学位論文要旨



No 118877
著者(漢字) 生田,靖弘
著者(英字)
著者(カナ) イクタ,ヤスヒロ
標題(和) エノラート化学種の面選択性に関する理論研究
標題(洋) Theoretical Studies on Facial Selection of Enolate Species
報告番号 118877
報告番号 甲18877
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4530号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 友田,修司
 大阪大学 助教授 山高,博
 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 助教授 岩田,耕一
 東京大学 講師 中村,正治
内容要旨 要旨を表示する

エノラートは、有機化学の分野のみならず生命科学の分野においても重要な化学種である.有機化学の分野では,Michael反応やAldol反応の中間体として,生命科学の分野では,酵素反応の中間体として重要な役割を担っている.近年,Meyersらは天然物合成の鍵中間体として重要な二環性ラクタムエノラートの反応性に関して大変興味深い研究報告をしている.彼らの報告によれば二環性ラクタムのα位におけるアルキル化反応は高選択的なジアステレオ面選択性を示す.この反応は置換基の位置の相違,環酸素の位置の相違によって選択性が劇的に逆転することが分かっている.また,Rosenbergらはβ位に様々な置換基を導入したブタン酸エステルエノラートのH/D交換反応において高選択的にα生成物が得られることを報告している.この系は鎖状系であり,これまで面選択性の支配因子であるとされてきたアンチペリプラナー効果を検証するのに適している.筆者はこれらの面選択性の起源に興味をもち量子化学計算の手法により,これら二つの系について研究を行い,求電子反応に対する面選択性予測理論の構築を目指した.なお計算プログラムはGaussian 94, 98およびGAMESSを用いた.溶媒効果は,PCM法およびCPCM法を用いた.さらに面選択の起源を理解し,予測理論の構築を目的として本研究室で開発されたEFOEモデルを適用した.

Meyersの系

Figure 1. に示したように,2-isopropyl-4-oxa-5-methyl-azabicyclo[3.3.0]octan-8-one(1), 2-isopropyl-3-oxa-azabicyclo[3.3.0]octan-8-one(2), 2,2-dimethyl-4-oxa-5-methyl-azabicyclo[3.3.0]octan-8-one(3)および3,3-dimethyl-4-oxa-5-methyl-azabicyclo[3.3.0]octan-8-one(4)のアルキル化反応において1,3は高選択的に endo (endo : exo=99:1) 体を生成するが,2,4は高選択的に exo (exo : endo=99:1) 体を生成する.1と2は環酸素の位置異性体であり,3と4は置換基(ジメチル)の位置が異なる構造異性体である.これらの選択性の起源は明らかにされていない.特に1の endo 選択性は二環性ラクタムのconcave内で反応が進行するという興味深い反応であり,この選択性の起源を明らかにするために1,5-dimethylpyrrolidin-2-one(5)をモデル化合物として実験と理論の両面から詳細な研究がなされている.本研究においても,まず5の選択性の起源を詳細に検討した.

5の存在可能な化学種は下記の5種類である.(F; Liが酸素原子のみ結合,N;Liが窒素と酸素に配位,C-endo; Liが endo 側からC=Cのπ電子に配位,C-exo; Liが exo 側からC=Cのπ電子に配位,A; 自由エノラートアニオン)これらの構造は,1位と5位のメチル基の配座によって,trans (Xc)とcis(Xc); X=E, N, C or A)の2つの幾何異性体が考えられる.

気相中で存在する主な化学種はCt-endo (98.3%)であり,Ct-exo (1.0%) とCc-exo(0.7%)がわずかに存在する.テトラヒドロフラン(THF)中では,気相と同様,Ct-endo (99.2%)が主な化学種であり,Ct-exo (0.1%),Cc-exo (0.3%)およびFt (0.4%)がごく少量存在する.これらのエノラート化学種の反応性を検討するため,Exterior Fronteir Orbital Extension Model (EFOE Model)を適用したところCt-endo, Ct, c-exoはリチウムが存在する面で,フロンティア軌道の広がり(EFOE density(%))及び試薬接近可能空間(PDAS(au3))が大きい.最も安定なCt-endoのexo側(リチウムの存在しない側)のPDASは19.7au3であり,この値は,シクロヘキサノンのアキシアル側のPDAS(19.4au3)と同程度である.そのため,メチル試薬は exo 側から接近不可能であることがわかる.また,Ct, c-exo も同様の考察から,endo 側のメチル化は困難であると考えられる(PDAS=17.9-23.4au3). さらに,EFOE densityが,Ct-endoのendo側,Ct, c-exoのexo側で大きい(1.540-1.780%)ことからもCt-endoはendo, Ct, c-exoはexo側で反応が進行すると考えられる.

