学位論文要旨



No 119139
著者(漢字) 寺川,貴裕
著者(英字)
著者(カナ) テラカワ,タカヒロ
標題(和) 気管支肺胞洗浄液中タンパク質のプロテオーム解析
標題(洋)
報告番号 119139
報告番号 甲19139
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2690号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大久保,明
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 助教授 滝澤,始
 東京大学 講師 安保,充
内容要旨 要旨を表示する

緒言

プロテオーム解析は、特定の細胞・組織・器官のある時点に存在するタンパク質の全体を網羅的に解析し、別の時点での全体像と比較することでその違いを観察するという手法で、このところ急速に普及した背景には、近年のクロマトグラフィー、質量分析計、蛍光イメージャーを代表とする分析化学技術の進歩と、大量に得られた分析結果の処理を可能にしたハード・ソフトウェア両面でのコンピュータ技術の進歩がある。本研究では、プロテオーム解析技術の生命科学分野への応用を図り、病因・病態の解明、疾病の診断に有用な解析方法の構築を目的とした。今回解析対象としたヒト気管支肺胞洗浄液(BALF)は、肺に挿入した気管支ファイバースコープを通じて生理食塩水を肺内部に注入し、洗浄後回収したものである。これまではその細胞成分のみが解析の対象とされており、タンパク質成分については組成が複雑で分離精製が難しいため解析した報告は少ない。加えて、このような難易度のきわめて高い試料である気管支肺胞洗浄液のプロテオーム解析に取り組むことを通じて、他の動植物の組織、細胞、体液のプロテオーム解析にも応用可能である手法の提示を目指した。

BALFプロテオーム解析のための最適泳動法の確立

BALF中には生理食塩水由来の塩、リン脂質、および末梢気道に存在する細胞が混在しているため、そのまま濃縮して泳動した場合2次元電気泳動像は1次元目の分離が不十分で、スポット分離がまったく行われなかった。この問題を解決するため、初めにBALFの脱塩と解析対象であるタンパク質のみに精製することを目的とした前処理法の検討を行った。次に抽出したタンパク質を等電点分離するのに最適な泳動バッファーの選択を行った。

BALFの脱塩とタンパク質精製濃縮の方法は、大気圧下での限外ろ過を行った。さらに脱塩濃縮に加え、脂質除去を目的として、アセトン、メタノール、エタノール、プロパノール、ブタノールを単独、またはトリクロロ酢酸、2-メルカプトエタノール、リン酸トリブチルと組み合わせたタンパク質沈殿法を行った。これらすべての方法を比較した結果、限外ろ過膜による脱塩濃縮した試料の泳動像では、低分子領域のスポットが消失していた。一方アルコール単独で処理した試料の泳動像はスポット分離能が低下する傾向が見られた。これらのうちでは、アセトンのみ、ないしはアセトンとリン酸トリブチル、アルコールの混合溶媒によってBALFのタンパク質を沈殿させたものの2 次元電気泳動像のスポット分離が良好であった。また、アセトン沈殿による試料を、2種類の等電点電気泳動用のバッファーで泳動して比較した結果、変性剤として尿素のみを含む泳動バッファーよりも、尿素とチオ尿素を含む泳動バッファーがスポット分離能が高かった。

その理由として、尿素とチオ尿素を組み合わせた場合、タンパク変性作用が尿素のみの時より強いためと考えられた。これらの最適条件を組み合わせることで、BALFタンパク質を二次元電気泳動し、500以上のスポットを分離することができた。これにより2次元電気泳動を用いたBALFタンパク質のプロテオーム解析が可能となった。

同一人由来の血漿とBALFの2次元電気泳動像の比較

次にBALFタンパク質のうち肺に固有なものの割合を調べるために、同一人の血漿とBALFの2次元電気泳動像での相同性比較を行った。健常者5例のBALFと血漿をpI3-10の範囲でそれぞれ同時に同じ条件で2 次元電気泳動した。得られた泳動像を2次元電気泳動画像解析専用ソフトウェアPD-QUESTによって解析した結果、同一人のBALFと血漿の2次元電気泳動像のマッチ率は最大でも49 %で、同一人でも両者を構成するタンパク質の組成が異なっていることが明らかとなった。

以上の検討から、BALFタンパク質を2次元電気泳動で分離したスポットのパターンは血漿とは異なるものであることを確認した。

BALF 2次元電気泳動像の個体差比較

次にBALF 2次元泳動像の個体差を比較するために、健常者5例の2次元電気泳動像の相同性比較を行った。pI3-10の範囲を精密に解析することを目的として、pI3-6,5-8,7-10の3つの範囲に分けて5例のBALFを同時に泳動して比較した。

その結果、BALFタンパク質の2次元電気泳動スポットはpI5-8の範囲に特に集中していることが明らかとなった。さらに、どのpI範囲においても、5名の健常者BALF 2次元電気泳動像の互いのコンピュータ解析によるスポットマッチング率は低く、BALF構成タンパク質の組成にはかなりの差が認められた。マッチング率が低い原因としては、5例のBALFタンパク質組成の違い以外に、2次元電気泳動の再現性と染色効率に起因する誤差の問題が考えられた。そこで、試料を2等分して同じ条件で同時に泳動、染色した2次元電気泳動画像を解析した結果、完全にはスポットが一致しなかった。しかしながら、この泳動そのものの誤差を考慮しても、5例の健常者BALFの泳動像には差が見られると判断した。これらのことから、BALFを構成するタンパク質は健常者の間で個体差が認められると結論した。

