学位論文要旨



No 118950
著者(漢字)
著者(英字) FRISCHKNECHT,MARCELO ANDRES
著者(カナ) フリスケネヒト,マルセロ アンドレス
標題(和) 儚い実体としての場 : 関東大震災が東京の場所の本質に与えた影響 : 建造物と文学作品に関する考察
標題(洋) THE FUGITIVE EXISTENCE OF PLACE : The impact of the Great Kanto Earthquake on the nature of place in Tokyo :a study on architecture and narratives :
報告番号 118950
報告番号 甲18950
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5682号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 千葉,学
内容要旨 要旨を表示する

本研究のテーマと目的

本論文は関東大震災が東京に与えた影響を取り扱う。周知のように震災による被害は甚大で、10万人近い死者・行方不明者を出し、都市は半壊した。しかしこの破壊は物理的損失以上のものを含んでいたといえる。これほどに巨大な惨事が起こった時、生活、空間、そして時間の連続性は断ち切られ、その場所は完全に断絶させられてしまうのだ。生存者が生活しつづける為には、場所を再構築することが必要である。都市の物理的容貌、公共機能、主たる建造物及び交通網はもちろんだが、場所の特徴の本質を回復させることもこの再構築に含まれる。つまりそこでは、物質的、および観念的という、二つの異なったレベルにおける破壊と、それらの同時進行的な再建の必要性が生じているといえるであろう。

本論文が意図するのは、大震災によって引き起こされた断絶を題材に、前述した二つのレベルの双方を考慮して、場所の意味を論考することである。この断絶により引き起こされた喪失・再建・再評価・変容というプロセスは、被災地における「場の感覚」を明らかにしており、したがって、このプロセスを精査することは、「場所の意味」がどのようなものであるかを理解する絶好の機会となった。

「働く場所」(Place at work)

現代思想家の誰一人として場所の形式構造の定義的な探求をしようする者はいない。そうではなく、各人が明らかにしようとしているのは「働く場所」、つまり、動的な、進行するものの一部としての場所なのだ。この方向性に従って、本研究は場所の意味を、その「働く」を通して明らかにすることを試みる。その具体例として、1923年に東京を襲った震災とそれに続く再建事業に見られる創造的・破壊的プロセスを取り上げるのである。

場所の概念というよりは「働く場所」に着目する上で論者は、建築と都市計画を、場所の意味を明らかにする上で格別に重要視している。建築と都市形成とは働く場所なのである。また本論文では、場所の働き方を理解するために、「儚い力」と「確たる徴候」(firmitas manifesto) という二つのキーワードを導入し、場所の発展を検討するためにこれら二つの特性を追う。

本研究の構造

本研究は震災前後の東京の幾つかの地域における建築と都市計画を検討する。ただし、建築的・都市的分析の方針と興味は、視覚的要素だけに限定した。また、場所がどのように知覚されていたかを見出すため、研究対象の場所に関する描写を含んだ文学作品についても考察する。近代作家によって描写された場所の印象を取り上げることで、建築と都市計画がどのようにしてこれらの感覚を誘発していたのかを検討するのが主たるねらいである。取り上げた作品は、それぞれの作家の、特定の時期における特定の場所に対する感覚を示しているといえる。そこで、建築と都市が、彼らの感覚をどのように誘発していたかを分析していく。本論文では以下の四作品を取り上げている。

永井荷風による短編「牡丹の客」(1909)

田山花袋による体験記「東京震災記」(1924)

川端康成による記事「新東京名所」(1930?)

評論家小林秀雄による随筆「故郷を失った文学」(1933)

考察

本論の分析は、震災の被害が最も大きかった東京下町に焦点を定める。両国橋を中心として柳橋、浅草界隈を含み、墨田川沿いに北は向島、南は浜町を境界とし、立川沿いに東に伸びる地域である。関東大震災の衝撃は震災以前、震災それ自体、そして再建という三段階がこの論文の主要部分を構成している。

地震以前の都市を検討するために、本研究は、柳橋から隅田川を渡って立川沿いに歩を進める永井荷風の「牡丹の客」を素材にする。荷風の作品は常に、場所の性質を解き明かそうとする彼の意思を示す。この短編の分析の第一のポイントは、江戸の伝統に根ざした場所、という感覚がいまだ強い地域が、明治末期にも存在していたという点である。このような場所の感覚は、地域の衰微した状態によって漠然としたものになりながらも、ともかくも本質的なものである。その衰退した雰囲気に惹かれた荷風は新時代の到来を直視するのを避け、その描写は、同時期に開館したばかりの国技館という新奇な建造物を無視している。本論はその「場所」に建てられた異質な建築の影響力に分析の焦点を合わせる。東京が、「近代化と啓蒙主義」によってもたらされた無数の変化によって、二つの異なった世界が緊張した状態で共存する舞台となっていたことが、ここで明らかになる。失われながらも生き続けようとしているものと、外からもたらされた新奇なものとの緊張した関係は、震災以前の東京の場所性に最も顕著な特徴である。

