学位論文要旨



No 119117
著者(漢字) 上杉,龍士
著者(英字)
著者(カナ) ウエスギ,リュウジ
標題(和) 絶滅危惧種アサザの遺伝的多様性
標題(洋)
報告番号 119117
報告番号 甲19117
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2668号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 教授 岸野,洋久
 東京大学 助教授 嶋田,正和
 森林総合研究所 ゲノム解析研究室長 津村,義彦
内容要旨 要旨を表示する

序論

遺伝子の多様性は、種の多様性および生態系の多様性とともに、「生物多様性条約」(リオ・デ・ジャネイロ1992)がその保全と持続的利用を求める生物多様性の主要な構成要素である。種やその個体群内に含まれる遺伝的多様性の保全は、環境変動に対する適応進化を保障し、種の絶滅を防ぐために欠かせない一方で、「生物学的種」の保全という視点からは、種内の遺伝的変異そのものが重要な保全対象となる。したがって遺伝的多様性の保全の具体的な目的は「個体群内部に含まれる遺伝的変異」と「種内の地理的な遺伝的変異」の2つの階層において明確化することが必要である。遺伝的多様性の保全において最も関心が持たれるのは適応形質にかかわる遺伝子であるが、その多様性を直接調べることは困難なことが多い。そのため通常は、解析の容易な分子遺伝マーカーを指標として遺伝的多様性の評価が行われている。

絶滅危惧種においては、すでに多くの地域個体群が絶滅、縮小または孤立しており、それに伴い遺伝的多様性が低下し、絶滅可能性が高まっている。そのような種については、遺伝的多様性の保全にとどまらず、人為的な手段でその回復をはかることが必要な場合もある。個体群外からの個体の導入によって遺伝的多様性の回復が試みられる例もあるが、個体の導入は個体群間の遺伝的変異を喪失させ、異系交配弱勢による適応度の低下を引き起すなど、保全上の問題点も少なくない。

永続的な土壌シードバンクを形成する植物の場合には、それが遺伝的多様性回復の材料として有効であると考えられる。土壌シードバンクには地上個体群から失われた遺伝的変異が含まれている可能性があるからである。しかし、これまで土壌シードバンクによる遺伝的多様性の回復の可能性を探る研究はほとんど報告されていない。

アサザは、かつては日本の湖沼にごく普通に見られた種にもかかわらず、現在では地域個体群の急激な衰退や消滅により絶滅危惧種となっている。本研究では、アサザにおける遺伝的多様性の保全および回復のための具体的方策を明らかにするとともに、植物個体群における遺伝子プールとしての土壌シードバンクの役割を把握するために、遺伝マーカーを用いて日本全国レベルから地域個体群レベル、さらには土壌シードバンク由来の実生の遺伝的多様性を分析した。

分子遺伝マーカーの開発

本章では、アサザの遺伝的多様性の分析に用いるために、変異性と遺伝様式が異なる遺伝マーカーであるアロザイム、葉緑体DNAおよびマイクロサテライトの開発を試みた。葉緑体DNAについては、最も変異性が高いと思われるスペーサー領域においても、日本だけではなくシベリアの試料を含めても地理的な変異がまったくなく、遺伝マーカーとしての利用は難しいことがわかった。それに対してアロザイムとマイクロサテライトについてはある程度の変異が認められた。しかし、マイクロサテライトの方が多型性が高く、本研究におけるクローンの識別、個体群内の遺伝的変異や地理的な遺伝的変異の評価に、より適したマーカーであることがわかった。

全国のアサザ地域個体群と遺伝的多様性の現状

本章では、日本のアサザの地域個体群と遺伝的多様性の現状を広くマイクロサテライトマーカーを用いて調査した。

現在でも残存している67の自生地域個体群を踏査によって確認し、その現状を把握した。また、近年絶滅した地域個体群に由来する株で、自生地外で系統保存されている7つの株についても遺伝解析の対象とした。67の地域個体群のうち、地域個体群内に長花柱型と短花柱型の両花型が存在し、健全な有性生殖の可能性を持つのは、霞ヶ浦の個体群だけであった。マイクロサテライトマーカーによる遺伝解析の結果、地域個体群と系統保存株を合わせて61のクローンを識別できた。なお、地域個体群内に2つ以上のクローンが認められたのは、67の地域個体群のうち、10地域個体群のみであった。61クローンうち、4クローンは異なる水系にわたって存在していた。水系をまたがる自然のクローン分散は考えにくく、人による移植の可能性が示唆された。日本でわずか61クローンという非常に少ないクローンしか残されていない現状では、すべての地域個体群の保全が必要であるといえる。また、生育環境の悪化により地域固有のクローンが消滅する可能性が高い自生地では、栄養体の一部を自生地外の安全な場所で系統保存することも必要である。

