学位論文要旨



No 118915
著者(漢字) 小出(吉田),麗
著者(英字)
著者(カナ) コイデ(ヨシダ),ウララ
標題(和) 胚性幹細胞の胚体外内胚葉分化におけるRasの関与
標題(洋) Involvement of Ras in extraembryonic endoderm differentiation of embryonic stem cells
報告番号 118915
報告番号 甲18915
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4568号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浅島,誠
 東京大学 教授 野中,勝
 東京大学 教授 武田,洋幸
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 助教授 松田,良一
内容要旨 要旨を表示する

胚性幹細胞(embryonic stem cells; ES細胞)は、胚盤胞の内部細胞塊あるいはエピブラストより樹立された全能性を有する細胞株である。ES細胞は胚盤胞へ注入することによって生殖細胞を含む全ての細胞系譜に分化できるため、ノックアウトマウスの作成など発生工学の道具として利用されてきたが,ヒトES細胞の樹立により、最近では再生医学への応用も期待されている。ES細胞は in vitro でも様々な細胞系譜へ分化する能力を持つ。in vitro で分化を誘導するために最も用いられている方法として、胚様体を形成させる方法がある。ES細胞を浮遊状態で培養すると、胚様体と呼ばれる球形の細胞塊を形成する。胚様体は、外層が胚体外内胚葉、内層が原始外胚葉からなる二層構造をとる。胚体外内胚葉は原始内胚葉、近位内胚葉、ならびに遠位内胚葉を指し、将来羊膜へ発生する。これに対して、原始外胚葉は外胚葉、中胚葉、内胚葉へ分化し、将来個体を形成する部分である。胚様体は、その構造がマウス6日胚の円筒胚によく似ているだけでなく、胚体外内胚葉系のマーカーである gata4や原始外胚葉のマーカーである fibroblast growth factor (fgf) 5などの遺伝子発現パターンも共通であることから、初期発生を研究する上で便利な系と成り得る。

Rasは低分子量GTP結合タンパク質に属し、H-、N-、K-Rasの3種類が存在する。Rasはヒト癌の約30%でその活性型変異が報告されており癌遺伝子として有名ではあるが、その一方で、PC12細胞のNGFによる神経細胞への分化や、3T3-L1細胞の脂肪細胞への分化に必要であることが知られている。またK-rasのノックアウトマウスは胎生致死であることから、発生においても重要な役割を果たしていることが推測される。しかしながら、これまでRasのES細胞における役割に関する知見は得られていなかった。

まず最初に、ES細胞にRasの活性型変異体 (Ras[G12V]) を強制発現させたところ、ES細胞の未分化状態維持因子である白血病阻害因子 (leukemia inhibitory factor; LIF) 存在下で培養しているにも関わらず、未分化ES細胞に特徴的なコンパクトコロニーが観察されず、oct3/4およびrex-1といった未分化状態特異的な遺伝子マーカーの発現も抑制されていた。この結果は、RasがES細胞の分化へ関与している可能性を示唆する。そこで次に、in vitroの系を用いてRasの役割を探索した。胚様体形成に伴うRasの活性の変化をGTP結合型Rasを測定するpull-down法を用いて調べたところ、Rasは胚様体形成に伴い活性化されることを見い出した(図1)。また、Rasの優性抑制型変異体 (Ras[S17N]) を胚様体で発現させ、Rasの活性化を抑制したところ、nodal、goosecoidといった外胚葉、中胚葉の分化マーカー遺伝子の発現はほとんど影響を受けなかったが、gata4、gata6、hepatocyte nuclear factor (hnf) 3β、α-fetoprotein (AFP) などの胚体外内胚様マーカー遺伝子の発現は著しく抑制された(図2)。一方、Rasの活性型変異体を胚様体で強制発現させると、これらの胚体外内胚葉遺伝子群の誘導が促進されたことから、Rasが胚体外内胚葉への分化において重要な役割を果たしていることが示唆された。

