No | 118888 | |
著者(漢字) | 松村,大樹 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | マツムラ,ダイジュ | |
標題(和) | 分子の吸着によって誘起されるニッケル及びコバルト薄膜のスピン再配列 | |
標題(洋) | Spin reorientation transition of nickel and cobalt thin films induced by molecular adsorption | |
報告番号 | 118888 | |
報告番号 | 甲18888 | |
学位授与日 | 2004.03.25 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第4541号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 化学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 主な磁性原子が属する3d遷移金属原子においては、外殻軌道である3d軌道の軌道角運動量は配位子場によって大部分消失しているものの、わずかに残存した軌道角運動量がスピン-軌道相互作用を通じて、結晶磁性体における磁気異方性を作り出す。この磁気異方性エネルギーの値はおよそμeV/原子と小さいものであり、現象としては磁石がどの方向を向くかという簡単な問題であるものの、遍歴磁性体における磁気異方性の問題は理論的解釈が難解なものとなっている。ところがポテンシャルの対称性の断裂が生じている表面や界面のような場においては、バルクと比べて磁気異方性エネルギーは3桁程度も高くなっていると考えられている。そしてその影響が強く作用する磁性薄膜では、磁気双極子相互作用としてはエネルギー的に最も不安定な配置である垂直容易磁化軸を始めとする、バルク状態では見られない多様な磁気異方性が引き起こされている。 一方、金属表面における吸着現象の研究は、主に触媒反応機構の解明という観点から始まり、その吸着状態や構造が数多くの系において調べられてきた。それにより、吸着分子が温度や面指数といったパラメータによって様々な配置を取ることや、表面における反応性が吸着様式によって異なることなどが明らかになっている。吸着現象は表面磁性原子との化学結合を通して、磁性薄膜の強い表面磁気異方性に様々な影響を与える可能性も考えられる。本研究においてはこのような表面化学的視点を考慮に入れ、表面における気体分子の吸着現象と磁性薄膜における磁気異方性との間に生まれる相互作用を理解することで、表面化学と磁気物性との接点を見出すことを目標とした。放射光軟X線を用いたX線光電子分光法 (XPS) やX線光電子回折法 (XPD) は吸収分子の配向や電子状態、吸着サイトに関する情報を与える方法であり、また、X線磁気円二色性 (XMCD) は元素選択的に磁気的性質を調べる有用な方法である。本研究ではこれら内殻分光法を用いることで、特定の膜厚において垂直方向の容易磁化軸を持つ銅(001)上のニッケル薄膜及びパラジウム(111)上のコバルト薄膜に対して、表面に水素や一酸化炭素などの気体を吸着させた際の磁気物性の変化を調べた。 XMCD、XPS、XPD等の測定は、私が所属する研究室が中心となって製作した軟X線ビームラインBL-7Aにて行なった。Co/Pd(111)磁性薄膜上に基板温度200KにてCOを吸着させると、それまで表面平行方向の磁化を持っていたCo薄膜が、表面垂直方向へとスピン再配列を起こしうることを、Co LIII,II端におけるXMCDの測定によって発見した。各膜厚でのCO吸着前後の表面平行方向と垂直方向の磁化の変化の様子を図1に示す。これから、CO吸着前は転移膜厚が3.5MLであり、垂直方向の容易磁化軸はそれ以下の領域においてのみ出現することが分かる。一方、基板温度200KにてCOを吸着させた薄膜は転移膜厚が6.5MLであり、吸着前と比べて厚い方向に3MLほどシフトしている。CO吸着前後の転移膜厚に囲まれた3.5-6.5MLの領域では、CO吸着により表面平行方向から垂直方向へのスピン再配列が発生する。同様な現象は、Ni/Cu(001)磁性薄膜上にHまたはCOを吸着させた際にも観測され、特に図2にあるようにHの吸着においては、昇温脱離に伴う可逆的なスピン再配列を行なうことが分かった。これらの現象は、ある条件においては気体分子の薄膜表面への吸着が、表面垂直方向の磁化軸を安定化させることを示している。 磁気異方性に寄与するのは軌道磁気モーメントであり、この吸着前後の変化を観察することで、磁気異方性に関する直接的な知見を得ることが出来る。