学位論文要旨



No 118867
著者(漢字) 中村,貴純
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,タカスミ
標題(和) 火星の環境進化 : 数値モデルを用いた気候システムの挙動解析
標題(洋) Evolution of the Surface Environment of Mars : Numerical Studies on the Climate System
報告番号 118867
報告番号 甲18867
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4520号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 阿部,豊
 東京大学 教授 松井,孝典
 東京大学 教授 栗田,敬
 東京大学 助教授 佐々木,晶
 東京大学 助教授 田近,英一
内容要旨 要旨を表示する

現在の火星はとても寒冷な気候であることが知られている.しかしながら,火星の気候は,その歴史を通じて変化してきた可能性がある.火星の気候変化を理解するうえで,気候状態を決定するメカニズムと,気候の安定性を調べることが非常に重要である.火星の気候は,そこに供給されるエネルギー(太陽放射)と放出されるエネルギー(惑星放射)のバランスによって支配されている.火星におけるそのようなエネルギーバランスを論じる上で非常に重要な要素として,大気主成分であるCO2による温室効果が挙げられる.したがって,大気中のCO2量をコントロールするメカニズムを理解することが重要である.そのために,CO2を主成分とする大気と,大気とCO2のやり取りをするリザーバ(極冠・レゴリス)とを組み合わせたCO2システム(以下では,大気-極冠-レゴリスシステムと呼ぶ)の挙動の解析が必要である.この場合,大気中のCO2量は,システム中の総CO2量がどのように各リザーバに分配されるかによって決定される.CO2の分配は表層でのエネルギー収支に依存するが,そもそもエネルギー収支自体がCO2の分配のされ方に影響を受ける.エネルギー収支と物質収支が密接に関連したこのシステムは,火星気候システムの最大の特徴である.

本研究では,まず大気-極冠-レゴリスシステムの一般的な挙動を調べた.はじめに,気候モデルとして,CO2の温室効果を考慮した南北1次元エネルギーバランス気候モデルを開発し,年平均日射を与えた場合の解析を行った.その結果,現在の日射量のもとではシステム中の総CO2量によらず2つの安定な気候状態が実現可能であること(多重平衡解の存在)が明らかになった.ひとつは,極冠が存在する状態(現在の火星がこれにあたる)であり,もうひとつは,極冠が存在しないより温暖な気候状態である.しかし,実際の火星は自転軸が傾いているため,地球と同様に日射量の緯度分布が季節変化し,それに応じて極冠の面積も大きく季節変化する.夏に融けきることなく一年中存在する極冠は永久極冠と呼ばれ,冬に形成されるが夏には融けて消滅してしまう極冠は季節極冠と呼ばれる.年平均日射を扱うモデルでは,季節極冠と永久極冠を区別して表現することができない.

そこで次に,より現実的な火星環境の挙動に基づいた解析をするために,日射量の季節変化を考慮した時間発展気候モデルを用いた議論を行った.その結果,時間発展モデルにおいては,火星の気候状態として見かけ上4種類の定常解が存在することがわかった.それらは,(i) 永久極冠が存在する解(永久極冠解),(ii) 永久極冠は存在しないが季節極冠をもつ解(季節極冠解),(iii) 1年を通じてCO2極冠が形成されない解(無極冠解),(iv) どちらか片側の極にだけ永久極冠が存在する解(片側永久極冠解),の4つである.しかしながら,気候状態のシステム中の総CO2量の変化に対する応答を調べると,永久極冠の存在しない気候モード(解(ii)と解(iii))では大気圧が総CO2量に強く依存して変化するのに対し,それが存在する気候モード(解(i)と解(iv))では,大気圧は総CO2量によらず一定となることが明らかになった(図1).したがって,実際には,火星の気候状態は2つのモードに分類することがより本質的である.