Rasの下流に位置する経路として、Raf/MEK/Erk、PI3 kinase/Akt および RaIGEF/Ral 経路が知られているが、Raf/MEK/Erk経路を選択的に活性化するRasの変異体 (Ras[G12V, E37G]) を胚様体において発現させると、胚体外内胚葉分化マーカー遺伝子の発現が促進された。一方、胚様体をMEK阻害剤であるU0126で処理したところ、これらの遺伝子の発現は抑制され、形態的にも胚体外内胚葉層の発達が阻害されていた(図3)。さらに、胚様体でのErkのリン酸化の局在および胚体外内胚葉のマーカー遺伝子であるafpの発現を免疫組織化学的手法によって検討したところ、両者とも胚体外内胚葉層での発現が認められた。これらのことから、RasがRaf/MEK/Erk経路を介して胚体外内胚葉への分化を誘導していることが推測された。

Rasの下流に位置する経路として、Raf/MEK/Erk、PI3 kinase/Akt およびRaIGEF/Ral経路が知られているが、Raf/MEK/Erk経路を選択的に活性化するRasの変異体 (Ras[G12V, E37G]) を胚様体において発現させると、胚体外内胚葉分化マーカー遺伝子の発現が促進された。一方で、胚様体をMEK阻害剤であるU0126で処理したところ、これらの遺伝子の発現は抑制され、形態的にも胚体外内胚葉層の発達が阻害されていた(図3)。さらに、胚様体でのErkのリン酸化の局在および胚体外内胚葉のマーカー遺伝子であるafpの発現を免疫組織化学的手法によって検討したところ、両者とも胚体外内胚葉層での発現が認められた。これらのことから、RasがRaf/MEK/Erk経路を介して胚体外内胚葉への分化を誘導していることが推測された。最近、ES 細胞の胚体外内胚葉への分化阻害因子としてNanogというホメオプロテインが報告された。Nanog ノックアウトES細胞は、LIF存在下でも胚体外内胚様の系譜へと分化する。そこで、胚葉体形成時における nanog の発現様式を調べたところ、胚葉体形成4日目迄は発現が認められたのにたいし、6日目以降は発現が観察されなかった。さらに、胚様体での nanog の強制発現が、afp などのいくつかの胚体外内胚様マーカー遺伝子の発現を抑制したことから、Nanog は胚様体においても胚体外内胚葉への分化を抑制しうることが示唆された。胚様体形成時におけるRasの活性化と nanog の発現変動の関係を検討するために、nanog の発現に対する Ras 変異体の効果を調べたところ、胚様体での活性型 Ras の発現は nanog の発現減少を引き起こし、Rasの優性抑制型変異体の発現並びにMEK阻害剤による処理は nanog の発現を上昇させた。これらの結果から、胚様体形成時に何らかの因子によって活性化されたRasがRaf/MEK/Erk経路を介して胚体外内胚葉への分化抑制因子である nanog の発現を抑制することにより、胚体外内胚葉への分化を誘導していることが考えられる(図4)。

胚様体形成に伴って Ras が活性化される胚様体形成に伴う Ras の活性化を pull-down assay によって測定した。Ras の発現量は一定だが、GTP結合型 Ras の量は膝様体の発生が進むのに伴い増加する。

優性抑制型 Ras は胚体外内胚葉の分化マーカー遺伝子の発現を抑制するRas の優性抑制型変異体を強制発現させた胚様体における胚体外内胚葉の分化マーカー遺伝子の発現を、RT-PCR法によって調べた。優性抑制型 Rasの発現により胚様体分化時の Ras の活性抑制化を行うと、胚体外内胚葉の分化マーカー遺伝子の発現が抑制される。

MEK阻害剤は胚様体の胚体外内胚葉への分化を阻害するU0126(10μM)存在下(b,d,f)、または非存在(a,c,e)で8日間培養した胚様体の位相差顕微鏡写真(a,b)、ヘマトキシリン・エオシン染色像(c-f)。VE,visceral endoderm; cy,cystic cavity. Scale bar=100μm(a, b),20μm (c-f)

