが知られている。一方、同じ構造ファミリーに含まれる他のリゾチームやαラクトアルブミンについて、変性剤である塩酸グアニジンを用いた平衡状況下でのアンフォールド実験で観測されるモルテン・グロビュール中間体の構造と、アンフォールド状態からの巻き戻し実験で観測される中間体の構造が一致することも知られている。したがって、(1)前述の熱変性実験で観測されたより天然条件に近いモルテン・グロビュール中間体が、塩酸グアニジンを用いた平衡条件下でのアンフォールド実験においても観測されるかどうか、また、(2)もし観測されるのならば、巻き戻し実験で観測されるであろう中間体と構造の面でどのような関係があるのかを調べることは、非常に興味深いことである。そこで、イヌ・ミルク・リゾチームを大腸菌から発現、巻き戻し、精製を行って、その平衡論的、および速度論的解析を円二色性(CD)およびトリプトファン残基の側鎖の蛍光をプローブとして行った。

まず、イヌ・ミルク・リゾチームの平衡条件における構造の様子を調べた。CDスペクトルの結果から、このリゾチームは変性剤非存在下で二次構造や芳香族側差のパッキングが存在し、十分変性剤濃度が高くなると、それらの構造は失われることがわかった。また、トリプトファン残基の蛍光スペクトルを調べると、変性剤濃度を上げていくに従って、(1)蛍光強度が減少する、(2)蛍光強度最大の波長の値が増大し、同時に蛍光強度も増える、という2段階の変化を示すことがわかった。そこで、222nm、295nmのCD、370nm以上の蛍光強度、350nm付近の蛍光強度の4つをプローブとして、平衡条件下におけるイヌ・ミルク・リゾチームのアンフォールディング転移曲線を測定した。その結果、222nmのCD、370nm以上の蛍光強度では、見た目上一つの転移しか観測されなかったが、295nmのCDおよび350nm付近の蛍光強度では、明らかに二つの転移が存在することがわかった。得られた4つの転移曲線を解析するために、3状態モデルを仮定して解析を行い、平衡条件下での変性状態に対する天然状態、中間体の自由エネルギー変化を見積もることが出来た。結果、イヌ・ミルク・リゾチームの中間体は、同じ溶液条件で測定したウマリゾチーム(カルシウム結合型)やウシのαラクトアルブミンと比較して、非常に安定であることが明らかになった。

次に、イヌ・ミルク・リゾチームのフォールディング反応を、222nmのCDと350nm付近の蛍光強度をプローブとして測定した。反応はストップドフロー装置を用いて、塩酸グアニジン濃度を7Mから0.61Mにジャンプさせて反応を開始させた。結果、装置の不感時間内に形成されるバーストフェーズ中間体とは別にCD値のオーバーシュートを生じさせる別の中間体の存在することがわかった。これは、バーストフェーズ中間体のみしか観測されないウマリゾチームやαラクトアルブミンでは見られなかった現象である。それぞれの反応曲線における各相の強度の割合を比較してみると、CDで全変化のおよそ10%の強度でオーバーシュートを生じさせる相においては、蛍光強度の変化が1%未満であることがわかった。従って、この相においては二次構造の再構成が行われていることが示唆される。

観測された二つの中間体をより特徴づけるために、フォールディング反応を、CDをプローブとして215nmから240nmまで10個の波長で測定を行った。得られた10個の反応曲線を同時に解析することにより、反応の二つの速度定数k1=21.8±1.5(s-1)、k2=0.531±0.011(s-1)と、バーストフェーズ中間体およびその後に形成される中間体のCDスペクトルを得ることが出来た。平衡条件における中間体の真のCDスペクトルを、天然状態、中間体がもっとも蓄積する濃度(3.85M)、および変性状態のスペクトル、さらに各状態の割合から計算してみると、その形はバーストフェーズ中間体のスペクトルと類似性が高いことがわかった。さらにその結果を確認するために、変性状態から平衡条件での中間体に巻き戻る反応を測定した。すると、装置の不感時間内にシグナルの変化が完了していた。以上から平衡条件での中間体は、巻き戻りの速度過程におけるバーストフェーズ中間体と同一であることがわかった。

得られた速度過程における各中間体のスペクトルから、バーストフェーズ中間体から速度過程での中間体への相、および速度過程での中間体から天然状態への相のそれぞれにおける差スペクトルを得ることが出来た。前者の相においては、二次構造成分の増加とチロシン残基やトリプトファン残基の側差の周りの環境が非対称になっていく過程であることがわかった。一方後者の相の差スペクトルを見ると、225nmと227.5nmの中間を境に強度の符号が入れ替わるスペクトルが得られた。これは芳香族側差が接近することによって生じるエキシトンカップリングが起こっていることが示唆される。X線結晶構造解析で得られたイヌ・ミルク・リゾチームの構造を見てみると、28番と108番のトリプトファン残基の側鎖、および、63番と64番のトリプトファン残基の側差が互いに接近していることがわかる。以上のことから、速度過程での中間体から天然状態への相は、これらのトリプトファン残基のパッキングが起こっていると推測される。

