学位論文要旨



No 119035
著者(漢字) 江口,律子
著者(英字)
著者(カナ) エグチ,リツコ
標題(和) 光電子分光によるバナジウム酸化物と光キャリアー注入による金属-絶縁体転移の研究
標題(洋)
報告番号 119035
報告番号 甲19035
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5767号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 教授 上田,寛
 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 助教授 廣井,善二
内容要旨 要旨を表示する

バナジウム酸化物は金属−絶縁体転移を示す物質が数多く存在する。金属−絶縁体転移はバンド幅制御やキャリアー制御、格子変形などにより引き起こされ、それらの物性においては電子−電子相互作用や電子−格子相互作用などが重要な役割を担っていることが指摘されている。

本論文ではそれらバナジウム酸化物のうち、(1)金属−絶縁体転移は示さないがモット転移近傍の金属と考えられ、数多くの研究が進められているSrVO3、CaVO3、(2)温度変化に加え光キャリアー注入によっても金属−絶縁体転移を示すVO2薄膜、(3)擬一次元物質と考えられ温度変化により金属−絶縁体転移を示すV6O13、以上の物性について議論する。それぞれの金属−絶縁体転移及びその近傍の電子状態はどのように変化するのか、電子状態を直接観測することができる光電子分光、逆光電子分光法を用いて研究を行った。

1: SrVO3、CaVO3の光電子、逆光電子分光

SrVO3、CaVO3はモット転移近傍の金属電子状態であると考えられ、以前から光電子分光を含め、数多くの研究が報告されている物質である。ともにd 1系の金属であるが、SrVO3に比べCaVO3の結晶構造が歪んでいるためにdバンド幅(W)がSrVO3>CaVO3となり、Mott転移を表すパラメータとしてU/Wを考えるとCaVO3の方がU/Wが大きく絶縁体に近いということになる。これまでの光電子分光の結果からは、V 3d電子状態密度(DOS)には、EF近傍にある準粒子ピーク(coherentバンド)とlower Hubbardバンド(incoherentバンド)の2 つの構造が存在することがわかっている。SrVO3からCaVO3になるにつれてcoherentバンドからincoherentバンドに強度が移り変わる様子が見られ、それらは無限次元Hubbardモデルでよく説明でき、coherentバンドはLDAバンド計算のDOS に対応させることができると言われている。本研究では光電子、逆光電子分光測定の高分解能化に伴い、「coherentバンドはバンド計算で説明できるか?」「非占有電子状態側のcoherent、incoherentバンドの存在は?」 という点について注目し研究を行った。

光電子分光の結果において、SrVO3、CaVO3のEF近傍のDOSを見るとこれまで指摘されていなかった擬ギャップのような構造が観測された。その深さはSrVO3<CaVO3であり、バンド幅Wの違い(CaVO3の方がU/Wが大きく絶縁体に近い)に対応している。また、高温ではギャップが埋まっていく様子も観測された。これらの結果は、低温ではcoherentバンドにおいてバンド計算では説明できない擬ギャップが存在し、電子相関の効果が無視できないことを示している。一方、逆光電子分光の結果ではバンド計算と比較できるcoherentバンドとupper Hubbardバンドに対応するincoherentバンドの構造が明瞭に観測された。

光電子分光によるVO2/TiO2:Nbの光キャリアー注入の研究

VO2/TiO2:Nb薄膜は約295 Kで金属-絶縁体転移を示す。VO2は相転移に伴い結晶構造が変化し、金属相ではルチル構造、絶縁体相ではモノクリニック構造を形成している。絶縁体相ではc軸方向に並んだVサイトがdimerを組み、EF近傍に存在するV 3dバンドは上下に分裂しギャップを形成している。それは格子変形によるもの(パイエルス転移的)と考えられてきたが、電子相関の重要性(モット転移的)も指摘されている。その絶縁体相において、VO2/TiO2:Nb薄膜ではUV光(300〜400 nm)を当てると0.475 V程度の光起電力が観測され、電気抵抗は3桁ほど小さくなり金属的な伝導を示すことが報告された。これはUV光によってTiO2:Nb基板内で価電子帯から伝導帯に電子が励起され、励起された電子は基板内にとどまり、その際にできたホールがVO2薄膜に注入されたことによるものだと考えられてきた。そこで本研究では「本当にホールは注入されているのか?」「ホールが注入されているとしたら、金属-絶縁体相転移に伴う電子状態の変化はリジッドバンド的で説明できるのか?それともMott-Hubbard的で説明できるのか?」という点に注目し、光電子分光でDOSを直接観測することにより確かめた。

