学位論文要旨



No 118990
著者(漢字) 島田,明佳
著者(英字)
著者(カナ) シマダ,アキヨシ
標題(和) 生体をモデルとする構造ヘルスモニタリング手法に関する研究
標題(洋)
報告番号 118990
報告番号 甲18990
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5722号
研究科 工学系研究科
専攻 環境海洋工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 影山,和郎
 東京大学 教授 野本,敏治
 東京大学 教授 武田,展雄
 東京大学 助教授 高橋,淳
 東京大学 講師 村山,英晶
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,生体の中枢神経系で行われている知覚情報処理から個々の神経細胞レベルで行われている信号伝達メカニズムをモデルとする構造ヘルスモニタリングの手法を提案する.

序論

構造物は,大きな力を得たり,高速で移動したり,大量のものを運んだり,効率的に空間を利用することを目的とし,強度や形状などが異なる材料を組み合わせて作られたものである.構造物を利用することにより,人間の肉体だけでは実現不可能な環境や能力を手に入れることが可能になる.このことは構造物に大きな負荷がかかっていることを意味する.そのため疲労や微小な損傷により強度が低下した構造物に大きな力が加わると,致命的な損傷が生じたり破壊に至ったりすることがある.そして構造物が大型化・高性能化するにつれ,損傷・破壊時の被害は甚大なものになる.

こうした事態を未然に防ぐためには,強度の低下や軽微な損傷を早期に見つける保守・保全が重要になる.従来は,目視や触診などの人的手段,あるいはX線などのセンサを用いて損傷や疲労箇所を見つけ,構造物の健全性を人間が主観的に判断する手法が一般的であった.これに対し,構造ヘルスモニタリングという概念は,構造物の健全性を客観的に評価することを目指すものであり,図1のように対象となる構造物のひずみや音などの物理量をセンシングする技術,その物理量を解析する信号処理技術,解析された信号を元に健全性を判定する技術から構成される.その適用範囲は,人工衛星,航空機などのほかにビルや橋梁などの社会基盤へと広がっている.

従来のヘルスモニタリング技術

1999年には,第30回アメリカズカップに挑戦した二隻のヨットの損傷検出システムが構築された.このシステムは分布型光ファイバひずみセンサのひとつであるBrillouin optical time domain reflectometer (BOTDR)を用いて,船体と隔壁に施工された光ファイバから得られたひずみ分布の情報を元に,建造時からレース終了時までの構造ヘルスモニタリングを行う.BOTDRは,光ファイバの片端からパルス光を入射したときに生じるブリュアン散乱光の中心周波数が,光ファイバに生じたひずみの大きさに比例してシフトする性質を利用してひずみ分布を計測する.本システムを用いて,船体が設計どおりの強度を持っていることや,レース終了時まで顕著な強度の低下が生じていないことが確かめられた.しかし実際に構造ヘルスモニタリングを行っていく過程で,図2のような3つの課題が明らかになった.

ヨットをはじめとする多くの構造物は,常時振動している環境におかれていることが多い.BOTDRは,一度に10km以上の光ファイバに生じたひずみを計測することが可能であるが,静的なひずみ分布しか計測できない.しかし動的なひずみを計測できたとしても,構造物全体のヘルスモニタリングを実現するには,構造物全体にセンサを施工する必要があり,現実的には困難である.また,ヨットの帆のように構造物自体が大きく変形する場合など,センサ自体の施工ができない場合もある.さらに分布型センサの最大の問題は,空間分解能であろう.損傷検出システムで使用されたBOTDRの空間分解能は1mで,それ以下の微小な損傷や疲労を検出することは難しい.

生体の神経機構

上述した3つの課題は,センシング技術の計測原理に起因するもので,個々の技術の改良では解決できない.そこで本研究では,これら3つの課題に対して,図3に示す生体における「聴覚系の認知情報処理」から「神経細胞内」あるいは「神経細胞間」の情報伝達をモデルとした構造ヘルスモニタリング手法を提案し,その有効性を検証する.

一定の周波数と振幅を持って空気中を伝播する弾性波である音は,陸生の動物の耳に達して鼓膜を振動させる.鼓膜の振動は,耳小骨を介して蝸牛に伝えられる.蝸牛では音の周波数分析が行われ,周波数に応じた特定の神経細胞に伝えられる.神経細胞ではこの信号を活動電位と呼ばれる自己再生的なパルス電位に変換する.活動電位は軸索と呼ばれるケーブルを伝導し,シナプスと呼ばれる部位を介して次の神経細胞に信号を伝える.シナプスは,電気シナプスと化学シナプスの2種類に大別される.電気シナプスでは,電気的に次の細胞へ信号が伝えられる.化学シナプスでは,神経伝達物質といわれる化学物質を介して次の細胞へと信号が伝えられる.この信号は最終的に脳へと伝えられ,高次の情報処理過程を経て音として認知される.