審査要旨 要旨を表示する

この論文では、イヌ・ミルク・リゾチームについて、(1)円二色性(CD)とトリプトファン残基の側鎖の蛍光をプローブとした、平衡条件下におけるアンフォールディング転移と、巻き戻りの速度過程の測定、(2)CDを用いた、巻き戻りの過程において観測される中間体の構造の特定とフォールディング過程の解析、について二章に分けて述べられている。

蛋白質のフォールディングはDNAからの転写、翻訳を経て得られたアミノ酸の一次配列が生体内で「蛋白質」としての機能を持つ天然の特異的な三次元立体構造に変換される物理化学的過程であり、遺伝情報発現の最終段階と考えることができる。

平衡条件下における変性剤によるアンフォールディング転移が様々な蛋白質で測定された結果、主鎖二次構造が天然構造類似で分子形態はコンパクト、さらに分子内部の側鎖のタイトなパッキングが失われているという共通特徴を持つ中間体が観測された。この中間体のことは「モルテン・グロビュール状態」と呼ばれるようになった。さらに、このモルテン・グロビュール状態が、様々な蛋白質における巻き戻りの速度過程の初期に蓄積する中間体であることが、実験の結果から示唆されている。

イヌ・ミルク・リゾチームの平衡条件における熱変性実験の結果から、このリゾチームは熱変性の過程において、構造が類似している他のリゾチームやαラクトアルブミンと比較して、より安定でかつより天然構造類似なモルテン・グロビュール中間体を形成することが知られている。一方、他のリゾチームやαラクトアルブミンについて、変性剤である塩酸グアニジンを用いた平衡状況下でのアンフォールド実験で観測されるモルテン・グロビュール中間体の構造と、アンフォールド状態からの巻き戻し実験で観測される中間体の構造が一致することも知られている。

このような現状から本論文では、(1)熱変性実験で観測されたより天然条件に近いモルテン・グロビュール中間体が、塩酸グアニジンを用いた平衡条件下でのアンフォールド実験においても観測されるかどうか、また、(2)もし観測されるのならば、巻き戻し実験で観測されるであろう中間体と構造の面でどのような関係があるのかという問題に対する研究を行っている。

第一の問題に対して、222nm、295nmのCD、370nm以上の蛍光強度、350nm付近の蛍光強度の4つをプローブとして、平衡条件下におけるイヌ・ミルク・リゾチームのアンフォールディング転移曲線を測定した。その結果、明らかに二段階の転移が存在することがわかった。得られた4つの転移曲線を解析するために、三状態モデルを仮定して、平衡条件下での変性状態に対する天然状態、中間体の自由エネルギー変化を見積もることが出来た。結果、イヌ・ミルク・リゾチームの中間体は、同じ溶液条件で測定したウマリゾチームやウシのαラクトアルブミンと比較して、非常に安定であることが明らかになった。

第二の問題に対して、イヌ・ミルク・リゾチームのフォールディング反応を測定した。結果、装置の不感時間内に形成されるバーストフェーズ中間体とは別に222nmのCD値にオーバーシュートを生じさせる別の中間体の存在することがわかった。これは、バーストフェーズ中間体のみしか観測されないウマリゾチームやαラクトアルブミンでは見られなかった現象である。観測された二つの中間体をより特徴づけるために、フォールディング反応を、CDをプローブとして10個の波長で測定を行った。結果、平衡条件における中間体の構造は、巻き戻りの速度過程におけるバーストフェーズ中間体と類似していることがわかった。さらに、得られた速度過程における各中間体のスペクトルから、バーストフェーズ中間体から速度過程における中間体への相、および速度過程における中間体から天然状態への相のそれぞれにおける差スペクトルを得ることが出来た。前者の相においては、二次構造成分の再構成とチロシン残基やトリプトファン側鎖の周りの環境が非対称になっていく過程であることがわかった。一方後者の相では、エキシトンカップリング時に見られるスペクトルが得られた。この事から、この相においてトリプトファン側鎖のパッキングが起こっていると推測される。

本論文では、イヌ・ミルク・リゾチームが非常に安定な平衡論的中間体を形成し、さらに、巻き戻りにおいてバーストフェーズ中間体以外の速度論的中間体を経ることを世界で初めて測定した。同じ構造ファミリー内でこのような現象は今まで観測されなかったため、本論文の結果が一般のフォールディング機構の解明に大きく寄与するものである。

この論文の第三章は、新井宗仁博士、小柴琢己博士、新田勝利教授、桑島邦博教授との共同研究、第四章は、槇亙介博士、新井宗仁博士、小柴琢己博士、新田勝利教授、桑島邦博教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったもので、提出者の寄与が十分であると認められる。従って審査員一同は同提出者に博士(理学)の学位を授与出来ると判断する。

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