学位論文要旨



No 119022
著者(漢字) 小野,志亜之
著者(英字)
著者(カナ) オノ,シアノ
標題(和) ケルビンプローブフォース顕微鏡での局所電位計測における性能向上に関する研究
標題(洋)
報告番号 119022
報告番号 甲19022
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5754号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,琢二
 東京大学 教授 榊,裕之
 東京大学 教授 荒川,泰彦
 東京大学 教授 中野,義昭
 東京大学 教授 平川,一彦
 東京大学 助教授 田中,雅明
内容要旨 要旨を表示する

本研究では,走査プローブ顕微鏡の一種であるケルビンプローブフォース顕微鏡(以下,KFM)における表面電位の測定精度を高めるためには,試料の清浄化や探針・試料間の距離,特に周期的接触型・非接触型などAFMの動作モードについて考慮することが重要であることを指摘した.そのうえで,KFMを用いてGaAs基板上InAs細線構造やGaAs基板上InAs薄膜・量子ドット構造の表面電位を高分解能で計測し,InAs薄膜の膜厚,InAs細線の幅や量子ドットのサイズの依存性等について議論を深めた.さらに,サンプル・ホールド回路を用いたKFMフィードバックシステムを提案し,計測手法としてのKFMの性能向上を図った.以下にその概要を記す.

まず,KFMによる表面電位測定値の信頼性を高めるために,探針・試料表面の付着物が表面電位測定に与える影響について検討を行った.表面付着物は主に有機系と水分系の2種類に大別されるが,水は分極性物質であることから,水分系の表面付着物は有機系の表面付着物に比べてより強い分極作用を持ち,これが表面電位測定値に大きな影響を与えるものと考えられる.一方で水分系付着物は比較的容易に熱的に除去できることから,高真空中で探針・試料表面の加熱処理を行いその効果を調べた.加熱処理前および加熱処理後にフォースカーブを取り両者を比較したところ,加熱処理後のフォースカーブでは表面吸着力が大幅に減少しており,加熱処理によって水分系表面付着物がほとんど除去されたものと考えられる.さらに,いくつかの試料の加熱処理前,加熱処理後の表面電位測定値を比較した結果,すべての試料において表面電位測定値の絶対値は加熱前の方が加熱後に比べて約25%以上大きかった.さらに,探針・試料表面を加熱処理することにより,表面電位の測定値が安定して取れるようになった.KFMによる表面電位測定の測定値そのものの議論を行うためには,探針・試料表面から水分系表面付着物を除去することが大切であることがわかった.

そこで,nドープGaAs微傾斜基板上InAs薄膜構造に対して加熱処理を行った後に,周期的接触型AFMをベースとしたKFM(以下,CC-KFM)を用いた表面電位の計測を行った.異なる膜厚の試料に対して表面電位計測を行い,得られた結果を比較したところ,InAs薄膜表面のフェルミレベルがバルクInAsの伝導帯内部に位置すること,ならびに,InAs薄膜の厚さが増大するにつれてInAs薄膜表面のフェルミレベルが真空準位に近づく方向にシフトすることがわかった.これらの結果はマクロな測定による文献値と定量的に概ね一致していることが確かめられた.

続いて,InAs細線構造に対して,コンタクトモードAFMおよびCC-KFM測定による電流・表面電位分布の評価を行った.試料としてはnドープGaAs(110)面微傾斜基板上に作製したアンドープGaAsマルチステップをバッファ層とし,アンドープInAsがマルチステップ端へ選択的取り込み成長を起こす条件で得られたInAs細線を用いた.この試料に対し,コンタクトモードAFMで探針・試料間を流れる電流のマッピングを行ったところ,電流が増大する領域がステップ端に沿って現れた.InAs成長量,すなわち細線幅の異なる試料において成長量に応じた電流増大領域の増減が観測されていることから,電流増加領域はInAs細線に対応しているものと考えられる.このようなInAs領域での電流増加は,InAsドットで覆われたn-GaAs基板上で報告されているGaAs/InAs境界のショットキー障壁の低下で説明できる.続いて,この試料に対してCC-KFMを用いて表面電位分布の測定を行ったところ,負の方向に大きな電位がステップ端に沿って再現性良く現れた.この負の電位領域は前述の電流増加領域と良く一致しており,InAs細線に対応すると考えられる.一方,InAsを成長していないGaAsマルチステップ上ではこのような電位分布は見られずほぼ一様であった.以上から,KFM測定による材料分布推定の妥当性を示した.