この基底状態とつながっている遷移状態を計算したところ実験の選択性とよく一致した(Figure 3). 気相中では,endo-TS (trans)の経路が98%で,exo-TS (cis)が2%, THF中では,endo-TS(trans)が96%, exo-TSが4%であり,実験の選択性(99:1)に近く,5の系では溶媒効果はあまり重要ではないことが分かった.以上の結果から本反応の選択性は基底状態の安定性と構造的特徴(EFOE densityおよびPDAS)によって予測可能であることが明らかになった.

次に1,2の選択性を検討したところ溶媒効果を考慮しないと実験値を再現できないことがわかった.つまり二環性ラクタムでは,単環性の場合と異なり溶媒効果がかなり重要な因子になり得る可能性を見いだした.特に2の系は溶媒効果による安定化を受ける典型であり,下記に記すようなリチウムが環酸素とカルボニル酸素に配位した基底状態(2O)が気相中およびTHF中で最も安定であった.ところが,2Oと繋がっている遷移状態2TS-Oは気相中では不安定(0%)であったにも関わらず,THF中で非常に安定化され最も安定な遷移状態(95%)になった.この結果はTHFのような誘電率(ε=7.53D)が小さい溶媒に対しても溶媒効果を考慮すべきであるということを強く示唆している.

なお,3, 4についても同様に検討したところ類似の結果を得ている.

これまで多くの研究がなされてきたシクロヘキサノンのヒドリド還元などのように基質自身が大きな極性を持たない場合は気相中の計算により選択性の予測は可能であったが,エノラートなど極性が高い化学種の選択性を予測するときは溶媒効果を考慮すべきであるという知見を得た.

Rosenbergの系

Rosenbergらはブタン酸エステルエノラート(ethyl butanoate)のβ位に様々な置換基(X=OEt, OPh, tBu, OtBu, OMe, CF3, CH(COOEt)2, Ph, CN, CHMe2, CH2CMe3, CH2Me)を導入し, H/D交換反応を行なったところ全ての置換基で高選択的にα生成物が得られることを報告している.(下図)

Rosenbergらは,充分な量のクラウンエーテルを用い,リチウムを補足しながら実験を行うことによって,エノラートアニオンが反応種であるとしている.

一方,当研究室では,ヘテロ原子効果により選択性がどのように変化するかを検討するために3位の置換基をOMe, SMe, SeMeを導入し,3分の1当量程度のリチウム存在下で同様の研究を行ってきた.

本研究では,アンチペリプラナー効果を含め,面選択性の本質であるとみなされてきた遷移状態効果を検証し,鎖式系の選択性予測を試みた.その結果,リチウムエラノートの系では,置換基の金属に対する配位能等の諸条件によって反応に関与するリチウム原子の個数が異なる可能性を見いだした.さらにRosenbergが主張している「エノラートアニオンが反応活性種であるときの選択性はFelkin-Anhモデルにより説明可能である」という説明を検証した.その結果,最も安定な遷移状態(αTS-CN)は確かにFelkin-Anhモデルが提唱する構造であったが,それは見た目だけであり本質的ではないことをNBO法により明らかにした.(σOH→σ*CXおよびσCX→σ*CHの安定化エネルギーを定量的に求めたところ選択性とは無関係であることを示した.(最も大きな値はβ選択性を示すβTS-CNであった.))

まとめ

エノラートが関与する上記2つの反応系における面選択性の起源について量子化学計算により、溶媒効果を含めた予測理論の構築が必要であり,アンチペリプラナー効果などのような分子内での安定化よりも外的環境(溶媒効果)が選択性に効いているという新たな知見を得ることができた.今後、本研究の結果を基に,実験データのない未知の反応の選択性予測理論の確立への展開を考えている.

Diastereoselectivities of alkylation of Meyers-type enolates.

Possible enolates of 5. Arrows show endo/exo selectivity.

Transition structures of the alkylation of 5 (bond lengths are in Å and angles in degrees). Numbers indicate relative total energies in kcal mol-1 (ZPE-corrected)(top) and relative abundance (bottom; in parenthesis) in gas phase and in THF solution.

The structures of the most stable complex of 2O and of transition state of 2TS-O(B3LYP/6-31G(d); bond lengths are in Å and angles in degree).

H/D exchange reaction of β-X-ethyl-butanoate ester with ethanol-d.

Second-order perturbation analysis with natural bond orbital (NBO) method on the transtion state of H/D exchange reaction of 3-cyano methyl butanoate ester enolates with methanol.(HF/6-31+G(d))

審査要旨 要旨を表示する

本論文は4章から成り,第1章は序論,第2章はアミドエノラートの求核付加反応の場合,第3章はエステルエノラートの求核付加反応の場合,第4章は結論である.

