学位論文要旨



No 118856
著者(漢字) 藤根,和穂
著者(英字)
著者(カナ) フジネ,カズホ
標題(和) 過去16万年間の日本海表層水温変動
標題(洋) Fluctuation of the alkenone SST in the Japan Sea during the last 160 kys
報告番号 118856
報告番号 甲18856
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4509号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 茅根,創
 北海道大学 助教授 山本,正伸
 東京大学 助教授 田近,英一
 東京大学 講師 横山,祐典
 東京大学 教授 多田,隆治
内容要旨 要旨を表示する

黒潮から分岐し日本海へ流入する対馬暖流は,北西太平洋における中緯度から高緯度への熱輸送に貢献する.また,その脈動に伴う日本海表層水温の変化は大気-海洋表層間の温度差および蒸発量の変化を通じて日本海周辺の陸上気候・環境変動にも影響を与えてきた.従って,外洋に比べて堆積速度が速い日本海において過去の対馬暖流の脈動を高時間解像度で復元することは,東アジアの気候・環境変動メカニズムを理解する上で有益な情報をもたらすと期待される.しかし,過去4万年以前に遡る日本海表層水温の詳細な復元は今まで行われてこなかった.

外洋に比べて炭酸塩補償深度 (CCD) の浅い日本海では,炭酸塩殻の保存が悪い為,石灰質微化石を利用して連続的に古水温復元を行うことが困難である.それに対して生合成時の表層水温を記録するアルケノンバイオマーカーの不飽和比(UK'37値)は,CCD以深の堆積物にも適用できることから,日本海においても高解像度での連続した古水温記録が得られると期待された.しかし,最終氷期極相期 (LGM) の日本海アルケノン水温は後氷期よりもおよそ3℃高い値を示し,しかもその原因が明らかでないことから,日本海のアルケノン古水温は疑問視されている.

UK'37値を用いた古水温の復元に影響を与え得る要因として,近年,1)UK'37値と水温の関係がアルケノン生産者の種毎に異なること,2)機器分析(定量)時に生じる高不飽和アルケノンの選択的損失に伴う UK'37値の上昇,3)水柱内や堆積物表層での続成作用に伴う UK'37値の変化,4)堆積後の移流・再堆積,および5)アルケノン生合成季節と深度の変化に依存した UK'37値の時代変化といった可能性が指摘されている.従って,アルケノン不飽和比を用いて表層水温の時代変化を議論する為には,あらかじめ復元されたアルケノン水温の信頼性を評価しておく必要がある.

本研究では,日本海東部の南北2地点において,アルケノン不飽和比を利用して表層水温変動とその南北勾配の時間変化を復元し,過去16万年間の対馬暖流の脈動を明らかにすることを目的として研究を行った.その為に先ず,上述のアルケノン古水温指標の問題点を検証し,アルケノン不飽和比から推定された古水温の信頼性を確認した.次に,日本海東部の2地点で復元されたアルケノン水温変動とその差を用いて日本海におけるTWCの脈動を考察した.

