学位論文要旨



No 119075
著者(漢字) 田中,有希
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ユキ
標題(和) 生体機能を利用した高機能バイオマイクロ化学システムの開発に関する研究
標題(洋)
報告番号 119075
報告番号 甲19075
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5807号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 藤田,誠
 東京大学 助教授 金,幸夫
 東京大学 助教授 引地,史郎
 東京大学 教授 藤田,博之
内容要旨 要旨を表示する

【はじめに】

近年、化学反応システムを半導体素子のようにガラスやシリコン、プラスチック基板から作製したマイクロチップ上に集積化しようとする研究が世界的に注目されている。この技術はμ-TAS(micro total analysis systems)などと呼ばれ、電気泳動によるDNA解析を目指した研究がよく知られている。しかし、当研究室では、電気泳動に頼らない独自の方法論を開発し、圧力による流体制御技術と、ガラス製マイクロチップを用いることで、マイクロチップを汎用的な化学実験の場として利用している。

本研究では、このシステムをさらに高機能化するため、生命の機能を組込むことでマイクロ化学システムの高機能化を目指しシステムの開発を着想した。生命機能を利用し、高機能マイクロ化学システムを実現しようとする研究は世界的にほとんど行われておらず、これを開発することは基礎科学的にもまた応用研究としても極めて有意義である。例えば、酵素・抗体などの生体分子や細胞は、生体内で非常に複雑な反応を高効率に行っている。これらを利用することにより、特異性の高い反応を効率的に進め、検出や分析に用いること、通常の化学合成では合成することが難しいような抗生物質などの複雑な化合物や光学異性体、あるいは機能性タンパク質などを効率的に合成することが可能である。

これらをふまえ、生命機能、具体的には酵素および細胞を用いたバイオリアクター・分析デバイスのマイクロチップへの集積化を目標とした。これを実現するためには、生化学的な反応を行わせる場としてのチップ内微小空間の特性を明らかにし、空間特性を活用したチップ内で酵素反応を効率的に制御するため、あるいは細胞の機能を発現させたまま生命を維持するための基礎的な技術開発など、新たな知見と技術の蓄積が必要である。

そこで本研究では、マイクロバイオケミカルデバイス実現のための基盤技術として、マイクロ空間における温度による酵素反応制御技術の開発と、酵素反応の解析、マイクロチップ内細胞培養と細胞機能制御法などについて研究し、高機能なマイクロ化学システムを実現した。

【1. マイクロ酵素反応システム】

酵素反応を正確に制御するために最も重要な因子として、反応温度の制御が挙げられる。マイクロチャネル内部などの液相微小空間では、体積が小さいため、熱容量が小さい、均一場を作りやすい、といった特性がある。これらの特性は、温度の高速制御には非常に有利であるが、温度測定という点においては、系に影響を与えずに温度を計測することが非常に困難であるという欠点がある。

そこで、マイクロチップに適した温度測定法と温度制御法を開発し、酵素反応速度の制御を試みた。さらに応用として超高速PCRによるDNAの増幅を実現した。

マイクロチャネル内温度計測法の開発

マイクロチャネル内の溶液温度を計測する場合、従来の接触型の温度計では、系の温度を変化させてしまう。そこで、蛍光色素ローダミン3Bの蛍光の温度消光を利用して、非接触で溶液の温度を計測する方法を開発した。マイクロチャネル内の溶液温度を、系に影響を与えることなく、50m秒以下の時間で、空間分解能1μmの精度で測定することに成功した。本法を以下の研究において温度モニタリングに利用した。

レーザーによる高速反応温度制御

現在、微小反応場の温度制御には、微細加工技術によるヒーターやクーラーが用いられており、マイクロチップ全体を加熱・冷却するという方法が試みられているが、この方法では、チップ自体の熱容量のため、瞬時に温度を変えることができないなど、液相微小空間の特徴が十分に活かされていない。また、集積化学システムにおいては、一枚のマイクロチップ上で部位ごとに反応や検出などの異なる機能をもたせる必要があるため、局所的な温度制御法が必須である。そこで、本研究では、光の照射によって生じた励起状態の分子が無輻射過程を通じて失活する際に熱を発生する光熱変換効果に着目し、レーザーを微小空間内に照射することによる独自の温度制御法を開発した。

