学位論文要旨



No 118874
著者(漢字) 渡邉,敦
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,アツシ
標題(和) サンゴ礁およびエスチュアリーにおける炭酸系形成と生物群集代謝過程
標題(洋) Process of Seawater CO2 System Formation and Biological Community Metabolism in Coral Reefs and Brackish Estuaries
報告番号 118874
報告番号 甲18874
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4527号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小池,勲夫
 東京工業大学 教授 灘岡,和夫
 産業技術総合研究所 主任研究員 野崎,健
 東京大学 助教授 田近,英一
 東京大学 助教授 茅根,創
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

沿岸海域は全海洋一次生産の15-50%を占めると言われており、そこでのCO2収支の重要性が最近になって指摘されている。沿岸海域でのCO2研究は、海水中のCO2ガス分圧を大気中のそれと比較して大小を議論しているものがほとんどだが、これでは情報が1次元的で、どういった生物群集代謝過程にともないCO2が変化しているかはわかない。

一方、CO2、HCO3-、CO32-からなる炭酸系のうち、アルカリ度(TA)と全炭酸(DIC)というパラメーターを用いた解析は生物群集代謝の影響を直接的に把握することができるため有益である。光合成・石灰化などの生産や、呼吸・嫌気的代謝などの分解はTAとDICを単純な比例関係を持って変化させる。ゆえにTA-DIC図上での変動をベクトル解析することにより、生態系内での群集代謝の特性を解析することができる。

TA-DIC図を用いての生態系内での群集代謝計測では、湾内やサンゴ礁での光合成・石灰化やマングローブ林での嫌気的代謝などが報告されている。しかしそれらは物理環境が非常に単純な系での研究か、定性的に群集代謝の傾向を示唆するだけのものがほとんどだった。

海水と淡水混合が卓越する系での群集代謝や、同じ生態系内で地形的・生物的に異なる特徴を持つサブシステムが見られるような系での群集代謝などは明らかにされていない。このような系の解析では、時間的・空間的に大きな炭酸系の変動が予測され、大量の試料の分析が必要になる。また、CO2の大気との交換などを議論するためには正確さの高いデータが必要になる。

質の高いTA、DIC分析を多量にすることが困難だった点が、TA-DICを用いての群集代謝解析が進まなかった原因の一つと考えられる。そこで本研究では、新しく開発されたTA,DIC測定装置を用いてこれらの分析を精度良く、高速化することに取り組み、可能にした。

この方法を用いて、3つの沿岸生態系における群集代謝を評価することが本研究の目的である。3つの生態系の一つはパラオ堡礁であり、ここでは光合成・石灰化の活発な礁原と分解の卓越するラグーンという異なるサブシステムが見られる。このサブシステム間での群集代謝を通して、炭酸系が形成されていく過程をTA-DIC図から明らかにする。

二つ目は石垣島・吹通サンゴ礁で、ここではマングローブ林を通して流入する河川水と海水の混合が見られる。さらに海水流動が複雑な開放系であり、海草と造礁サンゴが共存する。このように複雑な系において、水塊混合を考慮した上で、海水滞留時間を用いて群集代謝がTA-DIC変動に与える影響を見積もる。

最後は中海エスチュアリーで、ここでは河川・宍道湖を通じての淡水流入が顕著で、また潮位差が20〜40cmと小さいため、系内で塩分成層が発達している。この塩分成層が底層での分解を促進し、底層は貧酸素化が進んでいる。一方、表層は河川を通して多量の栄養塩と有機物、光を受け生産が進む。このような表層と底層というサブシステムでの群集代謝を通して、全体の炭酸系が形成されていく過程を明らかにする。以上のフィールドの結果から、複雑な物理環境を示す一般的な沿岸環境下において、群集代謝が炭酸系を形成していく過程を明らかにすることが本研究の自的である。

結果

パラオ堡礁では、浅い(1-3m)サンゴ礁礁原で活発な光合成・石灰化の影響で短時間にTA,DICが大きく減少する。一方、深い(20m〜50m)ラグーンでは、長い(20-30日)滞留時間に石灰化と呼吸が進行し、TAを減少、DICを増加させる。こうした2つのサブシステム間の影響が合成された形で、外洋-サンゴ礁間でTA-DICが変化することが明らかになった。また1998年に起こったサンゴ礁白化による堡礁環境の悪化により、礁原・ラグーンを通しての光合成・石灰化による炭酸系形成過程が経年的に減少したことが示された。