健常ならびにDIP疾患 BALFの2次元電気泳動による比較

前項までで、2次元電気泳動の高分離能の確立と、実用上の再現の信頼性が確立されたので、この剥離性間質性肺炎 (Desquamative Interstitial Pneumonia;DIP) 患者BALFと健常者BALFのタンパク組成の相違を解析した。これまでの解析結果より、健常者BALFには個体差が見られた。患者BALFと比較するためには、健常者BALFを規格化する必要がある。そこで、健常者27 名のBALFを等量プールし混合したものを標準健常者BALFとした。

患者BALFとしては、5例のDIP 患者BALFを個別またはプールしたものを用い、標準健常者BALFと比較した。また、2次元電気泳動による泳動誤差を補正するために2D-DIGEを用いた。この方法は、泳動前に複数のタンパク質試料を複数の蛍光色素で標識し、1枚のゲルで同時に泳動する方法であり、泳動後の染色が不要で、同じタンパク質ならば位置のずれが生じないという長所を持つ。この方法により泳動した標準健常者BALFと患者BALFの泳動像を解析し比較したところ、患者BALF泳動像では、標準健常者BALFと比較して、α1 - アンチトリプシン、α1-アンチキモトリプシン、イムノグロブリンG (Ig G)、α2-マクログロブリンが増加しており、肺サーファクタントプロテインA(SP-A)、ハプトグロビン、アポリポプロテインA1が減少していた。

しかしながら、BALF中のタンパク質総量の半分以上がアルブミンとIg Gの2つの成分で占められており、これらと泳動位置が近い微量タンパク質がマスクされてしまい、泳動画像上で正しく検出できなかった。そこでこの問題を解決するためにアルブミン、Ig Gの除去を、モノクローナル抗体アフィニティカラムを用いて行った。その結果、これまで検出不可能であった微量のタンパク質スポットの分離、検出が可能となった。これによって、これらの微量タンパク質のLC-MSによる同定も可能となった。そこで、健常者BALFと患者BALFの間で違いのあったスポットを切り出した後にトリプシン消化を行い、LC-MS (LC:AMR MAGIC2002, MS:ThermoFinnigan LC-Q DecaXp) によるMS/MS解析を行った。これらの新しく分離可能となったスポットは、その多くが弱い光強度、すなわち微量スポットであるにもかかわらず、67個ピックし、64個を同定できた。新たに検出できたタンパク質は、マトリックスメタプロテアーゼ12,C3補体、ヘモペキシン、ビタミンD結合タンパク質、アネキシンV、ラミニン、フィブリリンなどであった。これらのタンパク質は、呼吸器疾患の病態を解析する上で、重要な指標となるタンパク質であり、これらの相対的な量を比較することが病勢と、病態解明につながる可能性がある。

健常者ならびに患者BALFの生化学的解析による検証

次に、健常者BALFならびにDIP患者BALFの生化学的な解析を行なった。総タンパク質濃度、総リン脂質濃度、肺サーファクタントプロテイン(SP)-A,-B,-D濃度、表面張力、総過酸化脂質濃度を調べたところ、総タンパク質と総リン脂質濃度は両者の間に有意差がなかった。しかしながら、SP-A,-B,-D濃度、表面張力はDIP患者 BALFですべて低下していた。一方、総過酸化脂質濃度は、健常者BALFと比較して、DIP疾患BALFで増加していた。

これら一連の変化は、DIP肺の症状である肺胞虚脱によって引き起こされていると考えられた。過酸化脂質濃度がDIP患者 BALFで増加している理由は、DIP肺が酸化ストレスによって生じた活性酸素に暴露されていることにより、過酸化脂質が産生されたためと考えられた。以上の生化学的解析結果は、2D-DIGEの解析結果を支持しており、患者BALFの組成が健常者BALFと明らかに変化していることを示した。今後は、サーファクタントプロテインをはじめとして、前項で示したタンパク質をあわせて解析することにより、より詳細に病因病態の診断が可能になると考えられる。

結言

本研究では、有機溶媒を用いた脱塩処理、アフィニティカラムを用いたアルブミン、IgG除去の前処理をすることにより、これまで解析対象とはなり得なかったBALF中のタンパク質の2次元電気泳動による分離を可能にする手法を確立した。この方法を用いて健常者BALFとDIP患者BALF中のタンパク質を比較して、患者特異的に増加、減少するタンパクを多数検出し得たことにより、2次元電気泳動がBALF解析に有用であることを示した。今回解析対象としたDIP以外のBALFにも、本法は適用可能であるため、他の呼吸器疾患の病因・病態の解明に有用であると考えられた。さらには出発試料の精製が十分であるならば、培養上清や動植物の血液、組織や器官などにも本研究により確立した手法は応用可能であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

