学位論文要旨



No 119050
著者(漢字) 千葉,邦彦
著者(英字)
著者(カナ) チバ,クニヒコ
標題(和) 鉄酸化物表面における水の吸着・脱離挙動の解明
標題(洋)
報告番号 119050
報告番号 甲19050
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5782号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 関村,直人
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 寺井,隆幸
 東京大学 助教授 門,信一郎
内容要旨 要旨を表示する

序論

核融合炉の安全性を確保するためには,トリチウムの各種材料表面への吸着挙動を解明し,汚染された材料からトリチウムを効率的に除去する必要がある.エネルギー粒子(光子,電子)を材料表面に照射する方法は,材料表面に吸着したトリチウムの有効な除染法として期待されている.しかし,材料表面でのトリチウムの吸着状態,エネルギー粒子照射によるトリチウムの脱離メカニズムのミクロ的な解明にはいたっていないのが現状である.

本研究では,効果的なトリチウム除染方法の確立のために材料表面への水の吸着挙動,エネルギー粒子照射による水の脱離メカニズムを解明することを目的とする.試料としては,ステンレスなどの合金の主要な構成要素である鉄を取り上げる.光電子分光法による表面電子状態観察と拡散反射法を用いた赤外吸収分析によるOD観察により,水の吸着状態の解明を行った.また,エネルギー粒子照射による脱離種の四重極型質量分析計(QMS)による同定と,TOF法を用いた分析から脱離メカニズムの検討を行った.

光電子分光法による鉄酸化物表面上における水の吸着状態の解明

試料

試料として,純鉄の板を使用した.金属材料表面は,実際の使用条件下では酸化物で覆われていることを考慮し,純鉄表面をリン酸で電解研磨し,酸素中(20Pa),673Kで1時間加熱することによって表面を薄く酸化(厚さ数100nmのFe2O3)させたものを使用した.

光電子スペクトル測定

試料を,室温,大気中で液体のH2Oに30分間さらしたときのO1sスペクトル,価電子スペクトル(図1)を測定した.O1sスペクトルでは,530eV付近に鉄酸化物のピークが観測され,水にさらした後,531-534eVの広い範囲で新たなピークが観測された.これらのピークは,FeOOH中の水酸基のピーク(約531eV)と表面水酸基(約532eV)のピークであると帰属された.また,価電子スペクトルでは,水との接触後,表面水酸基に由来する2つのピークが約10(3s)と7eV(1p)に観測された.したがって,試料表面では水が解離吸着し,水酸基を形成することが明らかになった.

赤外吸収分析による鉄酸化物表面上のOD観察

重水蒸気曝露によるスペクトル変化

赤外吸収分析は,拡散反射法を用いて真空下(圧力:〜10-6Pa)で行った.試料は,Fe2O3粉末を使用し,真空中,673Kで7時間加熱することで乾燥を行った.試料を約310Kまで冷却した後,〜1.5×10-3Paの重水蒸気に30分間曝した.重水蒸気に曝露後,2550,2650,2680,2708,2744cm-1付近に5つのピークが観測された(図2).鉄酸化物表面での水の吸着状態が一様でないことがわかった.低波数側の2つのピークは,ブロードであり,加熱により容易に脱離する.それに対して,高波数側の3つのシャープなピークは,623Kで加熱後も表面に残っている.2550,2650cm-1付近のピークは,水素結合により吸着した水分子,あるいは水素結合に寄与した水酸基のピークであり,2680,2708,2744cm-1付近のピークは,孤立状の水酸基であると帰属された.

光照射によるスペクトル変化

重水蒸気曝露後,200-2000nm(0.6-6.1eV)と580-2000nm(0.6-2.1eV)の波長を含む光照射下でのスペクトル測定を行った(図2).200-2000nmの光照射下では,2550,2650cm-1付近のピークは照射開始後約20分で消滅し,2680,2708cm-1付近のピークも減少した.2744cm-1付近のピークに関しては,ほとんど変化が見られなかった.580-2000nmでは,照射により減少は観測されたが,200-2000nmに比較して,変化は小さかった.200-2000nmの光は,基板である鉄酸化物(Fe2O3のバンドギャップ:2.2eV)の電子を励起することが可能である.したがって,基板の鉄酸化物の電子励起が,吸着した水の脱離を促進することが示唆された.

エネルギー粒子照射による鉄酸化物表面からの脱離種のQMSによる同定

試料は,光電子分光法で使用したものと同様の手順で作成した酸化物で覆われた鉄を使用した.室温,大気中でD2Oに30分間接触させた後,光照射,電子照射を行った.照射により脱離した粒子を,QMSを用いて検出し,脱離種の同定を行った.