分析機器へのアルケノン注入量を段階的に減少させて行った定量実験の結果,分離カラム内での高不飽和アルケノンの選択的損失によって UK'37値が実際よりも高く推定された可能性は否定された.また LGM の高い UK'37値は,日本海深層の酸化・還元環境変動に関係なく安定して高い値を示すことから,還元的環境での初期続成によって生合成時のUK'37値が変化した可能性も否定された.更に,2408地点で LGM と現在のアルケノンフラックスを比較した結果,東シナ海で生合成されたアルケノン類が日本海へ運ばれ再堆積したことで最終氷期極相期の日本海 UK'37値が高くなった可能性は極めて低いことが示された.一方で,氷期の日本海堆積物中から過去に堆積物や現存するアルケノン生合成生物中から報告された事のない低炭素数アルケノエイト,Ethyltetratriacontadienoate (C34:2EE) が検出された.全アルケノン中でのC34:2EE相対含有量は,寒冷な LGM において浮遊性有孔虫酸素同位体比(δ18Opf)が急激に減少する時期に高い傾向を示した(図1).この結果は,C34:2EE相対含有量が日本海表層水の低塩分化と共に増加したことを示唆する.従って,氷期の日本海では,低塩分な環境に適応し,C34:2EEの生合成で特徴付けられる未知のアルケノン生産者が出現したか,あるいは表層水の低塩分化に応答して既知のアルケノン生産者がC34:2EEを生合成するようになったと考えられる.また,C34:2EE/C37比が0.055を越える最終氷期極相期(39.5ka〜16.0ka)の試料では,C34:2EE相対含有量と UK'37値の間に弱い正の相関が見られた(図2).このことから,水温変動とは別に最終氷期極相期におけるアルケノン生合成生物の種変化,あるいはC34:2EE生合成量の変化に関係した既知のアルケノン生合成生物の生理変化によって UK'37値が増加した可能性が示唆される.そして,C34:2EE相対含有量が増加する39.5ka〜16.0kaの日本海では,現世海洋で最も主要なアルケノン生産者である E.huxleyi の培養実験や表層堆積物と現在の水柱内水温との比較によって与えられた標準的な水温換算式とは異なる UK'37値と水温の関係が存在した可能性が考えられる.これらのことから,過去16万年間の日本海アルケノン水温変動は,C34:2EE/C37比が0.055を越える39.5ka〜16.0kaを除く時代の変動についてのみ標準的な水温換算式を適用して議論することが可能だと考えられる.

日本海東部のアルケノン水温変動は大局的に氷期-間氷期に対応した変動を示すが,数千年スケールでの水温変動の振幅や周期は、対馬暖流第一分岐流 (FBTWC) の影響の程度の違いによって南北2地点で異なるパターンを示し(図3a,b),しばしば,高緯度側(2408地点)の水温が低緯度側(2407地点)に比べて相対的に高くなることで特徴づけられる(図3c).日本海東部においてアルケノン水温(UK'37-水温)が南北で逆転する時期の出現周期や UK'37-水温南北逆転の程度は,海水準変動と密接に関係する(図3c,d).即ち,比較的高い海水準(>-60m)が推定されている間氷期にはおよそ1万年周期での振幅の大きな変動が明瞭に現れるのに対し (mode A),海水準が-80m〜-60mと推定されている氷期の UK'37-水温には南北差が殆どなく,数千年程度の短い周期で2℃程度の南北逆転が現れる (mode B).また最も海水準が低下した(<-80m)氷期極相期の日本海は,常に高緯度側の UK'37-水温が低緯度側よりも高くなることで特徴付けられる (mode C).mode A において UK'37-水温が南北で逆転する時期には,南北2地点で共に有機炭素含有量やアルケノン含有量の高い暗色層が堆積し,日本海内での生物生産の増加が示唆されることから,対馬暖流流入量の増加によって東シナ海から日本海への栄養塩供給が増加し,生物生産が活発になったと考えられる.またそれらの時期には南北2地点でアルケノン水温が上昇することから,TWC水温の上昇が示唆される.mode B において UK'37-水温が南北で逆転する時期でもまた,mode A と同じように南北2地点での暗色層の堆積と2408地点での水温上昇が認められる.しかし,表層水温の南北差は mode A の1/3程度と小さい.間氷期-氷期間で見られる表層水温南北差の振幅変化(mode A から mode B への変化)は,80ka頃から始まる日本海表層水の酸素同位体比(δ18Osw)の緩やかな低下,および間氷期に検出されなかったC34:2EEが再び検出され始める時期(およそ72ka)とほぼ一致する(図3e,f).この結果は,表層水温南北逆転の程度の減少が表層水の低塩分化と同じ要因に起因する可能性を示唆する.日本海表層水の塩分は対馬暖流による供給と日本海周辺から流れ込む淡水による希釈のバランスで決まることから,海水準の低下に伴う対馬海峡断面積の減少によって日本海表層水の低塩分化が起こったと予想される.同様に,海水準の低下に伴う東シナ海の浅海化および対馬海峡断面積の減少に伴う東シナ海から日本海への海水輸送の減少によって東シナ海へ流入する黒潮分岐流が減少し,FBTWCと対馬暖流第二分岐流 (SBTWC) の水温差が減少して,氷期の日本海表層水温南北差が間氷期に比べて小さくなった可能性が考えられる.氷期極相期 (mode C) の日本海において,常に高緯度側(2408地点)の UK'37-水温が低緯度側(2407地点)よりも高くなる原因として,二つの可能性が考えられる.一つは,海水準が低下したことでFBTWCの流路が現在よりも2408地点に近づいた結果,2408地点の UK'37-水温が2407地点よりも高くなった可能性である.もう一つは,この時期のアルケノン類が南北2地点で共に春のブルームで生合成された可能性である.現在,日本海の春のブルームは,冬季モンスーンの季節風が吹き出す日本海北西海域から遠いほど早く始まり,南北でおよそ1ヶ月の時間差が生じる.こうしたブルームの時間差によって2408地点付近の水温は2407地点よりも〜2.7℃高くなる.以上のように,氷期極相期を除く時期の日本海東部における表層水温の南北逆転は,日本海表層水温の上昇と表層生産の増加を伴い,それらの時期に対馬暖流の水温上昇と対馬暖流流入量の増加が示唆される.また対馬暖流の水温上昇は対馬暖流の供給源である黒潮やその源である西部赤道太平洋域,あるいは台湾-対馬暖流やその源である南シナ海の水温上昇を示唆している可能性がある.

