No | 118885 | |
著者(漢字) | 長尾,昌志 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ナガオ,マサシ | |
標題(和) | Si(100)におけるハロゲン化炭化水素の吸着過程と構造 | |
標題(洋) | The Adsorption Process and Structure of Halogenated Hydrocarbons on Si(100) | |
報告番号 | 118885 | |
報告番号 | 甲18885 | |
学位授与日 | 2004.03.25 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第4538号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 化学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 序論 有機分子によるSi(100)表面の化学修飾は学問的見地からだけでなく,将来の分子デバイス構築と関連して多くの研究が行われている。特にアルケン分子を吸着すると,アルケンの二重結合とSiのダイマーとが一対一で反応し,基板上に分子の配列を制御して吸着させることができるため特に興味がもたれている。このような有機分子/Si(100)ハイブリッド系を構築していくためには,有機分子が吸着する時の吸着過程を理解することが重要である。 アルケン分子がSi(100)表面に吸着した場合,多くの分子は図1 (d) に示すようなdi-σ結合を形成し化学吸着する。このアルケン分子の吸着過程についてはいくつかの研究1,2)が報告されており,前駆状態として,diradical intermediate state(図1(b)),three-atom intermediate state(図1(c))が提案されている。しかし,反応機構を調べた過去の実験的研究では化学吸着したあとの立体化学から前駆状態の構造を推察し議論しており,その構造の詳細は明らかでなかった。 本研究ではビニルブロマイド分子をSi(100)表面上に吸着することにより,分子が化学吸着する前の前駆状態を直接観測することに成功し,その構造を提案した。また,前駆状態から化学吸着への反応の速度論的パラメータを求めた。この結果からハロゲン元素が前駆状態の安定性に関与していることが推察される。そこで,置換基である臭素の数を2個にした,1,2-ジブロモエチレン,置換基を同族元素である塩素に変えた1,2-ジクロロエチレンについても吸着状態の研究を行った。その結果,ビニルブロマイドと同様に前駆状態を観測することができた。また,ハロゲンの一つであるフッ素と,水酸基を持つ1,1,1-トリフルオロ-2-プロパノールをSi(100)表面上に吸着し,その吸着状態を調べた。 実験 実験は超高真空チャンバー内で行った。Si基板は液体He, 液体N2, 固化N2, 液体N2中にHeガスを流す各手法により冷却し58Kから90Kの領域で測定を行った。Si(100)基板は通電加熱法により清浄化を行い,各有機分子はパルスドーザーを用いてチャンバー内に導入し吸着させた。表面振動スペクトルの測定は高分解能電子エネルギー損失分光 (HREELS) を用いて行った。 結果と考察 ビニルブロマイド/Si(100) 最初に異なる基板温度におけるビニルブロマイドの吸着状態の違いについて述べる。図2に58K, 90Kで submonolayer のビニルブロマイドを吸着した時のスペクトル,90Kで multilayer を形成した時のスペクトルをそれぞれ示す。multilayer のスペクトルのピーク位置はIRで測定した気相のビニルブロマイドのピーク位置と良く一致した。58Kと90Kのスペクトルを比較すると,その形状が大きく異なっていることから基板温度によって吸着構造が異なることがわかる。そこで,スペクトルから各温度での吸着構造を決定した。 90Kの吸着構造を決定するために90Kのスペクトルと multilayer のスペクトルを比較する。90Kのスペクトルでは1580cm-1 (νC=C) のピークが消失し,688(νSiC), 1087cm-1(νC-C) のピークが新たに現れ,3056cm-1 (νCH(sp2)) のピークが2920cm-1 (νCH(sp3)) にシフトした。νC=Cのピークが消失していることから,ビニルブロマイドの二重結合が反応していることが分かる。これは,νC-Cが現れていること,νCHが2920cm-1にシフトしていることからも支持される。また,νSiCが現れていることからSiC結合が新たに形成されていることが分かる。