吹通サンゴ礁では、マングローブ林を通して流入する高いTA、DICを持つ河川水と海水の混合を評価し、この効果を差し引くことで、系内でのTA-DICの変動のみを抽出することができた。こうした開放系での TA-DIC の変動は生物群集代謝と滞留時間の両者の影響を受けていることが分かった。サンゴ卓越域、海草卓越域で行った24時間連続計測の結果から、TA-DICは比較的単純な変動を示し、それの場所による差が小さいことがわかった。得られたTA-DIC変動から、ベクトル分解により群集代謝を見積もることができた。その結果、一般的なサンゴ礁・海草から報告されている中間の値をしめした。このことは吹通サンゴ礁の炭酸系がサンゴ・海草の両者の影響を受け、それらが良く混合していることを示唆する。

水深6mの中海では塩分成層により水深3m程度で表層と底層の水塊が明瞭に分かれている。底層には日本海より沈み込んだ重い海水が呼吸によって貧酸素〜無酸素化し、その後の主に堆積物での嫌気的代謝によってTA,DICを増加させる。表層には宍道湖を経てきた淡水が流れ込み、これが底層の水塊も取り込みTA、DICを上げた後、十分な光環境のもとで植物プランクトンによる光合成でDICを減少させていく過程が明らかになった。この活発な光合成のために、表層の二酸化炭素分圧は非常に低いレベル(大気の1/3程度)に抑えられていることが明らかになった。

考察

沿岸域での複雑な群集代謝を明らかにするためには、TA-DICの高精度・迅速な測定が必要であった。本研究では新たに開発されたTA-DIC測定装置の分析化学的検討を行ない、目的に足る解像度・精度の炭酸系データが得られるようになった。得られたTA-DICデータからは、海水と淡水の混合の影響を評価した上で、生態系内での炭酸系の変動を示すことができた。

数m以下の浅く、サンゴや海草が卓越するような場所では、炭酸系の日周変動が見られる。この日周変動は生物群集代謝だけでなく、滞留時間をも反映することが示唆された。このことにより海水の平均滞留時間を見積もることで、群集代謝量を評価することができるようになった。見積もられた結果を比較すると、吹通での光合成・石灰化速度は同じ石垣島の白保サンゴ礁と比較して6〜8割の値になっていることが分かった。一方、白化後のサンゴ被度が数分の1以下に低下したパラオ礁原では、白化前と比較して光合成・石灰化速度が4から5割に低下したことも示された。サンゴから海草・海藻へのフェイズ・シフトでは石灰化の低下が顕著であり、TA-DICのTA-DIC図上での変動の傾きの減少としてあらわれることが分かった(。

5m以深のラグーン、エスチュアリー環境下では、水深が大きいためと生産速度が小さいために、炭酸系の日周変動は顕著に見られない。炭酸系は比較的長い滞留時間内の代謝を蓄積させていると考えることができる。空間的差異は滞留時間の違いとともに、群集代謝の差を反映していると考えられる。特に中海エスチュアリーの表層と底層のように、光環境や有機物負荷の差が炭酸系の差として顕著に現れることが分かった。

本研究により、沿岸海域における炭酸系 (TA-DIC) の計測から群集代謝がその変動に与える影響を定量化することができるようになった。また二酸化炭素分圧の変動を引き起こす生物要因も明らかにできる。今後、より広範な沿岸海域での計測を行うことにより、沿岸生態系が外洋・大気との間の炭素循環に果たす役割を明らかにすることができると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,分析化学的評価を行った装置を用いて1000以上の海水試料の測定を行ない,沿岸海域における生物群集代謝(光合成,呼吸,石灰化,嫌気的代謝)をアルカリ度-全炭酸図上に示し,海水の炭酸系形成過程と群集代謝との関係を明らかにしたものである.

