No | 118820 | |
著者(漢字) | 松井,朋裕 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | マツイ,トモヒロ | |
標題(和) | 超低温走査トンネル顕微鏡の開発とグラファイトの磁場中電子状態の研究 | |
標題(洋) | Development of an Ultra-low Temperature Scanning Tunneling Microscope and Studies of the Electronic States of Graphite in Magnetic Fields | |
報告番号 | 118820 | |
報告番号 | 甲18820 | |
学位授与日 | 2004.03.25 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第4473号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 物理学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 近年、低温、高磁場、超高真空という複合環境下での走査プローブ法の重要性が注目され、基礎的な物性研究からナノテクノロジーへの応用研究まで様々な分野で興味深い成果が報告され始めている。特に超低温、高磁場環境下では重い電子系や有機導体に見られる異方的超伝導、ナノ構造におけるメソスコピック系の物性、2次元電子系における量子ホール効果などに対して、そのメカニズムに迫る研究が期待される。 本論文の前半では、幅広い分野で新しい研究手段となる超低温走査トンネル顕微鏡(ULT-STM)の設計と製作について述べる。ULT-STMは、55mKに至る超低温、6Tの高磁場、そして10-8 Pa以下の超高真空という多重極限環境下で原子分解能をもって動作するSTMである。この装置では超高真空に保たれた実験空間が冷凍機の断熱真空から隔絶されているので、室温の超高真空チャンバーと組み合わせることで、試料作成からSTM観測まで全ての工程を超高真空環境下で進めることができる。これまで開発されたmK温度域で作動するULT-STM[1,2]はこうした機能をもたないため、大気中でも汚染されにくい表面をもつ物質や、ヘキ開性のある物質に研究対象が限られていた。本装置はこうした制約を取り払い、ほとんど全ての導電性物質について、多重極限環境下でのSTM実験が可能となった。本装置では、試料だけでなく探針の交換も極低温、超高真空環境を破ることなく、しかも迅速に行うことができるという大きな特色を持つ。交換の際には超高真空チャンバーに備え付けたフロー・クライオスタットによって試料や探針を約7Kまで予冷し、2K以下に冷却されているSTMヘッドへ輸送する。テスト実験においても、STMヘッドの温度を10K以下に保ったまま、予冷開始から試料/探針を交換し、再びmK温度域に冷却するまで4時間以内で行えることが確認された。テスト実験ではさらに、グラファイト表面の3角格子構造、2H-NbSe2の原子像と電荷密度波による超格子構造の明瞭なSTM像を得ることに成功した。 本装置を用いた最初の本格的な実験として、グラファイト表面の磁場中電子物性の測定を行った。フェルミ面をもつ伝導物質に磁場を印加すると、電子の磁場に垂直な方向の運動エネルギーはεn=(n+1/2)hωc(ωcはサイクロトロン周波数)とランダウ量子化される。磁気抵抗における Shubnikov-de Haas 振動や帯磁率における de Haas-van Alphene 振動は、磁場挿引の過程でランダウ準位に伴う状態密度のピークがフェルミ面を横切ることによって生ずる現象である。2次元電子系の場合、状態密度は完全に離散的になり、強磁場下では量子ホール効果という特異な量子現象が観測される。一般に半導体ヘテロ構造に形成される2次元電子面は表面より10〜20nm深いところに存在するのでSTM実験には向かない。また、キャリア注入のために多くの不純物を含んでいるので、静電ポテンシャルの空間分布も複雑である。これに対して、グラファイトはバルク物質であるが、擬2次元電子系が最表面に形成されており、STM実験が容易である。また数μmに渡ってほとんど欠陥のない原子レベルで平坦な清浄表面が容易に得られるので、非常に「きれいな」擬2次元電子系と言える。さらに、面内キャリア(電子とホール)の有効質量が小さく、キャリア密度も低いため、比較的低い磁場下でランダウ量子化に伴う電子物性の変化を調べることができるのもメリットのひとつである。 本論文の後半では、このグラファイト表面に形成されるランダウ準位のSTS観測の結果を示し、理論との比較について議論する。ランダウ準位のSTS観測として本研究以前には、探針によってn-InAs(110)表面に作られた量子ドット[3]や、同じ表面上に鉄原子をサブモノレイヤー蒸着して得られた2次元電子系[4]について実験がなされたのみである。本研究はバルク物質のランダウ準位構造の全体像を観測した最初の実験例である。 