これらの結果から,ビニルブロマイドの二重結合はSi表面と相互作用して反応し,SiC結合を形成している。他のアルケン分子(エチレンなど)がSi(100)表面上に吸着した時も類似のスペクトルを示す。したがってそれらは同じ吸着構造を取ると考えられ,ビニルブロマイドはSi(100)表面にdi-σ結合を形成し化学吸着していると結論づけた。 次に58Kでの吸着構造を考える。58Kのスペクトルと multilayer のスペクトルを比較すると,58Kのスペクトルには multilayer に現れているすべての主要なピークがほぼ同じ位置に現れているのに加え,208cm-1に新たにピークが現れている。まず,主要なピークが位置をほとんど変化させていないことから,Si表面上に吸着したビニルブロマイドの内部結合はほとんど変化していないと考えられる。次に,58Kでビニルブロマイドの吸着量を変化させた時の各ピークの強度変化を測定すると,208cm-1のピークは飽和吸着するまではその強度が増大するが,それ以上吸着させても強度に変化はない。一方,他のピークは吸着量の増加とともにその強度が増大する。ピークの強度が飽和吸着量で最大になることから,208cm-1のピークはSi表面と分子との間の相互作用に由来するものと帰属した。以上の結果からビニルブロマイド分子は内部結合をほとんど変化させることなくSi表面と相互作用している。したがって吸着状態は,分子のπ電子がSiのダウンダイマー原子に電子を供与し結合を形成したものと考えられる。よって,その吸着構造は図1 (c) に示した three-atom intermediate state であると結論づけた。また,Si基板を加熱すると58Kのスペクトルは90Kで吸着した時のスペクトルヘと変化する。したがって,58Kの吸着状態は化学吸着を形成する前の前駆状態であると結論した。 58Kで前駆状態が,90Kで化学吸着状態がそれぞれ安定に観察された。したがって温度をその間で制御することにより,前駆状態から化学吸着への反応が測定できる。ビニルブロマイドを吸着し,スペクトルの経時変化を調べたところ83Kから88Kで時間とともにスペクトルの形状が変化した。その例の一つとして図3に87Kでビニルブロマイドを吸着した時の時間変化スペクトルを示す。このスペクトルから,ビニルブロマイドの吸着状態が時間とともに前駆状態(図3(a))から化学吸着(図3(c))へと変化していることがわかる。208cm-1のピークは前駆状態に特徴的なピークで,その面積強度が分子の吸着量に比例するので,面積強度の変化から前駆状態の量の変化が分かる。したがって,図3のスペクトルから時間と前駆状態の分子の量の関係が分かり,87Kでのビニルブロマイドの前駆状態から化学吸着への反応速度定数が求まる。同様の実験,解析を83Kから88Kで行うことにより温度と反応速度定数の関係を求めた。これらのデータを Arrhenius プロットすると図4のようになり,前駆状態から化学吸着への活性化エネルギーは283meV (Ea), 前指数因子は1.5×1013s-1と求まった。 過去の理論と実験の結果から,アルケン分子がSi(100)表面に吸着した時の吸着エネルギーは,前駆状態で約0.4eV (E1), 化学吸着で約1.6eV (E2) である。ビニルブロマイドが吸着した時の各吸着エネルギーもほぼ等しいとすると,それらのデータと本研究のデータを用いて反応過程のポテンシャルエネルギー図を描くことができる。その結果を図5に示した。 1,2-ジクロロエチレン/Si(100) 図6にcis-1,2-ジクロロエチレンを43Kで submono-layer 程度吸着した時と,90Kで multilayer を形成した時のスペクトルをそれぞれ示す。multilayer のスペクトルのピーク位置は気相のcis-1,2-ジクロロエチレンのIRスペクトルと良く一致した。43Kで submonolayer 吸着した時のスペクトルは,110, 200, 295cm-1のピークを除き multilayer に現れるピークと位置がほぼ一致した。このことから吸着した分子はその内部構造をほとんど変化させないことが分かる。次に multilayer のピークで帰属できなかった110, 200, 295cm-1のピークについて考察する。この3本のピークは,吸着分子が飽和吸着量吸着するまではその強度が増大するが,それ以上吸着しても強度は増加しなかった。したがって,分子と表面の間の相互作用に由来するピークであり hindered translation/rotationと帰属した。以上の結果から43Kでcis-1,2-ジクロロエチレンが吸着した時,その内部結合による振動ピークは凝集分子と同じ位置に現れ,さらに基板と分子間の相互作用に由来するピークが現れる。