マイクロチップ上に微細な光吸収体を作製して、非常に小型の可視光レーザーを用いた場合でも高速な酵素反応制御を実現できることを示した1。さらに、溶媒である水が大きな吸収をもつ1500 nm付近の赤外レーザー(出力100 mW)を用いて溶媒を直接加熱し、約350℃/秒という加熱速度を実現した。この場合の加熱体積は10nLであり、比表面積が大きく体積が小さいので、周囲の熱浴(室温のマイクロチップ)へのエネルギーフラックスが大きくなる。すなわち、加熱用レーザーの照射を止めると、周囲への急速な熱拡散により、0.1秒以下という短時間で室温まで直ちに冷却される。また、レーザーの出力を周期的に変化させて温度サイクラーとして利用できることを示した3。

PCRシステムへの応用

本研究で得られた高速温度制御法と温度計測法を用いた温度サイクラーは、高速応答が必要な系に対して、非常に有効な方式である。そこで、ゲノム解析などに必須のPCRをマイクロチップ上で実現することを目指した。従来、必要とされる試料量は1 μl、30サイクル完了までの時間は最低20分であったが、これを大幅に改善し、必要試料量5 nl (DNA2分子を含む)、30サイクル5分という条件でのPCRを実現した。

酵素反応速度への空間サイズの影響

酵素反応の動力学的な解析の結果、マイクロチップ内ではペルオキシダーゼ反応が通常のバルクの系に比べて2倍程度に高速化していることを見いだした2。反応空間のサイズ依存性、測定法の影響、反応種の壁面への吸着などについて詳細に検討を行ったが、これらの因子の影響は限定的であると考えられ、未だメカニズム解明には至っていない。しかしながら、最近、世界中の他の研究グループからも本実験の再現性を報告する結果が次々に報告されており注目を集めている。

【2.細胞を用いたマイクロ化学システム】

次に、反応素子として細胞そのものを用い、有用物質の物質生産・薬物候補物質や毒物のアッセイに用いることを検討した。マイクロチップ内の微小空間は、その空間サイズが生体内の組織構造のサイズに極めて類似している他、血管系のような流体ネットワークを構築することが可能であり、細胞を用いるのに非常に適していると考えられる。しかしながら、これまでにこれらを組み合わせた研究は例が無い。そこで、細胞の機能を用いた化学システムを実現するため、細胞の生育と機能に大きな影響を及ぼす以下の事柄について検討した。

ガラス表面のコーティング・パターニング

動物細胞は固体表面に接着することにより初めて増殖して様々な活性を示すため、細胞を接着させたい固相表面をタンパク質などでコーティングする必要がある。そこで、ガラスマイクロチップ内部に細胞を培養する場合に最適なコーティング剤およびその条件、物質生産などの機能を発現させるのに適した条件の探索を行った6。フィブロネクチンは、細胞の伸展には有効なコーティングであるが、物質生産機能の保持には適さず、また、本研究のように流れのある系の中では接着力が不足する。コラーゲンは細胞の接着・物質生産能の保持の両方に有効なコーティング剤である。この結果を、以下の研究に利用した。

養分・酸素供給システム

マイクロチップ空間は、微細流路からなるため、血流と同様、流れがなければ、溶存酸素および栄養成分が欠乏しやすく、老廃物濃度が上昇しやすくなる。そこで、マイクロ流体制御技術を活用し、マイクロ培養槽に対して常に安定した物質供給を実現するような精密な送液制御系を構築し、培養チップに新鮮な培地を供給するシステムを考案した。これにより、生体外での培養が難しく、通常の培養方法では物質合成その他の機能を正常に維持することが困難な初代培養肝細胞をマイクロチャネル中で、良好に培養することに初めて成功した4。タンパク質合成・老廃物分解機能も正常に維持できていることを確認した。

