学位論文要旨



No 118900
著者(漢字) 稲継,理恵
著者(英字)
著者(カナ) イナツギ,リエ
標題(和) シロイヌナズナのCDP-コリン合成酵素イソ遺伝子に関する分子生物学ならびに逆遺伝学的研究
標題(洋) Molecular biological and reverse genetic studies of the isogenes for CTP : phosphorylcholine cytidylyltransferase in Arabidopsis thaliana
報告番号 118900
報告番号 甲18900
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4553号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 西田,生郎
 東京大学 教授 福田,裕穂
 東京大学 教授 池内,昌彦
 東京大学 助教授 杉山,宗隆
 東京大学 助教授 和田,元
内容要旨 要旨を表示する

序論

生育場所を変えることのできない植物は,周囲の環境の変化に対応するために自らの生理状態を変化させる.この現象は馴化と呼ばれる.例えば低温に曝された植物は,細胞の脂質組成を変化させ,環境に適した生体膜系を作り出すと考えられている.そのような変化の一つとして,低温でのリン脂質組成の変化が古くから知られる.ホスファチジルコリン(PC)は植物細胞の色素体膜以外の生体膜を構成する主要なリン脂質であり,色素体膜糖脂質の生合成前駆体としても重要である.またPCは,脂肪酸の不飽和化反応を司るアシル脂質不飽和化酵素の基質として生体膜の流動性の調節に関与するほか,乾燥ストレスシグナルの伝達過程でセカンドメッセンジャーとして働くホスファチジル酸を生成するホスホリパーゼDの基質でもある.低温においては,多種の低温耐性植物でPCが増加することが報告されており,これが凍結温度下での細胞の生存率上昇などに寄与するという仮説がたてられている.これらはいずれも生理学的な研究に基づくもので,分子生物学的な視点からその意義を明らかにする試みはまだ行われていない,低温でのPC増加の意義を明らかにするためには,低温に応答したPC生合成活性化の分子機構を明らかにし,さらにその機構の破壊による影響を解析することが必要である.

真核生物のPC生合成にはいくつかの経路が知られるが,植物ではCDP-コリン経路が主要と考えられている.そこで,本研究では,CDP-コリン経路上の鍵酵素でCDP-コリンの生合成を司るCTP:phosphorylcholine cytidylyltransferase (CCT; EC 2.7.7.15)に着目し,低温耐性植物であるシロイヌナズナで,低温に応答した遺伝子発現と酵素活性の細胞内での挙動を調べた.

結果

シロイヌナズナには2つのCCT遺伝子が存在する

シロイヌナズナゲノムには2つのCCT遺伝子が登録されている.既に機能が同定されていたAtCCT1 (At2g32260)と,機能未同定であったAtCCT2 (At4g15130)について,それぞれゲノム遺伝子断片及びcDNAを単離した.さらにこれらイソ遺伝子の翻訳産物の組換えタンパク質を作製し,CCT活性を持つことを確認した.また,植物の全ての器官でAtCCT1およびAtCCT2のタンパク質が検出されたことから,これらのイソ遺伝子が構成的に発現することを示した.

低温におけるAtCCT1およびAtCCT2の発現

低温におけるCCTイソ遺伝子の発現を,RNAゲルブロット法およびイムノブロット法で解析した.23℃で生育させたロゼットを2℃で処理すると,AtCCT2の転写産物レベルは処理後12時間で処理前の約6倍に増加し,AtCCT2タンパク質も処理後96時間で約3倍に増加した.一方AtCCT1は,転写産物,タンパク質レベルともに168時間の低温処理の間ほとんど変化しなかった.これらの結果は,2つのCCT遺伝子のうちAtCCT2のみが低温によって発現増強を受けることを示す.しかし,このような発現制御の生理的な意義は依然不明であり,低温でのCCTアイソザイムそれぞれの役割について詳しく検討する必要があった.そこで以下の項では,CCT遺伝子破壊株を単離することにより,これらの問題に取り組んだ.