同様の結果がビニルブロマイドの場合でも得られていることから,その吸着構造はほぼ同じと考えられる。したがって,その吸着構造は図1(c)の様になると考えられる。また,分子を吸着した後110K以上に加熱すると吸着構造が変化しC-Cl結合が解離した吸着種とC=C二重結合が反応した吸着種が観察された。したがって,基板温度を加熱することで図1(c)の吸着状態から化学吸着状態(解離吸着やdi-σ結合など)へと吸着状態が変化している。このことから,43Kで観察した吸着状態は化学吸着を形成する前の前駆状態である。 論文中では,trans-1,2-ジクロロエチレンの吸着状態についても同様に考察し,cisの場合と同様に図1(c)の吸着状態をとることが分かった。そして,cis-, trans-1,2-ジクロロエチレンの低被覆量のスペクトルを multilayer のスペクトルと比較することにより前駆状態における吸着分子の分子面の向きについて考察し,分子面がSi表面とほぼ平行であることを明らかにした。また,cis-1,2-ジクロロエチレンが前駆状態で吸着している時の電子遷移について研究を行い,その結果分子は down dimer 原子に吸着していることが示唆された。さらに,900Kまでの各温度での分子の吸着状態について考察した。 1,2-ジブロモエチレン/Si(100) 1,2-ジブロモエチレンを90KでSi(100)表面上に吸着し,その吸着状態を調べた。その結果,ビニルブロマイド,1,2-ジクロロエチレンの場合と同様にthree-atom intermediates state で安定に存在することが分かった。また,分子を吸着した後,基板を加熱し吸着状態の温度依存性を測定した結果,1,2-ジブロモエチレンは110K以上で化学吸着状態を形成することが分かった。よって,90Kでの吸着状態は前駆状態である。さらに,900Kまでの各温度での吸着状態について考察した。 1,1,1-トリフルオロ-2-プロパノール/Si(100) 90,300Kで1,1,1-トリフルオロ-2-プロパノールがSi(100)表面上へ吸着した時の吸着状態について調べた。その結果,90,300Kどちらの温度でもO-H結合が切れて解離吸着していることが分かった。また,1,1,1-トリフルオロ-2-プロパノールを1050Kまで加熱した時の吸着分子の分解について検討を行った。 結論 58Kから90KでビニルブロマイドがSi(100)表面に吸着した時の吸着状態を明らかにした。その結果,90KではビニルブロマイドはSiダイマーとdi-σ結合を形成し化学吸着していることが分かった。また,58Kでビニルブロマイドは前駆状態として安定に吸着し,その構造はthree-atom intermediate state(図1(c))であることを解明した。さらに,前駆状態から化学吸着への活性化エネルギー,前指数因子をそれぞれ283meV, 1.5×1013s-1と求めることができた。また,ビニルブロマイドと類似した1,2-ジクロロエチレン,1,2-ジブロモエチレンの吸着状態を調べ,90Kで両方の分子は three-atom intermediate state を取ることを明らかにした。さらに,それらの分子が90から900Kの各温度でとる吸着構造について考察した。以上の結果は,アルケン分子のSi(100)表面への[2+2]環化付加反応が,中間体(図1(c))を経して進行することを初めて証明した物である。 また,1,1,1-トリフルオロ-2-プロパノールの吸着状態について調べ,90,300KでO-H結合が切れて解離吸着することが分かった。 現在までに提案されたアルケン分子がSi(100)表面に吸着する時の吸着過程モデル ビニルブロマイドをSi(100)表面に吸着した時のHREELSスペクトル。(a)58K, (b)90Kで submonolayer 吸着,(c) multilayer 87KでビニルブロマイドをSi(100)表面に吸着した時の時間変化HREELSスペクトル 前駆状態から化学吸着状態への反応の Arrhenius プロット ビニルブロマイドがSi(100)表面に吸着する時のポテンシャルエネルギー図 cis-1,2-ジクロロエチレンをSi(100)表面に吸着した時のHREELSスペクトル。(a) 43Kで submono-layer, 90Kで multiplayer。 | |