常時振動する構造物のヘルスモニタリング

航空機や橋梁など常時振動する大型構造物は,使用状況や周囲の環境により振動条件は刻々と変化する.にもかかわらず人間は,耳で聞いた音から構造物の異常を感知することができる.あらゆる振動条件が異なる構造物の音をあらかじめ知ることは不可能である.したがって,生体の中枢神経系における高次の情報処理過程では,健全なときに体感した音や振動と,現在の音や振動の類似性を抽出し,その類似性を抽出していると考えるのが妥当であろう.本研究では,構造物の振動によって生じるひずみの周波数分析を行う.そして振動の異なる状態での共振ピークゲインを比較することにより,常時振動している構造物に生じた損傷の位置を推定する手法を提案する.図4のように剛性補強のためのL字型スティフナが9個のボルトで結合されたCarbon Fiber Reinforced Plastics (CFRP)製擬似等方積層板からなる供試パネルに対し,周囲を剛体支持して振動試験を行った.損傷を模擬するボルトの欠落位置を変えて供試パネルをランダム加振させ,供試パネルに設置された4個のFBGセンサから得られるひずみ信号を計測した.このひずみ信号に対して周波数分析を行って,各々複数の共振ピークのゲインを求め,任意のFBGセンサのゲインで規格化して,これを基準データとした.次に加振点を変えて得られる規格化されたゲインを比較データとした.ここで,基準データと比較データの相関を求めたところ,加振点の位置が変化しても,ボルトの欠落位置をほぼ推定できることがわかった.本手法により,常に振動している構造物に対し,少数の局所型ひずみセンサを用いて健全性の常時監視が可能になる.

ケーブル理論を用いた水資源海上輸送用ウォーターバッグの電気的損傷検出手法

近年多くの国では水不足に直面し,その状況は年々悪化している.こうした問題を克服する手段のひとつとして,ウォーターバッグを用いた水の海上輸送が実用化された.このウォーターバッグは海上をタグボートで曳航することにより一度に大量の水を運搬することが可能になる.しかし曳航時に漂流物と衝突したりするなどして損傷が生じることがある.こうした損傷検出は通常目視により行われるが,ウォーターバッグは長さ100m以上の巨大な円筒状をしており,しかも曳航時は波浪等の影響を受けるため,非常に困難となる.そこでケーブル理論を用いた簡便で確実な電気的損傷検出手法を提案する.ウォーターバッグは導電体の周囲を絶縁性の比較的高い膜で覆い,さらにその周囲が導電体で覆われている.これは神経細胞と同じ構造である.そこで,神経細胞の電気的特性を計測する手法を用いた構造ヘルスモニタリングの実現可能性を検討する.まず図5のようなウォーターバッグとその周囲の環境の電気的な等価回路モデルを想定し,ウォーターバッグの内部に電流を通電し,健全時と損傷時におけるウォーターバッグの内部と外部の電位差すなわち膜電位を求める.そして模擬試験体を用いた実験と比較することにより,膜電位の相違から損傷の有無を検出できることを示した.さらに有限要素法を用いたシミュレーションから,ウォーターバッグの比抵抗を小さくすることにより,本手法を用いた損傷の位置同定が可能であることがわかった.

分布型ひずみセンサBOTDRの高機能化

BOTDRの空間分解能Δzは,信号パルス光のパルス幅で規定される.しかし実際には,パルス幅に相当する光ファイバの各位置からの後方ブリュアン散乱光のスペクトルGB(v, z, ε)の重畳した波形が計測されている.vは周波数を,zは光ファイバの位置を,εは光ファイバに生じたひずみを表す.重畳したスペクトルの中心周波数とゲインを分離することができれば,空間分解能以下のひずみの大きさとそのひずみが空間分解能に占める割合を計測することができる.そこで本手法では,神経筋接合部のシナプスの情報伝達メカニズムで行われている伝達物質の量子的放出過程の考え方を適用し,空間分解能以下の小さなひずみ分布を検出できるか検討する.本手法では,まず信号パルス光に対する応答を光ファイバの位置に対して図6(a)のようにm等分する.次に各区間におけるひずみが図6(b)のように一様かつ離散的な値εjをとるとし,そのときのスペクトルのゲインgB(v,εj)とすると,ブリュアンゲインスペクトルは,図6(c)のように〓と記述することができる.そこで,〓を評価関数Eとして,これを最小とするようなnj,vB(εj)を求めることにより,区間(z, z+Δz)に生じたひずみの大きさとそのひずみが占める割合を求めることができる.本手法を用いて,分解能1mのBOTDRを用いて計測したブリュアンゲインスペクトルを解析することにより,引張り試験により生じた長さ10cmのひずみを分離することができた.

総括

構造ヘルスモニタリングの適用分野の拡大に伴い,既存の技術では対応が困難な状況が生じることが多くなった.この状況を打破するために,本研究では生体の持つ感覚受容メカニズム,神経細胞や神経細胞間の情報伝達機構に関する研究技術および成果に注目し,従来と異なる構造ヘルスモニタリング手法を提案した.これらの結果は,新たな構造ヘルスモニタリング手法の抱える課題のいくつかを克服する手段を提供したのと同時に,構造ヘルスモニタリングの新たな可能性を切り開いたと考えられる.

