学位論文要旨



No 119108
著者(漢字) 所,裕子
著者(英字)
著者(カナ) トコロ,ヒロコ
標題(和) RbMnFe シアノ錯体における光誘起相転移現象
標題(洋)
報告番号 119108
報告番号 甲19108
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5840号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋本,和仁
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 教授 荒川,泰彦
 東京大学 助教授 大越,慎一
 東京大学 講師 和泉,真
内容要旨 要旨を表示する

緒言

光通信、光コンピューターなどが主役を演ずる光エレクトロニクスの時代が始まった。一方、磁性材料は記録用デバイスや記録媒体などの中心的な役割を果たしている。従って、光による磁性制御は応用的観点から極めて魅力的な研究課題の一つであると考えられる。他方、光によって誘起される相転移現象は、化学・物理,基礎から応用まで幅広い研究者の関心を呼んで学際的研究として発展してきている。従って、光誘起相転移を示す物質を見出し科学的観点から検討を行なうことは、大変興味深い研究課題の一つであると考えられる。本研究ではこれらの命題に対して、光で電子状態や構造を変化させ強磁性状態を制御する,という方法論を用いて、分子磁性材料の一つであるシアノ架橋型金属錯体RbMn[Fe(CN)6]を舞台に研究を行った。

まず始めに、RbMn[Fe(CN)6]において温度ヒステリシスを伴う相転移現象を観測したので報告し、メカニズムを述べる。また、低温における磁気特性を示す。次に、RbxMn[Fe(CN)6]y・zH2O系において光磁性現象を見出したので報告する。まず、高密度パルスレーザー光を照射した場合に関して述べ、次に、低密度パルスレーザー光または連続光を照射した場合の光磁性現象に関して述べる。

実験

合成

試料は、塩化ルビジウム(I)溶液 (錯体1; 1 mol dm-3, 錯体2;0.5 mol dm-3) 下にて、ヘキサシアノ鉄(III)カリウム (0.1 mol dm-3) と塩化マンガン(II) (0.1 mol dm-3) を混合することにより得た。

評価

錯体の評価は、元素分析に誘導結合プラズマ質量分析計(ICP-MS), 電子状態の決定にX線光電子分光法 (XPS), 可視分光分析法 (Vis), フーリエ変換型赤外分光分析法 (IR), 構造決定にX線回折法(XRD), 磁気測定に超伝導量子干渉素子型磁束計 (SQUID) を用いた。光照射には光源として半導体レーザー(λ=658nm),Nd-YAGレーザー励起OPOレーザー(λ=420−780nm, パルス幅=6ns)を用いた。

結果

組成

元素分析結果より、試料の組成式はRbMn[Fe(CN)6] (錯体1), Rb0.87Mn[Fe(CN)6]0.950・0.6H2O (錯体2) であった。錯体1の構造を図1に示す。

RbMnFeシアノ錯体における温度誘起相転移現象

[磁気測定] 錯体1の磁化率の温度依存性を測定した結果、大きな温度ヒステリシスを伴った相転移現象が観測された(図2)。転移温度は225 K (T1/2↓) と300 K (T1/2↑) であり、温度ヒステリシス幅 (ΔT=T1/2↑- T1/2↓) は75 Kであった。磁化率値が大きい状態を高温相、小さい状態を低温相とする。また、磁場10G中でさらに低温相を冷却すると、キュリー温度 (Tc) 12Kで強磁性転移し自発磁化を生じた。温度3Kにおける飽和磁化の値 (Ms) は3.6 μB、保持力の値 (Hc) は1050 Gであった。低温相の常磁性領域 (150-270K) におけるXM-1-Tプロットからワイス温度を求めると、+15Kであった。

[XPS, IR, Vis, XRD 測定] XPS測定を行ったところ、高温相ではFeとMnの2P3/2結合エネルギーは710.1 eVと641.8 eV, 低温相では708.8 eVと642.5 eV であった。また、KI3[FeIII(CN)6]中のFeIIIイオンとKI4[FeII(CN)6]中のFeIIイオンの2P3/2結合エネルギーは710.0 eV , 709.1 eVであった。次に、IRスペクトルの温度依存性を測定した。300KではFeIII-CN-MnIIのCN伸縮運動に帰属されるピークが2152 cm-1に観測され、温度を下げると、このピークの強度は220K付近で減少し、新たなピークが2095 cm-1に現れた。粉末XRD回折パターンの温度依存性を調べたところ、300K (高温相) では格子定数a=10.533 Aの面心立方晶系(F43m)、160 K (低温相) では格子定数a=b=7.090A, c=10.520Aの正方晶系(I m2)であった。低温相の格子定数は、正方格子で考えるとa=b=10.026 A, c=10.520 Aとなる。また、可視光スペクトルを測定したところ、高温相では、410, 520, 680nm付近に、低温相では540, 700, 1100nmに吸収帯が観測された。