一般に,KFM測定では探針・試料間に一般的に交流バイアスを印加し,探針・試料間に生じる静電引力を取り込んでそれをフィードバックに用いることにより表面電位を求めている.通常,CC-KFMではこの交流バイアスの振幅は数V程度であるが,試料表面の電位分布と試料表面近傍の電子分布に密接な関係があることを考慮すると,数Vオーダーの交流バイアスは試料表面の電子分布を乱し,数mV単位で評価されるべき試料表面の電位分布に影響を及ぼすことが予想される.試料・探針間距離を抑えれば,探針・試料間に印加する交流バイアスの振幅を抑えたとしても,表面電位を求めるために十分な大きさの静電引力が得られることから,真空中で測定可能な非接触型AFMをベースとしたKFM(以下,NC-KFM)を新たに構成した.この結果,従来に比べ探針・試料間の平均距離が1桁小さくなり,交流バイアスの振幅が従来の1/100以下の10mVpeak-peakでも表面電位測定が可能であることを実験的に明らかにした.そこで,先に述べたInAs細線に対して,探針・試料間の距離とInAs細線の表面電位分布の関係について調べた.NC-KFMによって得たInAs細線の表面電位像のコントラスト(濃淡の分布)はさきのCC-KFMで得たそれと同じであったが,表面電位の大きさについて比較したところ,CC-KFM(探針・試料間平均距離約150 nm)ではInAs細線領域においてはその周りを取り囲むGaAsのwetting layer領域にくらべて約15 mVほど負に大きな電位が得られていたのに対し,NC-KFM(探針・試料間平均距離15 nm以下)ではその差は約30 mVに増大した.一般に,KFMは長距離力である静電引力を表面電位のためのフィードバックに用いるので,仮に試料表面に急峻な電位分布が存在するとしても,得られる電位値はそれらをある空間的広がりで平均化したものとなってしまうと考えられる.このことを確かめるために,デバイスシミュレータISE-TCADを用いて探針・試料周囲の2次元電界強度分布を両者の間隔を変化させながら計算したところ,探針先端付近に電界集中が起こることがわかった.試料・探針間距離を変化させながら同様の計算を行ったところ,試料・探針間距離の増大に伴い試料表面の電界分布が広がることが確かめられた.これらの結果から,より正確な表面電位分布を計測するためには,探針・試料間距離を狭めることが重要であることを確認した.

以上の結果を踏まえ,探針・試料間距離を狭めるためにNC-KFMを用いて,nドープGaAs(100)面平面基板上のInAs量子ドットに対して表面電位計測を行ったところ,InAs量子ドット領域ではその周りを取り囲むGaAsのwetting layer領域にくらべて負に大きな電位が得られた.そこで「InAs量子ドット領域の表面電位測定値」と「ドットの周りを取り囲むGaAsのwetting layer領域の表面電位測定値」を比較したところ,両者の差(以下,電位深さ)は,ドットの直径の増大にともない増大した.この電位深さの増大には二つの可能性が考えられる.一つは,InAs量子ドット表面の真の電位の値がドットの大きさに依存すること.もう一つは,より正確な表面電位分布を計測するためにNC-KFMを用いることで試料・探針間距離を抑えたとはいえ,探針側面の影響を完全に無視することができず,得られる表面電位値がある空間的広がりで平均化したものとなっていたことである.そこで,この探針側面の影響による表面電位値の平均化の影響を調べるために,探針の形状を考慮に入れて,探針・試料周囲の2次元電位分布を計算し,それをもとにして試料・探針間に働く静電引力を計算するプログラムを作成した.このプログラムを用いて静電引力が最小になるような探針電位,すなわち「探針が感じる表面電位」を計算した.このような探針電位は実際のKFM測定で得られる表面電位に対応するため,「試料表面の真の表面電位」と「探針が感じる表面電位」の関係を計算したところ,測定対象の大きさ(例えば,量子ドットの直径)が探針先端の曲率半径や探針・試料間距離より大きければ,「試料表面の真の表面電位」と「探針が感じる表面電位」はほぼ等しくなり,探針側面の影響をほぼ無視できることがわかった.また,実際のKFM測定で得られた表面電位値を校正することにより,試料表面の真の表面電位分布を求めることができる可能性も示した.

