学位論文要旨



No 119030
著者(漢字) 大串,研也
著者(英字)
著者(カナ) オオグシ,ケンヤ
標題(和) スピネル型クロム化合物の電子物性
標題(洋)
報告番号 119030
報告番号 甲19030
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5762号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 永長,直人
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 初貝,安弘
内容要旨 要旨を表示する

磁性体におけるスピン軌道結合は、相互作用のエネルギースケールこそ小さいものの、長年、研究対象になってきた。磁気異方性、寄生強磁性、電気磁気効果、磁場誘起スピンギャップ、異常Hall効果、異方的磁気抵抗効果、Faraday効果、Cotton-Muton効果、磁気円二色性、これらは全てスピン軌道相互作用に由来する。これらの現象は基礎科学的な見地から興味深いのみならず、Faraday効果やCotton-Muton効果のように、応用上も重要な地位を占めている。本研究では、「スピン軌道相互作用から新奇な量子現象が生じる可能性」、「いかにして小さなエネルギースケールを持つスピン軌道相互作用から巨大な応答を引き出すか?」の2点に主眼を置いた。

スピン軌道相互作用の物理を調べるにあたり、我々が着目した物質群はスピネル型クロム化合物MCr2X4(M=Mn,Fe,Co,Cu,Zn,Cd, X=O,S,Se)である。本物質群のうちMサイトに非磁性イオンをおいた系は、磁性半導体や幾何学的フラストレーションの物理といった観点から活発に研究が行われてきた。我々は寧ろ、Mサイトに磁性イオン(Mn,Fe,Co,Cuの2価イオン)をおいた系に着目した。Mサイトの電子、スピン、軌道状態を系統的に変えることによりスピン軌道相互作用の役割を調べることが出来るだけでなく、Mサイトに磁性イオンを配置することで系に一様な磁気モーメントが発生し磁場による容易な相コントロールが可能となるからである。本研究では、酸化物、カルコゲナイドの両者に対し、純良単結晶を気相成長法及び Flux 分解法により育成し、その磁気的、電気的、光学的性質を系統的に測定することで、スピン軌道相互作用の物理を調べた。

酸化物とカルコゲン化物の磁気的、光学的性質

中赤外領域から真空紫外領域まで反射スペクトルを測定し、Kramers-Kronig 変換により光学伝導度を得た。

M=Fe, Coの系において低エネルギーに先鋭的な構造を見出し、これらを配意子場理論による解析の結果、Feの原子内d-d遷移5E→5T2(ω=ΔE)、Coの原子内d-d遷移4A2→4T2(ω=ΔE)、4A2→4T1(ω=ΔE+12B)と同定した。これらは全てスピン許容の遷移であるが、スピネル構造のMサイトは四面体配位であり局所的な対称性として反転対称性が破れているために電気双極子遷移許容にもなっている。ΔEは比較的小さく、M=Feの方がM=Coよりも小さいが、これらは4配位である本系の特徴だと考えられる。硫化物と酸化物に対する比較により、1、硫化物の方が酸化物よりも振動子強度が強い、2、ΔEは酸化物の方が硫化物における値よりも大きい、3、M=Coにおける Racah 係数Bは酸化物では自由イオンにおける値のおおよそ2/3であるが硫化物においてはおよそ1/3にまで繰り込まれている、4、硫化物の方が酸化物よりもスピン軌道相互作用の定数が小さい、の四点の特徴が明らかになった。これらは全て硫化物における強い硫黄のp軌道と遷移金属d軌道の混成の帰結である。

M=Cuにおいては、現在までに光電子分光や磁気円二色性によりCuCr2Se4ではCuが一価となりpバンドにホールが注入された状態になっていると議論されてきたが、我々は反射スペクトルからCuCr2Se4においては金属的なスペクトルを示す一方で、CuCr2O4では絶縁体的のままであることを示した。特にCuCr2O4において、その低エネルギー部に配位子場理論から期待される一本より多い数のd−d遷移由来と思われる構造を見出だした。CuCr2O4においては静的な Jahn-Teller 変態が860Kにあり結晶構造が正方晶のI41/amdに落ちていることが知られているが、この構造相転移由来のd−d遷移分裂が観測にかかっている可能性がある。