剪断応力による細胞ストレスの評価

マイクロチャネル内はレイノルズ数が小さく層流条件であるため、速度分布によって剪断応力が生じ、細胞に対してストレスとなると予想される。そこで、流体制御技術を利用して、培地の流速や粘度を変化させ、剪断応力が肝細胞の増殖や形態、物質生産量に及ぼす影響を考察した。図6において、剪断応力1.1 Paの条件で細胞の機能は大幅に低下していることがわかる。このように、細胞にダメージの少ない送液条件を明らかにし、血管内における毛細静脈流以下の剪断応力(約0.2 Pa)下で最も良好に物質生産することを示した5。血管系細胞以外を用いて、剪断応力の影響を系統的に考察した例はこれが初めてである。

マイクロ細胞システムへの応用

マイクロチップの場合には、培養槽だけではなくその下流に様々なプロセスを組み合わせることが容易であるために、一枚のチップ上にいくつかの実験プロセスを組み合わせることも可能である。このことを活用して、薬物の副作用などによる肝毒性のアッセイシステムを開発した。

【まとめ】

当研究室で培ってきたマイクロ流体制御やMUO(Micro Unit Operation)などの独自の方法論を利用することにより、生命機能を積極的に利用し、高機能マイクロ化学システムを実現しようとする研究を着想した。この着想に基づき、本研究では、マイクロチャネル内の高速・非接触な温度計測、高速かつ高効率な温度制御とそれを用いた酵素反応制御、マイクロチップ内で機能を維持したままの細胞培養などを新しく実現し、それらを用い、組み合わせることによって、微小空間内における酵素反応の加速現象、細胞の機能に対する周囲の環境の影響などを新しく見出した。

今回実現された高速温度制御法は、酵素反応の制御だけでなく、一般の化学反応、反応を高速にon/offを切り替えたい場合や局所的に反応を限定する場合、温度変化に伴う反応中間体の生成を抑える場合などに有効であり、化学の集積化における反応制御法として極めて有力であると期待できる。

一方、細胞を用いたマイクロデバイスについては、動物実験の代替法の有効な候補、あるいは、従来の細胞を用いた実験と生体個体を用いた実験の中間に位置付けられる新たな実験ツールとなることが十分期待できる。また、細胞の培養条件のスクリーニングデバイスとして利用し、自然な状態で培養するだけでなく、たとえば物質生産機能のみを高く維持するような条件を見出し、バイオリアクターに応用するといったことも可能である。実際にマイクロバイオリアクターに関する農林水産省のプロジェクトが本年度よりスタートした。今後、さらに微小流体制御技術と微細加工の両方を活用し、マイクロチップ内に複数の細胞種からなる複雑な微細組織構造を持ったデバイスを実現することも可能であると考えている。以上のように生命システムに特有なマイクロ空間を人工的に加工制御することで新しい生命利用技術を拓く基礎研究として位置づけることができる。

実験システム概要

マイクロチャネル内の温度分布

赤外レーザーを用いた温度サイクラー

細胞培養マイクロチップ

養分・酸素供給システム

剪断応力(Pa)とアルブミン合成能

Y. Tanaka, M. N. Slyadnev et al., J. Chromatogr. A, 894, 45 (2000)Y. Tanaka, M. N. Slyadnev et al., Anal. Sci., 17, 809 (2001)M. N. Slyadnev, Y. Tanaka et al., Anal. Chem., 73, 4037(2001)Y. Tanaka, K. Sato et al., Electrophoresis, in press.Y. Tanaka, K. Sato et al., Journal of Biochemistry, submittedY. Tanaka, K. Sato et al., Lab on a Chip, in preparation.
審査要旨 要旨を表示する

本論文は「生体機能を利用した高機能バイオマイクロ化学システムの開発に関する研究」と題し、マイクロチップを利用したマイクロ化学システム内で酵素、細胞などの生体機能を利用する場合に必要となる基盤技術を開発し、マイクロ化学システムの生命科学分野への応用に新しい道を拓いたものである。全7章からなる。