CCT遺伝子破壊株の単離

シロイヌナズナT-DNAタグラインからAtCCT1刀およびAtCCT2の破壊株,cct1株およびcct2株,を単離した.cct1株ではT-DNAがAtCCT1の第6イントロンに,cct2株ではT-DNAがAtCCT2の第2エキソンに挿入されており,RNAゲルブロット法およびイムノブロット法でそれぞれに由来するシグナルは検出されなかった.これらの結果から,cct1株とcct2株はいずれも,それぞれのCCTイソ遺伝子の機能が完全に破壊された株であると考えられた.

CCTイソ遺伝子の相補性

23℃で生育させた破壊株のCCT活性は,cct1株で野生株の約20%, cct2株で約70%に減少していた.しかしcct1株およびcct2株のPC含量はいずれも野生株と同レベルで,個体の生育も野生株と違いがなかった.また,低温処理7日後のPC含量も,これらの破壊株と野生株で同じレベルだった.これらの結果から,常温および低温で,いずれか一方のCCT遺伝子の発現で通常のPC量維持に充分であることが示された.

cct2株のロゼット葉のCCT活性は,野生株とcct1株と同様に低温処理によって増加した.これは,cct2株では低温で転写産物レベルがほとんど変化しないAtCCT1のみが発現していることを考えると興味深い結果であった.

細胞内のCCT活性分布とCCT遺伝子破壊株を用いた低温におけるPC合成活性化機構の再評価

低温におけるcct2株のCCT活性上昇を説明する一つの考え方は,AtCCT1の翻訳後の活性調節である.AtCCT1の活性調節のしくみを詳細に検討するために,まず,CCT活性の細胞内分布を調べた.野生株のロゼット葉破砕液を遠心分画し,各画分のCCT活性を比較したところ,15kxgと150kxgの膜画分で顕著に高い比活性が検出された.また,7日間低温処理後の試料では,15kxgと150kxgの膜画分で比活性が上昇した.これらの結果から,シロイヌナズナ細胞内のCCT活性は,通常の温度下で主に15kxgと150kxgの膜画分に分布し,低温環境下ではこれらの画分でさらに上昇することが明らかとなった.

次にcct1株およびcct2株について同様の遠心分画を行い,各画分のCCT活性と,イムノブロット解析によるCCTイソタンパク質の分布との相関を調べた.cct1株では,低温処理により15kxgおよび150kxg膜画分でCCT比活性が顕著に上昇した.また,これらの画分でのAtCCT2タンパク質の増加率は,活性の増加率とほぼ平行関係にあった.これらの結果は,cct1株のこれらの膜画分における低温でのCCT活性の上昇は,AtCCT2タンパク質の増加に起因することを示唆している.一方,cct2株では,低温処理後の15kxg膜画分の活性の上昇はわずかで,AtCCT1タンパク質もほとんど増加しなかった.それに較べて150kxg膜画分では,低温処理によるAtCCT1タンパク質の増加は1.07倍とわずかであったのに対し,活性は1.85倍と顕著に増加した.これらの結果から,低温における150kxg膜画分のCCT活性の上昇は,AtCCT1タンパク質の量の増加によるものではなく,AtCCT1タンパク質の翻訳後の活性化に起因すると考えられる.これらの結果から,AtCCT1とAtCCT2は低温によってどちらも膜画分のCCT活性を上昇させるが,それぞれ異なる機構によるものであることが示された.

CCT二重破壊株でのPC合成

前項までに,AtCCT1のATCCT2のうち一方を破壊しても常温および低温下でのPC量には影響がないことを示した.そこでCCT活性がさらに抑制される二重破壊株,cct1 cct2株を作出し,PC生合成と生長への影響を調べた.23℃で生育させたcct1 cct2株のPC含量は野生株よりわずかに減少したが,生育は野生株と変わりがなかった.cct1 cct2株では,イムノブロット法によってCCTイソ遺伝子の翻訳産物はどちらも検出されなかったが,ロゼット葉破砕液のCCT活性は野生株の約8%残存していた.また[methyl-14C]コリンのパルスラベル実験を行ったところ,cct1 cct2株では,速度は低下するものの,CDP-コリン経路を介したPC合成が行われていた.これらの結果は,cct1 cct2株は23℃の生育において残存レベルのCCT活性で通常のPC量を維持できることを示す.