測定はKishグラファイトとHOPG(Highly Oriented Pyrolytic Graphife)の2種類のグラファイト試料について行った。前者は溶融鉄から析出成長した単結晶グラファイトであり、100程度の面間/面内電気抵抗比をもつ。一方、後者はc軸方向に高い配向性をもつ多結晶人工グラファイトで、面間/面内電気抵抗比は103〜104と、Kishグラファイトよりも強い異方性をもつ。図1にそれぞれのグラファイト試料で測定したトンネル分光スペクトルの磁場変化を示す。縦軸は微分トンネルコンダクタンスで、試料表面の状態密度に比例する。いずれのデータも磁場によって誘起される複雑かつ特徴的なピーク構造をもつことが分かる。Kishグラファイトの場合、+20mV付近に大きなピークをもつものの、HOPGと比べて全体的に構造が単純で、ピーク間隔も広い。HOPGのトンネル分光スペクトルにあらわれる特徴的なピークのいくつかのエネルギー値を磁場に対してプロットしたものが図2である。図中点線で示したように、高エネルギー側のピークは磁場と共にほぼ線形にフェルミ準位から離れてゆく。また、各ピークのB=6Tのときのエネルギー間隔は、電子とホールの面内有効質量(me=0,057m、mh=0.039m:mは自由電子の質量)から計算されるサイクロトロン・エネルギーhωc=12meV、18meVと同程度である。したがって、これらがランダウ量子化に伴う状態密度のピークであることは間違いない。しかし最も注目すべき点は、+10mV付近に磁場にほとんど依存しないピークが存在することである。これは単純な2次元電子系には見られない、グラファイトに固有の量子数n=0,-1で規定されるランダウ準位である。すなわち、グラファイトにはフェルミ面を横切って縮退した、フラットに近い2枚のバンドがあり、それらは強いバンド間相互作用のために磁場の影響をほとんど受けないことが理論的に予想されている。本研究はこの準位の存在をはじめて明確に示したものである。この準位に関してはこれまで、磁気光反射実験で準位間の遷移エネルギーを通して間接的な知見が得られていたのみであった[5]。Kishグラファイトのトンネル分光スペクトルに見られるピーク構造の磁場変化も定性的にはHOPGで得られたものと同様である。なお、これらのピーク構造の原子サイト依存性と試料-探針間距離依存性について詳細に調べたが、明らかな依存性は確認されなかった。 続いて本実験で得られたグラファイト表面のランダウ準位に起因する状態密度のピーク構造を Tagami-Tsukada によるグラファイト各層における局所状態密度(LDOS)の計算[6]と比較した。理論計算は、バルクのグラファイト、表面をもつ半無限に連なるグラファイト、そして有限の厚さをもったグラファイトという3種類のモデルに対して行われている。図3は本研究の実験結果と彼らの計算結果を比較したものである。Kishグラファイトの実験結果は半無限グラファイトの最表面に対する計算結果と、HOPGの方は40層の厚さをもつグラファイトの最表面に対する計算結果と、定量的にもそれぞれよく一致している。これはKishグラファイトの方がより弱い異方性をもつという輸送現象の測定結果とも符合している。一方、HOPGでは有限厚さ効果によりグラファイト・シート間の波動関数の干渉が複雑になるので、半無限系のKishグラファイトに比べて数多くのピークが観測されたものと思われる。 ランダウ準位の測定は不純物や欠陥を含まない純粋な擬2次元表面で行ったため、サイクロトロン運動の中心座標は空間的に縮退していた。しかし不純物の周囲では不純物のつくるポテンシャルに束縛され、状態密度は特徴的な空間分布を示すようになる。本論文では2つの並んだ不純物周辺の磁場中状態密度分布の測定電圧依存性について、予備的な実験結果を示す。n=0,-1準位のエネルギーに相当する電圧では、不純物近傍に状態密度が集中していたのに対し、測定電圧を大きくすると状態密度は不純物を囲むような円環状の分布を示した。この円環の半径が電圧と共に大きくなる様子も観測された。 本論文の最後には、ULT-STMを用いて行った他の実験例として、2次元吸着固体に関する研究結果を示した。グラファイト表面に希ガス原子をサブモノレイヤー物理吸着させることで、理想的な2次元固体を作ることができる。本研究ではクリプトン(Kr)とキセノン(Xe)の2次元固体について状態密度とSTM像の測定を行った。その結果、Kr、Xeのいずれの場合も、単原子層膜に対しては、それぞれの不整合2次元固体の原子像観測に成功した。このとき、表面の状態密度にはフェルミ準位付近におよそ0.5Vという大きな幅のエネルギー・ギャップが形成され、ギャップの外側の±1V前後では逆に状態密度が増大することが分かった。希ガス原子の吸着によって生じたこれらの変化は、基盤グラファイトの変形によるエネルギー・ギャップの形成と、吸着子の空のエネルギー準位を介した、探針と基盤との間の2重共鳴トンネルによる状態密度の増加として定性的に理解することができる。