第1章では、本論文の研究背景と研究目的が述べられている。マイクロチップ技術は、世界中で急速に研究が進められており、特に申請者の所属する研究室では、他の多くの研究がゲノム分析技術に偏っていることに対して、様々な化学プロセスをマイクロチップに集積化する独自の汎用的技術の研究を進めているが、このマイクロ化学システムの生命科学、バイオテクノロジー、医学分野への応用が期待されている研究開発動向を述べた後、酵素や生体の機能を組み込むには、マイクロチップ内微小空間の特性を明らかにし、空間特性を活用したチップ内で酵素反応を効率的に制御するため、あるいは細胞の機能を発現させたまま生命を維持するための基礎的な技術など、新たな知見と技術の蓄積が必要であるとしている。

第2章は、マイクロチップ内の微小空間における酵素反応の解析である。微小空間内では、酵素を利用した研究は行われているものの、酵素反応そのものの特性についてはこれまで研究例がない。微小空間内はマクロな空間とは異なる物理特性を持つことから、酵素反応にも影響が出ることを予想し、微小空間内での酵素反応について速度論的解析をこころみ、マクロな空間と比較して微小空間では反応が加速するという現象を新たに見出した。原因究明には至らなかったが、他の研究グループからも追試結果が報告され、新しい現象として注目されている。

第3章では、微小空間内で高速かつ局所的な温度制御法を提案し、実現している。加熱原理にジュール加熱ではなく、レーザー光照射による光熱変換効果を利用した新規な加熱法を提案し、実際に温度制御を行った。この方法を用いることにより、加熱体積10 nL、加熱速度1500 K/s/W、冷却速度120 K/sという、局所的な超高速温度制御を達成した。また、蛍光色素を用いた微小空間内の非接触高速応答の温度計測法を開発し、温度制御法の温度の評価に成功している。

第4章は、マイクロチップ内で酵素反応の高速制御法の開発とそのPCRへの応用について述べている。酵素反応を局所的かつ高速に制御することを実現し、世界最短の0.6秒周期で酵素反応スイッチングを達成した。さらにそれをゲノムテクノロジーに必須の技術であるPCR法に応用し、従来法と比較して、反応全体に要する時間を大幅に短縮できること、試料量を5 nLまで低減できることを実際に示した。

第5章は、マイクロチップ内で機能を維持した細胞培養を実現するための方法について述べている。従来、微小空間内では細胞を培養することが困難であったが、マイクロ流体制御技術によりチャネル内に培養液を流して生体内に近い環境を作り、良好に細胞を生存させることに成功した。また、マイクロチップの表面修飾や培養液の流れによる剪断応力が細胞へのストレスとなり、細胞の正常な形態や機能の喪失に至ることを見出した。そこで、それらの条件を検討して最適化した結果、肝細胞の機能を維持したまま培養することに成功した。さらに、初代培養細胞の培養に応用し、その機能維持にも成功している。

第6章は、マイクロチップ内での細胞の応用例を示している。前章で述べた微小空間内細胞培養技術を利用して、医療分野で実現が期待されている薬剤感受性評価システムのモデル系として、癌細胞を用いた抗がん剤の感受性アッセイを行い、従来の100分の1の少量細胞でのバイオアッセイがほぼリアルタイムで可能であることを示した。これにより、臨床現場では必要な細胞量が多いために実現できなかった薬剤選択のためのアッセイが可能となり、テーラーメード医療の実現のために新しい道を拓いたといえる。

第7章は、本論文のまとめであり、さらに、本論文で開発された技術を応用した高機能バイオマイクロ化学システムに関する将来の展望が述べられている。実際に示したバイオアッセイのほか、高機能バイオリアクター、さらに基礎科学における研究ツールとしての利用例が提案されている。マイクロチップを利用することによって、操作の迅速化・簡便化がはかれるだけでなく、マイクロチップ上でしか実現し得ない新規な研究法についても示している。

以上のように本論文は、マイクロチップ内で酵素や細胞などの生体機能を利用する場合に必要となる基盤技術を提供したものであり、マイクロチップ技術、生命科学、バイオテクノロジー、医学分野に貢献するところが大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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