永久極冠が存在する場合に大気圧が一定値をとることは興味深い特徴であるが,これは永久極冠が大気圧をコントロールしていることを意味している.そのメカニズムは次のように説明可能であることがわかった(図2).いま,永久極冠上におけるエネルギーの年間収支を考える.放出される惑星放射量は大気の温室効果と地表温度(CO2の凝結温度)に依存するが,この両者は大気圧によって決まる.そこで,惑星放射は大気圧の関数として実線のように表すことができる(図2).曲線の傾きには,大気圧変動に対する温室効果変化と地表温度変化の正味の効果が現れている.一方で,入射されるエネルギーは,大気アルベドと南北熱輸送量に依存するため,やはり大気圧の関数として点線のように描かれる(図2).両者の交点がエネルギーバランスの定常解を表している.このうち,低圧側の解は安定な定常解であるが,高圧側の解は不安定な定常解である.すなわち,永久極冠が存在すると大気圧は図中の〓の値のみをとりえる.これが,永久極冠による大気圧制御メカニズムである.極冠の形状(厚さ・面積)を考慮に入れても,この性質はほとんど影響されない.一方,永久極冠の存在しないモードでは,年平均大気圧はシステム中の総CO2量に依存する(図1).季節極冠解では,冬に凝結して極冠を形成したCO2は,夏にはすべて昇華して大気へと戻ってしまう.そのため,季節極冠はCO2を“固定”する役割はもっておらず,1年を越えた大気圧変動に寄与することはない.また,上で述べたような大気圧制御メカニズムも働かない.とくに,無極冠解の場合は1年を通じてCO2極冠が存在しないので,大気圧制御メカニズムが働かないのは明らかである.

このような火星気候システムの振る舞いの理解から,永久極冠が存在しないより高圧で温暖な状態から永久極冠が存在する低圧で寒冷な状態に遷移する際には,必ず大気の暴走的な凝結を伴った気候ジャンプを経ることがわかる.永久極冠が存在しない状態から大気圧が減少してくると,ある点(図1,2の〓)で初めて永久極冠が形成される.この点は不安定な解であるから,少しでも大気圧が減少すると,一気に安定な定常解(図1,2の〓)へとジャンプする.これが,総CO2量の減少による気候ジャンプである.

CO2極冠の挙動に注目したとき,火星気候システムの状態が大きく性質の異なる複数のモードに分類できる一方で,レゴリスリザーバの挙動に着目した場合には,適切な吸着パラメータの範囲では複数の気候モードは存在しないことが明らかになった.したがって,火星の気候システムの挙動を理解する上では,大気リザーバと極冠リザーバの間におけるCO2分配がより重要である可能性が高いといえる.

ところで,火星の自転軸傾斜は大きく変動してきた可能性が知られている.そこで次に,自転軸傾斜角の変化による,火星環境の105-106年スケールでの変動についても解析を行った.図3に示すように,永久極冠が存在する状態から自転軸が傾いていくと,ある時点で解が消滅し,永久極冠なしの解へと遷移する(赤矢印).このメカニズムは以下のように説明できる.極冠におけるエネルギーバランス(図2)を考えたとき,自転軸傾斜が増加するとエネルギー入射を表す点線が上方向にシフトする.すると,ある時点で点線は完全に実線の上方に移動してしまい,交点が消滅する.これは,常に昇華が卓越していることを意味する.逆に,永久極冠がない状態から自転軸が立ってくると,極で受けるエネルギーは減少し,ある時点で永久極冠が形成される.これは不安定な解であるから,安定な定常解に向けてジャンプする(図3の青矢印).これが,自転軸傾斜変動による気候ジャンプである.このように,気候ジャンプは自転軸傾斜角の変動によっても引き起こされる可能性があることが明らかになった.それは比較的短い時間スケールで容易にくり返し生じる可能性があるという点で,前述したシステム中の総CO2量の減少が原因となって引き起こされる気候ジャンプとは全く別のものであると言える.これらの解析結果を,天体力学計算によって再現された火星の自転軸傾斜変動の履歴と照らし合わせると,ここ数千万年においては,永久CO2極冠が存在しない時期のほうが存在する時期よりも長かった可能性が高い.特に,システム中の総CO2量が数百mbar以上ある場合には,ほとんどの期間で永久極冠が存在せず,高圧な環境が持続した可能性がある.この場合,火星における永久CO2極冠は一過性の現象だと考えられる.

さらに,大気-極冠-レゴリスシステムの挙動解析に基づいて,地質学的時間スケール(108年以上)における火星の気候進化に関する議論を行った.この場合,システム中の総CO2量や太陽放射量の時間変化を考える必要がある.過去の火星において,永久極冠が存在した場合には,年平均大気圧は太陽放射量によって決まり,総CO2量によらない.この場合,過去の火星は現在よりも低圧・寒冷な気候状態にあったと考えられる.その後,太陽放射量が増大すると,徐々に大気圧が増加して現在に至る.しかし,かつての火星には,高い大気CO2分圧によって温暖湿潤な環境が存在していた可能性がある.その場合,温暖な気候状態は永久極冠が存在しない場合でのみ実現される.すると,温暖な気候から寒冷な気候へ遷移する際は,先に述べたように総CO2量の減少による気候ジャンプを経なくてはならない.実際の火星では,隕石重爆撃期の大気剥ぎ取りやスパッタリングによる大気散逸によって,総CO2量が減少したと考えられている.気候ジャンプによって形成された極冠中のCO2は地下へと輸送され,クラスレート,炭酸塩鉱物,または空隙中の気体ないしは液体という形で現在も存在している可能性がある.

