学位論文要旨



No 119063
著者(漢字) 一谷,幸司
著者(英字)
著者(カナ) イチタニ,コウジ
標題(和) 高感度水素マイクロプリント法の開発とその応用
標題(洋)
報告番号 119063
報告番号 甲19063
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5795号
研究科 工学系研究科
専攻 材料学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,幹宏
 東京大学 教授 栗林,一彦
 東京大学 教授 柴田,浩司
 東京大学 教授 山本,良一
 東京大学 助教授 小関,敏彦
内容要旨 要旨を表示する

鉄鋼材料をはじめとする多くの金属材料で問題となる水素脆化現象は古くから多くの研究が行われてきた。しかし、鉄・アルミニウム・ニッケルのように水素溶解熱が正の金属に関しては水素の固溶量が小さく、また金属に対する水素の親和力が低く水素化物が形成されないにも関わらず、水素による脆化がみられ、現状においてもこれらの金属材料の水素脆化メカニズムは未解明のままである。一方で21世紀においてはエネルギーが従来の化石燃料から、太陽光を中心とする再生可能エネルギーへとシフトし、二次エネルギーとして水素エネルギーの使用が検討され、水素エネルギー社会の到来が期待されている。水素をエネルギーとして使用するためには水素と接するあらゆる材料(貯蔵容器や配管等)の水素脆化に対する安全性を保障する必要があるが、鉄やアルミニウム、ニッケルのように最も基本的な構造材料において水素脆化の問題が残されている限り、水素エネルギーの安全な使用は難しいであろう。

現在、工業的に問題となっている鉄鋼材料の水素脆化には、高強度ボルトにおける「遅れ破壊」と、石油開発で使用されている油井・ラインパイプ用鋼管の「硫化物応力割れ」と「水素誘起割れ」がある。いずれの場合にも、使用環境下における材料の腐食に伴い発生した水素の一部が材料中に侵入・拡散して、応力集中部や非金属介在物等に集積して、なんらかのメカニズムによりき裂が発生、進展し割れに至る。

したがって、この応力集中部等の局所領域における水素量を定量することが、脆化メカニズムの解明や、耐水素脆性に優れた材料を開発する上で重要であると考えられている。しかしながら、水素の実体を捉えることは非常に難しく、このような局在水素に関しては定性的にも定量的にもほとんど明らかにされいない。その理由として、最も軽い元素である水素は汎用の元素分析装置では検出することができないことに加え、鉄鋼材料中の水素の拡散は室温においても非常に速いため、たとえ高分解・高感度で水素を分析する装置が利用できたとしても、このような材料中を自由に拡散している水素を分析することは不可能であることが挙げられる。

そこで、水素可視化手法の一つである水素マイクロプリント法(HMT)が水素分析において有効な手段となり得る。本手法では、試料表面から放出される水素原子によって、試料表面に塗布した感光乳剤膜に含まれる臭化銀粒子中の銀イオンを還元(Ag+ + H → Ag + H+)することにより水素放出位置を銀粒子の存在位置で可視化することができる。HMTは1982年にアルゼンチンで開発されたものであるが、これまで水素によって還元された銀粒子の存在により水素の有無が定性的に論じられるに留まっており、銀粒子の量をもとにしての放出水素量に関する定量的な議論は行われてこなかった。そこで著者はHMTによる材料中水素の定量的可視化技術の開発とその水素脆化研究への適用を目的として研究を行った。以下に各章の概要と得られた成果をまとめる。

第1章では、本論文で定量的水素可視化手法の開発を行う背景として、金属材料の水素脆化に関わるこれまでの研究についてまとめた。

第2章では、これまで多くの可視化結果が報告されているHMTの水素検出効率を共析鋼を試料として調べた。定着処理後の銀の量を、同じ水素チャージ条件で行った電気化学的水素透過試験により定量した放出水素量と比較した結果、共析鋼を試料とした場合にはHMTの水素検出効率は約1%であった。現状のように低い水素検出効率のままでは、本手法を水素脆化の研究に適用しても新たな知見を期待することはできないと考え、HMTの水素検出効率を向上を目指して検討を行った。ここでは、電気化学的水素透過法において水素検出効率の向上に効果があることが知られているニッケルめっきに着目した。その結果、ニッケルめっきがHMTの水素検出効率を高める効果があることが明らかとなった。また、ニッケルめっきにより水素検出効率を高めるためには、試験湿度を80%RH以上制御する必要があることが示された。このようにして、ニッケルめっきと試験湿度制御を組み合わせることにより、HMTの高感度化を可能とし、高感度HMTを開発することに成功した。この高感度HMTは従来法の水素検出効率の約40倍に相当する約40%の水素検出効率を有している。これにより、放出水素を定量的に可視化することが可能となった。