マイクロサテライトの遺伝的距離と地理的距離のマンテル検定により、日本のアサザには遺伝子流動による空間的遺伝構造が認められた。さらに、空間的自己相関分析によって、歴史的な遺伝子流動の範囲は20〜30kmであることが示唆された。したがって、同一の流域内であったとしても遺伝的変異を維持するために、20〜30kmを超える移植には慎重であるべきであろう。

霞ヶ浦には今でも18のクローンが残されており、また種子生産に必要な長花柱型と短花柱型の両花型が存在する。したがって、遺伝的多様性および健全な他殖による有性生殖のポテンシャルの両面からみて、霞ヶ浦は、日本におけるアサザの保全において特に重要な意義を持つ自生地であるといえる。

霞ヶ浦のアサザのクローン多様性と遺伝的構造

本章では、霞ヶ浦のアサザについてマイクロサテライトマーカーの遺伝子型のデータをより詳細に解析した。霞ヶ浦のクローン多様性、遺伝的変異の大きさ、地域的な遺伝構造などを明らかにし、霞ヶ浦のアサザの効果的な保全策と再生事業における計画に資するためである。

解析の結果、霞ヶ浦には複数クローンからなる地域個体群と単一クローンからなる地域個体群が残されていることがわかった。その中でも「麻生」は霞ヶ浦の18クローンのうちの10クローンを含む遺伝的多様性の高い地域個体群であることが判明した。また、全国で唯一の複数花型を含む地域個体群であることから、クローン多様性の保全のみならず、健全な有性生殖の保障という点からも最も優先させて保全すべき地域個体群であるといえる。

霞ヶ浦に残存する18クローンはいずれも0より有意に低い近交係数を持っていた。適応的な遺伝子座においてヘテロ接合性が高い個体が選択されることに伴い、連鎖不平衡によってマイクロサテライトマーカーのヘテロ接合性が高まったものと解釈できる。したがって、現存のクローンは、ヘテロ接合度が高いクローンが選択的に生き残ったものとも解釈される。残存するクローンが保持している適応遺伝子を維持することは、再生の取り組みにおいても特に重視しなければならないことといえるだろう。

さらに、マイクロサテライトマーカーによるクローンの識別の結果、現在湖外で系統保存されている株の由来および最低限保全すべき株が明らかになった。また地域個体群「麻生」は占有面積の狭いクローンが多く、環境変動によるクローンの偶発的喪失をさけるために栄養体の一部を採取して新たな系統保存株を確立する必要があることが判明した。

土壌シードバンク由来の実生の遺伝的多様性

本章では、マイクロサテライトマーカーにより、土壌シードバンク由来の実生個体群の遺伝的多様性の大きさとその特性を分析し、土壌シードバンク由来の個体が霞ヶ浦のアサザ個体群の遺伝的多様性の回復に寄与する可能性について検証した。

霞ヶ浦では現在でも、近年消滅した地域個体群の近隣のヨシ原において土壌シードバンク由来と思われるアサザの実生が発生している。また、霞ヶ浦の水辺移行帯の植生を土壌シードバンクから再生するために、湖底の砂を人工的な砂浜に撒きだした植生再生事業地でも実生の発生がみられる。これらのアサザの実生個体群についてマイクロサテライトマーカー10遺伝子座を用いて遺伝解析した。その結果、土壌シードバンクには現存の成熟個体には存在しない8つの対立遺伝子が比較的高い頻度で存在していることが判明した。したがって、土壌シードバンクからの実生の更新は、クローンの多様性を増加させるだけでなく、対立遺伝子の多様性を回復させることにも寄与することが示された。一方で、いくつかの実生個体群の高い近交係数は、自殖のみあるいは部分的に自殖が行われたことによる。これらの実生個体群においては、近交弱勢が実生からの地域個体群再生の障害になる可能性を考えておかなければならない。

総合考察

共優性遺伝をし、多型性が極めて大きいマイクロサテライトマーカーは、クローン多様性、個体群内の遺伝的変異および地理的な遺伝的変異を詳細に評価することができる優れた遺伝マーカーである。本研究ではアサザの他にもガガブタやヒメシロアサザなどの絶滅危惧種を含むアサザ属においてはじめてマイクロサテライトマーカーを開発し、それを用いて日本におけるアサザの遺伝的多様性の保全と再生のための遺伝解析を行った。

アサザは、霞ヶ浦の植生再生事業をはじめ、多くの地域で水辺植生保全の象徴種となっており、遺伝的変異を含めた現状についての情報が強く求められている。本研究により、クローン多様性や歴史的な遺伝子流動の範囲など、保全策の立案に当たって欠かすことのできない情報を得ることができた。

