学位論文要旨



No 118818
著者(漢字) 船越,亮
著者(英字)
著者(カナ) フナコシ,リョウ
標題(和) 冷たい反水素研究への陽電子プラズマ制御法の適用
標題(洋) Positron Plasma Control Techniques Applied to Studies of Cold Antihydrogen
報告番号 118818
報告番号 甲18818
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4471号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 教授 柳田,勉
 東京大学 教授 下浦,享
 東京大学 助教授 川本,辰男
 東京大学 講師 上坂,友洋
内容要旨 要旨を表示する

2002年度、スイス・ジュネーブのCERN研究所において低エネルギー反水素原子の大量生成の成功事例がATHNEA、ATRAPの実験グループによって初めて報告された。本論文ではATHENA実験による冷たい反水素に生成法と、また実際の反水素原子を使った実験として陽電子プラズマ制御法を適用した生成プロセスの研究について述べる。

我々の世界を構成する「物質」と対になる「反物質」は1920年代にディラックによって予言され、1932年アンダーソンが宇宙線の中から陽電子を発見したことにより初めてその存在が実証された。以降、反物質の研究は加速器を使った高エネルギー実験分野を始めとして様々な分野において進められている。電荷の符号反転 (C)、空間反転 (P)、時間反転 (T)を同時に施した後に物理法則が変化しないというCPT定理は物理学の基本法則のひとつであるが、この法則はその帰結として物質と反物質の質量や寿命が等しいことを予言している。従って反物質の性質を調べることはその特性を知るだけでなく物質と反物質の相違からCPT対称性を直接精度よく検証することへとつながり物理学の非常に大切な部分への力強いプローブとして期待できる。通常の場の理論ではC、P、Tの同時反転のもとで対称性に破れはないとされているが、個別には1957年にP(とC)の破れが、1964年にはCPの破れが発見されている。測定精度に着目するとPがCPでその破れが見つかっている一方でCPTについては現在まで(直接検証では)9桁の精度でしか調べられていない。最も簡単な反原子である反水素は陽電子と反陽子の束縛状態であるためそのエネルギー準位をレーザーによって分光することが可能であり、実際水素原子の1s-2s準位の分光実験では現在までのところこの2準位間が14桁の精度で測定されている。同様の手法を反水素にも適応・測定しそれらを比較することによって現時点よりずっと精度のよいCPT検証を行うことが期待できるため、実験室における(低エネルギー)反水素原子の大量生成が望まれてきた。我々ATHENA実験も将来の反水素原子を用いたレーザー分光を視野にいれており、反水素生成はその第一段階である。

我々は陽電子と反陽子を大量に用意しそれらを長時間混ぜ合わせることによって反水素を作る。電荷を持つこれらの粒子の閉じ込めには円筒状の電極を複数並べたペニングトラップと呼ばれる実験装置を使う。円筒の軸方向の運動を電場によって動径方向の運動を磁場により閉じ込め、各反粒子を大量に用意した後に両者を同一トラップ内にて混合する。この間に生成された反水素は電荷的に中性であるため電磁場による束縛から近くの実験装置に衝突し消滅するが、この消滅信号を検出器によって検出することにより反水素生成を決定する。実験はスイス・ジュネーブのCERN研究所の反陽子減速器(AD)にて、その稼動が始まった1999年度から毎年5月から10月のビームタイムを主にして行なった。ATHENAの実験装置の概略図を図1aに示す。ADからは50GeVの低速反陽子2×107個からなるビームが90秒毎に供給される。これを実験装置入り口のアルミニウムの減速材によってkeVのエネルギー領域まで減速した後、反陽子捕獲用のペニングトラップで捕まえる。こうして捕まえた反陽子を低温の電子と混ぜ合わせクーロン相互作用により反陽子の熱を奪う電子冷却法と呼ばれる手法で冷却する。電子は一旦加熱するが3Tの磁場によるサイクロトロン運動の熱輻射によりすぐに環境温度まで自発的に冷えるため冷却材として有用で、これにより反陽子も最終的に熱平衡である環境温度まで冷えることになる。我々はこの手法で104個の反陽子を用意している。一方陽電子は放射線源(22Na)からの供給される。これを窒素を冷却材とした窒素バッファガス式の蓄積装置を使って300秒で2×108個用意する。両者を冷却、蓄積後反水素生成用の混合トラップへ移行し混ぜ合わせる。このとき電荷符号の異なる陽電子・反陽子が同一空間で混ざるよう電場ポテンシャルは図1bのような形をしている。実験条件は、真空度10-11mbar以下、トラップの温度15K、反陽子の粒子数104、陽電子の粒子数7×107、陽電子雲の形状:半径2.2mm、直径3.3cm、1回の混合時間190sec、である。陽電子はトラップ内ではプラズマ状態であることを利用した非破壊測定法により各パラメータをリアルタイムにモニターすることができる。この一連の流れを1サイクルとして190秒の混合の間に反水素検出用の検出器によって反水素の生成信号を探す。また比較実験として陽電子のない状態での混合、反水素生成が起こらない温度まで陽電子雲を加熱した状態での混合と2つのことなる測定をした。反水素原子の検出法であるが、検出器自体はシリコン検出器(2層)とCsI結晶(1層)の2構成から成り混合領域の立体角の80%を覆っている。シリコンは1mmの精度の位置分解能を持ち、CsI結晶は1cm角のものが1例12個として、16列混合領域の周りに配置されている。仮に反水素が消滅した場合、反陽子の対消滅による複数の荷電粒子(主にパイ粒子)と陽電子の対消滅による互いに反対方向を向いた2本の511keVのガンマ線が同時に発生する。我々はシリコンによって同じ時間窓で3個以上の荷電粒子が検出された場合その軌跡を追い、反水素消滅における反陽子の対消滅の候補となる位置を選定する。次に同じ時間窓で反応したCsI結晶のうち任意の2個から先ほどの点に対し線を引く。反水素消滅イベントである場合この開き角は180度でなければならない。我々はこの開き角の測定によって反水素生成イベントを選別する。開き角の測定結果を図2に示す。図2aで通常の陽電子と反陽子を混ぜ合わせた際には開き角180度のところにピークがみられるのに対し、陽電子なしと加熱陽電子での測定では反水素生成の信号がみられないことがわかる。以上のデータに検出器の検出効率を考慮すると我々は50,000個以上の冷たい反水素の生成に成功したと見積もられ、この結果を持って2002年度に世界で初めて冷たい反水素の大量生成に成功したことを発表した。その後も実験は引き続き行われており将来のレーザー分光を視野に入れつつ、反水素生成の詳細なメカニズムなどに対する研究が進められている。