第3章では、第2章で新たに開発した高感度HMTを応用して、極低炭素鋼、亜共析鋼、低合金焼戻しマルテンサイト鋼(焼戻し条件を変えて2種類の強度の材料を使用した。引張強度により以下700MPa材、1400MPa材と称する)中の水素拡散経路の可視化を行った。電解研磨を行って組織を現出させた試料に20nmの厚みでニッケルを電着した試料を使用することにより、銀粒子の分布を金属組織と対応させて観察することが可能となった。極低炭素鋼の場合には、銀粒子は粒界、粒内にほぼ均一に観察され、水素の拡散が試料全面でほぼ均一に生じていることが実験的に示された。また、亜共析鋼の場合には、短時間の水素チャージ条件では、水素トラップ効果の影響が顕在化して、パーライト組織中のカーバイト/フェライト界面における銀粒子の偏在が確認された。また、長時間水素チャージを行い、水素の拡散が定常に達した条件では、銀粒子は初析フェライト上とパーライト組織中の層状フェライト相上に観察され、亜共析鋼における定常拡散時の水素拡散パスが初析フェライトとパーライト中のフェライト層であることが明らかとなった。亜共析鋼を試料とした実験の結果のなかで、高感度HMTによりパーライト組織中のカーバイト/フェライト界面に銀粒子が偏在していることが確かめられたことは、同時に高感度HMTが0.1μmオーダーの位置分解能を有していることを示すものである。一方、700MPa材と1400MPa材で同様の試験を行った結果、これらの試料ではMnSやAl2O3を起点とした試料の腐食により、その周辺では水素により還元された銀粒子のみを観察することは困難であった。この腐食の影響を受けていないと考えられる領域について観察を行った結果、700MPa材ではパケット境界とブロック境界またカーバイト周辺が水素拡散パスとなりうることが明らかとなった。1400MPa材も同様にパッケト境界とブロック境界が拡散パスと考えられるが、ブロック中にも銀粒子がみられ、粒子の配列からラス境界も水素拡散パスになる可能性があると考えられる。以上のように種々の鋼種に高感度HMTを適用して水素拡散パスの可視化を行った結果、全ての鋼種で銀粒子の分布を組織と対応させて観察することが可能であり、高感度HMTが鋼に関して高い汎用性を有することが示された。

第4章においては第2章で開発した高感度HMTを応用して、これまで不明であった応力集中部における水素分布を調べた。本研究においては、使用する試験片のノッチ先端領域における水素分布が、静水圧応力分布と相当塑性ひずみ分布のいずれに対応するのかを調べる目的で使用したノッチ付き引張試験片に所定の荷重を付加した際に生じる応力とひずみの分布をFEMによって解析した。高感度HMTを行った結果、ノッチ底近傍において、その他の領域の2〜3倍程度の量の銀粒子が存在し、この領域に2〜3倍以上の水素が濃化していたことが示唆された。この領域はFEM解析により計算した応力とひずみの分布のうちで、相当塑性ひずみに対応しており、水素脆化での水素集積機構として、塑性変形時に導入される転位による水素トラップがより支配的であることを裏付ける結果となった。しかしながら、本研究で採用した実験条件下において高感度HMTを適用した場合には、高湿度環境下において長時間試料を保持する必要があり、時として明らかに試料の腐食に伴い発生した水素により還元されたと考えられる銀粒子が試料表面に観察されることがあり、再現性のある結果を得ることは困難な状況であった。今後、ノッチ曲率を変えた試験片を用いたり、より高強度の試料を用いて、さらに詳細に水素の集積挙動を追求していくためにはHMT試験中に生じるこの腐食の問題を解決する必要があることが示された。

第5章においては高感度HMTをアルミニウム合金の水素脆化研究に適用するための基礎的検討として、鉄鋼材料の水素脆化研究において頻繁に使用される水素分析法のなかで、昇温式水素脱離試験と電気化学的水素透過試験を純アルミニウムを試料として行い、アルミニウム中の拡散性水素の評価を試みた。その結果、昇温式水素脱離試験については、試料の前処理段階で水を使用すると、試料表面に残存する水分と試料表面の反応により表面から水素ガスが発生して、内在水素の分析が困難になることが明らかになった。また、前処理段階で水を使用しなかった場合においても、ガスクロマトグラフ方式の昇温式水素脱離試験においては、キャリアーガスであるアルゴンガス中に微量に含まれる水分とアルミニウム表面が反応して、水素ガスが発生して、水素ガス計測のバックグラウンドがかなり高くなるため、水素量の少ないアルミニウムにこの方式は適当ではないことが示された。また、アルミニウムを試料として電気化学的水素透過試験を行った結果、もともとアルミニウム中への水素固溶量が極めて少ないことに加えて、アルミニウム表面に存在する酸化皮膜の影響で、アルミニウムは鉄鋼材料ほど多くの水素を透過しない可能性があることが示された。

