No | 118827 | |
著者(漢字) | 山口,英斉 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ヤマグチ,ヒデトシ | |
標題(和) | 反陽子ヘリウム原子のレーザー分光 : エネルギー準位と準位寿命 | |
標題(洋) | Laser spectroscopy of the antiprotonic helium atom : its energy levels and state lifetimes | |
報告番号 | 118827 | |
報告番号 | 甲18827 | |
学位授与日 | 2004.03.25 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第4480号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 物理学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 反陽子ヘリウム原子は、反陽子、電子、ヘリウム原子核の三粒子から成るエキゾティック原子である。KEKにおける1991年の発見以来、主に欧州合同原子核研究機構(CERN)のLEAR施設におけるレーザー分光を用いた研究により、その性質は次第に明らかにされてきた。 本論文に記述された実験は、反陽子ヘリウム原子状態の最も基本的な二つの性質、すなわち準位のエネルギーと寿命を、レーザー分光の手法を用いて高精度かつ系統的に測定したものである。Korobov [1] や Kino [2] らによる近年の理論計算における進歩のため、得られた実験結果を用いて、相対論補正・QED補正の加わったクーロン三体系の計算を、過去には考えられなかった程の高精度で検証する事が可能である。また、理論は計算の際、反陽子質量の代わりとして精度良く知られている陽子の質量を使用している為、実験値と理論値の良い一致は、陽子と反陽子質量に差が無い事を意味している。CPT定理によれば、反陽子と陽子の質量・電荷の大きさは厳密に等しいはずであるが、すでに精度良く(0.1 ppb [3])知られている反陽子の比電荷と本実験結果を考慮すると、陽子-反陽子の質量・電荷がどこまで良く一致しているか、一つの上限を与える事ができる。 実験は、1996年に運用を停止したLEARに代わる、新しいCERNの反陽子減速器施設、ADにて行われた。低温に保たれたヘリウム気体 (5-6 K, 20-200 kPa) 標的中に、ADからの運動エネルギー5.8 MeV 反陽子ビームを静止させると、ごく一部の反陽子はヘリウム中の電子を一つ追い出し、準安定(寿命数マイクロ秒)な原子軌道(量子数n,lが38程度)に捕らえられる。特定の準安定準位にある反陽子を、Auger崩壊率の高い短寿命な準位へ、レーザーによって遷移させる。すると、Auger遷移により原子が電子を失った後、反陽子はStark効果によって極めて短時間内に原子核と接触し、消滅する。反陽子消滅に伴い発生する荷電パイ粒子は、チェレンコフ検出器によって測定される。図1(左)は記録された反陽子消滅の時間スペクトルであり、レーザーを照射した瞬間に多数の消滅が起こっている事を示すピークが見られる。レーザー波長を目的の遷移波長付近で変化させ、反陽子消滅(消滅ピークの面積)を測定する事により、図1(右)のような共鳴曲線が得られ、遷移波長が精密に決定できる。レーザーには、線幅600MHz、パワー密度1〜数10 MW/cm2、紫外から赤外まで広範な波長の実験が可能な、色素レーザーシステムが使われた。波長は3μm〜40mmの長さを持つ、四つのFizeau干渉計によって測定され、さらにヨウ素分子の振動・回転による吸収線等を利用し、20〜50 MHzという高い精度での絶対較正が行われた。 また、測定される遷移エネルギーは、標的の気体密度に比例したシフトを受ける事が知られている。理論で精度良く計算されている真空中での値と比較するために、二つの実験手法が取られた。一つは過去の実験でも用いられた手法であり、様々な気体密度に対し遷移エネルギーを決定し、それを密度0に外挿するというものである。もう一つは、RF四重極減速器 (RFQD) を利用した手法である。RFQDにより100keVにまで減速された反陽子ビームは、遙かに低圧(10K, 10-300Pa)の気体中に停止させられるため、シフト効果は無視できるほど小さく抑えられる。 以上の様な工夫の結果、13の遷移に対するエネルギーが50〜200 ppbの高精度で決定され(図2)、理論値とも非常に良く一致している事が確かめられた。実験と理論との比較によって、陽子-反陽子の質量、電荷の大きさの差は、であると結論付けられた。これは、過去の実験における上限、0.5 ppm [4] を遙かに上回るものであり、結果の一部は既に、Particl Data Group [5] によって、陽子-反陽子の質量、電荷の違いを調べる最高精度の実験と認められている。 寿命(=(崩壊率)-1)に関しては、15の短寿命な準位に対する測定が行われた。Auger崩壊率γAは、その準位においてAuger電子が持ち出す事のできる最小の角運動量Lによって大きく異なり、およそ次のような関係で見積もられる事が古くから知られている。 L=2の準位に見られるような、1010s-1以上の高いAuger崩壊率を持つ準位への遷移は、その自然幅のために非常に幅広い共鳴として観測される。一方、2×108s-1より低い崩壊率を持つ準位の場合、反陽子消滅の時間スペクトル(図1(左))に現れるスパイク状のピーク形状が長い裾を引くようになる。いずれの場合にも、共鳴線或いはピーク形状の変化を調べる事で、崩壊率が決定される。 測定の結果(図3)、多くの準位については式(2)や理論値から期待される値と矛盾しない値を持つが、式(2)の予測とはかけ離れた崩壊率を持つ例も幾つか発見された。