RbMnFeシアノ錯体における光誘起相転移現象

[ワンショットパルスレーザー誘起光磁性] 錯体2が強磁性状態にある低温相(3 K)に光密度 (P) 130 mJ cm-2 pulse-1のパルスレーザー光(λ=532nm)を1ショット照射した結果、光磁化消失現象が発現した。図3(a) に照射前後の磁化の経時変化を,図3(b) に磁化の温度依存性を示した。照射光密度依存性を検討したところ、低密度光照射では変化はなかったが、光密度を高くしていくと9.3 mJ cm-2 pulse-1を境に磁化の消失が観測された。また、量子効率(Φ)はΦ> 1であった。また、異なるエネルギーの励起光(l=355nm)を用いて波長依存性を検討したところ、光磁化消失現象はほとんど観測されなかった。温度8Kにおける光照射前後のIRスペクトルを測定したところ、光照射後に2095 cm-1のFeII-CN-MnIIIを示すピークが減少し、2152 cm-1のFeIII-CN-MnIIを示す鋭いピークが現れた。

[時間発展型光磁性] 閾値以下のパルスレーザー光を多数ショット照射したところ、ワンショットパルスレーザー誘起光磁性現象とは全く異なる挙動が観測された。錯体2の低温相(3K)にP=1 mJ cm-2 pulse-1のパルスレーザー光(λ=660nm, 10 Hz, パルス幅= 6 ns)を100ショット照射したところ、照射後は磁化が消失していた。しかし、50秒経過したときに突然回復し、照射前の値にまで戻った[図4]。このような磁化消失時間は照射ショット数に応じて変化し、1200ショットでは8分30秒、7800ショットでは21分30秒と、ショット数増加に伴い長くなった[図4]。この時間発展的に振舞う光磁性は、cwレーザー光照射を行なった場合にも観測された。例えばcwレーザー光(λ=658nm, P=36 mW cm-2)を1分間照射した場合、7分25秒間磁化は消失していた。これまでに最長41分30秒という磁化消失時間を観測している。また、磁化消失時間の温度依存性を検討したところ、T < 8Kの条件下で発現することが示唆された。

考察

RbMnFeシアノ錯体における温度誘起相転移現象

[低温相と高温相の電子状態及び構造] XPS, IRスペクトルの結果は、Mn, Feイオンの電子状態が高温相でMnII, FeIII,低温相でMnIII, FeIIであることを示唆している。磁化率の値を踏まえると、高温相:MnII(d5; S=5/2)-NC-FeIII(d5; S=1/2),低温相:MnIII(d4; S=2)-NC-FeII(d6; S=0)であると考えられる。

また、高温相(立方晶系)から低温相(正方晶系)への転移に伴う結晶構造変化は、六配位正八面体の二方向が伸長する(B1g振動モード)MnIIIのヤーン・テラー変形により理解される。これらの結果より、高温相は MnII(t2g3eg2; S=5/2)-NC- FeIII(t2g5; S= 1/2),低温相は MnIII(eg2b2g1a1g1; S=2)-NC-FeII(b2g2eg4; S=0) と帰属される (図5)。また、電子状態を考慮してVisスペクトルを解釈すると、高温相で観測された410nm付近の吸収帯は[FeIII(CN)6]の配位子から金属イオンへの電荷移動、520nm付近の吸収帯はFeIII (2T2g→ 4T1g) のd-d遷移,低温相で観測された540nm付近の吸収帯はヤーン・テラー歪みを起したMnIIIの (5B1g→ 5B2g, 5Eg)、1100nm付近の吸収帯は (5B1g→ 5A1g) のd-d遷移によるものだと考えられる。これらのことから、700nmに観測されたブロードな吸収帯は電荷移動吸収帯(ITバンド)だと考えられる。

