学位論文要旨



No 119120
著者(漢字) 辻,寛之
著者(英字)
著者(カナ) ツジ,ヒロユキ
標題(和) 冠水条件下におけるイネの遺伝子発現調節
標題(洋)
報告番号 119120
報告番号 甲19120
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2671号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堤,伸浩
 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 大杉,立
 東京大学 助教授 中園,幹生
 アジア生物資源環境研究センター 助教授 高野,哲夫
内容要旨 要旨を表示する

イネは冠水状態にさらされると、多数の遺伝子の発現を変化させることによって様々な適応反応を誘導する。しかし、この遺伝子発現の変化がどのような機構によって調節されているのかについては不明な部分が多い。本研究では、冠水条件下におけるイネの遺伝子発現調節について明らかにするために、アルデヒド脱水素酵素の冠水解除時の活性化、カルシウムイオンによるシグナル伝達、ヌクレオソームヒストンのアセチル化に着目して解析した。

冠水中および冠水解除時におけるイネミトコンドリア型アルデヒド脱水素酵素 (ALDH2) 遺伝子の発現調節

冠水状態では、酸素呼吸によるATP合成の低下を補償するために解糖系とエタノール発酵系が活性化される。エタノール発酵系では、解糖系で生じたピルビン酸がピルビン酸脱炭酸酵素(PDC)によってアセトアルデヒドに変換され、さらにアセトアルデヒドはアルコール脱水素酵素(ADH)のはたらきでエタノールに代謝される。解糖系とエタノール発酵系の活性化は冠水状態を生き抜くために必須であるが、ATP合成効率が低いことが大きな問題となる。

植物は冠水中だけでなく冠水状態から解除されたあとも大きなダメージを受ける。このダメージの原因は、一つは冠水解除時に急激に生じる活性酸素であり、もう一つは冠水中に蓄積したエタノールが酸化されて生じるアセトアルデヒドである。活性酸素消去系については様々な研究が行われているが、アセトアルデヒドの無毒化に関する報告は少ない。植物においてミトコンドリア型アルデヒド脱水素酵素(ALDH2)はアセトアルデヒドを無毒化できる酵素のひとつであることが知られているので、本研究ではイネALDH2遺伝子の構造を明らかにし、その発現調節や冠水解除時の生理的役割について調査した。イネALDH2遺伝子にはALDH2a、ALDH2bの2つが存在しており、両者の発現を詳細に解析した。その結果、ALDH2aのmRNAは冠水中急激に増加するにも関わらずALDH2aタンパク質はそれほど増加しないことが分かった。そして冠水を解除した直後、ALDH2aのmRNAが減少していくにも関わらずALDH2aタンパク質が一過的に増加することが明らかになった。これはイネが冠水中にALDH2aのmRNAを増加させてプールしておき、冠水解除後これを急激に翻訳することでALDH2aタンパク質を増加させていることを示唆している。このことを反映して、イネは冠水解除時にALDH活性が増加し、アセトアルデヒド量が減少していることが分かった。冠水に弱い作物であるオオムギやタバコでは、冠水中にALDH2aのmRNAが増加するという性質は見られない。したがって、ALDH2aのmRNAが冠水中に増加するという性質は、イネが進化の過程で冠水に適応するために獲得したものである可能性が考えられた。

冠水条件下のイネにおけるカルシウムイオンを介した遺伝子発現調節

トウモロコシ、アラビドプシスでは、低酸素状態になると細胞質カルシウムイオン濃度が上昇し、このカルシウムイオン濃度上昇がADH1 mRNAの冠水誘導性に必要であることが知られている。そこでALDH2a mRNAの冠水誘導性にカルシウムイオンが関与しているかどうかを解析した。その結果、すべての植物に共通なADH1、PDC1 mRNAの冠水誘導性はカルシウムイオンを介したシグナル伝達経路で調節されていたのに対して、イネに特有のALDH2a mRNAの冠水誘導性はカルシウムイオンを介さない経路で調節されていることが分かった。

これらの冠水で活性化する代謝経路の遺伝子と比較するため、冠水状態で機能が低下する酸素呼吸に関わる遺伝子の発現も同時に解析した。冠水状態で呼吸系遺伝子を発現し続けることはエネルギーの損失になるが、この損失を減少させるような調節があるのかどうか分かっていない。呼吸系遺伝子の一部はミトコンドリアゲノムに、残りは核ゲノムにコードされており、冠水処理によって、ミトコンドリアゲノムコードの呼吸系遺伝子群のmRNA量は影響されなかったが、核ゲノムコードの呼吸系遺伝子群のmRNA量は減少することが分かった。さらに、主要なATP合成を行うシトクロム呼吸系の遺伝子群の発現はカルシウムイオンに依存しない経路で調節されていたのに対し、ストレス応答に関わるオルタナティブ呼吸系遺伝子の発現はカルシウムイオンに依存した経路で調節されていることが明らかになった。