その一つとして陽電子プラズマ制御法を適用した生成プロセス解明のための実験について述べる。反水素の生成過程としては、陽電子が反陽子に捕獲され光子によって過剰なエネルギーが持ち去られる輻射過程と、二つの陽電子が生成反応に寄与しそのうちの一つが反陽子に捕獲された際にもう一方の陽電子が過剰エネルギーを持ち去る三体過程の二つの生成過程が考えられる(図3)。これらの生成過程は、陽電子の密度に対してことなる依存性を示す。輻射過程の生成率は密度nに比例し、三体過程の場合n2に比例する。この予想を調べるためにプラズマ制御法を用いて陽電子の形状(密度)を変えてやり、反水素生成への影響を観測する。

従来のトラップ実験では装置内の様子を詳細に知ることが困難なため、閉じ込め粒子の精密制御はあまり試みられてこなかった。また、閉じ込め粒子の径方向の運動を加熱(減速)し雲を圧縮(膨張)することにより密度を制御する回転電場と呼ばれる手法には一般的に100秒程度の時間を要する。我々は陽電子の振る舞いを非破壊的に観測できるプラズマ振動観測装置の助けを借りて回転電場のパラメータの最適化を行なうことによって、より短い付加時間での回転電場による陽電子の精密な制御に成功した。反水素生成サイクルにおいて陽電子を陽電子蓄積装置から混合用トラップ内に転送した後、反陽子を撃ち込む前に回転電場の付加時間(26秒)を挿入してやり、この短時間での回転電場により圧縮陽電子(密度8×109cm-3)、電場なし陽電子(7×108cm-3)、膨張陽電子(1.5×108cm-3)の異なる三つの形状の陽電子を混合用に準備して、これらを反陽子と混ぜ合わせた際の反陽子消滅信号の変化をシリコン検出器でみてやった。この結果が図3である。図3aでは混ぜ合わせ開始の最初の20秒、図3bは最初の2秒のタイムスペクトルが示されている。陽電子の形状を変えると信号間に明らかな差異がみられる。電場なし陽電子の場合混ぜ合わせ直後に現れるプロンプトピークと、その後のなだらかな傾斜との二つの部分からなる。圧縮陽電子においては混ぜ合わせた直後に現れるプロンプトピークが電場なし陽電子に比べ二倍程度高くなっており、一方膨張陽電子ではこのプロンプトピークが消失しているかわりにスロウテイル部分が全体的に増加している。また混ぜ合わせ直後の反陽子のエネルギーを破壊的な手法で観測することによって各々の陽電子の冷却効率を測定すると、膨張、電場なし、圧縮陽電子の順であることが分かる。密度が小さくとも径の大きな陽電子の方が冷却効率がよく、閉じ込め装置内での反陽子・陽電子の混ぜ合わさりやすさによって説明できる。にもかかわらず、反水素生成の面では上記の観測結果において膨張陽電子で生成個数の大きな向上は見られない。これは陽電子を膨張し密度を小さくしたことにより三体過程が抑制され輻射過程のみが残ったからと考えられる。逆に圧縮陽電子では三体過程が主過程となり輻射過程は抑制されていると考えられる。そのため高密度になる程その高さが増加し膨張陽電子では消失したプロンプトピークは三体過程によるものと考えられ、低密度で増加したなだらかな傾斜は輻射過程によるものと推察される。