[低温相の磁気秩序] 磁気特性の測定結果は、12K以下で低温相がフェロ磁性体となることを示唆している。分子場理論に基づき実験値から交換積分値を見積もると、+0.35 cm-1であった。低温相の強磁性は、FeII低スピンが仲介して交換相互作用が成り立っているものと考えられる。

RbMnFeシアノ錯体における光誘起相転移現象

[ワンショットパルスレーザー誘起光磁性] 波長532nmの光では磁化消失が観測されたが、355nmの光ではほとんど観測されなかった。このことから、磁化消失現象は励起状態を経由して起こる光反応であると考えられる。また、光密度に閾値が観測されたこと、Φ> 1であったことから、この現象には協同効果が働き、相転移的に発現しているものと考えられる。この光磁性現象のメカニズムを考察すると、光照射により低温相はFeII-CN-MnIIIとFeIII-CN-MnIIの混合原子価状態に励起されると考えられ、このとき光が閾値以下であれば光励起状態は低温相へ失活するが、閾値以上であれば高温相へと構造相転移する,と考えられる。また、高温相は低温相と熱エネルギーで十分に隔てられているため、低温で維持されると考えられる。

[時間発展型光磁性] 閾値以下のレーザー光を多数ショット照射もしくはcwレーザー光を照射した場合は、光誘起相 (高温相) と低温相の中間に存在する準安定な相に一旦トラップされ、一定時間経過後、低温相へと戻ると考えている。この現象は、系に強い協同効果が働いているため緩和がなだれ的に発生するという、非平衡状態の時間発展的挙動と考えている。

結論

シアノ架橋型金属錯体RbMn[Fe(CN)6]において、温度ヒステリシスΔT (=75K) を伴った温度誘起の電荷移動型相転移現象を観測した。この相転移はMnIIからFeIIIへの電子移動とMnIIIN6サイトにおけるヤーン・テラー効果によって発現すると結論付けられた。また、低温相は12Kで強磁性転移するフェロ磁性体であった。

異なる二種類の光磁性現象‘ワンショットパルスレーザー光磁化消失現象'と‘時間発展型光磁性'を見出すことに成功した。高密度パルスレーザー光を照射すると、ワンショットで磁化が消失した。この現象は、金属間電子移動による磁性イオンの電子状態の変化と、MnIIIのヤーン・テラー歪みによる準安定状態の発現が重要な役割となって達成されていると考えられた。また、低密度パルスレーザー光多数ショットまたはcwレーザー光を照射した場合、消失した磁化が暗所で突然回復するという時間発展型の光磁性現象を示した。この現象は、系に強い協同効果が働いているために緩和がなだれ的に発生するという、非平衡状態の時間発展的挙動と考えられた。このような光磁性現象の報告例は本研究以外にはなく、新規な光磁性現象を見出すことに成功したと思われる。これは、RbMn[Fe(CN)6]が量子的には電子移動およびヤーン・テラー歪、巨視的には構造相転移および磁気相転移が複合した系であることに起因しているもので、基礎科学的にも興味深い現象であると考えられる。

錯体1の結晶構造

磁化率の温度ヒステリシス

高密度パルスレーザー光を1ショット照射したときの磁化-温度曲線(a) と磁化-時間曲線(b) (B0 = 200G, 3K)

低密度パルスレーザー光を多数ショット照射したときの磁化消失時間(B0= 10G, 3K)

高温相と低温相の電子状態

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、シアノ架橋型金属錯体であるプルシアンブルー類似体RbMn[Fe(CN)6]において、温度誘起相転移現象の反応機構解明,磁気秩序に関する検討,新規な光磁性現象の探索を行った結果を主内容とするもので、全四章より構成される。

第一章は序論であり、分子磁性体,光磁性,温度誘起相転移および光誘起相転移について紹介し、本研究の研究対象物質であるシアノ架橋型金属錯体の特徴と、本研究の意義および目的について述べている。