冠水条件下のイネにおけるヌクレオソームヒストンのアセチル化を介した遺伝子発現調節

真核生物のゲノムDNAは、核内においてクロマチンと呼ばれる高次構造へと折りたたまれて格納されている。クロマチンの基本単位はヌクレオソームと呼ばれており、約150bpのDNAがヒストンに巻きついた構造をとっている。ヌクレオソームヒストンがアセチル化、メチル化などで修飾されると、その修飾を認識する分子によって解読され、遺伝子発現の変化が引き起こされる。もっとも有名なヒストン修飾はアセチル化で、一般的に活発に転写が行われている領域ではヒストンがアセチル化されており、逆に転写が抑制されている領域ではヒストンが脱アセチル化されていると考えられている。しかしこれらの知見は、定常状態の細胞における遺伝子発現領域を規定するものである。植物において、環境ストレスに応答してヒストン修飾が変化するかどうかはまったく分かっていない。そこでイネを冠水処理し、ADH1およびPDC1それぞれの領域におけるヌクレオソームヒストンのアセチル化状態をクロマチン免疫沈降法によって解析した。その結果、冠水処理によってADH1、PDC1のmRNAが増加する際、これらの遺伝子を含む領域のヌクレオソームヒストンが高アセチル化されていることが分かった。

ヒストンのアセチル化状態は、アセチル化を促進するヒストンアセチル基転移酵素(HAT)と脱アセチル化を行うヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)の活性のバランスによって決定されており、例えばHDAC阻害剤はヒストンのアセチル化を促進することが知られている。イネにHDAC阻害剤を処理したところ、好気状態であるにも関わらずADH1、PDC1のmRNAが増加することが明らかとなった。したがって、好気状態におけるADH1、PDC1の発現はTSA感受性のHDACによって抑制されている可能性が示唆された。この可能性を検証するために、イネHDAC遺伝子の構造を決定しその発現の冠水応答性を調べた。イネゲノム中には少なくとも19個のHDAC遺伝子が存在しており、これらすべてについて冠水中の発現を解析したところ、3遺伝子を除いてすべて冠水処理によって抑制されることが明らかとなった。

これらの結果から、好気状態では、TSA感受性のHDACがHAT活性を上回ってADH1周辺のヌクレオソームヒストンを脱アセチル化し、ADH1の発現が抑制されていると考えられる。冠水状態では、HAT活性がHDAC活性を上回ってADH1周辺のヌクレオソームヒストンがアセチル化され、ADH1の発現が活性化したというモデルが考えられる。

以上、本研究により、冠水状態および冠水解除時のイネにおいて、シグナル伝達、転写、翻訳といった様々なステップにおける遺伝子の発現調節の一端が明らかとなった。イネの冠水ストレス応答は多段階において複雑に制御されており、今後その全体像が明らかにされれば、将来的に湿害、冠水害に対する耐性を増強した作物を作出することに寄与できると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

イネは冠水状態にさらされると,多数の遺伝子の発現を変化させることによって様々な適応反応を誘導する.しかし,この遺伝子発現の変化がどのような機構によって調節されているのかについては不明な部分が多かった.本研究では,冠水条件下におけるイネの遺伝子発現調節について明らかにするために,アルデヒド脱水素酵素の冠水解除時の活性化,カルシウムイオンによるシグナル伝達,ヌクレオソームヒストンのアセチル化に着目して解析した.

本論文は5章から構成されている.第1章では,現在問題となっている冠水による作物の被害を概説するとともに,冠水・低酸素に対する植物の適応と遺伝子発現調節についてこれまでに報告された知見をまとめている.