近年,Meyersらは,天然物合成の鍵中間体として重要な二環性ラクタムエノラートのアルキル化反応で高選択的ジアステレオ面選択性を報告している.この反応は置換基の位置の相違,環酸素の位置の相違によって選択性が劇的に逆転することが分かっている.また,Rosenbergらはβ位に様々な置換基を導入したブタン酸エステルエノラートのH/D交換反応において高選択的にα生成物が得られることを報告している.この系は鎖状系であり,これまで面選択性の支配因子であるとされてきたアンチペリプラナー効果を検証するのに適している.筆者はこれらの面選択性の起源に興味をもち量子化学計算の手法により,これら二つの系について研究を行い,求電子反応に対する面選択性予測理論の構築を目指した.計算プログラムはGaussian 94, 98およびGAMESSを用い,溶媒効果(PCM法およびCPCM法)を用いて面選択の起源を理解し,予測理論の構築を自的として当研究室で開発されたEFOEモデルを適用することに成功した.具体的には次の2つのテーマである.

Meyersエノラートの面選択性

2-isopropyl-4-oxa-5-methyl-azabicyclo[3.3.0]octan-8-One(1),2-isopfopyl-3-oxa-azabicyclo[3.3.0]-octan-8-one(2), 2,2-dimethyl-oxa-5-methyl-azabicyclo[3.3.0]octan-8-onc(3)および3,3-dimethyl-4-oxa-5-methyl-azabicyclo[3.3.0]octan-8-one(4)のアルキル化反応において1,3は高選択的に endo (endo:exo=99:1) 体を生成するが,2,4は高選択的に exo (exo:endo=:99:1) 体を生成する.これらの選択性の起源は明らかにされていない.この選択性の起源を明らかにするために1,5-dimethylpyrro-lidin-2-one(5)をモデル化合物として選択性の起源を詳細に検討した.5の存在可能な化学種は5種類であるが,気相中で存在する主な化学種はCt-endo (98.3%) (Liがendo側からC=Cに配位)であった.このエノラート化学種に Exterior Fronteir Orbital Extension Model(EFOE Model)を適用したところ,フロンティア軌道の広がり(EFOE density(%)) 及び試薬接近可能空間(PDAS)が大きい側(リチウムの存在する側)から反応が有利に進行することがわかった.遷移状態も実験の選択性とよく一致したので,5の系では溶媒効果はあまり重要ではないことが分かった.

次に2のexo-選択性(99%)を検討したところ,Liが分子内で酸素原子に配位した3環性エノラートが最安定化学種であることがわかった.この化学種とMeBrとの反応のexo遷移状態が,分極が大きいために非常に大きな溶媒効果をうけることがexo選択性の原因であることを見いだした.この結果はTHFのような誘電率 (ε=7.53D) が小さい溶媒に対しても溶媒効果を考慮すべきであるということを強く示唆している.

なお,3, 4についても同様に検討したところ類似の結果を得ている.

エステルエノラートの面選択性

Rosenberg らはブタン酸エステルエノラート (ethyl butanoate) のβ位に様々な置換基(X=OEt,OPh,tBu,OtBu,OMe,CF3,CH(COOEt)2,Ph,CN,CHMe2,CH2 CMe3,CH2Me)を導入し,H/D交換反応を行なったところ全ての置換基で高選択的にα生成物が得られることを報告している.Rosenbergらは,充分な量のクラウンエーテルを用い,リチウムを補足しながら実験を行うことによって,エノラートアニオンが反応種であるとしている.一方,当研究室では,ヘテロ原子効果により選択性がどのように変化.するかを検討するために3位の置換基をOMe, SMe, SeMeを導入し,3分の1当量程度のリチウム存在下で同様の研究を行ってきた.本研究では,アンチペリプラナー効果を含め,面選択性の本質であるとみなされてきた遷移状態効果を検証し,鎖式系の選択性予測を試みた.その結果,リチウムエラノート系では,置換基の金属に対する配位能等の諸条件によって反応に関与するリチウム原子の個数が異なる可能性を見いだした.さらに Rosenberg が主張している「エノラートアニオンが反応活性種であるときの選択性は Felkin-Anh モデルにより説明可能である」という説明を検証した.その結果,最も安定な遷移状態 (αTS-CN) は確かに Felkin-Anh モデルが提唱する構造であったが,それは見た自だけであり本質的ではないことをNBO法により明らかにした.(σOH→σ*CXおよびσ*CX→σ*CHの安定化エネルギーを定量的に求めたところ選択性とは無関係であることを示した.(最も大きな値はβ選択性を示すβTS-CNであった.))

なお,本論文2章の一部は,友田修司との共同研究であるが,論文提出者が主体となって理論計算を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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