審査要旨 | 有機分子によりシリコン表面を化学修飾して新しい機能を持ったハイブリッド表面を構築することは,分子デバイスやセンサーなどへの応用を探索する上で重要であり興味が持たれている.本論文では,高分解能電子エネルギー損失分光 (HREELS) を主たる分析手法として,Si(100)c(4x2) 表面におけるハロゲンを含んだ有機化合物の吸着過程と構造を詳細に研究した.2重結合をもつアルケン分子はSi (100) 表面にdi-σ結合(環化付加反応)することが知られている.これは有機分子をSi(100)表面に結合させる基礎反応として重要であるが,そのメカニズムは未解明のままであった.本研究によりdi-σ結合への前駆状態が実験的にはじめて観測され,反応メカニズムが解明された. 本論文は8章からなり,第1章は序論,第2章は実験法,第3章は実験手段の基本原理,第4章はSi(100)c(4x2)表面におけるビニルブロマイドの吸着過程と吸着状態,第5章はSi(100)c(4x2)表面における1,2-ジクロロエチレンの吸着状態,第6章はSi(100)c(4x2)表面における1,2-ジブロモエチレンの吸着状態,第7章はSi(100)c(4x2)表面における1,1,1-トリフルオロ2-プロパノールの吸着状態,第8章は結論が述べられている. 第1章では,研究の背景を述べ,これまでに知られている実験的および理論的研究のレビューを行い,本研究の位置づけを行なった. 第2章は,本論文で用いられた実験装置と試料作成について述べられている.用いられた表面解析手段は,低速電子回折 (LEED),高分解能電子エネルギー損失分光 (HREELS),昇温脱離質量分析などである.本研究では,試料を液体ヘリウムや液体窒素を用いて冷却し温度を精密に制御することが実験において鍵であり,この点について詳述されている. 第3章では,表面振動分光,特にHREELSの原理や選択則についてやや詳しく述べられている. 第4章では,Si(100)(2x1)表面におけるビニルブロマイドの吸着過程と吸着状態についてHREELSを用いて振動スペクトルを測定し,解析を行なった.58Kから90Kで弱く吸着したビニルブロマイド(π吸着錯体)がHREELSにより観測された.一定温度でのスペクトルの時間変化を測定することにより,「π吸着錯体」からdi-σ結合へ変化していく様子を測定することができた。その結果から,「π吸着錯体」はdi-σ結合を形成する前の前駆状態であることがわかった。さらに,時間変化するスペクトルを定量的に解析することにより,速度論的パラメータを得ることができた.「π吸着錯体」からdi-σ結合への活性化エネルギーは283meV, 前指数因子は1.5x1013S-1と見積もられた.また,79Kで吸着量に対するスペクトルの変化を測定することにより,吸着した分子同士の相互作用で「π吸着錯体」からdi-σ結合への反応が促進されることを明らかにした. 第5章と第6章では,アルケン分子がdi-σ結合するときの前駆体が「π吸着錯体」であることを一般化し,また前駆体の構造について詳しい知見を得るために,他のハロゲン化炭化水素についても研究を行った.その結果,1,2-ジクロロエチレン,1,2-ジブロモエチレンの場合も同様に「π吸着錯体」が存在することが明らかになった.cis および trans-1,2-ジクロロエチレンの「π吸着錯体」の振動スペクトルおよび電子遷移スペクトルから,分子面が表面にほぼ平行であること,分子はSi(100)c(4x2)表面の非対称ダイマーのダウンダイマー原子にπ電子を供与する形で吸着していることを示唆する結果を得た.また,ジブロモエチレンを吸着したことによって形成される「π吸着錯体」はビニルブロマイドの場合と比較すると熱的に安定であることを明らかにした.このことから,エチレンの臭素誘導体の場合は臭素置換基の数が増えると「π吸着錯体」は安定になることがわかった。 第7章では,Si(100)表面における1,1,1-トリフルオロ 2-プロパノールの吸着状態をHREELSを用いて詳細に解析した.その結果,90Kから300Kの領域でOH結合が切断されSi-ORおよびSi-Hが形成されることが解明された.さらに,1050Kまでの加熱による分解反応についても解明した. 第8章は結語であり,本論文によって初めて解明されたS1(100)c(4x2)表面におけるハロゲン化アルキルの前駆状態を経由した吸着過程と吸着構造,および,1,1,1-トリフルオロ 2-プロパノールの吸着状態についてまとめられている. なお,本論文の第2章,第4章,第5章,第6章は,吉信淳,山下良之,向井孝三,梅山裕史,第7章は吉信淳,山下良之,向井孝三,長岡伸一,田中慎一郎との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験とその解析を行なったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.したがって,審査員全員により,博士(理学)の学位を授与できると認めた. | |
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