XMCDスペクトルから得られたCO吸着前後におけるCo/Pd(111)の軌道磁気モーメントの値を図3に示す。これから、COの吸着は表面垂直方向の軌道磁気モーメントには大きな影響を与えないものの、表面平行方向の軌道磁気モーメントには減少させる作用を持っていることがわかる。表面という場に着目すると、面外軌道の方が面内軌道と比べて軌道角運動量の消失が起こりにくいと考えられることから、薄膜表面は平行方向を嗜好する磁気異方性を持っているであろうと思われる。COの吸着はそれを弱める方向に作用しており、その結果として垂直方向の容易磁化軸が安定化されるものと考えられる。また、Ni/Cu(001)においては、HとCOそれぞれの吸着に対しての軌道磁気モーメントの変化を観測し、これらは一見同様なスピン再配列を引き起こすものの、その要因が異なっていることを見出した。このような作用は、COが分子軸を表面垂直方向に保ったまま吸着し、Hは原子状態になり表面の孔に吸着するというモデルによって解釈が可能であり、表面吸着現象による磁気異方性の変化の起因を、初めて原子レベルの視点から理解することが出来た。 一方、Co/Pd(111)においては、基板温度を300KにしてCOを吸着させた場合には転移膜厚の変化が起きず、200K吸着の際のような垂直容易磁化軸の安定化は観測されないことが分かった。この相違は単なる吸着温度の違いによる吸着量の差ということで理解できる問題ではなく、新たな立場からの解釈が求められる。そこで、表面における局所的な吸着構造を決定するために、XPSによって表面吸着種の化学シフトを観測した。図4に見られるように300K吸着時のC1sスペクトルは一本のピークからなり、吸着サイトが一種類であることを示している。一方、200Kにおける吸着では300K吸着の際と同様なピークに加えて肩構造のピークが現れており、複数の吸着サイトがあることを示している。これらの吸着構造を決定するために、入射光エネルギーを変化させたXPDを観察することによって吸着サイトの帰属を行なった。その結果、図5に示すように、300Kの吸着においては atop サイトにCOが吸着するというモデルで良く再現できることがわかった。一方、200Kにおける吸着構造に対しては、300K吸着の場合と同様な atop サイトへの吸着に加えて、半分程度の量が bridge あるいはhollowサイトへランダムな吸着を起こしているというモデルで解釈できた。このように、異なる磁気異方性の変化を引き起こす2つの吸着温度に対して、それぞれの表面吸着構造が異なっていることを明らかにできた。 表面吸着構造と磁性薄膜の磁気異方性との関連性を探るために、XMCDとXPSを同一条件下で測定した。図6には吸着-昇温脱離-再吸着といった一連のCOの表面吸着状態の変化に対して、COの atop サイト吸着量、bridge (hollow) サイト吸着量と、それに対応するCo薄膜の垂直磁化の立ち上がり、消失といった変化の様子をまとめた。bridge (hollow) サイトへの吸着及び脱離がCo薄膜のスピン再配列と良く対応していることが見てとれる。このことから、CO分子の表面吸着現象が引き起こすCo薄膜の磁気異方性変化は、表面におけるCO分子の吸着様式に依存しているということがわかった。これはエネルギー的に再安定な吸着サイトである atop サイトへの吸着は磁気異方性に影響を与えず、bridge (hollow) サイトへの吸着のみが磁性薄膜のスピン再配列を引き起こしているということである。このように、これまで現象としては表面吸着による磁性薄膜の磁気異方性変化が見出されていたが、本研究では化学吸着が引き起こす磁性薄膜の表面軌道磁気モーメントの異方的な変化、及び、表面吸着構造と薄膜の磁気異方性との関連性を発見し、電子状態と構造それぞれの原子レベルからの視点において、気体分子が磁性薄膜に与える磁気物性の変化の起因を明らかにすることに成功した。これは薄膜磁性における表面化学的立場からの研究の重要性を示しているものと考えられる。 200KでのCO吸着前後における表面垂直方向(実線、●)と平行方向(破線、▲)のCo/Pd(111)のスピン磁気モーメント。影付きは垂直磁化領域。 Ni/Cu(001)における水素吸着及び脱離過程の際の、主に垂直磁化を見る直入射(実線)と主に平行磁化を見る斜入射(破線)のXMCDスペクトル。 Co/Pd(111)の200KでのCO吸着前後における軌道磁気モーメント。〓は清浄表面膜、×はCO吸着膜。 Co/Pd(111)のCO吸着温度200Kと300Kにおける、励起光エネルギー430eVでのC 1s X線光電子分光。 Co/Pd(111)のCO吸着温度300Kでの5種類の電子放出角に対するXPDスペクトル。実線は実験結果で破線はatopサイトへの吸着モデルに対するシミュレーション結果。 吸着及び脱離の一連の変化におけるCOのサイト別吸着量及びCoの垂直磁化。 | |