第二章では、温度誘起相転移現象の反応機構解明と、磁気秩序に関する検討を行っている。温度誘起相転移現象の反応機構解明を目的とした前半部分では、相転移前後の電子状態及び構造を検討し、この相転移では高温相:MnII(d5; S=5/2)-NC-FeIII(d5; S=1/2) から低温相:MnIII(d4; S=2)-NC-FeII(d6; S=0) への電子状態の変化が起こっており、さらに立方晶系から正方晶系への構造相転移も伴うことを明らかとした。この結晶構造の変化は、MnIIIのヤーン・テラー変形(B1g振動モード)に基づくものと結論付け、低温相の電子状態は MnIII(eg2b2g1a1g1; S=2)-NC- FeII(b2g2eg4; S=0), 高温相の電子状態は MnII(t2g3eg2; S=5/2)-NC- FeIII(t2g5; S=1/2)と帰属した。以上のことから、RbMn[Fe(CN)6]における温度誘起相転移現象は、MnIIからFeIIIへの電子移動とMnIIIN6サイトにおけるヤーン・テラー効果によって発現するものと結論付けた。また、転移エンタルピー,転移エントロピーおよび自由エネルギーなどを実験的に見積もり、計算値と比較を行い、熱力学観点から相転移現象の発現機構を考察した。磁気秩序に関する検討を目的とした後半部分では、磁気測定結果より、RbMn[Fe(CN)6]は磁気相転移温度が11.3Kの強磁性体であることを見出した。また、比熱測定の解析結果より、RbMn[Fe(CN)6]は3次元ハイゼンベルグ型強磁性体であると考えた。さらに本系の磁気秩序は、一般的なプルシアンブルー類似体に用いられる超交換相互作用では説明出来ない、シアノ架橋型金属錯体としてはプルシアンブルー( FeIII[FeII(CN)6]0.75・3.5H2O (TC=5.6))に次いで二例目の、混合原子価メカニズムにより強磁性磁気秩序が理解される分子磁性体であると結論付けた。

第三章では、RbMn[Fe(CN)6]系を用いた新規光磁性現象の探索を行っている。その結果、二種類の新規光磁性現象‘ワンショットパルスレーザー光磁化消失現象'と‘時間発展型光磁性'を見出すことに成功した。高密度パルスレーザー光を照射すると、ワンショットで磁化が消失した。この現象の波長依存性を検討した結果、励起光のエネルギーによって磁化消失量が大きく異なり、光励起状態を経由して起こる光誘起構造相転移現象であることが示唆された。また、閾値が存在すること,量子効率が1以上であったことから、この光構造相転移により誘発される光磁化消失は、協同効果が働き、相転移的に発現しているものと考えた。この光磁性現象は、金属間電子移動による磁性イオンの電子状態の変化と、MnIIIのヤーン・テラー歪みによる準安定状態の発現が重要な役割となって達成されていると考えた。また、磁気的には、強磁性体から反強磁性体への転移であることが示唆された。低密度パルスレーザー光多数ショットもしくはCWレーザー光を照射した場合は、一定時間磁化が消失した後、暗所で突然回復するという時間発展型の光磁性現象が発現した。時間発展相の寿命は、照射された光量に依存していた。時間発展相の寿命の温度依存性および光磁化消失量の温度依存性を検討した結果、同じ照射光強度にもかかわらず6.5K以下では時間発展相が発現し、それ以上の温度領域では低温相から高温相への光転移が生じるという時間発展相と光誘起相の特異な関係があることが示唆された。また、初期状態における低温相と高温相の存在比が時間発展相の寿命に及ぼす影響を調べた結果、時間発展相の寿命には低温相と高温相の存在比が影響しており、時間発展相の発現には高温相の存在が必要であることが示唆された。この現象は、系に強い協同効果が働いているために緩和がなだれ的に発生するという、非平衡状態の時間発展的挙動と考えている。このような光磁性現象の報告例は本研究以外にはなく、新規な光磁性現象を観測したと思われる。本研究で見出した光磁性現象は、RbMn[Fe(CN)6]が量子的には電子移動およびヤーン・テラー歪、巨視的には構造相転移および磁気相転移が複合した系であることに起因しているもので、基礎科学的にも興味深い現象を見出すことに成功したと思われる。

第四章は本論文の総括であり、上記の研究成果を要約している。

以上に述べたように、本論文はシアノ架橋型金属錯体RbMn[Fe(CN)6]おいて、温度誘起相転移現象の反応機構と磁気秩序を解明し、多くの興味深い知見を得ている。さらに、‘ワンショットパルスレーザー光磁化消失現象'と‘時間発展型光磁性'の二種類の新規な光磁性現象を発見するなど、材料科学の進展に寄与するところ大である。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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