学位論文要旨



No 119077
著者(漢字) 八木,清
著者(英字)
著者(カナ) ヤギ,キヨシ
標題(和) Ab initio ポテンシャル曲面生成とダイナミックスへの応用
標題(洋) Generation of ab initio potential energy surface and applications to dynamics
報告番号 119077
報告番号 甲19077
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5809号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 講師 中嶋,隆人
 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 山下,晃一
内容要旨 要旨を表示する

序論

現代の分子科学理論は原子核と電子に対する断熱近似を出発点としている. この近似では, 電子は原子核よりも約1800倍軽い粒子であるという事実に基づき, 電子は核座標の変化に比べて十分速く定常状態に至ると考えられる. 原子の立場で言い換えると, 原子核の運動のポテンシャルは, ある核配置における電子の定常状態のエネルギーで与えられることを意味する. 問題は, 形式的には原子核に働く力が電子の運動方程式の解により与えられることは分かるが, その具体的な関数形が理論的に与えられないことである. 分子動力学において興味を持たれる物理量は原子核に対する運動方程式の解として得られるため, ポテンシャル関数の構築は非常に重要であり, これまで多くの研究から独自の技術が開発されてきた. このような背景から, 「電子状態理論」, 「ポテンシャル関数構築」, および「分子動力学」はそれぞれ独立した分野として発達してきた.

近年, 理論・アルゴリズムの開発と計算機の急速な進歩により, 電子状態理論は大きな発展を遂げ, 現在, 分子の電子Schrodinger方程式の固有エネルギーとエネルギー勾配は比較的容易に求められるようになった. これを受けて, 電子状態計算を利用した高精度ポテンシャルに基づき, 核の方程式を解く試みが始まっている. 例として, direct trajectory法では古典トラジェクトリー計算に必要なポテンシャルの情報を直接電子状態計算により求める. Direct trajectory法では高精度なポテンシャルに基づいた計算が可能であるため, 計算負荷が大きいにも関わらず, その適用例はますます増加している. また, 近年, ポテンシャル関数を構築する新しい方法として, 電子状態計算と内挿法を組み合わせた「修正Shepard内挿(MSI)法」がCollinsらによって提案された. MSI法では, 注目している系の動的に重要な座標空間に対して電子状態計算を重点的に行い内挿の精度を高くし, それ以外の領域は外挿で適当に作られる. この発想はそれまでのポテンシャル関数構築法にはないものであるが, その背景として電子状態計算の精度・計算速度の向上により十分な数の内挿点を取れることがある. CollinsらはMSI法を用いて, 二分子衝突反応に対するポテンシャル関数を生成し, 反応断面積や反応速度定数を高精度に見積もることに成功している.

上記のように, 電子状態計算をより直接的に組み込むことで, 高精度な動力学計算が可能になりつつある. 現状の課題は, より多くの動力学計算法に対し電子状態計算を利用した高精度ポテンシャルを組み込む方法を考案することであるが, これには従来の分野の枠組みを超えた思考が必要であり, 非常にチャレンジングである. 本論文で, 私は多次元トンネルダイナミックス・多原子分子の振動状態計算・反応性量子散乱計算に対し, 高精度ポテンシャル曲面を生成する方法を考案し, それぞれ応用計算を行った. 本論文は以下の3つのテーマで構成される:

(1)マロンアルデヒド分子内水素移動反応のトンネルダイナミックス (2)多原子分子の振動エネルギー準位の定量的な予測 (3)スピン軌道相互作用による, O(3P) + CH3→CH3O反応における非断熱過程

マロンアルデヒド分子内水素移動反応のトンネルダイナミックス

[目的]マロンアルデヒド(MA)の分子内水素移動反応はトンネル効果の寄与が大きいことで知られているが, 遷移状態付近で反応経路が大きく曲がるため, その理論的な取り扱いには多次元性を考慮しなければならない. 多次元トンネルの理論としてはMillerらにより半古典論に基づくモデルがよく知られており, また最近Mil'nikovらによりインスタントン理論に基づくモデルが提案された. これらのモデルの精度を比較するためにも, MAの全自由度を考慮した高精度ポテンシャルが必要である.

本研究では, MAのポテンシャルエネルギー曲面(PES)をMSI法により構築した. オリジナルのMSI法は4原子以下にしか適用できなかったが, これを多原子分子用に拡張した. 得られたPESを用いてトンネル効果による振動基底状態のエネルギー分裂を評価し, 実験値との比較から理論計算の精度を議論する.

[方法と結果]本研究では, MSI法によりMP2/6-31G(d,p)のレベルで全21次元のPESを構築した. 内挿に用いる重み関数の座標系としてデカルト座標を用いることで, MSI法を9原子分子に対して適用することができる. 反応座標の幾何学的構造から反応に重要な座標空間を決定し, この領域に重点的に内挿する点(参照点)を配置した. 図2は反応経路付近でのPESの断面図であり, 参照点はそれぞれ51個(左)と147個(右)配置している. 参照点の数を増加させることで, PESが改善される様子が見られる.

得られたPESを用いて, トンネル動力学計算を行った. トンネル分裂は13.5 cm-1 (Millerモデル), 30.7 cm-1 (Mil'nikovモデル)となり, 共に実験値21.6 cm-1を概ね再現した. また, 自由度を面内自由度に限定した計算では, それぞれ24.1 cm-1と71 cm-1と得られ, 移動する水素の面外の自由度がトンネル分裂に大きな寄与を及ぼすことが示された.

多原子分子の振動エネルギー準位の定量的な予測

[目的]分子の振動エネルギー準位は化学において最も重要な物性量の一つであり, その予測は理論化学の大きな課題である. 比較的簡便な方法として調和近似がよく用いられるが, 定量的な予測には非調和性を考慮しなければならない.

本研究では, 振動状態計算のための新しいポテンシャル関数を考案する. 電子状態計算により, 多原子分子の高精度ポテンシャル関数を実際に構築し, それを用いたVSCF計算を行うことで, 振動エネルギー準位を定量的精度で予測することを実現する.

[方法](1) Direct法 VSCF計算で必要なポテンシャルの情報を全て電子状態計算により直接求める. 理論的に厳密な取り扱いだが, 計算負荷が大きい. ポテンシャル関数を用いた計算に対する厳密解を与える. (2) 2MR-QFF 振動状態計算にはこれまでポテンシャル関数として4次の力場(Quartic force field: QFF)が良く用いられてきたが, その構築には大きな計算負荷を必要とする. 本研究では, 1体と2体項のみを考慮したQFF (two-mode representation QFF: 2MR-QFF)を提案した. 3体, 4体項を無視することで計算負荷を抑えられる. (3) MSI(4th) QFFは平衡点近傍から離れると急激に記述が悪くなる. そのため, 2MR-QFFを用いて高振動励起状態のエネルギー準位を求めるのは困難である. そこで複数個のQFFを内挿したポテンシャル関数[MSI(4th)]を提案する. 内挿は修正Shepard内挿法により行った.

[結果]結果を表1と表2に示す. 表1はいくつかの分子に対する基本振動数の計算値と実験値の絶対平均誤差である. Direct法と2MR-QFFに基づくVSCF計算は調和近似に比べ結果が大きく改善された. 2MR-QFFを用いた計算結果はdirect法とほぼ同等の誤差となっており, これは2MR-QFFが高精度なポテンシャル関数であることを示唆している. Direct法の誤差は用いている電子状態計算の精度を表わす.

表2はH2Oの基音とOH対称伸縮(n1)と逆対称伸縮(n3)の倍音・結合音の計算結果である. QFFでは対称伸縮と逆対称伸縮のモード間カップリングを取り込むことは困難である. MSI(4th)では大きく改善され, ほぼdirect の計算結果を再現している. このことからMSI(4th)は高振動励起状態も計算できる非常に高精度な関数形であることが分かった.

スピン軌道相互作用によるO(3P) + CH3 → CH3O 反応の非断熱遷移過程

[目的]近年, スピン軌道相互作用による非断熱遷移が反応性へ与える影響に注目が集まっている. H2 + Cl(2P) → HCl + Hにおいて, スピン軌道相互作用により分裂した励起状態Cl(2P1/2)の方が基底状態Cl(2P3/2)よりも反応性が高いという実験報告がなされ, それに続き, H2 + X(2P) → HX + H (X=F, Cl, Br)に対する理論・実験研究が続々と発表されている. この観点でラジカル・ラジカル反応の詳細な検討は未だされていないが, この反応系は開殻分子を含み, 微細構造レベルで非常に多くの電子状態が存在するため, 同様に非断熱遷移が反応性に大きな影響を与える可能性が高い.

最近, O(3P) + CH3 → CH3Oにおいて反応速度定数が温度依存性を示す, という実験報告がされた. 活性化障壁のないこの反応はアレニウス則では温度依存がないはずであり, さらにそれ以前の実験でも依存性はないと報告されていたため, これまでの常識を覆す結果が議論になっている. この系に対する理論計算はまだされていない. 本研究では, この反応に対しスピン軌道相互作用による非断熱遷移が反応へ及ぼす影響を考慮し, 理論計算により反応速度定数を求める.

[結果]まず, 高精度電子状態計算により断熱ポテンシャルエネルギー曲面とスピン軌道相互作用項を求め, 次にそれらを用いた反応性量子散乱計算により反応速度定数を求めた. 方法の詳細は当日発表する. 図3に得られた結果と実験値を示す. 計算結果は実験結果と同様に温度依存性を示し, 半定量的な一致も得られた. 古典散乱(capture)計算の結果は量子計算よりも大きい値が得られたが, これは量子干渉による反射が大きく影響していることが詳細な解析の結果分かった. これはラジカル・ラジカル反応において, 一般的に電子励起状態が反応性に影響する非断熱の効果と考えられ, これまでにない新しい知見が得られた.

マロンアルデヒド分子内水素移動反応

MAのPESの断面図

VSCF計算により得られた基本振動数の実験値からの絶対平均誤差 (cm-1)

H2Oの振動エネルギー準位 (cm-1)

反応速度定数の温度依存性

Direct vibrational self-consistent field method: Applications to H2O and H2CO, K. Yagi, T. Taketsugu, K. Hirao, and M. S. Gordon, J. Chem. Phys. 113, 1005 (2000).Generation of full-dimensional potential energy surface of intramolecular hydrogen atom transfer in malonaldehyde and tunneling dynamics, K. Yagi, T. Taketsugu, and K. Hirao, J. Chem. Phys. 115, 10647 (2001).A new analytic form of ab initio potential energy function: An application to H2O, K. Yagi, T. Taketsugu, and K. Hirao, J. Chem. Phys. 116, 3963 (2002).Ab initio potential energy surface for vibrational state calculations of H2CO, K. Yagi, C. Oyanagi, T. Taketsugu, and K. Hirao, J. Chem. Phys. 118, 1653 (2003).Tunneling splitting in polyatomic molecules: Application to malonaldehyde, G. V. Mil'nikov, K. Yagi, T. Taketsugu, H. Nakamura, and K. Hirao, J. Chem. Phys. 119, 10 (2003).Simple and accurate method to evaluate tunneling splitting in polyatomic molecules, G. V. Mil'nikov, K. Yagi, T. Taketsugu, H. Nakamura, and K. Hirao, J. Chem. Phys., submitted.The effect of spin-orbit coupling on fast neutral chemical reaction, O(3P) + CH3 → CH3O, K. Yagi, T. Takayanagi, T. Taketsugu, and K. Hirao, submitted.On the calculations of the anharmonic vibrational energy levels for polyatomic systems, K. Yagi, T. Taketsugu, and K. Hirao, in preparation.
審査要旨 要旨を表示する

本論文は「Ab initioポテンシャル曲面生成とダイナミックスへの応用」と題し、高精度ポテンシャルエネルギー曲面(PES)を生成する方法を開発し、多次元トンネルダイナミックス、多原子分子の振動状態や反応性量子散乱の計算に応用したものであり、反応動力学分野に新しい道を拓いたものである。全7章からなっている。

第1章は序論であり、理論化学、特に反応動力学理論の現状を分析し、電子状態理論から得られる情報を取り込んで、正確なPESを構築する方法を確立することが急務であることが強調され、本論文の研究目的が述べられている。

現代の分子理論は原子核と電子を分離して取り扱うBorn-Oppenheimer近似を出発点としている。この近似の導入により、これまで電子状態理論と動力学理論は異なる分野として発達してきた。前者は与えられた原子核配置における電子Schrodinger方程式を扱い、後者ではPESに基づく原子核の運動が研究対象とされる。動力学理論を実際に適用するには、注目している系のPESが必要となる。3-4原子系を除き高精度なPESはほとんど手に入らないため、これまで動力学計算で多原子系を扱うことは困難であった。一方, 近年の電子状態理論と計算機性能の向上により、ある核配置におけるPESとその微分値の計算は多原子分子に対しても可能になりつつある。

申請者は電子状態計算と内挿法を組み合わせた新しいPES構築法を開発した。その基本的考えかたは注目している系の動的に重要な座標空間に対して電子状態計算を重点的に行い内挿の精度を高くし、それ以外の領域は外挿で作るというものである。このように電子状態計算をより直接的に組み込むことで、高精度な動力学計算が可能になる。申請者はこの方法により構築されたPESを用いて振動エネルギーや反応断面積、反応速度定数を高精度に見積もることに成功している。

第2−4章はPESの構築法と多原子分子の振動エネルギー準位の定量的な予測の研究をまとめたものである。分子の振動エネルギー準位の正確な予測は理論化学の大きな課題である。定量的な予測には非調和性を考慮しなければならない。VSCF計算に必要なポテンシャルの情報を全て電子状態計算により直接求めるのが理論的に厳密な取り扱いであるが、計算負荷が大きく適用は小さな系に限られる。申請者は1体と2体項のみを考慮したQFF (two-mode representation QFF: 2MR-QFF)を提案している。この近似では3体、4体項を無視するので計算負荷を抑えることができる。また、平衡点近傍から離れると急激に記述が悪くなる欠陥を補うために修正Shepard内挿法を利用した新しいポテンシャル関数[MSI(4th)]を提案している。この新しいポテンシャル関数を用いたVSCF計算を行うことで、振動エネルギー準位を定量的精度で予測することに成功している。

5章はマロンアルデヒド分子内水素移動反応のトンネルダイナミックスの研究である。マロンアルデヒドの分子内水素移動反応はトンネル効果の寄与が大きいことで知られており、遷移状態付近で反応経路が大きく曲がるため、その理論的な取り扱いには多次元性を考慮しなければならない。申請者は高精度PESを用いてトンネル動力学計算を行い、実験で観測されるトンネル分裂を理論的に予測している。トンネル分裂の理論値は13.5 cm-1 (Millerモデル), 30.7 cm-1 (Mil'nikovモデル)となり, 共に実験値21.6 cm-1を概ね再現した。また, 自由度を面内自由度に限定した計算では, それぞれ24.1 cm-1と71 cm-1と得られ、移動する水素の面外の自由度がトンネル分裂に大きな寄与を及ぼすことを示している。

第6章はスピン軌道相互作用による, O(3P) + CH3→CH3O反応における非断熱過程を扱ったものである。近年スピン軌道相互作用による非断熱遷移が反応性へ与える影響に注目が集まっている。H2 + Cl(2P) → HCl + Hにおいてスピン軌道相互作用により分裂した励起状態Cl(2P1/2)の方が基底状態Cl(2P3/2)よりも反応性が高いという実験報告がなされ、それに続き, H2 + X(2P) → HX + H (X=F, Cl, Br)に対する理論・実験研究が次々と発表されている。この観点でラジカル・ラジカル反応の詳細な検討は未だされていないが、この反応系は開殻分子を含み, 微細構造レベルで非常に多くの電子状態が存在するため同様に非断熱遷移が反応性に大きな影響を与える可能性が高い。最近, O(3P) + CH3 → CH3Oにおいて反応速度定数が温度依存性を示すという実験報告がされた。活性化障壁のないこの反応はアレニウス則では温度依存がないはずであり、さらにそれ以前の実験でも依存性はないと報告されていたため、これまでの常識を覆す結果が議論になっている。この章ではO(3P) + CH3→CH3O反応に対しスピン軌道相互作用による非断熱遷移が反応へ及ぼす影響を考察し、理論計算により反応速度定数を求めている。また、活性化障壁のないにもかかわらず反応速度定数が温度依存性を示すことを明らかにしている。

第7章は本論文のまとめであり、反応動力学理論に関する将来の展望が述べられている。

以上のように本論文は、反応動力学計算に新しい知見をもたらしたものであり、理論化学、分子工学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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