学位論文要旨



No 118947
著者(漢字) 朱,庸善
著者(英字)
著者(カナ) ジュ,ヨンソン
標題(和) 患者のパーソナルスペースと行動からみた精神医療施設環境に関する研究
標題(洋)
報告番号 118947
報告番号 甲18947
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5679号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 藤井,明
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 曲渕,英邦
 東京大学 助教授 千葉,学
内容要旨 要旨を表示する

精神病患者に安心感を与え、治療および療養上有効な場所としての物的環境を備えるためには、患者の心理や行動に十分に配慮した環境や空間の計画が重要である。精神病患者の場合、空間と患者の感覚や行動に強い関連があるとの共通の認識はあるものの、その因果関係や適正な空間計画については未だに明らかにされていない。精神医療施設の物的環境が患者の治療に有効な環境を医療装置の要素として適用するため、患者が環境をどのように認識し行動を行うかについて理解する一方、精神病患者に影響を与える物的環境の根本的要素を把握し、それに十分に配慮した環境や空間の計画が重要である。本研究は精神病患者における環境的治療をベースにしており、患者に必要な環境を設ける際に必要な要素について検討を行うため、様々な疾病と状態をもつ精神病患者において物的環境の中でのパーソナルスペースと行動に注目したものである。そして、3つの精神病院で在院患者を対象として行った病棟内での患者の環境行動に関する一連の調査を通じて、患者のパーソナルスペースと行動に関する量的および質的内容を分析し、更に患者属性との関連と治療環境を整備する際に考慮すべき特徴について論じた。

社会的疾病と言われる精神病において、その医療における社会的なニーズの把握とそれに一致した物的環境の提供が重要である。第1章では、精神病患者と共生できる社会での精神医療環境の整備における問題点と今後の課題を、精神医療に関する社会的認識の調査を通じて取り上げた。一方、これまでの研究において不充分であった精神病患者の属性を区分し、精神医療に対する理解への必要な情報をまとめた。

第2章では、「保護」から「治療」への精神医療施設の目的における歴史的な変遷と対照して、現在社会の新しい精神医療に適応できる施設環境の機能について考察した。そして建築学的研究における出発点として、日本における施設環境の現状について把握した。その結果、精神医療の施設環境は他の医療施設と比較しても、面積的な状況と設備水準で充分ではないこと、また個室が極端に少なく段階的回復プロセスや多様な疾病構造への対応が困難であることを指摘した。

第3章では、物的環境が精神病患者の感覚にどのように働くかについて把握するため、精神病院の病棟内環境における在院患者の行動を調査した。そして、一連の調査の結果、精神病患者には物的および人的環境を認知する一般性と、特定の環境要素に対する執着と敏感な意識を見せる特異性があることが把握できた。

精神病患者の環境行動から見られる空間認識の一般性と特異性

調査の結果、多様な行為内容から見られる一般的性向の他に、コミュニケーションや社会・文化活動における日常生活の行動機能が身体機能レベルと相違したこと、また患者の行為内容において他者との関係から見ることにより精神病患者の行動の特異性を検証した。

病棟内のデイルームにおいて在院患者の着席の状況を累積した結果、患者個人がそれぞれ特定の場所を好んで滞在しており、物的環境と患者の安心感のある環境を選択する心理的要因との関連を見せる一方、特定の場所に強いこだわりを見せる患者群が存在するなどの特異性も把握できる。

また病棟において日中に自分の部屋に長く滞在する患者群とそうでない群があり、また異なった空間環境をもつ共用空間の選択では患者が積極的に好みの場所に滞在する傾向を見せた。これは病室と共用空間の位置関係の他に、患者がもつ日常生活の機能と関連づけることができた。このことは、精神病患者が安心できる場所として病室と病棟内の共用空間といった物的環境を整備するための重要な要素として読み取れる。