以上の観測結果は反水素生成過程への解明へ向けての研究への足がかりになるものであり、近い将来のより詳細な研究へと続くものである。またこれらによって得られる知識はレーザー分光実験を計画する際も重要な役割を果たすと期待できる。

a実験装置概略図。閉じ込め装置と検出器の位置の相関関係。b反水素生成のため反粒子を混合する際の電場ポテンシャル。

ガンマ線の開き角の測定結果。a反陽子と通常の陽電子、加熱した陽電子各々とを混合した際の結果。b反陽子のみと検出器のエネルギー測定領域をずらした際の各々の結果。

反陽子を異なる形状の陽電子をと混ぜ合わせた際の各々の消滅信号。混ぜ合わせa最初の20秒。b最初の2秒。

審査要旨 要旨を表示する

CERNにおいて1999年に稼動開始した反陽子減速器AD (Antiproton Decelerator) ではATHENA, ATRAP, ASACUSAの3つの国際共同実験が行われている。そのうち、ATHENA, ATRAPの2グループはトラップ内で反水素原子を多量に生成し、精密分光することにより物理学の基本対称性のひとつであるCPT対称性の精密検証を目指しており、2002年にはまずATHENAが、次いでATRAPが大量の反水素生成に成功した。

論文提出者は、ATHENAグループに属し、反水素生成実験に貢献するとともに、将来の反水素レーザー分光に必要な基底状態の反水素生成率を高めるため、反陽子と衝突させる陽電子プラズマの形状・密度等の諸元を効率よく制御する手法の開発において中心的な役割を果たした。

本論文は、5章から成り、第1章には序論、第2章にはATHENA実験の概要、第3章には低速反水素原子の生成、第4章には学位申請者が主要な寄与をしたプラズマ制御技術を用いた実験、第5章にはまとめが述べられている。

ATHENA共同実験では、反陽子と陽電子をそれぞれ電磁トラップに捕捉/蓄積し、別のトラップ内で両者を混合する。ADにより周期85秒のパルスとして供給される〜107個の5.3MeV反陽子をAl減速板でkeV程度に減速して、強磁場と静電場を用いたトラップで104個程度を捕捉し、3Tの磁場中でシンクロトロン放射により環境温度である15Kに冷えた電子プラズマによって冷却した。一方、1.4GBqの22Na線源からの陽電子をN2ガスバッファー法により300秒で108個をトラップ中に蓄積した。これらを電位が山-谷-山をなす入れ子トラップ中で混ぜ合わせる。すなわち、中央の谷の部分に108個の陽電子を置き、104個の反陽子を2つの山の間を往復させ、途中の陽電子と衝突させた。

反水素原子が生成されると、電磁トラップから脱し、まわりの電極に衝突して消滅する。このとき、反陽子と核子との対消滅では数個の荷電および中性パイ粒子が放出され、陽電子と電子の対消滅では、2つの511keVのガンマ線が逆向きに放出される。ATHENAの検出系は巧緻で、入れ子トラップのまわりを複数粒子の2次元位置を検出する2重のSi検出器と、ガンマ線を検出するCsI結晶12(軸方向)×16(方位角方向)=192個が取り囲んでいる。2重のSi検出器の位置情報からパイ粒子の軌道が定まり、複数のパイ粒子軌道の交点として反陽子消滅位置が求められる。この位置と2つの511keVガンマ線の検出位置がなす角の分布は、180°に鋭いピークを持ち、陽電子も反陽子と同じ位置で消滅したこと、すなわち、反水素が消滅した(生成されていた)ことが確認された。

反水素原子の生成過程としては、余った結合エネルギーを光放出で捨てる放射性再結合過程と第3の粒子(ここでは陽電子)が持ち去る3体衝突過程が考えられるが、その反応率は、n, Tを陽電子の密度、温度として、それぞれ、nT-1/2, n2T-9/2に比例する。また、これらの過程で生成される反水素の主量子数分布は、放射性過程では10程度以下が主で、3体過程では Rydberg 状態が主となる。次のステップである反水素原子のレーザー精密分光では基底状態の反水素原子が対象であり、効率よくこれを生成することが必要である。

論文提出者は電磁トラップ中の非中性プラズマに軸のまわりに回転する電場を加えることによってプラズマを制御(圧縮・膨張)できることに注目し、これを、陽電子プラズマに適用し、2つの反水素生成過程の密度依存性の違いを利用して、それらの寄与比率を制御する可能性を追及した。この手続きを一連の反水素生成サイクルに収めるため、これまでは100秒程度を要していた制御時間を条件の最適化により26秒にまで短縮した。さらに、この手法により用意された8×109, 7×108,1.5×108cm-3の3種類の密度の陽電子プラズマでの反水素生成の時間スペクトルに生成機構の寄与の違いを反映したと考えられる差異を見出した。これは、生成される反水素原子の励起状態分布を制御する技術開発の手掛かりを得たものであり反水素のレーザー精密分光実現への重要なステップと考えられる。

本論文はATHENA共同実験という多人数の共同研究の成果であるが、論文提出者は世界初の冷反水素生成実験全般に貢献するとともに、第4章に詳述されている陽電子プラズマを効率よく制御する手法の開発とその実地への適用において中心的な役割を果たした。よって、論文提出者の寄与は十分であると判断する。

したがって、本審査委員会は博士(理学)の学位を授与できると認める。

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