さらに,表面電位分布を計測する際,静電引力の試料・探針間距離依存性の影響を抑えることを目的として,従来のCC-KFMに対して,その表面電位フィードバック回路にサンプル・ホールド回路を付加したKFM(以下,SH-KFM)を提案した.このシステムはCC-AFMベースの測定系であるために構成が簡単で取り扱いも比較的容易であるにもかかわらず,表面電位計測においては実質的にNC-KFM並みかそれ以上の高空間分解能の計測が可能になると考えられた.そこで実際にSH-KFMを構成し,さきのInAs量子ドットに対して表面電位計測を行ったところ,InAs量子ドット内部やドット周辺のwetting layer部分に同心円状の電位分布が観測された.これは従来のCC-KFMやNC-KFMでは観測できなかったデータであり,今回SH-KFMによって表面電位測定の空間分解能が著しく向上したことによって初めて得られた結果である.SH-KFMの表面電位測定における空間分解能は10 nm以下と見積もられ,CC-KFMベースのKFMでは世界トップレベルと考えている.さらに,試料・探針間に印加する交流バイアスもNC-KFM並みかそれ以下に抑えられ,従って試料表面の電子分布や電位分布に与える影響も最小限に抑えられることがわかった.なお,InAs量子ドット上で得られた同心円状の電位分布はドットやその周囲を取り囲むwetting layerのひずみに関係すると思われるが,その詳細な議論は今後の課題であると考えている.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,「ケルビンプローブフォース顕微鏡での局所電位計測における性能向上に関する研究」と題し,ナノスケールの計測手法としてのケルビンプローブフォース顕微鏡(KFM)の測定技術の向上を図ったものであり,全9章から成っている.

第1章は「緒論」であり,本研究の背景を解説している.原子間力顕微鏡(AFM)の応用形であるKFMは,試料・探針間に働く静電引力を利用して試料表面の形状と接触電位差(以下,ポテンシャル,と呼ぶ)の分布を同時に測定するツールである.KFM測定ではポテンシャルの測定値とその濃淡分布の二種類の情報が得られるが,試料・探針の表面付着物の影響やポテンシャル測定値そのものの意味する試料表面の物性を議論した例はこれまでほとんど見られていない.本章では,その点に言及するとともに,本論文の目的と構成を述べている.

第2章は「動作原理」と題し,コンタクトモード,タッピングモードおよびノンコンタクトモードなど,基本的なAFMの動作モードの概略と,KFMでのポテンシャルフィードバックの原理について述べている.

第3章は「試料およびカンチレバー」と題し,本研究で試料として用いたInAs薄膜,InAs細線およびInAs量子ドットの作製方法およびその構造を説明している.また,本研究で用いるカンチレバーの仕様の概略を述べている.

第4章は「水分系表面付着物がポテンシャル測定値に与える影響」と題し,KFMでの測定値の信頼性を高めるとともにポテンシャル測定値そのものを用いた定量的な議論を可能にするために,探針・試料表面に存在する水分系表面付着物がポテンシャル測定に与える影響についての実験的な検討を行っている.その結果,探針・試料表面から水分系表面付着物を除去することの重要性を指摘するとともに,実際に加熱処理にて水分系表面付着物を除去したInAs薄膜構造に対するポテンシャル計測によって,薄膜表面のフェルミレベルの位置やその膜厚依存性を調べて,他の実験や理論モデルと一致する傾向が得られることを明らかにしている.また,同様の加熱処理を行ったInAs細線構造に対するKFMポテンシャル測定を通じて,KFM測定による材料分布推定の妥当性を示している.