精神病患者の着席からみられる物体における認知と行動

病棟のデイルームにおいて在院患者は、テーブル席のみまたはベンチのみを利用するこだわりを見せ、テーブル席とベンチがもつ行為を容れる物体のそれぞれの性格と機能を正確に認知し、好きな形で使っていることを見せている。しかし、コミュニケーション機能に支障のない患者が、ベンチだけを利用していることや、支障のある患者がテーブル席で個人行動や一人コミュニケーションを行っているなど、精神病患者の物的環境に対する認知と利用のアフォーダンスにおいて、文化的制約から離脱した側面を見せている。また患者の着席形態と社会的行動との関係をみると、他人との会話および共同の行為を行う際に特異な姿勢や向きを見せることがあり、一般人が持つ社会的行為パターンと一致しないことがある。

また、患者は食堂の看護スタッフから指定された自分の席に対する強い意識或いは執着を見せることから、それは物体に対する所有意識が場所への執着につながり、その周辺を徘徊するなどの行動として現れると考えられる。

精神病患者の病棟環境の利用からみた病棟の計画

精神医療施設の計画において、一般性と同時に特異な精神病患者の幅広い物的環境への認識に対応できる、多様な用途と性格を持った空間環境を設けることが大切である。特にデイルームにおいては日中様々な患者がいるところであり、空間上秩序とまとまりのある構造であり、かつ多様な性格の場所で患者の幅広い嗜好に対応することが重要である。病室においては、各病室ならびに多床部屋での各病床において自然採光、照明、静かさなどの要素が患者一人一人にとって均質に保持され、各患者が個性のある活動ができ、またプライバシーが保てるなどの柔軟な構造が求められる。

病棟内空間選択において、気分(感情)障害の患者の場合、他疾病の患者に比べ、デイルームなどの共用空間より病室などの私的空間の利用が多い特徴を見せていることから、気分(感情)障害の患者の構成割合が多いストレスケア病棟の施設計画においてプライバシーが保てる環境やベッド周りの個人設備などの私的空間部分の比重を高く考慮してデザインする必要がある。

また年齢が高く入院期間が長い患者は、こだわりの場所が固定化し、ベッド周辺の環境に留まる傾向を見せる。これらの患者は、施設に長期間滞在することによる施設症の怖れがあり、沈滞した状態を回復させる環境の改善が必要となる。ADL機能に関しては患者のほとんどが良好な身体機能を保持しているが、コミュニケーション能力および社会文化的機能に関するADL指数が低い患者において、身体機能をサポートするだけではなく心理的安定感を与える環境が望まれる。

なお、精神医療施設において安全性の理由で無視されてきた空間の垂直利用に関して、2階にあるデイルームの利用頻度の調査で患者は上下空間に対する認識と空間の垂直的移動の嗜好を見せた。病棟空間において水平的拡張の他に、空間の垂直な上昇の意欲が患者に重要な要素として表れているところであり、空間の上下への循環的機能を新しい要素とするメゾネット病棟の可能性を見せている。

第4章においては、精神病患者のパーソナルスペースにおける規模と性格を、精神病院の在院患者を対象で行った着席距離と対面距離の調査を通じて把握することができた。

「スペーシング」から見られる距離認識

デイルームでの横長のベンチにおける着席の観察で、空いたスペースを無視して他の患者に近い位置に座り、他者の領域に侵入する例が見られた。更に予め座っている患者の反応は鈍感であり精神病患者における一定の空間を確保する機能の不完全性が見られる。

精神病患者の物体装置に対する認知と反応

病棟のデイルームにあるソファーの配置を変化させ、座る時の反応を観察して、患者が着席する時の物体に対する距離意識を調査した。ソファーを2つずつ向かい合わせた上、ソファー間の距離を30cmと60cmに設定した場合、患者は広い間隔をもつソファーに座る頻度がより多く調査され、物体の認知におけるより広い領域への嗜好を持っている。また個人行動を行う時短い距離に置かれたソファーを、会話をする時広い間隔をもつソファーを選択することは、物体における物理的制約を認知すると同時に、社会的行動に結びつける行動として理解できる。