重水素ランプ照射による脱離

重水素ランプ照射は,115-400nm(3.1-10.8eV)の波長を含む光と150-400nm(3.1-8.3eV)の波長を含む光(BaF2フィルターを使用)を473Kに保持した試料に照射した.115-400nmの光を照射すると,水と水素の脱離が観測され,150-400nmの光を照射すると水の脱離が観測された.価電子スペクトル(図1)と照射した光のエネルギーを比較すると,115-400nmでは水酸基のO-H間の結合を形成する3σ電子を励起することが可能であり,水素の脱離は3σ電子の励起によって誘起されたと考えられる.また,7eV以上のエネルギーをもつ光照射により,表面と水酸基との結合を形成する1π電子を励起することが可能であり,1π電子の励起により水が脱離したと考えられる.

Hg-Xeランプ照射による脱離

Hg-Xeランプの光は,フィルターを用いて波長を変化させて光を照射した.試料の温度は,333Kで行った.3.4eV以上の光を照射することで,水の脱離が確認できた.水の脱離量は,光の強度に対して線形に依存し,水の脱離が単光子過程であり,熱的な脱離ではないことがわかった.Hg-Xeランプの光では,基板である鉄酸化物(Fe2O3のバンドギャップ:2.2eV)の電子励起により脱離が誘起されることが示唆された.鉄酸化物中に生成した励起電子が,表面水酸基に移行し,水が脱離すると考えられる.

電子ビーム照射による脱離

10-50eVのエネルギーの電子ビームを照射した時のM/e=2とM/e=19の脱離を観測した(図3).電子のエネルギーが10〜18eVまでは,脱離量はほぼ一定であり,20eV以上のエネルギーで脱離量が増加した.脱離量が増加するエネルギーは,XPSで測定した酸素の2s電子の結合エネルギーと一致した(図3).したがって,20eV以上での水と水素の脱離量の増加は,酸素の2s電子が励起されることにより脱離が誘起されたためと考えられる.

TOF法を用いた鉄酸化物表面からの脱離種の分析

さまざまな波長のレーザー照射による脱離種の質量と速度分布をTOF法によって分析した.試料は,光電子分光法で使用したものと同様の手順で作成した酸化物で覆われた鉄を使用した.室温,大気中でD2Oに3時間接触させた後,レーザー照射を行った.

水の脱離のレーザー波長依存性

室温で,レーザー(2.5mJ/cm2)を照射したときの脱離種の検出を行った.355,430,450,490,550nmのレーザー照射では,水の脱離が確認できたが,600nmでは水の脱離が確認できなかった.水の脱離のしきいエネルギーが550-600nm(2.0-2.3eV)の間に存在することがわかった.このしきいエネルギーは,Fe2O3のバンドギャップ(2.2eV)と一致し,水の脱離は鉄酸化物の電子励起により誘起されることが明らかになった.

355,430と450nmのレーザー照射により脱離した水のレーザー強度依存性と速度分布の分析を行った.355nmでは,脱離量がレーザー強度に対して指数関数的に増加し,速度分布(図4)は高速度側でずれがあるが,Maxwell-Boltzmann分布でフィッティングすることができた.したがって,レーザー照射による熱的な脱離が大部分であることがわかった.それに対して,430と450nmではレーザー強度に対して脱離量が線形増加であることから脱離は単光子過程であり非熱的な過程による脱離であると考えられる.430nmの速度分布は355nmに比べて速度の速い成分が多い(図4).速度分布をMaxwell-Boltzmann分布と非熱的な過程で脱離した粒子の速度分布を表すModified-Maxwell-Boltamann分布(f(v)=Av2exp(-B(v-v0)2))の和でフィッティングを行うと,Modified-Maxwell-Boltamann分布の成分が大部分であり(図4),非熱的な過程による脱離が支配的であると考えられる.450nmは,355,430nmに比べ,脱離量が少なかった.Maxwell-Boltzmann分布でフィッティングすると,高速側がフィッティングからおおきくずれている.高速度側でのずれは,非熱的な過程により脱離した成分であると考えられる.

以上のように,水の脱離は熱的な過程と非熱的な過程の両方が存在することが明らかになった.熱的な過程は,レーザー照射により鉄酸化物中で生成された励起電子と空孔が再結合や散乱される過程で熱に変化することで誘起されたと考えられる.非熱的な過程は,鉄酸化物中で生成された励起電子が,表面水酸基の非占有軌道である4σに移行することにより脱離が誘起されると考えられる.レーザーにより励起された電子のエネルギー分布は,照射するレーザーの波長に依存する.430nmで非熱的な過程の脱離が多いのは,励起された電子のエネルギー分布と表面水酸基の4σのエネルギーが近いため,鉄酸化物から水酸基への電子移行が効率よく起きたためと考えられる.負イオンからの脱離は、図5に示したようなメカニズムにより脱離すると考えられる.水酸基に電子が移行すると負イオン状態が形成され,安定な位置が表面に近くなるポテンシャルに変化し,ポテンシャル面にそって運動エネルギーを得る.脱励起したときに,得られた運動エネルギーが表面と水酸基との結合エネルギーより大きいと水酸基と表面との結合が切れる.表面との結合が切れた水酸基は,隣接するOHと反応して水として脱離すると考えられる.

まとめ

光電子分光法と赤外吸収分析による水の吸着状態分析とエネルギー粒子照射による脱離種の分析から水の吸着・脱離メカニズムの検討を行った結果,以下のことが明らかになった.