構造ヘルスモニタリングの要素技術

IACCヨットのヘルスモニタリングを踏まえた課題

聴覚系における神経情報伝達

損傷を模擬するボルト欠落位置推定実験

ウオーターバッグの等価回路モデル

ブリュアンゲインスペクトルの離散化

審査要旨 要旨を表示する

構造物は、人間の肉体だけでは実現不可能な環境や能力を獲得することを目的として、強度や形状の異なる材料を組み合わせて作られたものである。このことは構造物には大きな負荷が加わることを意味する。疲労や微小な損傷により強度が低下した構造物に大きな負荷が加わった場合、致命的な損傷や破壊に至る可能性がある。構造ヘルスモニタリングは、こうした強度の低下や微小な損傷を検出し、構造物の健全性を定量的に評価しようとするもので、人工衛星、航空機などセンタ的分野のみならず、ビルや橋梁などの社会基盤へとその適用範囲は拡大している。

こうした状況のなか、1999年にはアメリカズカップ級のヨットの損傷検出システムが開発された。このシステムは、分布型光ファイバひずみセンサBrillouin optical time domain reflectometer (BOTDR)を用いて測定した船体の静的なひずみ分布の情報を元に、ヨットの建造時からレース終了時までの構造ヘルスモニタリングを実現したもので、実構造物を対象にした先駆的実施例となった。しかし実際にヨットの構造ヘルスモニタリングを行う過程で、「常時振動する構造物のヘルスモニタリングの実現」、「センサの適用が困難な構造物のヘルスモニタリング」、「空間分解能の制約」という3つの課題が明らかになった。

本論文は、これら3つの課題に対して、生体の聴覚系における情報処理および神経細胞の情報伝達メカニズムに着目した構造ヘルスモニタリング手法を提案し、具体的な実施例に対してその有効性を検証したものである。

「常時振動する構造物のヘルスモニタリングの実現」に対しては、振動条件が変化する構造物のひずみの周波数応答から求めた共振ピークゲインを比較することにより、構造物に生じた損傷の位置を推定する手法を提案している。これは、生体が耳で聞いた音を時間周波数分析した情報を元に、使用状況や周囲の環境が異なる振動条件でも構造物の異常を検出できることに着目したものである。本研究では、ある加振点で励振される構造物に局所型ひずみセンサであるFBGセンサを設置し、ひずみ信号を計測する。このひずみ信号の周波数分析を行って複数の共振ピークのゲインを求め、任意のFBGセンサのゲインで規格化して、これを基準データとする。次に加振点を変えて同様に得られる規格化されたゲインを比較データとして求める。そして基準データと比較データの相関を求めることにより、加振点の位置が変化しても、損傷の位置を推定できることを示した。本手法により、常に振動の状態が変化する場合でも、少数の局所型ひずみセンサを用いた構造物の健全性の常時監視が可能になり、航空機や橋梁などへの適用が期待される。

「センサの適用が困難な構造物のヘルスモニタリング」に対しては、光ファイバセンサなどの従来のセンサによる損傷検出が困難な水資源海上輸送用ウォーターバッグの構造が、神経細胞と類似していることに着目し、神経細胞の電気的特性を計測する手法を用いた構造ヘルスモニタリング手法を提案している。ウォーターバッグの内部に電流を通電し、健全時と損傷時におけるウォーターバッグの内部と外部の電位差すなわち膜電位を求め、膜電位の相違から損傷の有無を検出できることを示し、実験により検証した。さらに有限要素法を用いたシミュレーションから、本手法を用いた損傷位置の特定が可能であることを明らかにした。

「空間分解能の制約」に対しては、神経細胞間のシナプスと呼ばれる部位の情報伝達の研究で知られる量子仮説を元に、BOTDRを用いた空間分解能以下のひずみを検出する手法を検討している。BOTDRは、光ファイバの片端から入射したパルス光によって生じる後方ブリユアン散乱光の中心周波数が、光ファイバに生じたひずみによって変化することを利用してひずみ分布を求める。このときBOTDRで計測される後方ブリュアン散乱光のスペクトルは、入射したパルス光の幅で規定される空間分解能の範囲内にある光ファイバの各位置から生じた後方ブリユアン散乱光の総和として表される。本研究では入射パルス光に対する応答を光ファイバの長さ方向に対して等分し、各区間におけるスペクトルの中心周波数とゲインを量子仮説に基づき推定することにより、空間分解能以下のひずみを検出し、その大きさと空間分解能に占める割合を推定する手法を提案している。本手法を用いて分解能1mのBOTDRにより計測したブリユアンゲインスペクトルを解析することにより、空間分解能の1/10に相当する0.1mのひずみが分離できることを示した。これは構造物の初期の損傷や応力の集中によって生じる空間分解能以下の局所的なひずみの検出が、BOTDRを用いて可能になることを意味するものである。

本研究では、生体の聴覚系における情報処理および神経細胞の情報伝達メカニズムに注目し、従来手法とは異なる構造ヘルスモニタリング手法を提案している。これらの成果は、新たな構造ヘルスモニタリング手法の抱える課題のいくつかを克服する手段を提供したものであり、構造ヘルスモニタリングの新たな可能性を切り開いたものと考えられる。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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