ヒト気管支肺胞洗浄液 (Bronchoalveolar Lavage Fluid : BALF) は、肺に挿入した気管支ファイバースコープを通じて生理食塩水を肺内部に注入し、洗浄後回収したもので、肺内部の生理状態を反映した細胞や物質を多く含んでいる。

これまではその細胞成分のみが解析の対象とされており、タンパク質成分については組成が複雑で分離精製が難しいため解析した報告は少ない。本論文は、難易度のきわめて高い試料であるBALFをプロテオーム解析するための前処理法を確立し、分析上の問題点を克服し、剥離性間質性肺炎(Desquamative Interstitial Pneumonia : DIP)疾患特異的に増減するタンパク質を検出した生化学的研究をまとめたもので、7章からなっている。

第1章の緒言では、プロテオーム解析の歴史と現状、BALFに関する研究開始時までの知見、解析上の問題点が述べられている。

第2章では、BALFプロテオーム解析のための最適泳動法の確立を目的とした。各種有機溶媒を用いたタンパク質沈殿によるBALF前処理法の検討を行ったところ、アセトンによってBALFのタンパク質を沈殿させたものがスポット分離が最も良好であった。次に最適な泳動バッファーの選択を行った結果、尿素とチオ尿素を含む泳動バッファーがスポット分離能が高かった。これらの最適条件を組み合わせることで、2次元電気泳動を用いたBALFタンパク質のプロテオーム解析が可能となった。

第3章では、健常者5例の血漿とBALFの2次元電気泳動像での相同性比較を行った。画像解析ソフトによって解析した結果、同一人のBALFと血漿の2次元電気泳動像のマッチ率は平均で45%、最大でも49%で、BALF中には肺固有のタンパク質が存在していることが判明した。

第4章では健常者5例のBALF2次元電気泳動像の相同性比較を行った。その結果、BALFタンパク質のスポットはpI 5-8の範囲に集中していた。また、これら5例の2次元電気泳動像のマッチング率が低かったことから、健常者BALF構成タンパク質の組成には個体差があることが示された。さらに、マッチング率が低い原因としてBALF個体差のほかに、2次元電気泳動の再現性と染色による誤差が関係していることが判明したのでその改善が課題となった。

第5章では、健常ならびにDIP疾患BALFの2次元電気泳動による比較を行い、疾患特異的に増減するタンパク質を明らかにした。ここから、2次元電気泳動による泳動誤差を補正するために同じタンパク質ならば泳動位置のずれが生じない 2D-DIGE(Two Dimensional Differential Gel Electrophoresis)法を新たに用いた。患者BALF泳動像では、標準健常者BALFと比較して、α1-アンチトリプシン、α1-アンチキモトリプシン、イムノグロブリンG (IgG)、α2-マクログロブリンが増加しており、肺サーファクタントプロテインA(SP-A)、SP-D、ハプトグロビン、アポリポプロテインA1が減少していた。

さらに、より微量で増減しているタンパク質スポットを検出するために、モノクローナル抗体アフィニティカラムを用いてBALFタンパク質の半分以上を占めるタンパク質であるアルブミン、IgGの除去を行った結果、これまで検出できなかった微量タンパク質スポットの分離、検出が可能となり、マトリックスメタロプロテアーゼ-12(MMP-12)、補体3(C3)、ヘモペキシン、ビタミンD結合タンパク質、アネキシンV、ラミニン、フィブリリンなどを新たに検出した。

第6章では、健常者ならびに患者BALFの生化学的、免疫組織化学的解析を行った。総タンパク質と総リン脂質濃度は両者の間に有意差がなかったが、SP-A、-B、-D濃度、表面張力はDIP患者BALFですべて低下していた。一方、総過酸化脂質濃度は、健常者BALFと比較して、DIP疾患BALFで増加していた。これら一連の変化は、DIP肺の症状である肺胞虚脱によって引き起こされていると考えられた。以上の生化学的解析結果は、2D-DIGEの解析結果を支持しており、患者BALFの組成が健常者BALFと明らかに変化していることを示した。さらに、DIPで増減したタンパク質が実際に病変肺、健常肺でどのように分布しているかを知るために、健常者とDIP患者の肺を免疫組織化学的に解析したところ、DIP肺組織においてII型上皮細胞の過形成と、肺胞マクロファージへのSP-A、α1-アンチトリプシンの局在が観察された。肺胞マクロファージはSP-Aを産生しないため、SP-Aの局在は、肺胞マクロファージによって吸収された結果と考えられ、α1-アンチトリプシンの場合は炎症時に好中球から産生されるセリンプロテアーゼから肺を防御しているためと考えられた。

第7章では、本研究の総合考察と今後の展望が述べられている。

以上、本論文では、不明な点が多かった気管支肺胞洗浄液中のタンパク質について、その分離抽出法と分析法を確立し、2次元電気泳動による方法を用いて、健常者BALFとDIP患者BALF中のタンパク質を比較して、患者特異的に増加、減少するタンパクを多数検出し得たことにより、2次元電気泳動がBALF解析に有用であることを示したものであり、学術上、応用上貢献することころが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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