大震災の衝撃波は、都市と、そこに存する「儚い力」と「確たる徴候」との間の緊張関係を破壊した。本研究の対象である浅草・本所・深川は、その被害が最も深刻だった地域である。90%以上のエリアが破壊され、実質的に全住民が被災者となった。田山花袋は、揺れが収まったあとの下町を歩き、その破壊された様を「東京震災記」に記した。彼の記録の中には、6つの段階的な場所破壊のさまを読み取ることができる。建造物の破壊はランドマークや大通りにまで及び、廃墟の中では方向感覚を掴むことさえ不可能であった。最も甚大な被害を被った地域では、「焼野原になってしまっては、何処も彼処もすべて同じであった」と花袋は記している。全ての場所が同じというのは、場所というものが存在しないということである。地震後の東京は、もはや「場所」ではなかったのだ。場所の破壊は、家庭や文明といった更に深層にまで及んでいた。家庭と都市が破壊されたあと、生存者は、避難所を見つける必要があった。多くの簡易な避難所が登場し、今和次郎はこれらを調査しスケッチを残した。本研究は彼のリサーチを基に、地震後に建てられた避難所をその入念の度合いに応じて6つのタイポロジーに分類する。同様に、避難所建設プロセスは、ここでは場所の創造プロセスとして読み解かれる。

帝都復興は場所性を完全に変容させた。復興計画に関する見解をまとめるために、本章では政治的状況と復興当局について論ずる。計画には二つの局面があった。まず、後藤新平が野心的な復興計画のアウトラインとして組織的な枠組みを確立した。その後、この枠組みは棄却され、主原則は承認されたものの予算は大幅に削減されることとなった。この経過が復興計画の特徴を決定づけた。基本的に交通システムの効率化と街路の整備を目的としていたこの計画の狙いは果たされたが、場所の性質は配慮の対象とはならなかった。交通の循環こそが最重要であり、それらのための空間は「場所」を犠牲にして作られていった。

川端康成は彼の「新東京名所」の中で、復興計画中の最重要事業について考察している。彼の記述からは、東京は再建されたが、それはもはや場所の感覚を伝えていなかったことを読み取ることができよう。彼の文章は、帝都復興が、都市が被った痛みを癒さなかったのみならず、地震を乗り越えた生活の一部を破壊することにさえ貢献していたことを示す。帝都復興は、地震による破壊と共に場所の決定的な断絶を作り出したのである。

小林秀雄は彼の随筆「故郷を失った文学」の中で、東京を「故郷」と感ずることの不可能性を認めている。その理由は、次々と起こった急激な変化が、彼の感覚をゆがめてしまったからだという。本論文では震災と帝都復興によってもたらされた場所性の一連の変化を示し、これらを、場所の「儚い力」と都市の「確たる徴候」とのギャップが増大した結果と捉える。もっとも、場所の断絶は近代化の衝撃によっても引き起こされた。小林の「故郷を失った」イメージは、近代人のホームレスな状態の象徴でもある。これを受けて本論文では、場所の感覚に対する震災の衝撃と、近代化の衝撃との平行性について論考する。ホームレス状態は、単に確たる住居を欠いているということだけでなく、都市を場所として感知する能力の喪失から説明される。震災と再建事業による断絶のプロセスはこのように、場所感覚の喪失をもたらした近代化と結びつくのである。

「場所」は生きたものであるから、働く場所について語ることは可能である。場所は、転換し、変異し、成長し、苦難し、死を迎え、種を残す。「儚い力」から「確たる徴候」へ、あるいはその逆方向の、確たる建設から儚い印象への、変動と永続的な革新こそ、それぞれの場所の失体が隠し持っている生命なのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は関東大震災が東京に与えた影響を取り扱う。周知のように震災による被害は甚大で、10万人近い死者・行方不明者を出し、都市は半壊した。しかしこの破壊は物理的損失以上のものを含んでいたといえる。これほどに巨大な惨事が起こった時、生活、空間、そして時間の連続性は断ち切られ、その場所は完全に断絶させられてしまうのだ。生存者が生活しつづける為には、場所を再構築することが必要である。都市の物理的容貌、公共機能、主たる建造物及び交通網はもちろんだが、場所の特徴の本質を回復させることもこの再構築に含まれる。つまりそこでは、物質的、および観念的という、二つの異なったレベルにおける破壊と、それらの同時進行的な再建の必要性が生じているといえるであろう。