水は鉄酸化物表面に解離して吸着し,水酸基を形成する.この水酸基は,一様ではなくさまざまな状態をとる.

表面水酸基の価電子を直接励起できるエネルギーをもつ光子を照射することにより,水素と水の脱離が起きる.水酸基の3σ電子の励起により水素が,1π電子の励起により水が脱離する.

バンドギャップ以上のエネルギーを持つ光を照射することにより,鉄酸化物表面から水が脱離する.光照射による水の脱離は,熱的な過程と非熱的な過程があり,非熱的な過程は,鉄酸化物から水酸基への電子移項により誘起されると考えられる.

20eV以上の電子照射により,O2s電子のイオン化により表面からの水と水素の脱離が誘起される.

水の吸着による価電子スペクトルの変化

光照射下での赤外吸収スペクトル変化.(a)200-2000nm,(b)580-2000nm.

脱離量のエネルギー依存性

355、430、450nmのレーザを照射したときのM/e=18の速度分布

負イオン状態からの脱離のモデル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は鉄酸化物表面への水の吸着状態と,エネルギー粒子照射による水の脱離メカニズムを解明するため,光電子分光法による表面電子状態観察,赤外吸収分析によるOD観察とエネルギー粒子照射による脱離種の分析を行ったものであり、核融合炉におけるトリチウム除染の基礎研究としての意味だけでなく、金属酸化物表面と水の相互作用の解明という意味を有する。論文は7章より構成される。

第1章は研究の背景と研究目的を述べている。

第2章では,水に曝露した鉄酸化物表面の電子状態観察結果について説明している。水に曝露後の価電子スペクトルで,水酸基の3σ電子(〜10eV)と1p電子(7eV)のピークを観測し、水に曝すことにより水は表面に解離吸着し,水酸基を形成することを明らかにしている。

第3章では,光照射により脱離した粒子の分析を行っている。脱離した粒子の入射エネルギー依存性と,第2章で観察した表面電子状態との比較から,脱離メカニズムを検討し、水酸基のO-H間結合に寄与する結合軌道の3s電子を励起することにより水素が脱離し,鉄酸化物表面と水酸基との結合に寄与する結合電子である1π電子の励起により水が脱離することを明らかにしている。さらに鉄酸化物のバンドギャップ(2.2.eV)以上のエネルギーを持つ光を照射することにより,鉄酸化物の電子が価電子帯から伝導帯に励起され,鉄酸化物表面から水が脱離することを明らかにしている。

第4章では,電子照射により脱離した粒子の分析について述べている。脱離した粒子の入射エネルギー依存性と,第2章で観察した表面電子状態との比較から,脱離メカニズムを検討し、20eV以上の電子照射により,表面水酸基の2σ電子を励起し,H+やOH+が脱離することを明らかにしている。

第5章では,重水蒸気に曝露した試料の赤外吸収分析を行い,鉄酸化物表面のODの観察を行っている。ODのピークは5種類観察され,周りの表面水酸基と水素結合相互作用した表面水酸基が2種類,孤立状の表面水酸基が3種類存在することを明らかにしている。エネルギー粒子照射下での赤外吸収スペクトル測定により,200-2000nmの光や200eVの電子を照射することにより,非熱的な過程により表面水酸基から水が脱離することが示されている。また、表面水酸基のエネルギー粒子照射下での減少の挙動から,光照射や電子照射による脱離の素過程を明らかにしている。200-2000nmの光照射では,水素結合に寄与した水酸基が孤立状の水酸基よりも容易に脱離し,電子照射での脱離は水酸基の吸着状態に依存しないことが示唆されたとしている。

第6章では,第2章から第5章までの議論を踏まえて,エネルギー粒子照射による脱離メカニズムの検討を行っている。光照射により鉄酸化物の電子が励起され,励起電子を表面水酸基が捕捉することにより表面に水酸基ラジカルが生成し,他の水酸基と反応することで水が脱離することを示している。さらに、電子照射による内殻電子の励起が誘起する脱離は,水酸基,あるいは水素の陽イオンが形成され,陽イオンが脱離することを示している。さらに、エネルギー粒子照射から脱離に至るまでの素過程を明らかにし,おのおのの素過程の検討を行っている。また,定量的な評価からエネルギー粒子照射から脱離に至るまでの効率の評価を行った結果,光照射による鉄酸化物中の電子励起が誘起する水の脱離は,光子1個で10-5個程度の水分子が脱離し,電子照射による表面水酸基の価電子,あるいは内殻電子の励起により誘起される脱離は,電子1個で10-3個程度の水素あるいは水が脱離することが示されている。

以上要するに、本論文はエネルギー粒子照射により鉄酸化物から水が脱離するまでの素過程の解明を行ったものであり学術的価値が高いのみでなく,エネルギー粒子照射によるトリチウム除染についての基礎的知見を与えるものでありシステム量子工学特に核融合工学、表面科学に対する貢献が小さくない。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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