学位論文要旨



No 119129
著者(漢字) 新井,郷子
著者(英字)
著者(カナ) アライ,サトコ
標題(和) マウスにおける遺伝子操作を用いた血球分化の制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 119129
報告番号 甲19129
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2680号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 八村,敏志
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 助教授 加藤,久典
 東京大学 助教授 反町,洋之
内容要旨 要旨を表示する

赤血球、顆粒球、マクロファージ、T細胞、B細胞など、すべての血球細胞は共通の造血幹細胞に由来する。未成熟な造血幹細胞が各段階の血球前駆細胞を経て、様々な系統の成熟血球細胞へと分化する過程が血球分化・造血 (Hematopoiesis) であり、胎生期では肝臓で、成体では骨髄で行われる。T細胞だけが前駆細胞の段階で胸腺に移行し、そこでさらに正、負どちらかの選択を受けて、多様なT細胞受容体 (T cell receptor: TCR) を持った成熟T細胞に分化する。造血幹細胞から各系統の成熟血球細胞に至るまでの分化の流れは、現時点では図1のようであることが判明している。

ひとつの造血幹細胞が各分化段階を経て、各々の系統の血球へと分化していく過程には、転写調節因子などの様々な遺伝子の発現が関与しており、それらが各分化段階・血球系統において特異的に発現することにより、全血球細胞の機能や規模の恒常性が保たれている。

一方、胸腺におけるT細胞の分化はそういった遺伝子発現による制御だけでは説明できない。T細胞におけるTCRは実に多様であるが、それは、あらかじめ再編成された個々のTCR遺伝子が個々の胸腺細胞で発現しているなかで、適当なTCRを発現したものだけが、そこからのシグナルによって増殖が可能となり、生き残ることができるという「選択」機構によるものであり、血球分化の末梢に位置する、より高等な分化機構であると言える。

本研究では、様々な遺伝子の発現によって緻密に制御された血球前駆細胞の分化と、T細胞のように外部からの刺激により生死の選択が行われるという二つの全く異なる血球分化の機構に興味を抱き、それぞれについて、マウスにおける遺伝子操作を用いて解析した。前者では、血球前駆細胞の様々な成熟段階において分化を特異的に制御する遺伝子を探索し、新しい遺伝子MBT-1を同定した。さらにその遺伝子のノックアウトマウスを用いて解析し、新しい血球分化の機構を示した。後者は、胸腺におけるT細胞の選択に関与するαβTCRとpre-TCRの機能的類似性の有無を、トランスジェニックマウスの系を用いて証明した。

血球前駆細胞の分化を制御する新しいPolycomb遺伝子MBT-1に関する研究

血球分化の過程では、血球前駆細胞の「増殖」、そしてある分化段階から次の段階への「分化」の繰り返しにより、最終的に成熟した血球細胞へと分化する。この「分化能」が特異的に障害されると、未成熟な血球前駆細胞がある分化段階で異常に増殖し、急性白血病の原因となる。本研究では、血球分化を制御する遺伝子群の中には、様々な分化段階でその「分化」を特異的に制御する機構が存在するのではないかと考え、新しい遺伝子MBT-1に着目した。MBT-1は、白血病細胞株において化学的に分化を誘導した際に一過性に発現が上がるPolycomb遺伝子として同定した。Polycombグループ (Polycomb group: PcG) タンパク質とは、その複合体がDNAに結合することでリプレッサーとして遺伝子の発現制御に関与している核タンパク質の一群であり、血球分化の制御にも深く関与しているという報告がなされている。また、MBT-1のヒトにおける染色体遺伝子座は、白血病患者で欠損・変異の多く見られる6q23(第6染色体長腕)に位置していることからも、血球前駆細胞の分化の制御に大きく関与する遺伝子であることが予想された。

本研究ではMBT-1の生理機能を解析するためにMBT-1ノックアウト (MBT-1-/-) マウスを作製した。MBT-1-/-マウスの造血系では、ミエロイド系共通前駆細胞(Common myeloid progenitor: CMP、図1参照)の分化能が障害されており、結果として、MBT-1-/-マウスの胎仔の造血系では未熟な段階の血球前駆細胞が蓄積するが、一方、顆粒球やマクロファージ、赤血球などの成熟した血球が減少し、MBT-1-/-マウスは胎生後期に貧血による致死となった。

この分化障害が前駆細胞自身の異常なのか、造血系の外部環境によるものなのかを確かめるために、MBT-1-/-マウスと正常マウスの胎生期肝臓細胞からそれぞれCMPを単離してin vitroで培養し、分化にともなう細胞表面分子の発現を観察したところ、MBT-1-/-マウスの前駆細胞では、正常細胞と比較して分化の遅れが見られた。しかしながら、細胞周期のDNA合成期に取り込まれるBrdUの量は両者に違いは見られなかったことから、MBT-1の欠損により、血球前駆細胞自身の分化能が特異的に障害されるが、増殖能(細胞分裂能)は正常のまま保たれることが示された。

