学位論文要旨



No 118927
著者(漢字) 飛ヶ谷,潤一郎
著者(英字)
著者(カナ) ヒガヤ,ジュンイチロウ
標題(和) 15世紀末から16世紀初期のローマにおける古代建築の解釈に関する研究 : ウィトルウィウスの三原則と誤解の系譜を中心に
標題(洋)
報告番号 118927
報告番号 甲18927
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5659号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 岸田,省吾
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、ルネサンスの建築家たちが、設計において手本とした古代建築が、彼らの作品に、いかなる理由で、そしてどのように表現されているのかを考察することを目的としている。筆者は、彼らが古代建築の研究に積極的に取り組み、理解度の正しさはさておき、自分なりの解答を示したことに興味を抱いている。研究の対象とする時代と場所は、題目のとおりであるが、副題にある「誤解の系譜」を論証する必要上、実際には、15世紀半ばから16世紀半ばのローマ以外の都市についても扱われている。当初の予定では、ブラマンテ、ラファエッロ、ペルッツィが主人公となるはずであったが、思いのほか、アルベルティやパラーディオも、重要な役割を果たすことになった。しかし、実はウィトルウィウスこそが、真の主人公ではなかったかと考え直し、副題に登場させるにいたった次第である。

さて、当時の建築家が、古代建築を研究する方法は、ローマのように多くの遺構が残された街を訪れて実測調査に励むか、ウィトルウィウスの『建築十書』の読解に取り組むかのいずれかであった。しかしながら、彼らは必ずしもローマを訪れていたわけではなく、地元の中世建築を古代建築と誤解したり、ブルネレスキなどのルネサンス建築を手本とすることも少なくなかった。ましてや、地理的にも時間的にも遠く離れた古代ギリシアに関しては、人文主義的教養を備えた博学なアルベルティですら、正確な情報を得ていたとは考えられず、当時はまだ発掘が行われていなかった古代エトルリアの遺跡に関しても、このことはおおむね当てはまるといえる。

一方、『建築十書』に関しては、中世の写本が各都市の宮廷などで保管されていたとはいえ、ラテン語で図版もないものが大半であり、アルベルティなどを除いて、当時の建築家が自ら読んで理解することはまことに困難であった。もちろん、彼らは宮廷の人文主義者から、あらすじを教えてもらったり、イタリア語に翻訳してもらうこともあったにはちがいない。しかし、共和政期の建築について語られたウィトルウィウスの記述が、現存する帝政期ローマの遺構と一致しない点が多いことは、当時の建築家にとって、至極不可解であった。その結果、例えばアルベルティは、『建築十書』に注解を施すよりは、自らの建築理論書を執筆するにいたったのである。だが、彼の『建築論』は、あいかわらずラテン語で書かれていて、図版がなかったので、あくまでも知的なパトロンのためのものであって、建築家や技術者のための実用書ではなかった。15世紀後半のフィラレーテやフランチェスコ・ディ・ジョルジョによる著作は、古代建築に関する情報の正確さという点はさておき、少なくともこれらの欠点が改められている。これらの書は、手稿であって、出版物ではないので、広範な影響力を及ぼすにはいたらなかったとはいえ、以後の建築書のスタイルを方向づける役割を果たしたといえる。

古代建築に対する興味は、15世紀末から急速に高まったと考えられる。そして、古代遺跡の発掘や実測調査という遺構面の研究、および『建築十書』の翻訳や出版という文献面の研究が、ともに目まぐるしい発展を遂げた時期に、まさに盛期ルネサンスと呼ばれる芸術様式が開花したのであった。だが、古代建築に関する正確な知識が得られるようになったことは、必ずしも、設計において古代建築を厳密に模倣することとは一致しない。1520年代から現われるようになったマニエリスムという様式は、古代建築が設計において第一に参照すべき手本でありながらも、自由度が大きく広がった傾向と考えられるのである。

それでは、以下、本研究の構成を簡単に説明したい。第1章は、上記の三原則のひとつの「強 firmitas」について論じたものである。筆者は、かつて修士論文で翻訳と解説を試みた「ブラマンテによるミラノ大聖堂ティブリオに関する意見書」で、この三原則を手本とした「強さ」、「調和」、「軽さ」、「美しさ」の四原則が提案されていることに興味を惹かれたが、思いもよらず、指導教官の鈴木博之教授により、近・現代建築との関わりから「フィルミタス」の研究が行われていたことを知らされた次第である。この語は、建築材料について論じた「第二書」に最も多く登場し、構造的な「強さ」という意味だけでなく、材料的な「強さ」に由来する「耐久性」という意味が多分に含まれているのであった。