我々はこれを「異常崩壊率」と呼び、その原因を考察した[7]。四例のうち三例は、Kartavtsevら [8] によって予見されていたように、通常は非常に短寿命なため考慮されなかった、電子が励起状態にあるような特殊な反陽子ヘリウム原子の影響と考えられる。また、残りの一例は、崩壊率が標的気体密度に依存する事が確かめられ、異常崩壊率は周囲のヘリウム原子との衝突による効果であると判明した。 準位の崩壊率測定により、実験と理論に対し、複素エネルギー、の実部(準位エネルギー)と虚部(崩壊幅)を同時に比較する事ができる。三つの準位に対しては、虚部も10MHz程度の精度で理論値と合っている事が検証された(図4)。近年のCCR計算では、実部と虚部の絶対精度は同程度であるとされているため、虚部に対する測定は、三体計算の検証として実部と同様に意義深く、また今後さらなる比較精度の向上に寄与すると期待される。 (左)反陽子消滅の時間スペクトル。レーザーが2回照射されている。(右)p4He+、(39, 35)→(38, 34) 遷移の共鳴曲線。消滅ピークの面積をレーザー波長に対してプロットしたもの。 遷移周波数の実験値と理論値との精密比較 [1, 2]。実験値は中央の点線上に揃えられ、理論値との相対的な差が示されている [6]。 崩壊率の実験-理論値比較。縦の太い点線は、式(2)によって見積もられる典型的なAuger崩壊率を示しており、「*A」という記号が付けられている準位は、異常崩壊率を持つ。直接決定出来ない範囲にある崩壊率は、「×」印が無く、その範囲のみ示されている。 3つの p4He+準位に対する複素エネルギーの精密比較。実験と2つの理論 [1, 2] との差がMHz単位で示されている。虚部 (imaginary part) はAuger幅(半幅)に負号が付けられたもの-1/2(γA/2π)であり、実部は(理論的不定性が小さい)準安定状態からの遷移周波数である。 | |
審査要旨 | 本論文は、全6章、及び、appendixから成っている。第1章は、申請者が属しているグループが中心となってこれまで進めてきた反陽子ヘリウム原子の実験、及び、関連の理論に関わる簡単なサーベイとなっている。第2章は、本研究の目的、第3章は、実験で用いた各要素の説明、反陽子減速器 (AD:Antiproton Decelerator)、高周波四重極減速器(RFQD: Radio Frequency Quadrupole Decelerator)などの加速器から、標的冷却系、レーザーシステム、データ収集系が、第4章は、反陽子ヘリウムの高分解能分光と、それから得られるCPT対称性の上限値について記述している。第5章は、反陽子ヘリウムの高分解能分光研究への新たな視点として、準位幅を議論している。第6章は終章であって、全体のまとめとなっている。 反陽子ヘリウム原子は、反陽子、電子、ヘリウム原子核の三粒子から成り、密度の高いヘリウムガス、或いは、液体ヘリウム中にあっても準安定性を保つ希有な反陽子原子である。本論文では、反陽子ヘリウム原子の基本的な二つの性質、すなわち準位のエネルギーと寿命(準位のエネルギー幅)を、レーザー分光の手法を用いて高精度かつ系統的に測定し、議論している。反陽子ヘリウム原子の束縛状態は、理論計算の精度が著しく向上している。そこで、精度良く知られている陽子の質量と電荷をそれぞれ反陽子の質量と電荷の大きさとして採用すると、理論的に得られる遷移エネルギーは実験結果を数十ppbの精度で再現できることが明らかとなった。この実験値と理論値の良い一致は、クーロン3体系の理論計算が信頼できると仮定することによって、陽子と反陽子の質量と電荷に関わるCPT不変性の最高精度の実験的な検証になっている。 実験は、低温に保たれたヘリウム気体 (5-6K, 20-200kPa) 標的中に、パルス化された反陽子ビームを打ち込み、多数の準安定反陽子ヘリウム原子を生成する事により進められた。反陽子ヘリウム原子をAuger崩壊率が高く寿命の短い準位へ遷移させると、直ちに反陽子ヘリウムイオンとなり、これは、周囲に存在するヘリウム原子が誘導するStark効果を介して極めて短時間内に原子核と接触し消滅する。従って、荷電パイ粒子強度をレーザー波長の関数として測定することにより、共鳴曲線が得られ、遷移波長が精密に決定できる。 ところで、測定される遷移エネルギーは、標的の気体密度に依存することが知られている。そこで、反陽子ヘリウム原子に固有の遷移エネルギーを得るため、本研究では、以前から行われていた標的密度の関数として遷移波長を求め、これを密度0に外挿する方法と、新たに導入されたRFQDからの100 keV程度にまで減速された反陽子と低密度(10K, 10-300Pa)ヘリウム標的を組み合わせる方法、の両者を採用した。その結果、13の遷移に対する遷移エネルギーを50〜200 ppbの精度で決定する事に成功し、これを理論値と比較することにより、陽子-反陽子の質量、電荷の大きさの差が、であることを結論した。これは、過去の実験における上限値、0.5 ppmを大きく上回るもので、本研究のハイライトとなっている。 さらに、レーザー遷移後の消滅スペクトル、あるいは、共鳴幅を用いて15の準位についてその準位幅を決定し、ほぼ理論が予測する値と一致することを示した。特に、3つの準位については、エネルギー幅も10MHz程度の精度で理論値と一致することを確認している。このように、本論文は、遷移エネルギーばかりでなく、準位のエネルギー幅についても理論値と実験値が高精度で一致することを報告した初めての例となっている。 本論文は多数の研究者との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験、分析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。 | |
UTokyo Repositoryリンク |