沿岸の生物群集代謝に伴う海水の炭酸系変化を明らかにして,炭素循環における役割を評価するためには,アルカリ度・全炭酸の変動を測定・解析することがもっとも効果的であることが知られていた.しかしながら,その測定は手分析が主であったため,その効果を活かす成果はあげられていなかった.本研究は,新たに開発された装置の評価に基づいて大量の測定を行ない,全炭酸-アルカリ度図上でベクトルとして生物群集代謝を特定しその量を評価する手法を確立したもので,問題設定とアプローチは適切である.

手法について,本研究で用いた装置の開発は共同研究者らによるものであるが,その評価がなされていなかった.本論文では,この装置の精度,確度,再現性について,厳密な実験に基づいて分析化学的評価を行い,さらに自ら行った手分析による最高精度の測定結果と比較して,その妥当性を検証した.本研究において得られた測定結果のオリジナリティと信頼性はきわめて高い.

さらに本論文では,沿岸における生物群集代謝に伴う海水の炭酸系形成過程を,いくつかの代謝が顕著に現れ,地形構成が異なる3つのフィールド(パラオサンゴ礁,石垣島吹通サンゴ礁,中海エスチュアリー)において多数の測定結果に基づいて明らかにした.パラオサンゴ礁は,サンゴ礁原とラグーンからなる比較的閉じた系で光合成と石灰化が卓越する.石垣島吹通サンゴ礁は,パラオサンゴ礁と同様光合成・石灰化が卓越するが,サンゴ礁と海草藻場によって構成され外洋に向かって開いた系である.一方,中海エスチュアリーは,塩分成層によって表層と底層が分かれる系で,表層では光合成が,底層では呼吸と嫌気的代謝が卓越する.

このように特徴的な3つのフィールドを選定して,それぞれの特徴を活かしながら,閉じた系から開放系へ,光合成・呼吸から石灰化,嫌気的代謝へと,順に議論の対象を広げ,一般的な解を求めていく構成をとっている.本研究の対象は,自らデザインすることができる実験系でなくフィールドにおける観測であるだけに,十分な見通しに基づいたフィールドの選定と精力的なフィールド調査によってはじめて得られた成果であり,きわめて高く評価することができる.

考察において,本論文によってはじめて光合成・呼吸・石灰化・嫌気的代謝の4つの代謝過程を同じ図上に示し,その変化をベクトル合成として示すことができた.また,開放系において,アルカリ度-全炭酸図上に示される海水の炭酸系形成過程が,系の平均的な生物群集代謝(光合成・石灰化群集純生産)と海水の滞留時間とによって決定されることを示した.このことは逆にいえば,物理的な観測によって妥当な滞留時間を求めることができれば,炭酸系の計測によって群集代謝とそれに伴うCO2フラックスを見積もることができることを示す.適切な物理観測を行うことができれば,アルカリ度-全炭酸図の解析によって,代謝プロセスやその平均的量を評価することが示され,今後の沿岸域の群集代謝や生態系の健全度評価,CO2フラックスの研究の新しい展開につながる.

また選定された3つのフィールドは,海水への淡水の混合が,ほとんどない(パラオ),わずかにある(吹通),きわめて大きい(中海)と段階的に異なっており,その影響の補正について従来より妥当な手法を提案して,それに基づいて群集代謝の議論を展開している.これは基本的だが,きわめて重要な成果である.

上記でまとめた通り,本研究は生物地球化学,炭素循環,サンゴ礁保全など様々な分野への展開が期待できる重要な成果を提示しており,オリジナリティの高い研究として高く評価することができる.

なお本論文のうち,第2章の1部は茅根 創,野崎 健,加藤 健,根岸 明,工藤節子,紀本英志,津田雅也,Andrew G. Dicksonとの共同研究(Marine Chemistry 誌に印刷公表),第3章の1部は茅根 創,秦 浩司,工藤節子,野崎 健,加藤 健,根岸 明,池田 穣,山野博哉,所 立樹,灘岡和夫,田村 仁との共同研究(Limnology and Oceanography 誌に投稿中,Limnology and Oceanography 誌と Coral Reefs 誌に投稿予定)であるが,いずれも論文提出者が主体となって調査と結果の解析を行ない,筆頭著者として論文をまとめたもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

上記の点を鑑みて,本論文は地球惑星科学とくに地球システム科学の新しい発展に寄与するものであり,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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