励起光にHe Iaを用いた測定では、UV光を当てたことによる電子状態の違いは観測されなかった。これは表面では金属化していないということが示唆される。そこで、さらにバルクの電子状態を調べるために放射光(830 eV)を用いた測定を行った[図1]。その結果、絶縁体相でUV光を当てて測定すると、EF付近のDOSの強度が増え、価電子帯及び内殻準位にいたるまで低結合エネルギー側にシフトしている様子が観測された。これはVO2にホールが入り、強相関物質であるにもかかわらずバンド構造は変わらずEFの位置がシフトしただけ、つまりリジッドバンド的な変化で金属化していることを示しており、温度変化によるVO2本来の金属−絶縁体転移とは全く異なった機構であることが明らかになった。

3: V6O13の角度分解光電子分光

V6O13はV4+(d 1)とV5+(d 0)が2:1に混じったmixed valenceの物質で、約150 Kで金属−絶縁体転移を示す。結晶構造から擬1次元的な電子状態が示唆され、単結晶バナジウム酸化物の中では稀なへき開性を持つ物質である。この特徴のためにV2O3など3次元結晶性の強いバナジウム酸化物では困難である角度分解光電子分光の測定が容易に可能であり、ブリルアンゾーンの位置を特定した電子状態の情報を得ることができる。本研究ではその擬一次元的な電子状態の直接観測とその金属−絶縁体転移前後の電子状態の変化に注目した。

V6O13はVO6の八面体が面及び点共有によって複雑に連なりモノクリニック構造を形成しているが、へき開面であるab面((001)面)上は酸素に囲まれたバナジウムサイトがb軸方向にジグザグに連なっている。電気伝導測定の結果からはb軸方向の伝導性が1番良いという報告がある。そこで各軸方向の角度分解光電子分光測定を行った結果、a軸方向のバンド分散がほとんどないのに対してb軸方向では明らかにバンド分散が見られ、この違いは価電子帯だけでなく、フェルミレベル付近のV 3d状態にも観測された。このことからこの物質はb軸方向に擬1次元的であることが電子状態からも明らかとなった。また、酸素との価数バランスから計算されたバナジウムサイトの価数分布からは、V4+(d 〜0.84)のみが並んだ面 [A]とV4+(d 〜0.66)とV5+(d 〜0.4)が1:1に混じった面 [B]の2種類のab面を仮定することができ、それぞれの面内のバナジウムサイトはhalf-filledとquarter-filledの2本鎖梯子系と考えることが可能である。通常、2本鎖梯子系の場合、結合バンドと反結合バンドという鎖間のホッピングエネルギー分だけ上下にずれた2本のバンドを持つと考えられている。図2に示すように、170 Kのb軸方向で観測されたフェルミレベル付近のV 3dバンドは、kFの値(kb/π = 0.29±0.01)から面 [B]から由来するバンドであると予想される。今回の測定からは結合バンド、反結合バンドの区別はつかなかったが、このことは鎖間のホッピングエネルギーが比較的小さいことを意味する。次に相転移前後で測定を行なったところ、転移に伴いフェルミレベル付近の2つのバンドが高結合エネルギー側にシフトし、結果として約0.2 eVのエネルギーギャップが観測された。またバンド分散も比較的小さくなっていることがわかった。相転移に関してはNMRの実験から一部のバナジウムサイトがpairingを起こすことが報告されていたが、それだけでは0.2 eVのエネルギー変化は大きすぎると考えられる。面内の格子定数が広がることもふまえると、各バナジウムサイトに電荷が整列した状態や局在性が強くなることが予想され、結果として絶縁体の状態に落ち着いたのではないかと考えられる。

UV光照射下(UV100% 〜 9 mW/cm2)の光電子スペクトルと内殻及び価電子帯のシフト量の光量依存性

角度分解光電子スペクトルから得られた170 K における(a) a軸方向、 (b) b軸方向、130 K における(c) a軸方向、 (d) b軸方向のバンドマップとMDCスペクトル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は7章からなり、第1章は序論、第2章は光電子分光の原理、第3章は実験装置、第4章はSrVO3及びCaVO3の光電子・逆光電子分光、第5章はVO2薄膜の光キャリアー注入、第6章はV6O13の角度分解光電子分光、第7章はまとめについて述べられている。

本研究で注目した物質は、(1) SrVO3、CaVO3(バンド幅制御)、(2) VO2(光キャリアー注入によるフィリング制御)、(3) V6O13(温度制御)である。それぞれのパラメーターを制御することにより、金属−絶縁体転移またはその転移に至るまでの電子状態の変化はどのように振る舞うかを、電子状態を直接観測できる光電子分光、逆光電子分光法により調べた。