ここで,CCTイソ遺伝子を欠損するcct1 cct2株において,CCT活性を発現する酵素の実体は何かという疑問が持たれた.酵母・動物などの研究から,CDP-エタノールアミン経路上でPE合成を支配するCTP:phosphorylethanolamine cytidylyltransferase (ECT; EC 2.7.7.14)は,in vivoではphosphorylethanolamineに対する基質特異性が高いと考えられてきた.しかし我々の研究室では,シロイヌナズナECT (AtECT1)の大腸菌発現タンパク質がin vitroでCCT活性を発現することが確認されていた.そのため,AtECT1がin vivoでもCCT活性を発現する可能性が考えられた.この可能性を調べるために,シロイヌナズナAtECT1過剰発現株S051株のECT活性およびCCT活性を野生株と比較したところ,ECT活性は約10倍,CCT活性も約2倍に増加していた.S051株のCCTイソタンパク質のレベルはいずれも野生株と同じであったので,S051株で増加したCCT活性はAtECT1由来である可能性が示唆された.したがって,cct1 cct2株の残存CCT活性の少なくとも一部はAtECT1のCCT活性に起因する可能性が考えられる.このようなcct1 cct2株でのPC生合成は,植物の中性リン脂質合成経路において,CCTとECTが相補性を持つ可能性を示した点で新しい結果といえる.

CCT遺伝子二重破壊の生理的影響

前項で示したように,cct1 cct2株は23℃下の生育では通常のPC量を維持していたが,低温のようにPC含量を増加させる生育環境に対しては十分適応できない可能性が考えられた.そこで,23℃で生育させたcct1 cct2株を2℃に移してPC含量の変化を調べたところ,低温処理後7日目までは野生株と同等に増加したが,処理14日後には処理前のレベルまで低下した.この結果は,cct1 cct2株は長期にわたる低温での生育で正常なPC量を維持できないことを示す.次に,長期の低温環境下でのPC含量の低下が,実際の生育に影響するか調べるため,8℃で長期間栽培したcct1 cct2株の生育を野生株と比較したところ,cct1 cct2株ではロゼット葉の成長および花茎の伸長が抑制された.これらの結果は,人工栽培室内の好適な環境下ではcct1 cct2株は野生株と同様の生育を示せても,様々な環境ストレスに直面する野外においては,CCT活性の欠損が個体の生存や繁殖に不利な形質になりうることを示唆する.

まとめ

・シロイヌナズナの2つのCCT遺伝子のうち,AtCCT2は低温処理によって発現が増加し,もう一方のAtCCT1はタンパク質レベルで活性調節を受けることにより,ともに低温でのPC合成活性化に寄与することを明らかにした.・2つのCCT遺伝子それぞれの破壊株は,常温および低温下で通常のPC合成と生育が可能であること,すなわちこれらの遺伝子が互いに相補可能であることを示した.・CCT遺伝子二重破壊株は,常温ではECTのCCT活性を利用したPC合成により正常な生育が可能であるが,長期の低温環境下でのPC量の維持に欠損を示し,個体の成長にも遅延が見られたことから,環境への適応能力に対するCCTの寄与を明らかにした.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は三章からなり,第一章ではシロイヌナズナのCDP-コリン合成酵素(CCT)イソ遺伝子の単離と低温でのイソ遺伝子特異的な発現強化機構の発見,第二章ではCCTイソ遺伝子破壊株の単離とその株を用いた低温でのイソ遺伝子特異的な活性調節機構の発見,第三章ではCCTイソ遺伝子二重破壊株の作出とその株を用いた長期低温生長におけるCCT遺伝子の重要性の発見およびCCT遺伝子欠損を相補するECT遺伝子産物の新奇機能の発見について述べている.審査では,35分間の口頭発表ののち,40分間の質疑応答および一般的知識に関する口頭試問を行った.論文の要旨は以下の通りである.