これまで、土壌シードバンクについては、植生再生の材料としての重要性は比較的よく理解されていた。しかし遺伝的多様性の回復における役割については、これまで十分に認識されていたとはいえない。本研究は、マイクロサテライトマーカーによる実生個体群の遺伝解析にもとづき、失われた地域個体群の再生と遺伝的多様性の回復の両方に土壌シードバンクが寄与しうることを明らかにした。また本研究により、一般に植物個体群の遺伝的動態を評価するためには、土壌シードバンクの遺伝的特性の分析が欠かせないことが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

「遺伝子の多様性」は、種の多様性および生態系の多様性とともに生物多様性の主要な構成要素として、その保全に社会的な関心が寄せられている。個体数が著しく減少した絶滅危慎種の個体群における遺伝的多様性の評価は、環境変化に対する適応進化のポテンシャルや有性生殖に必須な交配型の喪失、近交弱勢などを通じた個体群の絶滅可能性を評価し、保全のために優先すべき対策を具体的に明らかにする上で欠かせない。また、遺伝的変異の空間的な構造を地域レベル、全国レベルで把握することは、遺伝子流動パターンにもとづいて、保全・再生の実践に有効な「保全単位」を明確にする上でも重要である。すでに、著しく縮小または孤立した地域個体群においては、それらの情報を基礎として、人為的な手段で個体数や遺伝的多様性の回復をはかることが必要である。その際、地上個体群が失った遺伝子を保持している可能性のある土壌シードバンクの活用に期待が寄せられているが、それを遺伝的解析によって検討した研究例は、これまでには報告されていない。

申請者は、水辺の環境保全のシンボルともなっている絶滅危倶種の浮葉植物アサザを研究対象とし、多数のマイクロサテライトを自ら開発し、それらを用いて全国レベルおよび地域レベルでの遺伝的多様性とその空間構造を研究した。さらに、本種の保全においてきわめて重要な意義をもつ霞ヶ浦において、土壌シードバンク由来の実生の遺伝分析を行い、土壌シードバンクの遺伝的な多様性を評価した。

開発したマイクロサテライトマーカーは、十分な多型性をもち、クコーンを識別した上で個体群内の遺伝的変異と地理的な遺伝的変異を評価する上で有効であった。申請者は、全国に残存する67の地域個体群のすべてを踏査し、その現状を詳細に調査するとともに葉を採集してマイクロサテライトマーカを用いて遺伝解析を行った。その結果、残されたクローンは全国で61クローンのみであり、個体群の多くは単一のクローンのみで構成され、唯一霞ヶ浦において、地域個体群内に長花柱型と短花柱型の両花型をもち健全な有性生殖のポテンシャルを残している地域個体群が認められた。

さらに、遺伝的距離と地理的距離のマンテル検定によって遺伝構造を把握し、20-30kmのスケール、すなわち、ほぼ同一水系に相当する空間的スケールが、アサザの「保全単位」として妥当であることを明らかにした。

霞ヶ浦の個体群については、より詳細な検討を行ったが、残存する18クローンはいずれも0より有意に低い近交係数を示すことが判明した。これは、適応的な遺伝子座においてヘテロ接合性が高い個体が選択されることに伴い連鎖不平衡を介してマイクロサテライトマーカーのヘテロ接合性が高まったものと解釈され、ホモ接合度の高いクローンが選択的に駆逐されたこと、すなわち、この種が多くの有害遺伝子を蓄積していることを示唆するものである。これらの研究を通じて、有性生殖のポテンシャルを残している唯一の地域個体群での健全な有性生殖を保障することは、アサザの種を存続させる上できわめて重要な意味をもつこと、保全・再生においては、近交弱勢に対する十分な配慮が必要なことを明らかにした。

さらに、近年消滅した地域個体群の近隣のヨシ原に発生する土壌シードバンク由来の実生および、湖底の砂を撒きだした植生再生事業地に発生する実生個体群の遺伝解析により、土壌シードバンクには現存の成熟個体にはみられない8つの対立遺伝子が含まれていることを明らかにし、これらの実生の更新は、クローンの多様性を増加させ、対立遺伝子の多様性の回復にも寄与することを示した。実生個体群の多くは高い近交係数を示し、これら実生の一部が自殖由来であること、近交弱勢に十分配慮した保全策が必要であることも明らかにした。

申請者の研究により、霞ヶ浦をはじめとする全国の自生地におけるアサザの個体群の現状、クローン多様性、および遺伝構造が明らかにされ、本種の効果的な保全・再生事業における計画策定に資する情報が得られた。また、本研究は、実生個体群の遺伝解析にもとづき、失われた地域個体群の再生と遺伝的多様性の回復の両方に土壌シードバンクが寄与しうることを明らかにした世界的にみても先駆的な研究である。したがって、本研究は、学術面でも応用面でも十分な成果をあげたといえる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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