胚様体から胚体外内胚葉へ分化が誘導される時のモデル図

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、胚性幹細胞 (Embryonic stem cells: ES細胞)における分化の分子メカニズムを解析し、それを明らかにした。内部細胞塊に由来するES細胞は、胚様体形成を介して様々な細胞系譜へと分化できることが知られているが、その分子メカニズムに関しては不明な点が多い。ES細胞においては、低分子量GTP結合タンパク質の一種であるRasは分化に関与しているのではないかと考えられていたが、直接的にRasの分化における役割を検討した報告はなされていない。このような理由から、本論文ではRasに着目し、ES細胞の分化におけるRasの役割を解析している。

胚様体は球形の細胞塊で、外層が胚体外内胚葉、内層が原始外胚葉に相当する構造をとる。胚様体は、その構造及び遺伝子発現様式がマウス円筒胚と似ている事から、初期発生を研究する上で便利な系であると考えられ、様々な実験において用いられている。論文提出者は、まず、胚様体形成時にRasが活性化されることを見い出した。Rasの活性化は leukemia inhibitory factor (LIF) によって阻害されることを明らかにし、Rasの活性化が分化に伴う現象であることを見い出した。そして、Rasの優性抑制型変異体を胚様体で発現させたところ、gata-4、gata-6、hepatocyte nuclear factor (hnf) 3β、α-fetoprotein (afp) などの胚体外内胚葉分化のマーカー遺伝子の発現と胚体外内胚葉層の形成が抑制され、その一方で、Rasの活性型変異体の発現は胚体外内胚葉分化のマーカー遺伝子の誘導を促進したことから、Rasが胚体外内胚葉への分化に関与しているのではないかと考えた。そこで論文提出者は、Rasの effector 変異体や阻害剤等を用いたて、更に詳細な解析を行った。Raf/MEK/ERK経路を選択的に活性化するRasの effector 変異体の胚様体における発現は、胚体外内胚葉の分化マーカー遺伝子の発現を促進し、MEK阻害剤であるU0126による処理はこれらの遺伝子の発現を抑制する結果を得た。さらに、胚様体のMEK阻害剤処理は形態的にも胚体外内胚葉層の発達を阻害することも明らかにした。このことから、RasがRaf/MEK/ERK経路を介して胚体外内胚葉の分化に関与しているという結論を得た。また、論文提出者はホメオプロテイン Nanog に着目し、この分子の胚様体形成時の胚体外内胚葉分化に与える影響を調べた。Nanog 欠損ES細胞は、LIF存在下でも胚体外内胚葉へ分化する事から、ES細胞における胚体外内胚葉の分化抑制因子と考えられている。そこで、胚様体で nanog の強制発現を行ったところ、afp などのいくつかの胚体外内胚葉マーカー遺伝子の発現を抑制する結果を得た。そして、nanog の発現を確認したところ、胚葉体形成4日目まで発現がみとめられたが、6日目以降では発現の減少することを明らかにした。そして、胚様体における nanog の発現における Ras/Raf/MEK/Erk 経路の関与の検討を行い、胚様体での活性型Rasの発現は nanog の発現減少を引き起こす一方で、Rasの優性抑制型変異体の発現およびMEK阻害剤による処理は nanog の発現量を上昇させることを明らかにした。これらの結果より、胚様体形成時に活性化された Ras が、内胚葉分化抑制因子である nanog の発現を抑制することにより、胚体外内胚葉への分化を誘導しているという結論に達した。

本論文では、ES細胞から胚様体を形成させ分化が誘導される際、何らかのメカニズムによって Ras の活性化が起こる事を見い出し、その分化における意義を明らかにした。Ras からのシグナルは Raf/MEK/Erk 経路を介し、少なくとも nanog の発現抑制を経て、胚体外内胚葉への分化に関与している事を明らかにした。本論文から得られた知見はES細胞、及びマウス初期胚の初期発生を解明する上での手がかりと成り得るものであり、これらの研究分野に対する本論文の寄与は大きいと思われる。

なお、本論文は、松田孝彦、斉川邦和、中沼安二、横田崇、浅島誠、小出寛との共同研究であるが、論文提出者が主体となって解析および考察を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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