カルコゲン化物におけるスピン軌道結合 −磁気光学効果−

我々はカルコゲン化物に対して、中赤外領域から紫外領域において、ピエゾ光学変調器を用いた円偏光変調法により磁気光学スペクトル(Kerr 回転)を測定した。

FeCr2S4とCoCr2S4において、d−d遷移に対応したエネルギー領域に4.5°に及ぶ巨大な磁気光学応答が存在することを明らかにした。これは、ヘリウム温度以上の永久磁石で到達可能な磁場領域で既存の物質中最大の応答であり、比較的高い磁気転移温度、CoCr2S4におけるd−d遷移は光ファイバー通信における長波長帯(0.8-0.95eV)にかかっていることを鑑みると、今後の磁気光学材料としての展開が強く期待できる。磁場中の Lorentz 振動子モデルに基づいた現象論的な解析により本系の巨大な応答の起源を、硫化物であることに由来する強いp軌道とd軌道との混成、及び四面体サイトにおける局所的な反転対称性の破れにより実現された大きな振動子強度に求めることができることが分かった。

MnCr2S4において1.8eV付近に大きさこそ0.1°程度と小さいがスピン非許容のd−d遷移6A1→4T1(ω=-ΔE+10B+6C)に対応した構造を観測した。B, C>>ΔE等の近似を使うと Racah 係数Bが自由イオンのおよそ1/2倍であることが分かり、FeCr2S4やCoCr2S4と同様、硫化物におけるp軌道とd軌道の強い混成の結果による強い繰り込み効果が理解できた。

カルコゲン化物におけるスピン軌道結合−磁気トルク、異方的磁気抵抗、異常ホール効果−

我々はピエゾ抵抗素子を用いた市販のトルク測定装置を用いてカルコゲナイドの磁気トルクを(110)面に対し測定した。その結果1、CuCr2Se4のみK1<0である、2、MCr2S4(M=Mn, Fe, Co)ではK1(Fe)>K1(Co)>K1(Mn)>0である、の二つの特徴を見出した。前者はM=Cuのみ電子構造が異なり磁気異方性がCr3+に由来すること、後者のうちK1(Fe)>K1(Co)はK1∝1/ΔE(M)であるが光学測定からΔE(Fe)<ΔE(Co)であること、を反映していると考えられる。

我々はAgを6%ドープし低抵抗化を図ったFeCr2S4に対し、電流端子と電圧端子を(1-10)方向にとり磁場を横磁気抵抗の配置で回転させた時の異方的磁気抵抗効果を測定した。その結果、最低温において既存の物質では最大となる99%の正の異方的磁気抵抗効果を観測した。同時に本系の異方的磁気抵抗効果では、磁化の4次、6次等に比例する高次の項の寄与が大きいことを明らかにした。これらは異方的磁気抵抗の起源であるDM相互作用がΔEに反比例しており、光学測定で明らかになったように本系ではΔEがおよそ0.3eVと小さいことに起因していると結論できる。

我々は、異方的磁気抵抗効果の現象論を拡張することにより異常 Hall 効果にも磁化に対する高次の項が存在することを予期し、異方的磁気抵抗効果を測定した試料に対し異常 Hall 効果を測定した。その結果、1、回転磁場中における測定において Hall 抵抗がcos(θ)からずれること、2、磁場を(111)方向に固定した時の高磁場極限の値と低磁場極限の値の比が0.35であり磁化の比0.58から著しく外れていること、の二点から異方的異常 Hall 効果の存在を明らかにした。さらに、NNNホッピングにおけるDM相互作用を取り込んだダイアモンド格子上のシングルバンドの強束縛モデルに基づき、異方的異常 Hall 効果を半定量的に再現した。本モデル計算は、Haldane により2次元蜂の巣格子で議論された Parity Anomaly を表すモデルの3次元への拡張となっており、こうしたエキゾチックな物理現象が異常 Hall 効果の物理に含まれていることが明らかになった。

上記のように、我々はスピネル型クロム化合物に対する系統的な研究を通して、スピン軌道相互作用由来の現象を巨大化させることと、スピン軌道相互作用から新たな量子現象を引き出すことに成功した。