SrVO3、CaVO3はともにd 1系の金属であるが、SrVO3に比べCaVO3の結晶構造が歪んでいるためにdバンド幅(W)がSrVO3>CaVO3となり、CaVO3の方がU/Wが大きくモット絶縁体に近くなる。これまでの光電子分光の結果からは、動的平均場理論でよく説明でき、coherentバンドはセルフエネルギーを考慮したLDAバンド計算に対応させることができると言われていた。本研究では光電子分光測定の高分解能化に加え、軟X線励起よりもバルク敏感でかつ高分解能な測定が可能であるレーザー励起光電子分光で、改めてSrVO3とCaVO3の電子状態を確かめることを主眼とした。まず、コヒーレンとバンドとインコヒーレントバンドの強度比率に関してはバルク敏感な軟X線光電子分光と同様のスペクトルが得られた。しかし、SrVO3とCaVO3の比較では明らかにSrVO3の方がコヒーレントバンドの強度比が大きかった。一方、EF近傍のDOSを見るとこれまで指摘されていなかった擬ギャップのような構造が観測された。その深さはSrVO3<CaVO3であり、バンド幅Wの違いに対応している。これらの結果は、CaVO3の方がU/Wが大きく絶縁体に近い事を意味しているが、coherentバンドにおいては擬ギャップが存在し、動的平均場理論では単純に説明できないことを意味する。

一方、VO2/TiO2:Nb薄膜は約295 Kで金属-絶縁体転移を示す。その絶縁体相において、VO2/TiO2:Nb薄膜では紫外光(300〜400 nm)を当てると0.475 V程度の光起電力が観測され、電気抵抗は3桁ほど小さくなり金属的な伝導を示すことがHiroiらによって報告されている。これは紫外光によってTiO2:Nb基板内で価電子帯から伝導帯に電子が励起され、励起された電子は基板内にとどまり、その際にできたホールがVO2薄膜に注入されたことによるものだと考えられてきた。そこで本研究では「本当にホールは注入されているのか?」「ホールが注入されているとしたら、金属化しているのか?」という点に注目し、光電子分光で電子状態密度を直接観測した。21eVの励起光を用いた測定では、紫外光を当てたことによる電子状態の違いは観測されなかった。これは表面では金属化していないということが示唆される。そこで、さらにバルクの電子状態を調べるために放射光(830 eV)を用いた測定を行った。その結果、絶縁体相で紫外光を当てて測定すると、EF付近の状態密度の強度が増え、価電子帯及び内殻準位にいたるまで低結合エネルギー側にシフトしている様子が観測された。しかし、レーザー励起光電子分光の結果からはフェルミ端は観測することができなかった。これはVO2にホールが入るが、リジッドバンド的な変化を示し、価電子帯のトップにフェルミ準位が位置している状態であることが明らかとなった。金属状態になっているかどうかは確認できなかったが、もし、なっていたとしても局所領域でのみなっている可能性が高い。一方、ホールは界面付近に濃縮されてドープされていることがわかった

V6O13はV4+(d 1)とV5+(d 0)が2:1に混じったmixed valenceの物質で、約150Kで金属−絶縁体転移を示す。その結晶構造から擬1次元的な電子状態が示唆されているが、その低次元性や金属−絶縁体転移に関してどのような電子状態になっているかこれまで明らかにされていない。各軸方向の角度分解光電子分光測定を行った結果、a軸方向のバンド分散がほとんどないのに対してb軸方向では明らかにバンド分散が見られ、この違いは価電子帯だけでなく、フェルミ準位付近のV 3d状態にも観測された。このことからこの物質はb軸方向に擬1次元的であることが電子状態からも明らかとなった。結晶構造からV4+とV5+が1:1に混じった面[A]とV4+のみが並んだ面[B]の2種類のab面を仮定することができ、170Kのb軸方向で観測されたフェルミ準位付近のV 3dバンドは、kFの値(kb/π = 0.29±0.01)から面[A]から由来するバンドであると予想される。また相転移に伴いV 3dの2つのバンドが高結合エネルギー側にシフトし、結果としてフェルミ準位から約0.2 eVのエネルギーギャップが観測された。またバンド分散も比較的小さくなっていることがわかった。相転移に関してはNMRの実験から一部のバナジウムサイトがpairingを起こすことが報告されており、pairingが相転移に伴うギャップの形成に関わっている可能性が考えられる。

以上の結果から、本論文の内容は、博士(工学)の学位を授与できると認める。

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