C34:2EE相対含有量と浮遊性有孔虫酸素同位体比変動.

C34:2EE相対含有量と UK'37値の関係.

日本海のアルケノン水温変動と汎世界的海水準変動の比較.

(a)は低緯度側に位置する2407地点のアルケノン水温変動,(b)は高緯度側に位置する2408地点のアルケノン水温変動,(c)は2407地点のアルケノン水温から2408地点のアルケノン水温を引いて求められたアルケノン水温の南北差,(d)は汎世界的海水準変動曲線 (Fairbanks 1989; Shackleton et al., 2000; Lambeck and Chappell 2001; Yokoyama et al., 2001; Chappell 2002),(e)は2407コアから復元された浮遊性有孔虫酸素同位体比 (Minami 2003MS) および2407コアの浮遊性有孔虫酸素同位体比とアルケノン水温から推定された日本海表層水の酸素同位体比変動,(f)は日本海堆積物中から本研究によって初めて検出された低炭素数アルケノエイトC34:2EEの相対含有量変動を示している.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、石灰質ナノプランクトンの膜脂質であるアルケノンと呼ばれる有機化合物の不飽和度(二重結合の数)の温度依存性(いわゆるアルケノン古水温計)を利用して、過去16万年に渡る日本海の表層水温変動の復元を試み、その古海洋学的意味を考察した論文である。論文は全部で7章からなる。

第1章では先ず、日本海における古海洋環境の変遷とその意味を理解する上で、表層水温変動の復元が重要である事、にも拘らず今まで余りその試みがなされていなかった事、アルケノン古水温計がその目的に最も適しているが、何故か最終氷期極相期の日本海におけるアルケノン古水温は、異常に高い値を示してしまう事が説明されている。次に、従来の研究のレビューに基づき、アルケノン古水温計が抱える様々な問題点をリストアップしたうえで、アルケノン古水温計を日本海堆積物に適用するには、これらアルケノン古水温計の持つ問題点を一つ一つ評価してゆく事が重要である事を説明している。そして最後に、本研究の目的が、日本海堆積物について、アルケノン古水温計が持つ様々な問題点を一つ一つ評価して問題点が無い事を確認した上で、それを用いて第四紀後期における日本海表層水温の変動を高時間解像度で復元し、その変動を引き起こしている原因を明らかにする事にある事を述べている。

第2章では、特に対馬暖流の起源と経路、その季節変動に重点をおいて、日本海の現在の海況をレビューすると共に、今回使用した2つのコアの採取地点(隠岐堆および秋田沖)、およびそれら2本のコアの年代モデルについて説明がなされている。