第5章は「静電引力の試料・探針間距離依存性」と題し,シミュレーションと実際のポテンシャル計測を通じてKFM測定における静電引力の探針・試料間距離依存性についての議論を深めている.通常のKFMでは試料表面の形状情報を得るためにカンチレバーを機械的に振動させているため,長距離力の一種である静電引力がこの探針・試料間距離の周期的な変化に影響されることを指摘している.その上で,探針・試料間のポテンシャルおよび電界強度分布,ならびに両者間に働く静電引力の探針・試料間距離依存性をシミュレーションで求めるとともに,実際のKFM測定系で,探針・試料間距離の周期的な変化に伴い静電引力が変動することを実験的に確かめ,両者の比較を行っている.

第6章は「ノンコンタクトモードAFMをベースとしたKFMの構成」と題し,第5章の議論をもとに,探針・試料間の平均距離を抑えてポテンシャル像の分解能の向上を図る目的でノンコンタクトモードAFMをベースとしたKFM(NC-KFM)を新たに構成し,InAs細線やInAs量子ドットに対してポテンシャル像の高分解能測定を行った結果を述べている.細線や量子ドット領域のポテンシャルがその周囲と比べて負に大きなポテンシャルが得られるとともに,ドット試料でのコントラストはドットの直径の増大にともなって増大することを実験的に確かめている.その解釈として,ポテンシャルが真のドットサイズ依存性を持っている可能性と,NC-KFMを用いてはいるものの探針側面の影響を完全に排除できずにある空間的広がりで平均化したポテンシャル値が観測されてしまっている可能性の両者を考えるべきであることを指摘している.

第7章は「KFM測定におけるポテンシャル分布の平均化の影響」と題し,第6章で指摘したような探針側面の影響によるポテンシャル値の平均化の程度を調べるために,探針の形状を考慮に入れた2次元ポテンシャル分布と,それをもとに試料・探針間に働く静電引力を計算するプログラムを自作し,静電引力が最小になるような探針の電位,すなわち実際のKFM測定で得られるポテンシャル値,を計算した結果を述べている.計算結果から,探針・試料間の距離が十分小さいとき,測定対象の大きさ(例えば,量子ドットの直径)が探針先端の曲率半径より大きければ真のポテンシャル値とKFMでのポテンシャル測定値はほぼ等しくなり,探針側面の影響をほぼ無視できることを明らかにしている.また,実際のKFM測定で得られたポテンシャル値を校正することにより,試料表面の真のポテンシャル分布を求めることができる可能性をも示している.

第8章は「サンプル・ホールド回路を用いたKFMの構成」と題し,静電引力の探針・試料間距離変化による影響を抑えながらポテンシャル測定を行う方法として,タッピングモードAFMをベースとしたKFMのポテンシャルフィードバック回路にサンプル・ホールド回路を挿入するKFM測定系を提案し,実際に測定系を構築してその効果の実証を行った結果について述べている.InAs量子ドットに対するポテンシャル計測では,従来手法では観測できなかったドット内部やその周辺に存在する同心円状のポテンシャル分布が明瞭に観測されている.この結果からポテンシャル測定における空間分解能は10nm以下と見積もることができ,世界トップレベルの空間分解能が実現されたことを示している.さらに,本測定系では試料・探針間に印加する交流バイアスの振幅も低く抑えられることから,試料表面の電子分布やポテンシャル分布に与える影響も最小限に抑えられることも明らかにしている.

第9章は「結論」であり,本論文全体の研究成果をまとめて要約するとともにその意義を述べている.

以上これを要するに,本論文は,KFMによるポテンシャル計測における性能向上を図ることを目的として,測定値の信頼性,定量性を向上させるためには試料の清浄化が効果的であることや,探針先端形状および探針・試料間の距離変動がポテンシャル測定値に与える影響を明らかにした上で,サンプル・ホールド回路を用いた独自のKFMフィードバックシステムを提案・構築し,ポテンシャル測定において従来手法では実現不能であった10nm程度以下の空間分解能を達成するなど,計測手法としてのKFMの高性能化を実現したものであり,電子工学上,寄与するところが少なくない.

よって本論文は,博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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