人に対する認知と反応

試験者が接近する時の反応

・試験者がベンチに座っている患者に対して身体表面間の距離で15cm接近する時の反応を観察したところ、患者4人中3人が10分以内に試験者から離れ、距離意識に基づいた自分の領域への他者の侵入を認知していることが分かった。更に、試験者から離れた後すぐ別の場所へ移動するのではなく、お茶をコップに入れるなどの別の行為を挟む患者の例から、患者は試験者を意識して自分の行動を調節しているとも考えられ、他者に対する敏感な意識を見ることができた。

・ベンチ着席時の隣接距離

病棟内の共有空間にあるベンチに着席する患者に対して、あとから座った患者の距離を身体表面間の値で記録した結果、着席時の他者との距離の取り方について、敏感な患者群と鈍感な患者群があることを見せた。更に隣接距離と患者属性により、ベンチ席への強いこだわりを見せながらも広い距離感を持ち、年齢が高く特にスポーツ活動レベルが低いグループ、隣接距離が長い青年期患者のグループ、中高年齢で着席の際に、近接距離を取るグループ、コミュニケーションの頻度が多く最も接近して着席する青年期患者のグループと4つの患者のグループとして区分することができた。

・ソファー着席時の対面距離と視線

またソファーの間の距離を30cmと60cmに設定し、男女2人の試験者が予め片方のソファーに交互に座った場合、特定の試験者の前に座って人に対する嗜好が見られる患者がいる一方、試験者の位置に関係なくソファー間隔60cmに座り、向かい合った位置のソファーにおける人的要素および求められる行為的観念より、物的環境の嗜好がより強い患者が存在した。

また患者は試験者と対面する際に視線を逸すなど緊張感を表していることから、精神病患者において他人と接する中で対面する距離の他に、他人からの視線を意識することが把握できた。ナースステーションの配置などの面からみてスタッフの視線が中心であった従来の病棟構造から患者の視線をより重視する方向への転換が求められる。またデイルームや多床室などにおいて患者が他人との視線の距離が保てることや、患者同士の視線を和らげプライバシーが確保できるなど、物的環境の要素で視線への工夫が必要であると考えられる。患者の距離と視線に対する意識を考慮して、多質な環境の中で好みの環境を選択できる他に、テーブルや椅子などの物的装置の位置が変更できるなどの柔軟性を持った施設環境での具体的な方案が要求される。

・座って会話する時の文化的制約と物理的制約における距離、視線

人と座って会話する時の文化的制約と物理的制約に対する患者の認知と反応を調べるため、ソファー2つの向きを90度変換させ、試験者が予め座り、患者が座る位置を調査した。試験者と会話する際により長い距離を必要とする患者と近い距離をとる患者がいる一方、人と会話する姿勢を重視する患者とソファーの物的構造をより重視した患者がおり、患者は設定された物的環境を各自に認識し、様々な形で対応していることを見せた。

・対峙する時の対面距離

在院患者47人について試験者と初めて対面し挨拶を行う時の距離を身体表面間の値で記録した結果、140cm以上の長い対面距離をもつ患者6人と、50cm未満の非常に短い距離をとる患者5人が存在するなどの特異性を見せている。特に対面距離が140cm以上と調査された患者の場合、入院回数が4〜9回と多く入院期間も5年から18年と長い一方、50cm未満の場合は初入院でも入院日数が長いケースが多く調査された。またADL(日常生活機能)との関連では、コミュニケーション能力と身辺および移動動作の機能が劣っていないにも関わらず、長い対面距離をとっているケースは注目するところである。一方、対面距離55cm以下の近い対面距離の患者8人は社会・文化的活動機能が比較的低いことがわかった。

・病室における心理的境界領域への侵害

初対面の人との対面距離を、他人を意識する境界領域として理解することができる。調査から得られた対面距離を病室に適用して個人個人の境界領域としてみた場合、同室の患者の場合在室中や出入りする際に境界領域が重なる部分が生じ、認識境界の取り合いが相互に心理的なパーソナルスペースを侵害し、精神的な安定を侵す要因として指摘される。

疾病別では気分(感情)障害の患者、性別では女性の患者が、保持するパーソナルスペースにおいてより敏感に反応する傾向を見せている。女性の場合プライバシーの確保をより重視することと関連して、女性層だけを対象とする精神医療の施設環境での工夫が必要とされる。