第3章では、アルケノン類の同定、定量法、および補足データとして使用した有機炭素、全窒素、全硫黄の定量法についての記載がなされている。

第4章では、まず、アルケノン類および有機炭素、全窒素、全硫黄の分析結果を詳しく記述し、その上で、2本のコアについて、アルケノン古水温を推定する際に用いるC37アルケノンの不飽和度指標の過去160万年間にわたる時代変動を記述している。そして、日本海堆積物にアルケノン古水温計を適用する上で、考えられる問題点をすべて列挙した上で、それらを一つ一つ評価して棄却し、最終氷期極相期を除けば、アルケノン古水温計は正常に機能している事を示した。また、最終氷期日本海堆積物から、炭素数34および36のアルケノエイトを発見し、これを生合成する未知の生物が、同時に不飽和度の高い炭素数37のアルケノンを生合成し、それが最終氷期極相期において異常に高いアルケノン古水温を引き起こしている可能性を示唆している。特に、炭素数34のアルケノエイト(C34:2EE)が、堆積物から報告されたのは、これが初めてである。

第5章では、この様にしてアルケノン古水温計の信頼性を確認できた時期(最終氷期極相期を除く時期)について、日本海東部の南北2地点におけるアルケノン古水温を過去160万年間に渡り高時間解像度で復元し、その変動を記述している。そして、しばしば北の地点の水温が南の地点より高くなる時期があることを見出し、それが基本的に対馬暖流自体の水温および流入量の増加を反映している可能性がある事を指摘している。更に、こうした南北水温逆転期が、東アジアにおいて夏季モンスーンが強まる時期に相当する事を見出し、それが南シナ海、あるいは西赤道太平洋の水温上昇と関係している可能性を指摘している。

そして、第6章では、これらの研究から得られた結論を短くまとめ、更に、第7章で、残された今後の問題について述べている。

審査委員会においては、本論文を、有機化学的側面、古海洋学的側面、古気候学的側面から総合的に審査を行った。そして、研究を進める際に、先ず、i)環境復元に用いようとするアルケノンを用いた古水温復元法の手法的問題点を徹底的に吟味した事、ii)その過程で今まで堆積物中から発見された事の無い新たな有機化合物(C34:2EE)を発見した事、iii)それを生合成したであろう未知のアルケノン生産者が(あるいは、環境変化により既知のアルケノン生産者がその生理機能を変化させて)、同時に不飽和度の高い(従って高いアルケノン古水温を示す)C37アルケノンを生成していた可能性を示した事、iv)最終氷期極相期における異常に高いアルケノン水温が表層水低塩分化の進行に伴う通常のアルケノン生産者の消滅と未知のアルケノン生産者の出現により引き起こされた可能性が高い事を示した事は、有機地球化学的に見て、また古海洋学的にも、極めて独創性の高い研究であると判断された。本成果は、今後C34:2EEの起源の同定、それに基づいたアルケノン温度計の校正への重要な展開の端緒を開いたといえる。更に、論文の後半において、v)過去160万年に渡る日本海表層水温変動を、アルケノン古水温計を用いて高時間解像度で復元した事、vi)〜1万年スケールで対馬暖流の流量および水温が大きく変動した事を見出し、それが東アジア夏季モンスーンの変動に同調した南シナ海あるいは西赤道太平洋における古表層水変動に起因する可能性が高い事を示した事、vii)更に数千年スケールでも対馬暖流の脈動を続いてきた可能性を指摘した事は、複雑で困難な課題に果敢に挑んで得た成果であると高く評価された。

なお、本論文の研究は、山本正伸、多田隆治との共同研究であり、その成果は、論文提出者が筆頭著者となり両名との共著の形で3つの論文に分けて発表を予定しているが、論文提出者が主体となって分析、データ解析、結果の解釈を行い、原稿執筆を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

上記の点を総合的に審査した結果、本論文は有機地球化学および古海洋学の新しい発展に寄与するものであり、博士(理学)の学位に十分値すると結論した。

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