審査要旨 要旨を表示する

磁性体におけるスピン軌道相互作用は、相互作用のエネルギースケールこそ小さいものの、永年、研究対象になってきた。これは、スピン軌道相互作用が他の相互作用と定性的に異なるが故に基礎科学的な観点から興味深いのみならず、光アイソレーターや磁気ディスクのように応用上も重要であるからである。本研究では「スピン軌道相互作用から新奇な量子現象が生じる可能性」と、「いかにして小さなエネルギースケールを持つスピン軌道相互作用から巨大な応答を引き出すか」の二点に着目し研究が行われている。対象とする物質としては、スピネル型クロム化合物MCr2X4 (X=S, Se) が選ばれ、特にMの二価イオンが磁性を持つM=Mn, Fe, Co, Cuに重点が置かれている。

本論文は全6章からなる。

第1章では、研究の背景となるスピン軌道相互作用由来の物理現象、及びスピネル型クロム化合物の物性に関して現在までに知られていることを概観し、しかる後に本研究の目的と本論文の構成を述べている。

第2章では、実験に用いた結晶の作製方法、実験手法、及び実験データの解析法について述べている。

第3章から第5章に実験、解析結果とそれに関する議論が述べられている。

第3章では酸化物、カルコゲン化物両者に対する系統的な分光と配位子場理論に基づいた解析を行った結果得られた、系の電子構造に関する知見が述べられている。(1) カルコゲナイドにおける真空紫外領域まで及ぶスペクトル重率の低エネルギーへのシフト、(2) d-d遷移の振動子強度の相違、(3) 硫化物における大きく繰り込まれたラカー係数、(4) スピン軌道相互作用の定数の相違、(5) CuCr2O4とCuCr2Se4の電子構造の大きな違い、などの考察からカルコゲナイドにおいて配位子のp軌道が遷移金属のd軌道との強い混成とその影響を定量的に明らかにしている。

第4章ではカルコゲン化物に対し磁気カー効果を測定した結果を議論している。FeCr2S4とCoCr2S4においてスピン許容d-d遷移に共鳴した4゜を超える巨大磁気カー効果を観測し、振動子モデルに基づいた解析によりその巨大性の起源が本系に特徴的なd-d遷移の大きな振動子強度にあると議論している。MnCr2S4においては、スピン禁制d-d遷移を観測し配位子場モデルで解析を行っている。これら3,4章での分光的研究によって、一群のスピネル型クロム化合物のd-d遷移の詳しい特徴と系統性が、はじめて明らかになった。

第5章では零エネルギー近傍のスピン軌道結合の物理が議論されている。カルコゲン化物における立方異方性定数はK1(Fe)>K1(Co)>0>K1(Cu)なる関係を持っており、この関係を(1)M=Cuの系は磁気異方性がCr4+から生じていること、(2) 配位子場分裂エネルギーが‥(Fe)<・E(Co)であること、から説明している。キャリアをドープして低抵抗化を図ったFeCr2S4における磁気輸送現象は強い異方性を示すが、従来の磁性体での報告例を遥かに凌駕する99%に達する異方的磁気抵抗を見出している。またその巨大性の起源を配位子場分裂エネルギーが小さい事に由来する大きなジャロンシンスキー-守谷(D-M)相互作用に求めて、微視的な解釈を与えている。一方、この物質の異常ホール効果の磁場方位角度依存について、コサイン曲線・から外れる明瞭な異方性も観測している。その異方性を、D-M相互作用を取り入れた強束縛モデルに基づく理論計算により再現し、異常ホール効果の物理とパリティ異常を関連付けて論じている。

第6章では、本研究で得られた成果をまとめている。

本論文には2つの補章が設けられている。

付録Aでは、第3章、第4章で使われている配位子場理論が要約されている。

付録Bには、第5章で議論されているモデルに対するホール伝導度の具体的な計算が述べられている。

以上を要するに本論文では、スピネル型クロム化合物における、磁性、輸送現象、光学現象に現れるスピン軌道相互作用の物理を、伝導、磁性現象から赤外-紫外光学スペクトルに及ぶ広範なエネルギー範囲で系統的に調べた。その結果、磁気カー効果と異方的磁気抵抗の巨大化、異方的異常ホール効果の観測とそのパリティ異常の関連、磁気異方性の配位子場理論に基づく理解等、多くの新しくかつ重要な知見を得ている。また、スピンエレクトロニクスの材料研究上、重要な意義をもつスピネル型クロム化合物において、一連の系統的な分光的研究によって、その電子構造の特徴を明らかにするとともに、酸化物とカルコゲナイドの大きな相違についても、重要な知見を得た。

これらの点で、本研究は物性物理学、物理工学の進展に寄与するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク