学位論文要旨



No 119092
著者(漢字) 大石,康二
著者(英字)
著者(カナ) オオイシ,コウジ
標題(和) 発生における細胞生死制御機構の解析
標題(洋)
報告番号 119092
報告番号 甲19092
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5824号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 後藤,由季子
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 多比良,和誠
 東京大学 助教授 上田,宏
 慶應大学 教授 仲嶋,一範
内容要旨 要旨を表示する

緒言

「細胞の自殺」=「細胞死」は、生物の発生や恒常性の維持に非常に重要だと考えられている。近年の精力的な研究により、細胞死は細胞内のシグナル伝達によって引き起こされる、プログラムされた細胞の自殺であるという概念が確立された。一般的に細胞の生存は細胞死シグナルのON/OFFによって制御され、デフォルト(何もしない状態)では生きていると思われがちである。しかしながら、培養細胞の培養液から血清を除去することで細胞死が誘導されることからも、細胞は生存シグナルによって能動的に生かされていることがわかる。このように、細胞の生死は生存シグナルと細胞死シグナルのバランスによって、巧妙に制御されていると考えられる。

近年の細胞死シグナルの急速な解明に対して、生存シグナルの実体はその重要性にも関わらず、十分な理解に至っていない。また、このような生存と死のシグナルが、実際に生体の細胞において、どのように細胞の生死を決定しているかについての知見も不十分である。そこで本研究では、2つの系(T細胞(第二章)と神経幹細胞(第三章))を用いて細胞の生存シグナルを分子的に明らかにすることを目的とした。また、神経幹細胞の研究から、細胞の生存促進に重要な分子が、細胞の分化や移動にも関与するという予想外の結果を得たので、第四章で述べる。

T細胞における生存促進機構の解析

生存/細胞死シグナルのバランスによって細胞の運命が巧妙に決定されている系に、T細胞クローンの選択が挙げられる。T細胞は遺伝子の再構成により多様なT細胞抗原受容体(TCR)を作り出すが、TCRの反応性の違いにより、生体にとって有用なTCRのみを選択する。すなわち、T細胞はデフォルトで死ぬが、適度なTCRの活性化はT細胞の生存・分化を誘導する(正の選択)。一方、TCRが過剰に活性化されると細胞死が誘導される(負の選択)。近年の研究から、負の選択には転写因子Nur77の発現誘導が重要であることが明らかにされている。一方で、正の選択時にはTCR刺激によりNur77が誘導されるのにもかかわらず、細胞はむしろ生存するという矛盾が生じている。従って、正の選択時には何らかのメカニズムによってNur77の細胞死誘導能の抑制が起きている可能性が考えられた。PI3-キナーゼ/Akt経路は様々な系で細胞の生存に重要であることが示されており、TCRの活性化によっても活性化される。そこで、Nur77がAktによって制御される可能性を検討した。

まず、AktがNur77の転写活性を著しく抑制することを見出した。このメカニズムとして、Nur77がAktによって直接リン酸化される可能性を検討した。その結果、in vivo/in vitroにおいてAktがNur77をリン酸化することが分かった。以上から、AktがNur77を直接リン酸化し、その転写活性を抑制することが明らかになった。また、Nur77の発現によって誘導される細胞死が、活性型Aktの共発現によって抑制されることを見出した。以上の結果から、AktはNur77の細胞死誘導活性をNur77をリン酸化することで抑制することが強く示唆された。

これらの結果は、PI3-キナーゼ/Akt経路が正の選択においてNur77の活性を抑制することにより、TCRによる生存促進に貢献していることを示唆している。すなわち、TCRが適度に活性化された場合は、Nur77の発現が誘導されるものの同時にAktも活性化されるため、Nur77の転写活性が抑制されて生存が維持される。一方、TCRが過剰に活性化されると、AktによるNur77の転写活性の抑制が追いつかず、細胞死が誘導されると考えられる。

神経幹細胞における生存促進機構の解析

哺乳類の中枢神経系はニューロンとグリアから構成されるが、これらは多分化能、自己複製能をもつ神経系前駆細胞から発生する。神経幹細胞は発生過程でプログラム細胞死を起こすことが知られており、この細胞死の人為的抑制は過剰な神経系細胞を産み出し、脳の肥大を伴う個体死を引き起こす。従って、神経幹細胞の生死は厳密に制御されているものと考えられる。しかしながら、その制御機構はこれまでほとんど明らかにされていなかった。本研究では、その分子メカニズムの解明を目的に、胎生マウスの終脳から調製した神経幹細胞を用いて解析を行った。

神経幹細胞の培養には、bFGFやEGFといった増殖因子の添加が必須であり、これらを含む栄養因子を培地中から除去すると細胞死が誘導される。まず、この細胞死が高密度培養によって抑制されること、その作用には細胞間相互作用(細胞間の接着)が重要であるという結果を得た。膜貫通型受容体Notchは、細胞間相互作用によって活性化され、神経幹細胞のニューロン分化を抑制することが明らかになっている。そこで、高密度による生存促進効果にNotchシグナルが関与するか検討したところ、高密度による神経幹細胞の生存促進に、Notchシグナルが必須であることが分かった。また、神経幹細胞に活性型Notchを導入したところ、著しく細胞死が抑制された。一方、Notchの下流シグナル分子であるHes1/5についても同様に解析を行った結果、これらの分子を発現させても細胞死は抑制されなかった。これらのことから、NotchシグナルがHes以外の経路を介して、神経幹細胞の生存を促進することが明らかになった。また、活性型Notchによって生存促進型Bcl-2ファミリーのBcl-2とMcl-1の発現量が上昇していることを見出した。従って、Notchはこれらの分子の発現上昇を介して神経幹細胞の生存を促進している可能性が示唆された。

これらの結果から、Notchシグナルは神経幹細胞のニューロン分化を抑制すると共に、生存を促進することによって未分化な神経幹細胞のプールを維持するのに貢献するものと考えられる。

神経幹細胞におけるPI3-キナーゼ/Akt経路の解析

第二章で扱ったPI3-キナーゼ/Akt経路は、様々な系で細胞の生存に重要であることが明らかになっている。そこで、神経幹細胞の生存についても検討を行ったところ、活性型Aktの発現によって神経幹細胞の生存が促進された。この時、活性型Aktを発現させた際の細胞の分化状態について調べたところ、ニューロンへの分化が著しく促進されるという意外な結果に気づいた。IGF-I, などの増殖因子は、ニューロンへの分化を促進することが報告されていたため、PI3キナーゼ-Akt経路はそのような因子の下流シグナルに重要である可能性が考えられた。そこで本研究では、PI3キナーゼ-Akt経路によるニューロン分化促進機構について解析を行うこととした(4-1)。

Akt経路は、哺乳動物の細胞移動にも関与することが当研究室によって明らかにされている。そこで、PI3キナーゼ-Akt経路のニューロン移動への関与についても調べた(4-2)。

PI3キナーゼ-Akt経路のニューロン分化促進機構の解析

まず、 in vitro培養系でPI3キナーゼ-Akt経路のニューロン分化への関与について検討した。その結果、IGF-Iによるニューロン分化促進にPI3キナーゼ経路が必要であること、活性型Aktがニューロン分化を促進することを見出した。神経幹細胞からニューロンへの分化にはMash1 などのproneural bHLH型転写因子が重要であることが知られている。そこで、Aktがこれらの転写活性を促進する可能性について検討したところ、活性型AktによってMash1の転写活性が顕著に上昇した。 従って、AktはMash1といった転写因子を活性化することによって、ニューロン分化を促進する可能性が示唆された。

次に、in vivo(実際の生体内)においても、PI3キナーゼ-Akt経路が重要であるか検討を行った。PI3キナーゼ-Akt経路を遮断するために、Aktを活性化するキナーゼであるPDK1の遺伝子破壊マウスを用いた。大脳におけるニューロン分化を検討したところ、野生型と比較してPDK1-/-ではニューロンマーカー陽性領域が減少することが観察された。従って、PDK1遺伝子の破壊によってニューロン分化が抑制されたものと考えられ、in vivoにおけるニューロン分化にPI3キナーゼ-Akt経路が重要な役割を果たしている可能性が示唆された。

PDK1遺伝子破壊マウスおけるニューロン移動の解析

Akt経路は、哺乳動物の細胞移動にも関与することが知られている。中枢神経系では、大脳皮質ニューロンの脳室帯から皮質層への垂直移動がよく知られている。そこで、この細胞移動にPDK1が関与するかPDK1-/-マウスを用いて検討した。その結果、PDK1-/-マウスでは、異常な位置にニューロンが留まることが観察され、ニューロンが皮質層に正しく移動することができないことが分かった。この時期の大脳の新生ニューロンは、垂直方向に突起を伸ばした放射状グリアに沿って移動することが知られている。野生型と比較して、PDK1-/-マウスでは放射状グリアの突起の配向が顕著に乱れていることが明らかになった。従って、PDK1-/-マウスにおけるニューロンの移動の異常は、それをサポートする放射状グリアの突起の不完全な形成に起因する可能性が示唆された。

結言

本研究から、T細胞におけるPI3キナーゼ-Akt経路、神経幹細胞におけるNotchシグナルが生存に重要であることが明らかになった。また、神経幹細胞においてPI3キナーゼ-Akt経路は生存のみならず、ニューロン分化や細胞移動にも関与することが分かった。一方、神経幹細胞においてNotchシグナルはニューロン分化の抑制に働いている。このように、発生過程において生存シグナルは同時に分化などのシグナルと共役することで、必要な細胞のみを生存させる役割を担っている可能性が考えられ、今後の解析が興味深い。

審査要旨 要旨を表示する

近年の研究から、細胞死は細胞内のシグナル伝達によって引き起こされる制御された現象であることが確立された。一般的に細胞の生存は細胞死シグナルのON/OFFによって制御され、何もしない状態では生きていると思われがちである。しかしながら、培養細胞の培養液から血清を除去することで細胞死が誘導されることからも、細胞は生存シグナルによって能動的に生かされていることがわかる。このように、細胞の生死は生存シグナルと細胞死シグナルのバランスによって制御されている。細胞死シグナルの解明に対して、生存シグナルの実体は十分な理解に至っていない。また、このような生存と死のシグナルが実際に生体の細胞において、どのように細胞の生死を決定しているかについての知見も不十分である。そこで本研究では、2つの系(T細胞(第二章)と神経幹細胞(第三章))を用いて細胞の生存シグナルを分子的に明らかにすることを目的とした。また、神経幹細胞の研究から、細胞の生存促進に重要な分子が、細胞の分化や移動にも関与するという予想外の結果を得たので、第四章で述べた。

第一章では、研究の背景、既往の研究、および本研究の意義について述べた。

第二章では、T細胞クローン選択の生死制御について検討を行った。未成熟T細胞は、生存/細胞死シグナルのバランスによって細胞の運命が巧妙に決定されている。T細胞はTCR(T細胞受容体)の反応性の違いにより、生体にとって有用なTCRのみを選択する。すなわち、適度なTCRの活性化はT細胞の生存・分化を誘導する(正の選択)。一方、TCRが過剰に活性化されると細胞死が誘導される(負の選択)。近年の研究から、負の選択には転写因子Nur77の発現誘導が重要であることが明らかにされている。一方で、正の選択時にはNur77が誘導されるのにもかかわらず、細胞はむしろ生存するという矛盾が生じている。従って、正の選択時にはNur77の細胞死誘導能が抑制されている可能性が考えられた。PI3-キナーゼ/Akt経路は様々な系で細胞の生存に重要であることが示されており、TCRの活性化によっても活性化される。そこで、Nur77がAktによって制御される可能性を検討した。その結果、AktはNur77を直接リン酸化し、その転写活性・細胞死誘導能を抑制することを示した。これらの結果から、PI3-キナーゼ/Akt経路が正の選択においてNur77の活性を抑制することにより、TCRによる生存促進に貢献する可能性を示した。

第三章では、神経幹細胞の生死制御について検討した。哺乳類の中枢神経系はニューロンとグリアから構成されるが、これらは多分化能、自己複製能をもつ神経系前駆細胞から発生する。神経幹細胞は発生過程でプログラム細胞死を起こすことが知られており、この細胞死の人為的抑制は過剰な神経系細胞を産み出し、脳の肥大を引き起こす。従って、神経幹細胞の生死は厳密に制御されているものと考えられる。しかしながら、その制御機構はほとんど明らかではなかった。本研究では、その分子メカニズムの解明を目的とした。その結果、Notchシグナルが神経幹細胞の生存に重要であること、Bcl-2、Mcl-1の発現上昇がこの効果に重要であることを明らかにした。これらの結果から、Notchシグナルは神経幹細胞のニューロン分化を抑制すると共に、生存を促進することによって未分化な神経幹細胞のプールを維持するのに貢献する可能性を示した。

第二章で扱ったPI3-キナーゼ/Akt経路は、細胞の生存に重要であることが明らかになっている。そこで、神経幹細胞の生存についても検討を行ったところ、この経路が分化や細胞移動に関与する結果を得たので、第四章で詳細な解析を行った。まず、PI3キナーゼ-Akt経路のニューロン分化への関与について検討した。その結果、ニューロン分化にPI3キナーゼ-Akt経路が重要であることを見出した。また、AktはMash1を活性化しニューロン分化を促進する可能性を示した。次に、in vivoにおいてPI3キナーゼ-Akt経路の重要性を検討するために、PDK1の遺伝子破壊マウスを作製した。大脳におけるニューロン分化を検討したところ、PDK1-/-ではニューロンの領域が減少することが観察された。従って、in vivoニューロン分化にPI3キナーゼ-Akt経路が重要である可能性が示唆された。Akt経路は、哺乳動物の細胞移動にも関与することが知られている。大脳皮質ニューロンの脳室帯から皮質板への細胞移動にPDK1が関与するかPDK1-/-マウスを用いて検討した。その結果、PDK1がニューロン移動に必須であり、放射状グリアの突起形成に関与することが明らかになった。

本研究では、T細胞におけるPI3キナーゼ-Akt経路、神経幹細胞におけるNotchシグナルが生存に重要であることが明らかとした。これらの成果は発生における疾患への予防・治療の礎となると共に、生存シグナルの細胞癌化への関与から癌細胞治療としての医学・薬学・工学分野へ貢献するものである。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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