さらに、HSC (Hematopoietic stem cell) は自己複製能力を持つ最も未熟な造血細胞であり、ゆっくりと細胞分裂し、長期的な造血幹細胞として存在するLT-HSC (Long-term HSC) と比較的速く細胞分裂して次の段階へと分化するST-HSC (Short-term HSC) に分類されるが、MBT-1-/-マウスでは、LT-HSCからST-HSCへの分化も障害され、結果として下流の前駆細胞の減少、およびLT-HSCの蓄積が見られた。このように、MBT-1は、幹細胞、前駆細胞の様々な成熟段階でその分化を制御していると考えられる。

それでは、MBT-1はどのように血球前駆細胞の分化を制御しているのだろうか。血球前駆細胞がある分化段階で増殖しながら、次の段階へ分化・移行する際には、細胞周期の一時的な停止が必要であると考えられる。MBT-1 が血球前駆細胞の分化を制御する機構として細胞周期に関連する因子の関与を調べるために、MBT-1-/-マウスと正常マウスの胎生期肝臓細胞の遺伝子発現をマイクロアレイを用いて比較したところ、MBT-1-/-マウスの血球前駆細胞において、細胞周期の停止を制御するサイクリン依存キナーゼ阻害因子のひとつである、p57KIP2の発現が減少していた。そこで、MBT-1-/-マウスの血球前駆細胞を単離し、アデノウィルスベクターを用いてp57KIP2を過剰発現させ、in vitroで培養したところ、CMPの分化の遅れが改善された。

以上のことから、MBT-1は、血球前駆細胞の様々な分化段階において一過性に発現することにより、その下流に位置すると考えられるp57KIP2の発現を一時的に上昇させて、細胞周期を一時的に停止させ、ある分化段階から次の段階への分化を誘導する役割をもつことが示唆された。血球分化の過程において、様々な分化段階の前駆細胞で分化を特異的に制御する遺伝子は今までに報告がなく、本研究において新しい血球分化の制御機構が示された。

preTCRによるCD8+T細胞のポジティブセレクション

胸腺における未熟T細胞(胸腺細胞)の分化の過程は、細胞表面の変化により、CD4-CD8-ダブルネガティブ (double negative: DN) からimmature CD8+ (ISP: immature single positive) を経てCD4+CD8+ダブルポジティブ (double positive: DP) へ移行する。この間に二段階のセレクションが行われる。

TCRはα鎖とβ鎖のヘテロ二量体からなるが、DNからDPへの移行にともない、まずTCRβ鎖の再編成が行われ、単一のpre-TCRα (pTα) 鎖とともにpre-TCRを形成する。pre-TCRからシグナルが入ると、増殖とさらなるTCRβ鎖の再編成の停止が起こり、CD4、CD8が細胞表面に発現される。これをβ-セレクションという。pTα鎖の発現が上昇するとTCRα鎖の再編成が起こり、αβTCRが形成される。自己の主要組織適合遺伝子複合体 (Major histocompatibility complex: MHC) に提示された抗原ペプチドと中程度の親和性をもつTCRを有したDP胸腺細胞は成熟してCD4+シングルポジティブ (single positive: SP)、もしくはCD8+SP細胞へと分化する。この過程をポジティブセレクションという。一方、強すぎる親和性をもつTCRを有したDP胸腺細胞(自己反応性T細胞など)は、アポトーシスによって死滅する。この過程をネガティブセレクションという。残りの大部分のDP胸腺細胞は十分な親和性をもたず、ポジティブセレクションもネガティブセレクションも受け得ず、死滅する。これら二段階のセレクション(β-セレクション、ポジティブ/ネガティブセレクション)を経て、末梢におけるT細胞のレパートリーは形成される。

pre-TCRとαβTCRは構造や用いるシグナル伝達分子が類似していることから、機能的に共有している部分があるかもしれないという推測はなされていたものの、その証明は困難であった。本研究では、TCRα鎖ノックアウトマウスの胸腺にpTαを過剰発現させたpTαトランスジェニック/TCRαノックアウトマウスを作製し、αβTCR非存在下で、CD4+CD8+DP胸腺細胞上にpre-TCRが強く発現する系を構築し、そのマウスでpre-TCRによるポジティブセレクションが起こるかどうかを観察した。その結果、このマウスの末梢には成熟CD8+T細胞が多数存在し、pre-TCRはCD8+T細胞のポジティブセレクションに関しては極めて効率良く誘導できること、すなわち、pre-TCRとαβTCRは部分的に同じ機能を共有していることを証明した。

DP胸腺細胞がポジティブセレクションされる際に、CD4、CD8のいずれかの系統に決定される機構 (lineage commitment) には、TCRからの刺激の強さや質を論じた複数の説があるが未だに解明されていない。本研究において、pre-TCRからの刺激によってCD8+T細胞のみがポジティブセレクションされたことは、lineage commitmentの機構の解明に大きな手懸かりとなるものと考えられる。