本論文が意図するのは、大震災によって引き起こされた断絶を題材に、前述した二つのレベルの双方を考慮して、場所の意味を論考することである。この断絶により引き起こされた喪失・再建・再評価・変容というプロセスは、被災地における「場の感覚」を明らかにしており、したがって、このプロセスを精査することは、「場所の意味」がどのようなものであるかを理解する絶好の機会となった。

本研究は震災前後の東京の幾つかの地域における建築と都市計画を検討する。ただし、建築的・都市的分析の方針と興味は、視覚的要素だけに限定した。また、場所がどのように知覚されていたかを見出すため、研究対象の場所に関する描写を含んだ文学作品についても考察する。近代作家によって描写された場所の印象を取り上げることで、建築と都市計画がどのようにしてこれらの感覚を誘発していたのかを検討するのが主たるねらいである。取り上げた作品は、それぞれの作家の、特定の時期における特定の場所に対する感覚を示しているといえる。そこで、建築と都市が、彼らの感覚をどのように誘発していたかを分析していく。本論文では以下の四作品を取り上げている。

永井荷風による短編「牡丹の客」(1909)

田山花袋による体験記「東京震災記」(1924)

川端康成による記事「新東京名所」(1930?)

評論家小林秀雄による随筆「故郷を失った文学」(1933)

本論の分析は、震災の被害が最も大きかった東京下町に焦点を定める。両国橋を中心として柳橋、浅草界隈を含み、墨田川沿いに北は向島、南は浜町を境界とし、立川沿いに東に伸びる地域である。関東大震災の衝撃は震災以前、震災それ自体、そして再建という三段階がこの論文の主要部分を構成している。

地震以前の都市を検討するために、本研究は、柳橋から隅田川を渡って立川沿いに歩を進める永井荷風の「牡丹の客」をまず素材にする。荷風の作品は常に、場所の性質を解き明かそうとする彼の意思を示す。この短編の分析の第一のポイントは、江戸の伝統に根ざした場所、という感覚がいまだ強い地域が、明治末期にも存在していたという点である。大震災の衝撃波は、都市と、そこに存する「儚い力」と「確たる徴候」との間の緊張関係を破壊した。本研究の対象である浅草・本所・深川は、その被害が最も深刻だった地域である。90%以上のエリアが破壊され、実質的に全住民が被災者となった。つぎに検討する田山花袋は、揺れが収まったあとの下町を歩き、その破壊された様を「東京震災記」に記した。彼の記録の中には、6つの段階的な場所破壊のさまを読み取ることができる。建造物の破壊はランドマークや大通りにまで及び、廃墟の中では方向感覚を掴むことさえ不可能であった。最も甚大な被害を被った地域では、「焼野原になってしまっては、何処も彼処もすべて同じであった」と花袋は記している。全ての場所が同じというのは、場所というものが存在しないということである。地震後の東京は、もはや「場所」ではなかった。つぃで復興計画に関する見解をまとめるために、本論では政治的状況と復興当局について論ずる。計画には二つの局面があった。まず、後藤新平が野心的な復興計画のアウトラインとして組織的な枠組みを確立した。その後、この枠組みは棄却され、主原則は承認されたものの予算は大幅に削減されることとなった。この経過が復興計画の特徴を決定づけた。基本的に交通システムの効率化と街路の整備を目的としていたこの計画の狙いは果たされたが、場所の性質は配慮の対象とはならなかった。交通の循環こそが最重要であり、それらのための空間は「場所」を犠牲にして作られていった。

川端康成は彼の「新東京名所」の中で、復興計画中の最重要事業について考察している。また小林秀雄は彼の随筆「故郷を失った文学」の中で、東京を「故郷」と感ずることの不可能性を認めている。「場所」は生きたものであるから、働く場所について語ることは可能である。場所は、転換し、変異し、成長し、苦難し、死を迎え、種を残す。「儚い力」から「確たる徴候」へ、あるいはその逆方向の、確たる建設から儚い印象への、変動と永続的な革新こそ、それぞれの場所の失体が隠し持っている生命なのである。

こうした点を明らかにした本論文は都市史研究の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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