更に一般の人と異なったパーソナルスペース感をもつ精神病患者に対し、現状の一般病院の規準で作られている精神医療施設では対応しにくいことから、新しい観点からの病室と共用の部分などの施設環境への検討が必要である。

第5章において、精神病患者のパーソナルスペースと環境行動が受容すべき社会において、社会とつながりのある医療環境などの社会的ニーズに対応できる社会的施設環境を提案するために、欧米の精神医療におけるノーマリゼーションに基づいた脱施設、地域社会における治療のシステムおよび施設のモデルなど、他国における精神医療の例を検討する一方、近年急激に変化する社会的精神医療のニーズを参考にすべき要素として取り上げ、求められる物的環境の在り方について考察した。

審査要旨 要旨を表示する

この論文は、精神病院の在院患者を対象として患者の病棟内での環境行動に関する一連の調査を通じて、患者のパーソナルスペースと行動に関する量的・質的内容を患者属性と治療環境との関連を含めて分析し、今後の精神医療施設の環境整備に際して基本的に考慮すべき点を提示することを目的としている。

本論文は、5章より構成される。

第1章では、本研究の背景・目的のほか、精神疾患の概要、精神病患者と共生できる社会での精神医療環境の整備における問題点と課題を、精神医療に関する社会的認識の調査を通じてまとめている。

第2章では、「保護」から「治療」への歴史的な変遷を概観し、精神医療施設の目的の変化を認識し、現在社会の新しい精神医療に対応した施設環境について考察している。また、日本における施設環境の現状について調査し、精神医療の施設環境は他の医療施設と比較して、面積・設備面で劣っていること、個室が極端に少なく段階的な回復プロセスや多様な疾病構造への対応が困難であることを指摘している。

第3章では、物的環境が患者の感覚にどのように影響するかを把握するため、ある精神病院における病棟内の患者の行動調査を行っている。その結果として具体的には

(1)デイルームにおいて在院患者の着席の状況を観察した結果、患者個人がそれぞれ特定の場所を好んで滞在しており、物的環境と患者の安心感のある環境を選択する心理的要因との関連を見せる一方、特定の場所に強いこだわりを見せる患者群が存在するなどの特異性も把握したことから精神病患者の環境行動から見られる空間認識の一般性と特異性の存在を確認している、

(2)デイルームにおいて患者は、テーブル席のみまたはベンチのみを利用するこだわりを見せ、テーブル席とベンチがもつ物体それぞれの性格と機能を正確に認知していることから、着席場所・形態からみられる場の認知と行動の特性が存在することを考察し、精神医療施設の計画においける多様な用途・性格を持った空間環境の設定の必要性を論じている。

第4章では、精神病患者のパーソナルスペースに関する特性を入院患者を対象で行った着席・対面距離の調査を通じて分析している。具体的には

(1)デイルームでの横長ベンチにおける着席の観察を通して、他者が領域に侵入することに対して一定の空間を確保する「スペーシング」機能が不完全である例などから距離認識に相違があること、

(2)デイルームのソファー配置を変化させ患者が着席する時の反応を観察して物体に対する距離意識を分析した結果、患者の物理的制約の認知と反応に相違があること、

(3)試験者が接近する時の認知と反応、ベンチ着席時の他の患者との隣接距離、ソファー着席時の対面距離・視線、座って会話する時の文化的制約と物理的制約における距離・視線、対峙する時の対面距離相違があること、を明らかにしている。

第5章では、以上各章のまとめのほか、欧米や韓国の精神医療におけるノーマリゼーションの方針に基づいた脱施設、地域社会の治療システム構築や施設のモデルなどの実例を検討する一方、患者のパーソナルスペースと環境行動を受容できる社会とつながりのある医療環境について論じて結論としている。

以上のように、本論文は現代の精神医療入院環境の諸問題を実態調査と分析を通して考察し、今後の精神病棟計画に対する基本的な知見を示し、建築計画学の発展に大きな寄与したものである。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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