植物は周囲の環境の変化に応答して自らの生理状態を変化させる.低温におけるホスファチジルコリン(PC)の増加はその一例で,多種の低温耐性植物で報告されている.低温での不飽和度の高いPCの増加は,生体膜の流動性の調節に関与するほか,凍結・融解条件下での細胞の生存率上昇に寄与するという仮説もたてられている.しかし,これらの知見は生理学的な研究に基づくもので,分子生物学的・遺伝学的な視点からの研究はまだ行われていない.論文提出者は,低温でのPC増加の意義の解明には,まず低温に応答したPC生合成の活性化の分子機構を明らかにし,さらにその機構の逆遺伝学的解析が必要であると考えた.そして植物のPC生合成を担うCDP-コリン経路上の鍵酵素CCTに着目し,シロイヌナズナを用いて低温でのPC合成活性化機構とその意義の解明に取り組んだ.

第一章では,まだ単離例のなかったAtCCT2遺伝子を単離し,in vitroで組換タンパク質のCCT活性を確認した.野生株(Col)の各器官でAtCCT1およびAtCCT2は構成的に発現するが,ロゼット葉においてAtCCT2のみが低温に応答して発現増強されることを明らかにした.

第二章では,AtCCT1およびAtCCT2の遺伝子破壊株(WS由来)を単離した.Colでの低温による発現増強が第一章で明らかにされたAtCCT2は,WS由来のAtCCT1破壊株でも低温で発現上昇しCCT活性を増加させることが示された.一方AtCCT2破壊株では,低温でAtCCT1タンパク質レベルが変化しないにも関わらずCCT活性増加が見られたため,AtCCT1タンパク質が低温で活性化される可能性が示唆された.遠心分画法によって低温処理前後のAtCCT1タンパク質の細胞内分布とCCT比活性を比較することにより,ミクロゾーム膜画分に結合したAtCCT1タンパク質が低温特異的に活性化されることを明らかにした.以上の結果は,2つのCCTイソ遺伝子は異なる機構によっていずれも低温でのPC合成活性化に寄与することを示している.このような低温に応答したCCT活性の制御機構は動物細胞には見られないため,植物が低温環境へ適応する過程で独自に獲得したものと考えられる.

第三章では,CCT遺伝子二重破壊株を作出し,低温でのPC合成活性上昇の生理学的意義の解明を試みた.CCT遺伝子の二重破壊は,常温での生育や短期間の低温下での生育にはほとんど影響しないが,長期にわたる低温環境下ではロゼット生長と花茎伸長が遅延することを示した.この結果は,CCTがPC合成の律速酵素であるとする従来の考え方に一石を投じるものである.また低温でのPC合成活性化のしくみは,単に生合成のためのものではない可能性を示唆している.二重破壊株では野生株の8%程度の残存CCT活性が検出されたが,この活性がホスファチジルエタノールアミン合成の鍵酵素であるECTに由来する可能性が高いことを示した.

以上の内容は,植物のCCT活性を遺伝子レベルで改変する初の試みであり,植物の低温でのリン脂質合成増加の分子機構とその意義の解明に新しい展開をもたらした.また,ECTがCCT欠損を相補可能であることを示唆した点でも新奇性が認められた.

口頭発表後には,本論文中で述べられた実験技術の精度やAtCCT1の活性化を詳細に調べる上で必要と考えられる解析方法,CDP-コリン経路以外の経路によってPC合成が行われている可能性,今回の結果とは逆にCCTがECTの欠損を相補する可能性などについて質疑応答が行われ,これらに対して的確に回答した.また,現在までに知られるCCT活性化機構についての一般的な知識を問う試問も問題なく終了した.

本論文は博士論文として十分充実した内容を有する.本論文の第一章は,中村正展,西田生郎との共同研究であるが,論文提出者が主体となって解析を行ったものである.

以上の内容をふまえ,論文提出者への学位の授与について投票を行った結果,全員一致で合格と判定した.

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