本研究で開発された高感度HMTは40%もの高い水素検出効率と0.1μmの位置分解能を合わせ持つ、他に類を見ない水素可視化手法であり、今後本手法の応用により金属材料中の水素の挙動に関して新たな知見が得られるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

鉄鋼材料やアルミニウム合金等の構造材料は環境から侵入する水素により脆化するが、汎用の元素分析装置では材料中を拡散する水素を分析することはできないため、脆化に直接関与する水素の実体を捉えることは困難であった。しかし、試料表面に感光乳剤を予め塗布し、試料表面から放出される水素原子によって臭化銀粒子中の銀イオンを還元させれば、水素放出位置を銀粒子の存在位置で可視化することができると考えられる。本論文では、この水素マイクロプリント法 (HMT) を改良して高感度 HMT を開発することにより、金属材料の水素脆化に直接関わる水素の挙動解明に応用した研究を行った。

第1章では、金属材料の水素脆化に関するこれまでの研究と各種水素分析方法および水素の可視化法についてまとめている。

第2章では、まず HMT による放出水素の定量的可視化を目的として、共析鋼を試料としてHMTの水素検出効率について詳細な検討を行っている。定着処理後の銀の量を、同じ水素チャージ条件で行った電気化学的水素透過試験により定量した放出水素量と比較した結果、共析鋼を試料とした場合の水素検出効率は約1%と低いことを明らかにしている。次に、電気化学的水素透過法において水素検出効率の向上に効果があることが知られているニッケルめっきに着目して、HMT の水素検出効率に及ぼすニッケルめっきの影響について調べ、ニッケルめっきがHMT の水素検出効率の大幅な向上に有効であることを明らかにしている。さらに試験条件に関する検討を行い、試料から水素が放出されて臭化銀と反応する際の試験環境の湿度が80%RH以上の場合に再現性良く、高感度が得られることを明らかにしている。このようにして、ニッケルめっきと試験湿度制御を組み合わせることにより、HMT の高感度化を可能とし、高感度 HMT を開発することに成功している。さらに、この高感度 HMT の水素検出効率を決定するために、種々の水素チャージ条件下で高感度 HMT を行い、定着処理後の銀の量と、電気化学的水素透過試験で定量した放出水素量の関係を調べ、高感度HMTは従来法の水素検出効率のおよそ40倍に相当する約40%の水素検出効率を有することを示している。これにより、水素脆化に関わる極微量の放出水素を定量的に可視化することが可能になったと述べている。

第3章では、高感度HMTを応用して、極低炭素鋼、亜共析鋼、低合金焼戻しマルテンサイト鋼中の水素拡散パスの可視化を行っている。極低炭素鋼の場合には、銀粒子は粒界、粒内にほぼ均一に観察され、水素の拡散が試料全面でほぼ均一に生じていることを実験的に示している。亜共析鋼の場合には、定常拡散時の水素拡散パスが初析フェライトとパーライト中のフェライト相であることを明らかにしている。また、低合金焼戻しマルテンサイト鋼ではパケット境界とブロック境界と考えられる位置が水素拡散パスとなり得ることを示している。

第4章においては高感度 HMT を応用して、応力集中部近傍における水素分布を調べている。その結果、ノッチ底近傍において、その他の領域の2〜3倍程度の量の銀粒子が存在し、この領域に2〜3倍以上の水素が濃化していたこと示している。高感度HMTにより明らかとなったノッチ近傍の水素分布が、静水圧応力分布と相当塑性ひずみ分布のいずれに対応するのかを調べる目的で、ノッチ付き引張試験片に所定の荷重を付加した際に生じる応力とひずみの分布を FEM による弾塑性変形解析により調べている。その結果、水素濃化域は相当塑性ひずみ集中域と対応しており、水素脆化での水素集積機構として、塑性変形で導入される転位による水素トラップがより支配的であることを裏付けたとしている。

第5章においては高感度 HMT をアルミニウム合金の水素脆化研究に適用するための基礎的検討として、昇温脱離試験と電気化学的水素透過試験を純アルミニウムを試料として行い、アルミニウム中の拡散性水素の評価を試みている。昇温脱離試験により、試料を高温恒湿環境で保持することにより試料に水素が導入されることを確かめている。また、アルミニウムを試料として電気化学的水素透過試験を行った結果、もともとアルミニウム中への水素固溶量が極めて少ないことに加えて、アルミニウム表面に存在する酸化皮膜の影響で、アルミニウムは鉄鋼材料ほど多くの水素を透過せず、高感度 HMT の適用が困難であることを示している。

第6章は総括である。

以上のように、本研究では従来法のおよそ40倍に相当する約40%の水素検出効率を有する高感度 HMT を開発する事に成功し、これを水素脆化研究に応用して、水素拡散パス、水素集積位置を明らかにするなどの新しい知見を得ており、その成果は金属材料学に寄与するところが大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる

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