血球分化の流れHSC : hematopoietic stem cell, 造血幹細胞 CLP : common lymphoid progenitor, 共通リンパ球系前駆細胞 CMP : common myeloid progenitor, 共通ミエロイド系前駆細胞 GMP : granulocyte/macrophage progenitor, 顆粒球/マクロファージ系前駆細胞 MEP : megakaryocyte/erythrocyte progenitor, 巨核球/赤血球系前駆細胞

審査要旨 要旨を表示する

未成熟な造血幹細胞が各段階の血球前駆細胞を経て、様々な系統の成熟血球細胞へと分化する過程は血球分化・造血とよばれ、胎生期では肝臓で、成体では骨髄で行われる。T細胞だけが前駆細胞の段階で胸腺に移行し、そこで成熟T細胞に分化する。本論文は、血球分化を制御する様々な因子のうち、血球前駆細胞における遺伝子発現の制御と、T細胞にのみ存在するセレクションと呼ばれる分化機構に注目し、それぞれについて解析を行ったものである。

緒言において、本研究の背景と意義について概説した後、第一章では、血球前駆細胞の分化を制御する新しいPolycomb group遺伝子MBT-1の機能解析を行った。まず第一節で、血球前駆細胞の分化を制御する遺伝子を単離することを目的とし、マイクロアレイ解析によって白血病細胞株において分化を誘導した際に一過性に発現が上がる遺伝子を探索し、その中から急性白血病で頻繁に欠失・変異のみられる染色体遺伝子座に位置する遺伝子としてMBT-1を同定した。第二節では、MBT-1の生理機能を解析するためにMBT-1ノックアウト (MBT-1-/-) マウスを作製した。MBT-1-/-マウスの造血系では、ミエロイド系前駆細胞や、造血幹細胞の分化が特異的に障害されていため、肝臓で造血が始まる時期である胎生期12日目では、最も未熟な幹細胞の分化障害の影響でその下流の前駆細胞の数が激減していた。しかし各前駆細胞における分化障害のために、次第に前駆細胞が蓄積し、胎生後期には未熟な前駆細胞の蓄積およびミエロイド系・赤血球系成熟血球細胞の減少が観察された。特に、成熟赤血球の分化障害のために、MBT-1-/-マウスは胎生後期に貧血のために致死となった。また、in vitro培養下においても、MBT-1-/-細胞の分化障害が観察されたことから、この分化障害が造血の外部環境の障害ではなく細胞自身の障害であることが示された。さらに、各血球前駆細胞におけるBrdUの取り込み率が、MBT-1-/-細胞で低下しなかったことや、細胞の蓄積が見られることから、MBT-1の欠損は細胞の増殖には影響を与えず、分化のみに障害をもたらしていると考えられた。第三節では、MBT-1が血球前駆細胞の分化を制御するメカニズムを探索するために、MBT-1-/-とMBT-1+/+マウスの胎生期肝臓細胞をマイクロアレイ解析で比較したところ、MBT-1-/-細胞においてサイクリン依存キナーゼ阻害因子であるp57KIP2の発現が減少していた。そのことから、MBT-1は、血球前駆細胞一過的に発現することにより、p57KIP2の発現を上昇させて細胞周期を一時的に停止させることで、分化を誘導している可能性が考えられた。第4節では、MBT-1の機能から推測される、MBT-1における異常と急性白血病の関連性について考察している。血球前駆細胞の様々な分化段階で分化を特異的に制御する分子は今までに報告がなく、本研究において新しい血球分化の制御機構が示された。

第二章では、T細胞にのみ存在するセレクションと呼ばれる分化機構に関し、pre-TCRからのシグナルによってポジティブセレクションが起こるかどうかについて様々なトランスジェニックマウスを用いて解析した。胸腺におけるT細胞の分化の過程には2つチェックポイントが存在し、1つ目のβ-セレクションでは、機能的なTCRβ鎖を発現した胸腺細胞はTCRβ鎖とpTα鎖から成るpre-TCRを形成することで、そこからのシグナルにより増殖が可能になる。2つ目のポジティブセレクションでは適切なTCRαβを発現した胸腺細胞のみ選択されて生き残り、成熟することができる。pre-TCRとTCRαβは構造的に類似しており、多くの共通したシグナル伝達が行われていることから、機能的に共有している部分があるという推測はなされていたが、その証明は困難であった。本章では、TCRαβの非存在下で胸腺細胞にpre-TCRを高発現させたトランスジェニックマウス(pTα-TG/TCRα-/-マウス)やpre-TCRからのシグナルを増強させたマウス(Egr-TG/TCRα-/-マウス)など、様々なマウスを作製し、pre-TCRからのシグナルで、CD8+T細胞のポジティブセレクションが誘導できることを示し、pre-TCRとTCRαβは部分的に同じ機能を共有していることを証明した。また、この結果から、TCRからのシグナルの強さがCD4/CD8 分化経路の決定に関与していることが示唆された。

以上、本論文は、血球分化の制御機構について新しい知見を得たもので、白血病の発症機構の解明等に役立つと考えられ、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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