大気圧のシステム中総CO2量に対する依存性

永久極冠上でのエネルギーバランス.実線がエネルギー支出,点線が収入を表している.

大気圧の自転軸傾斜角依存性

審査要旨 要旨を表示する

現在の火星は希薄な大気を持ち寒冷な気候であることが知られている。しかしながら、マリナー探査機やバイキング探査機による火星探査では、火星の地表面に数多くのアウトフロウチャネルやヴァレーネットワークなどの流水関連地形が存在することが明らかになった。このことから過去の火星表層環境は現在とは異なっていたと考えられている。本研究は、火星がとり得る気候状態について比較的単純な気候モデルを用いた解析を行い、火星の気候進化について検討したものである。

惑星の気候状態は、そこに供給されるエネルギー(太陽放射)と放出されるエネルギー(惑星放射)のバランスによって支配されている。火星におけるそのようなエネルギーバランスを論じる上で非常に重要な要素として、大気主成分である二酸化炭素による温室効果が挙げられる。本研究は、大気中の二酸化炭素量をコントロールするメカニズムを理解するために、二酸化炭素を主成分とする大気と、大気と二酸化炭素のやり取りをするリザーバ(極冠・レゴリス)とを組み合わせた二酸化炭素システム(以下では、大気-極冠-レゴリスシステムと呼ぶ)の挙動の解析を行ったものである。大気中の二酸化炭素量は、システム中の総二酸化炭素量がどのように各リザーバに分配されるかによって決定される。二酸化炭素の分配は表層でのエネルギー収支に依存するが、エネルギー収支は二酸化炭素の分配のされ方に影響を受ける。エネルギー収支と物質収支が密接に関連したこのシステムは、火星気候システムの最大の特徴である。

第1章では、まず大気-極冠-レゴリスシステムの一般的な挙動が検討されている。はじめに、気候モデルとして、二酸化炭素の温室効果を考慮した南北1次元エネルギーバランス気候モデルを開発し、年平均日射を与えた場合の解析を行い、現在の日射量のもとではシステム中の総二酸化炭素量によらず2つの安定な気候状態が実現可能であること(多重平衡解の存在)が示される。ひとつは、極冠が存在する状態(現在の火星がこれにあたる)であり、もうひとつは、極冠が存在しないより温暖な気候状態である。しかし、実際の火星は自転軸が傾いているため、地球と同様に日射量の緯度分布が季節変化し、それに応じて極冠の面積も大きく季節変化する。夏に融けきることなく一年中存在する極冠は永久極冠と呼ばれ、冬に形成されるが夏には融けて消滅してしまう極冠は季節極冠と呼ばれる。年平均日射を扱うモデルでは、季節極冠と永久極冠を区別して表現することができない。

第2章では、日射量の季節変化を考慮した時間発展気候モデルを用いた議論が行われる。時間発展モデルにおいては、火星の気候状態として見かけ上4種類の気候状態が存在することが示される。それらは、(i)永久極冠が存在する状態(永久極冠解)、(ii)永久極冠は存在しないが季節極冠をもつ状態(季節極冠解)、(iii)1年を通じて二酸化炭素極冠が形成されない状態(無極冠解)、(iv) どちらか片側の極にだけ永久極冠が存在する状態(片側永久極冠解)、の4つである。しかし、気候状態のシステム中の総二酸化炭素量の変化に対する応答を調べると、永久極冠の存在しない状態(解(ii)と解(iii))では大気圧が総二酸化炭素量に強く依存して変化するのに対し、それが存在する気候モード(解(i)と解(iv))では、大気圧は総二酸化炭素量によらず一定となることが示された。このことは、火星の気候状態は、永久極冠が存在する状態と、存在しない状態の2つに分類することがより本質的であることを示唆する。