第2章は、ウィトルウィウスの三原則が、アルベルティによってどのように解釈されたのか、代表作のパラッツォ・ルチェッライに注目して、この作品の史的位置づけの再考を試みたものである。アルベルティは、「強」と「美」の原則を分離したと思われ、このパラッツォのファサードで用いられている擬整層積みと網目積みが、オーダーの積み重ねと同様に重要な意義があることを論じた。また、このパラッツォが、とりわけウルビーノにおいて、大きな影響を及ぼしたことは、有名な三つの理想都市のパネルに多くの共通点が見られるとおりである。

第3章は、ルネサンスにおけるエトルリア神殿の解釈の変遷を辿った試みである。アルベルティは、当時は何も知られていなかったエトルリア神殿を、マクセンティウスのバシリカと誤解して、マントヴァのサンタンドレア聖堂の設計における手本とした。すなわち、彼による異教の古代神殿の解釈は、同時代の聖堂に近いものであり、この解釈は、フラ・ジョコンドやチェザリアーノにも引き継がれた。とはいえ、16世紀半ばになると、遺構の発掘や実測調査が進み、『建築十書』の出版も改良を重ねられたと思われ、『バルバロ版ウィトルウィウス』の挿絵は、古代建築の姿にかなり近づいている。

第4章は、修士論文でも取りあげたブラマンテの絵画作品「プレヴェダーリの版画」を考察の対象としている。この版画に見られる建築は、ロマネスクやビザンティン様式の集中式平面の聖堂や、アルベルティのサンタンドレア聖堂を手本としているようである。そして、この版画は、後のローマでの作品、とりわけジェナッツァーノのニンフェウムへと展開していったと思われる。興味深い点は、このニンフェウムにはエトルリア神殿との共通点が見られ、版画作成の時点で、ブラマンテがエトルリア神殿を強く意識していたとも考えられるのである。

第5章は、オーダーの一種と見なされていたギリシア起源のアッティカ式について、ラファエッロの解釈を中心に論じたものである。この様式は、ウィトルウィウスの『建築十書』では、イオニア式柱礎や扉口とともに登場するものの、ルネサンスの建築家にとっては不可解であった。ラファエッロは、アッティカ式を含む5つのオーダーの確立者であるが、セルリオが定めたコンポジット式を含む5つのオーダーに取って代わられたのである。第6章は、ラファエッロのヴィッラ・マダマに見られるふくらんだフリーズの解釈とその影響を辿ったものである。このフリーズは、イオニア式オーダーとともに用いられており、彼が友人のファビオ・カルヴォが訳したウィトルウィウスの『建築十書』を、読み違えたことに起因している。しかし、ペルッツィ以後には、コリント式やコンポジット式にもふくらんだフリーズは見られるようになり、なかんずくパラーディオは、この意匠を好み、建築作品や『建築四書』の図版に、ひんぱんに採用したのであった。

以上の本論に加えて、結論を設けなかったのは、当初予定していたペルッツィと彼の弟子セルリオについて、取りあげることができなかったためである。これらについては、今後の課題としたいと考えているが、副題の強・用・美の三原則について、「強」が第1章と第2章、「用」が第3章と第4章、「美」が第5章と第6章でおもに扱われることで、ひとつのまとまったかたちになったとご理解いただけたら幸いである。その代わりというわけではないけれども、三つほど以下の付録を掲載した。

付録1は、本当は主人公として扱う予定であったペルッツィについて、ヴァザーリの『芸術家列伝』の抄訳と解説を試みたものである。ヴァザーリの著作は、すでにいくつかの邦訳が出版されているものの、画家や彫刻家が中心であって、有名な建築家でも見過ごされているものが少なくない。例えば、「フラ・ジョコンド伝」、「サンミケーリ伝」などは、いまだ邦訳がされておらず、これらの翻訳も、折をみて試みてゆきたいと考えている。

付録2は、2002年に出版されたロヴェッタ編の『チェザリアーノ版ウィトルウィウス』の紹介である。この書は、「第二書」から「第四書」までしか掲載されていないが、使いやすさが実に考慮されていて、本研究執筆にあたって、大いに役立ったものである。わが国では森田慶一による邦訳書以後、ウィトルウィウスの研究が全く行われていないという点でも、このような良書の紹介は、重要な意義があると思われる。

付録3は、同じく2002年に出版されたブルスキ編の『イタリア建築史 : 16世紀前半』の紹介である。この書も、本研究執筆において、座右の書として活用したものであり、通史というよりは、多くの執筆者からなる論文集のような立派な構成である。わが国の大学における西洋建築史の講義では、イタリア・ルネサンス建築は、あっさりと二、三回で片づけられてしまうのが実情であるが、イタリアでは、このような大著を教科書とした、充実した建築史の講義が行われていることを、ぜひとも知っておいてほしいものである。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、ルネサンスの建築家たちが、設計において手本とした古代建築が、彼らの作品に、いかなる理由で、そしてどのように表現されているのかを考察することを目的としている。