審査要旨 | 磁性薄膜はバルク磁性体には見られない多様な結晶磁気異方性を示すことが知られている。本研究では,磁気化学と表面化学の両面から磁性薄膜のスピン再配列の問題を取り扱っている。 本論文は6章からなる。第1章は序論であり,磁性薄膜研究の歴史,薄膜の磁気異方性の重要性,具体的にNi/Cu(001), Co/Pd(111)系でのこれまでの研究について触れ,磁気異方性にたいする現象論的な解釈について述べている。 また,薄膜の表面における問題として,分子吸着が及ぼす構造変化,磁性の変化について述べ,この論文で取り扱う範囲について説明している。 第2章は実験手法である。これらは主として内殻分光法であり,X線吸収分光法,X線磁気円二色性 (XMCD), X線光電子分光法 (XPS), X線光電子回折法 (XPD) について,その原理と,どのような情報が得られるかついて述べられている。 第3章は表面分子吸着によってスピン再配列転移の起こる膜厚がどのように変わるかをXMCDの実験によって明らかにしている。系としてはCo/Pd(111), および,Ni/Cu(001)を選び,前者についてはCO吸着,後者についてはCOとH吸着を行っている。 その結果,Co/Pd(111)系では,200Kにおいて,清浄表面では3.5MLで垂直磁気異方性が面内に転移するのに対し,CO吸着によって6.5MLまで転移膜厚が広がることを示した。同様な現象はNi/Cu(001)薄膜でも観測された。特に,H吸着の場合には,昇温脱離に伴う可逆的なスピン再配列を見出している。さらに,XMCDスペクトルを磁気総和則を用いて解析し,軌道磁気モーメントが膜厚によってどのように変わるかを調べている。そして,COの吸着は表面垂直方向の軌道磁気モーメントには大きな影響を与えないものの,表面平行方向は減少させる作用を持っていることを明らかにした。これに対して,H吸着の効果は一見同様な効果を起こすものの,表面垂直,平行両方の軌道磁気モーメントを減少させる。これらの違いはCOが atop サイトに吸着するのに対して,Hは原子状に表面の hollow サイトに吸着するというモデルで解釈が可能であり,表面吸着現象による磁気異方性の変化の起因を原子レベルの視点から理解できた。 第4章は4.6ML Co/Pd(111)系でCO吸着による磁気相転移の温度変化を調べている。その結果,200Kでは顕著な転移が起こるものの,300Kでは起こらないことが分った。 この違いは単なる吸着温度の違いによる吸着量の差では解釈できない。そこで,XPSによってC 1sのスペクトルを観測した。300Kでは一本のピークからなり,吸着サイトが1種類であることが分った。一方,200Kでは新たに肩構造が現れており,複数の吸着サイトがあることを示している。温度変化とCO吸着脱離の過程でXMCDとXPSの実験を行い,肩構造の存否が垂直磁気異方性と密接に関係していることを明らかにした。 第5章では第4章で得られたXPSの化学シフトと吸着サイトの関係を明らかにするために,C 1sのエネルギー掃引型XPD実験による構造解析を行っている。その結果,300KではCOが atop サイトに吸着しているとする構造モデルが合うこと,200Kでは,これ以外に,bridge サイトか hollow サイトがわずかに混ざった構造があることが分った。肩構造が小さいため (0.1ML), 構造を一義的にきめることは不可能であったが,これから,垂直磁気異方性に転移することに関係しているのは atop サイトに吸着したCOではなく,bridge あるいは hollow サイトに吸着したわずかのCOであることが明らかになった。 第6章は結論と要約である。 以上のように,本論文は,表面磁性において,分子吸着による磁気相転移の現象を表面化学の観点から詳細に調べ,分子の吸着構造とスピン再配列の相関を明らかにした初めての研究であり,表面科学,磁気化学の分野での貢献が大きく,博士(理学)に値する。 なお,本論文は太田俊明,雨宮健太,横山利彦,北川聡一郎との共同研究であるが,論文提出者が主体となって案験,解析,及び,考察を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって,博士〈理学〉の学位を授与できると認める。 | |
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