この種の吸着系の研究は超高真空チャンバー内で試料作成する必要があるので、希釈冷凍機の断熱真空と実験空間が隔絶されている、本ULT-STMならではの研究テーマといえる。 超低温・高磁場下で測定したKishグラファイト(a)とHOPG(b)表面のトンネル・スペクトル (I=0.24nA、、V=+200mV)。探針はPtlr。各磁場で得られた微分トンネルコンダクタンスをO.5nA/Vずつオフセットをかけて表示してある。(a)2×2nm2, Vmod=0.6mV,f=876.7Hz。(b)90×42nm2, Vmod=1.4mV, f=131.4Hz。 図1(a)で示したピークエネルギーの磁場変化。 (a)Kishグラファイトのトンネル・スペクトルデータ (I=0.10nA、V=20mV、Vmod=0.32mV) と半無限グラファイトに対して計算された状態密度[6]。計算では+17meVの表面ポテンシャルを仮定している。(b)HOPGのトンネル・スペクトルデータ (I=0.24nA、V=200mV、Vmod=0.32mV) と40層の有限厚さをもつグラファイトに対して計算された状態密度[6]。計算では-5meVの表面ポテンシャルを仮定している。 | |
審査要旨 | 本論文は、物性研究における超低温、高磁場等の多重極限環境下での走査プローブの重要性に着目し、多重極限環境下で原子分解能をもって動作する走査トンネル顕微鏡 (STM) の設計・開発、それをグラファイトに適用し磁場中の電子状態を明らかにしたものである。 本論文は7章からなり、第1章は、近年の物性物理学及びそのナノテクノロジー応用における多重極限環境下で動作するSTM装置開発の重要性が述べられている。 第2章は超低温STMの設計と製作で、STMの概念から始まり、超低温、高磁場下でのSTM装置、測定システムの基本構造、続いてそのような環境下で原子分解能を安定して得るための設計が詳細に述べられている。STM装置を用いた実験の成否を決定するのは探針の先鋭度であり、それを実現するための方法を記述したのが第3章である。これらの結果、55ミリケルビンの超低温、6テスラの高磁場下で充分な空間分解能を持って動作するSTM装置の開発に成功した。 第4章は、開発したSTM装置を用いた物性研究の対象となったグラファイトについて、これまでの研究から得られている知見、そしてSTM測定の目的が述べられている。 第5章は、グラファイト表面の磁場中電子状態に関するSTM測定結果と、その結果に対する解析と考察である。伝導性を持ったグラファイト中の電子及び正孔の運動は磁場下で量子化され、ランダウ準位を形成する。本研究は磁場下での電子の運動の量子化をSTM観測した世界で3番目の実験例となっている。同時に、本研究で開発したSTM装置が超低温、高磁場下で充分な動作をしていると言う証明にもなっている。 ランダウ準位の間隔は磁場の強さとともに増大するが、本研究は、そのような振舞を示す多数のランダウ準位をトンネルスペクトル(STS)で観測している。グラファイトに特有であり、よく知られているグラファイトの大きな反磁性の原因となっているのは、磁場が変化しても、フェルミ準位からの位置が殆ど変化しないランダウ準位の存在である。その存在は理論的に予測されていたものであるが、本研究はその存在をはじめてSTMプローブで示したものである。更に、これらのランダウ準位が試料の表面状態によりどのような変化を受けるかを田上-塚田の理論計算と対比させる事で明らかにしている。 第6章は、グラファイト表面の不純物観測である。不純物は結晶の周期性を乱すものとして電子状態に影響を与えるとともに、STM装置の真の空間分解能のテストにもなる。磁場下では電子のサイクロトロン運動と不純物のつくるポテンシャルとの相互作用により、不純物近傍に多様な電子状態密度の変調構造をつくると予想されている。本研究は、未だ予備的段階ながら、グラファイト表面の不純物像の観測に成功している。この結果は、立ち上げたSTM装置が充分な原子スケールの分解能をもち、超低温、高磁場下で動作していることを証明している。 第7章は、超低温STM装置を用いて行ったもう1つの実験例として、グラファイト表面に吸着したクリプトン (Kr)、キセノン (Xe) 希ガス原子がつくる2次元固体の原子像観測について述べたものである。Krの場合は基盤のグラファイトとの不整合2次元固体、Xeの場合は整合固体の形成の観測に成功している。本装置が物性研究に広範な適用性をもっていることを示している。 最後の第8章は、本研究の結論と今後の展望であり、本研究で設計・製作された超低温、高磁場STM装置が充分な動作を示し、様々な物性研究に適用可能な事が述べられている。 なお、本論文の第2章、第3章は福山寛、神原浩、宍戸大哲、上田到、宮武優との共同研究、第5章は福山寛、神原浩、田上勝規、塚田捷との共同研究であるが、論文提出者が主体となって装置開発、実験、解析を行ったもので論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 | |
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