当時の建築家が、古代建築を研究する方法は、ローマのように多くの遺構が残された街を訪れて実測調査に励むか、ウィトルウィウスの『建築十書』の読解に取り組むかのいずれかであった。しかしながら、彼らは必ずしもローマを訪れていたわけではなく、地元の中世建築を古代建築と誤解したり、ブルネレスキなどのルネサンス建築を手本とすることも少なくなかった。ましてや、地理的にも時間的にも遠く離れた古代ギリシアに関しては、人文主義的教養を備えた博学なアルベルティですら、正確な情報を得ていたとは考えられない。また、当時はまだ発見されていなかった古代エトルリアの遺跡に関しても、このことはおおむね当てはまり、結局は古代ローマ建築を参考にしていたのである。

一方、『建築十書』に関しては、中世の写本が各都市の宮廷などで保管されていたとはいえ、ラテン語で図版もないものが大半で、アルベルティなどを除いて、当時の建築家が自ら読んで理解することはまことに困難であった。その結果、例えばアルベルティは、『建築十書』に注解を施すよりは、自らの建築理論書を執筆するにいたった。15世紀後半のフィラレーテやフランチェスコ・ディ・ジョルジョによる著作は、古代建築に関する情報の正確さという点はさておき、イタリア語で多くの図版が掲載されているという点では、大きな進歩を遂げた。これらの書は、手稿であって、出版物ではないので、広範な影響力を及ぼすにはいたらなかったとはいえ、以後の建築書のスタイルを方向づける役割を果たしたと考えられる。

以下、各章の内容を手短に説明する。第1章は、上記の三原則のひとつの「強firmitas」について論じたものである。この語は、建築材料について論じた「第二書」に最も多く登場し、構造的な「強さ」という意味だけでなく、材料的な「強さ」に由来する「耐久性」という意味が多分に含まれているのであった。

第2章は、ウィトルウィウスの三原則が、アルベルティによってどのように解釈されたのか、代表作のパラッツォ・ルチェッライに注目して、この作品の史的位置づけの再考を試みたものである。

第3章は、ルネサンスにおけるエトルリア神殿の解釈の変遷を辿った試みである。アルベルティは、当時は何も知られていなかったエトルリア神殿を、マクセンティウスのバシリカと誤解して、マントヴァのサンタンドレア聖堂の設計における手本とした。すなわち、彼による異教の古代神殿の解釈は、同時代の聖堂に近いものであり、この解釈は、フラ・ジョコンドやチェザリアーノにも引き継がれた。とはいえ、16世紀半ばになると、遺構の発掘や実測調査が進み、『建築十書』の出版も改良を重ねられたと思われ、『バルバロ版ウィトルウィウス』の挿絵は、古代建築の姿にかなり近づいている。

第4章は、ブラマンテの絵画作品「プレヴェダーリの版画」を考察の対象としている。この版画に見られる建築は、ロマネスクやビザンティン様式の集中式平面の聖堂や、アルベルティのサンタンドレア聖堂を手本としているようである。さらに興味深い点は、彼の弟子のチェザリアーノが、『ウィトルウィウス注解』において、エトルリア神殿を含めた古代神殿の復元図を描いていて、それらがこの版画から起こした平面図と実によく似ていることである。つまり、当時はまだローマを訪れていなかったブラマンテによる古代建築の解釈もチェザリアーノと同様に、地元の中世や同時代の建築と同一視していた可能性が十分に考えられる。そして、この版画は、後のローマでの作品、とりわけジェナッツァーノのニンフェウムへと展開していったと思われる。興味深い点は、このニンフェウムにはエトルリア神殿との共通点が見られ、版画作成の時点で、ブラマンテがエトルリア神殿を強く意識していたとも考えられるのである。

第5章は、オーダーの一種と見なされていたギリシア起源のアッティカ式について、ラファエッロの解釈を中心に論じたものである。この様式は、ウィトルウィウスの『建築十書』では、イオニア式柱礎や扉口とともに登場するものの、ルネサンスの建築家にとっては不可解であった。ラファエッロは、アッティカ式を含む5つのオーダーの確立者であるが、セルリオが定めたコンポジット式を含む5つのオーダーに取って代わられたのである。

第6章は、ラファエッロのヴィッラ・マダマに見られるフリーズはなぜふくらんでいるのかを考察し、そしてその影響が意外にも大きかったことを示したものである。このフリーズは、イオニア式オーダーとともに用いられており、彼が友人のファビオ・カルヴォが訳したウィトルウィウスの『建築十書』を、読み違えたことに起因している。しかし、ペルッツィ以後には、コリント式やコンポジット式にもふくらんだフリーズは見られるようになり、なかんずくパラーディオは、この意匠を好み、建築作品や『建築四書』の図版に、頻繁に採用したのであった。

このように論証を展開する本研究は西洋建築史研究の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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