第2章では,冠水中および冠水解除時におけるイネミトコンドリア型アルデヒド脱水素酵素 (ALDH2) 遺伝子の発現調節について検討した.植物は冠水中だけでなく冠水状態から解除されたあとも大きなダメージを受ける.このダメージの原因は,一つは冠水解除時に急激に生じる活性酸素であり,もう一つは冠水中に蓄積したエタノールが酸化されて生じるアセトアルデヒドである.植物においてミトコンドリア型アルデヒド脱水素酵素(ALDH2)はアセトアルデヒドを無毒化できる酵素のひとつであることが知られているので,本研究ではイネALDH2遺伝子の構造を明らかにし,その発現調節や冠水解除時の生理的役割について調査した.イネALDH2遺伝子にはALDH2a,ALDH2bの2つが存在しており,両者の発現を詳細に解析した結果,ALDH2aのmRNAは冠水中急激に増加するにも関わらずALDH2aタンパク質はそれほど増加しないことが分かった.そして冠水を解除した直後,ALDH2aのmRNAが減少していくにも関わらずALDH2aタンパク質が一過的に増加することが明らかになった.これはイネが冠水中にALDH2aのmRNAを増加させてプールしておき,冠水解除後これを急激に翻訳することでALDH2aタンパク質を増加させていることを示唆している.このことを反映して,イネは冠水解除時にALDH活性が増加し,アセトアルデヒド量が減少していることが分かった.冠水に弱い作物であるオオムギやタバコでは,冠水中にALDH2aのmRNAが増加するという性質は見られない.したがって,ALDH2aのmRNAが冠水中に増加するという性質は,イネが進化の過程で冠水に適応するために獲得したものである可能性が考えられた.

第3章では,冠水条件下のイネにおけるカルシウムイオンを介した遺伝子発現調節について解析した.トウモロコシ,シロイヌナズナでは,低酸素により細胞質カルシウムイオン濃度が上昇し,これがADH1 mRNAの冠水誘導性に必要であることが知られている.そこでALDH2a mRNAの冠水誘導性にカルシウムイオンが関与しているかどうかを解析した.その結果,すべての植物に共通なADH1,PDC1 mRNAの冠水誘導性はカルシウムイオンを介したシグナル伝達経路で調節されていたのに対して,イネに特有のALDH2a mRNAの冠水誘導性はカルシウムイオンを介さない経路で調節されていることが分かった.

これらの冠水で活性化する代謝経路の遺伝子と比較するため,冠水状態で機能が低下する酸素呼吸に関わる遺伝子の発現も同時に解析した.主要なATP合成を行うシトクロム呼吸系の遺伝子群の発現はカルシウムイオンに依存しない経路で調節されていたのに対し,ストレス応答に関わるオルタナティブ呼吸系遺伝子の発現はカルシウムイオンに依存した経路で調節されていることが明らかになった.

第4章では冠水条件下のイネにおけるヌクレオソームヒストンの修飾による遺伝子発現調節を解析した.イネを冠水処理し,ADH1およびPDC1それぞれの領域におけるヌクレオソームヒストンのアセチル化状態をクロマチン免疫沈降法によって解析した.その結果,冠水処理によってADH1,PDC1のmRNAが増加する際,これらの遺伝子を含む領域のヌクレオソームヒストンが高アセチル化されていることが分かった.

ヒストンのアセチル化状態は,アセチル化を促進するヒストンアセチル基転移酵素(HAT)と脱アセチル化を行うヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)の活性のバランスによって決定されており,例えばHDAC阻害剤はヒストンのアセチル化を促進することが知られている.イネにHDAC阻害剤を処理したところ,好気状態であるにも関わらずADH1,PDC1のmRNAが増加することが明らかとなった.したがって,好気状態におけるADH1,PDC1の発現はTSA感受性のHDACによって抑制されている可能性が示唆された.この可能性を検証するために,イネHDAC遺伝子の構造を決定しその発現の冠水応答性を調べた.イネゲノム中には少なくとも19個のHDAC遺伝子が存在しており,これらすべてについて冠水中の発現を解析したところ,3遺伝子を除いてすべて冠水処理によって抑制されることが明らかとなった.

これらの結果から,好気状態では,TSA感受性のHDACがHAT活性を上回ってADH1周辺のヌクレオソームヒストンを脱アセチル化し,ADH1の発現が抑制されていると考えられる.冠水状態では,HAT活性がHDAC活性を上回ってADH1周辺のヌクレオソームヒストンがアセチル化され,ADH1の発現が活性化したというモデルが考えられた.

 第5章では,本研究で明らかとなった多段階による発現調節(転写段階の調節,翻訳段階の調節,カルシウムイオンによる調節,クロマチン構造変換による調節)を検証し,冠水条件下におけるイネ遺伝子発現調節の全体像について総合的に論じている.

以上本研究では,冠水状態および冠水解除時のイネにおいて,シグナル伝達,転写,翻訳といった様々な段階で遺伝子の発現調節がなされている事を明らかにした.また,冠水時における遺伝子発現の大規模な変化が,ヒストンのアセチル化あるいは脱アセチル化といったより高次の転写調節によってなされている可能性を示唆した.これらの知見は,植物の冠水・低酸素応答システムについての基礎的知見を与えるとともに,冠水害耐性作物を作出する基礎となるものであり,学術上また応用上極めて価値あるものである.したがって,審査委員一同は本論文が博士(農学)に値するものと認めた.

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