永久極冠が存在する場合、極冠上でのエネルギー収支によって大気圧がコントロールされることが示される。極冠から宇宙空間に放出される惑星放射は、大気の温室効果と地表温度に依存するが、永久極冠上では地表温度は与えられた大気圧での二酸化炭素の凝結温度、温室効果もまた大気圧で決まることから、惑星放射は大気圧で決まることになる。一方、エネルギー収支が釣り合っているときには、惑星放射は極冠への正味の日射と南北熱輸送で低緯度から運び込まれるエネルギーフラックスに等しい。南北熱輸送量は大気圧に関係しているから、結局、日射が与えられると、エネルギー収支が成り立つ大気圧が一意に決まり、それは極冠に取り込まれる二酸化炭素量には第一次近似的にはよらなくなる。

一方、永久極冠が存在しない場合、冬に凝結して極冠を形成した二酸化炭素は、夏にはすべて昇華して大気に戻るため、1年を越えて二酸化炭素が極冠に固定されることはない。結果として大気圧は系が持っている総二酸化炭素量に依存する。

このように極冠の振る舞いによって、大きく性質の異なる複数の気候モードが多重的に出現することが示される一方で、レゴリスへの二酸化炭素吸着によっては、適切な吸着パラメータの範囲では、複数の気候モードは存在しないことが示される。このことから火星の気候システムの挙動を理解する上では、大気と極冠の間における二酸化炭素分配がより重要である可能性が高いことが示唆される。

このような火星気候システムの振る舞いの理解から、永久極冠が存在しない、より高圧で温暖な状態から、永久極冠が存在する低圧で寒冷な状態に遷移する際には、必ず大気の暴走的な凝結を伴った気候ジャンプを経ることが示される。はじめに永久極冠が存在しない状態から出発して、大気-極冠-レゴリス系に含まれる総二酸化炭素量が減少し、大気圧が減少してくる場合、ある大気圧まで減少すると、永久極冠が存在しない状態は消滅し、一気に大気の凝結が進行して永久極冠を持つ状態へと遷移する。これを総二酸化炭素量の減少による気候ジャンプと呼んでいる。

第3章では自転軸傾斜の変化に伴う気候遷移が検討される。火星の自転軸傾斜は大きく変動してきた可能性が知られている。永久極冠が存在する状態から自転軸が傾いていくと、ある傾斜角で永久極冠ありの状態が消滅し、永久極冠なしの状態へと遷移する。逆に、永久極冠がない状態から自転軸が立ってくると、極で受けるエネルギーは減少し、ある永久極冠が消滅したのとは異なる、ある傾斜角で永久極冠を持つ状態に遷移し、大気圧は激減する。これが、自転軸傾斜変動による気候ジャンプである。このように、気候ジャンプは自転軸傾斜角の変動によっても引き起こされる毎能性があることが示される。自転軸変動の周期は、表層における総二酸化炭素量の変化の時間スケールに比べて短いと考えられるため、第2章で論じられた総二酸化炭素量の減少に伴う気候ジャンプに比べて、短い時間スケールで容易にくり返し生じる可能性があることが示される。この点において、これら2つの気候ジャンプは異なる性質のものであると結論づけられる。

第4章では、第2章、第3章で論じた気候ジャンプの概念を用いて、火星の大気進化についての検討が行われる。ここでは特に、自転軸傾斜の変動に伴う気候ジャンプについて、天体力学的な自転軸傾斜変動史との比較の上で議論が行われる。それにより、現在の様に永久極冠が存在し、低圧の大気が出現したのは、比較的最近の出来事であり、火星は長時間にわたってより高圧の大気を持っていた可能性が示唆される。

第5章は全体の要約である

また、Appendix では、火星環境発展史に関するレビュウ、火星の表層地下構造に関するレビュウ、および、本研究の成果から推測される極冠を中心とした火星環境進化史が述べられている。

このように本研究では、火星大気、極冠、レゴリスの間での二酸化炭素分配に注目した気候モデルの解析によって、火星表層環境が複数の多重平衡状態をとり得ることを示すとともに、その状態間での遷移を詳しく論じたものである。そのことによって火星表層環境が劇的な気候遷移を経験したことが示唆された。特に、現在の環境が火星史を通じてみた場合には、比較的特殊な状態である可能性が示唆された点は重要である。

本論文は全体として田近英一博士との共同研究であるが、論文提出者が主体となって数値モデルの構築、数値実験および結果の解析を行ったものであって、論文提出者の寄与が充分であると判断する。

したがって、博士(理学)を授与できると認める。

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