学位論文要旨



No 119157
著者(漢字) 伊藤,春香
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ハルカ
標題(和) スナメリ(Neophocaena phocaenoides)の頭頸部腹側を構成する筋群およびその周辺部の構造と機能
標題(洋)
報告番号 119157
報告番号 甲19157
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2708号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 會田,勝美
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 宮崎,信之
 三重大学 助教授 吉岡,基
 東京大学 助教授 金子,豊二
内容要旨 要旨を表示する

分子生物学的研究が全盛の時代にあって、「動物の肉眼解剖学的研究の果たす役割はすでに終わった」という認識が一般的であろう。しかし鯨類に関していえば、古くから人々の関心を喚起して今までに数多くの解剖が行われてきたにもかかわらず適当な解剖アトラスもなく、筋肉名の記載にも混乱があるのが現実である。本研究の主目的はスナメリ (Neophocaena phocaenoides) の頭頸部腹側を解剖し、各筋肉をその起始、停止のみならず、支配神経の情報をも加味して総合的に判断して同定することにある。その上でそれらの機能を考察した。元来、鯨類の祖先は陸上の四足獣である。現生のハクジラ類の体は、陸棲の哺乳類として完成された体の構造が様々に作り替えられて水中生活に適応してきた結果であり、頭頸部腹側にも海棲哺乳類ならではの構造がある。第1章では”吸引摂餌行動”を司る舌骨周辺の構造を記載してその機構を明らかにした。第2章では外耳・中耳の構造を観察し、その機能について考察した。また第3章では皮筋と頸部の構造と機能を示した。

スナメリは東アジアからペルシア湾にかけての沿岸、あるいは河川に棲息している。鯨類を含む脊椎動物の比較解剖学的研究は19世紀から20世紀にかけて主として西欧諸国で行われてきた歴史的な背景があり、アジアに分布するスナメリの解剖学的な所見自体が非常に少ない。従ってスナメリの筋肉の記載自体に意義があること、本種を入手できる機会に恵まれたこと、さらにスナメリはハクジラ類の中でも特に小型で比較的扱い易いことから研究対象とした。

材料と方法

伊勢湾で座礁死したスナメリ(幼若個体 ;3、 新生仔;1)とスナメリとの比較のために北海道噴火湾で混獲されたネズミイルカ (Phocoena phocoena)、三陸沖で漁獲されたイシイルカ (Phocoenoides dalli) 各1個体の内臓を取り除いた後に体幹を肩甲骨直後で離断して10%フォルマリン溶液中で1ヶ月以上固定した。その後、約40%アルコール溶液に移し替えて固定液を置換してから肉眼解剖に供した。メスで脂皮を除去した後、とげ抜きピンセットで筋肉と神経を剖出した。また、その他にスナメリ(成体)の頭部骨格標本3個体を観察した

舌骨周辺部の構造と機能

舌骨周辺部の骨格と筋肉とその運動を支配する神経(カッコ内)を記載した。舌骨器官として底舌骨、甲状舌骨、角舌骨、上舌骨、茎状舌骨、鼓室舌骨。舌骨上筋群として顎二腹筋前腹(顎舌骨筋神経)、顎二腹筋後腹(顔面神経)、顎舌骨筋(顎舌骨筋神経)、オトガイ舌骨筋(舌下神経)。舌骨下筋群として胸骨舌骨筋(舌下神経)、胸骨甲状筋(舌下神経)、甲状舌骨筋(舌下神経)、舌筋群としてオトガイ舌筋(舌下神経)、舌骨舌筋(舌下神経)、および舌骨間筋(舌咽神経)である。茎突舌骨筋、肩甲舌骨筋は無い。また、咬筋(下顎神経)、内側翼突筋(下顎神経)、外側翼突筋(下顎神経)、側頭筋(下顎神経)を同定した。

一般にハクジラ類において顎二腹筋は単腹の筋肉とされており、digastric(顎二腹筋)ではなく monogastric(顎単腹筋)という名称の使用さえも提唱されているが、日本近海に分布するネズミイルカ科の3種、スナメリ、ネズミイルカ、イシイルカにおいて顎二腹筋が二腹を有することを確認した。前腹は下顎骨下縁から起こり、底舌骨および甲状舌骨の腹側面中央部に停止すること、顎舌骨筋神経(下顎神経)が侵入することから顎二腹筋前腹 (M. digastricus anterior) と同定し、後腹は側頭骨の頬骨突起の根元(ヒトの乳様突起と相同の部分)から起こり中間腱を介して顎二腹筋前腹と連結すること、顔面神経が侵入することから、顎二腹筋後腹 (M.digastricus posterior) と同定した。

顔面神経、下顎神経(三叉神経)、舌下神経の走行を記した。鼓策神経は認められない。咬筋を貫く顔面神経と下顎神経の交通枝がある。また、舌骨下筋群、特に胸骨舌骨筋に舌下神経と頸神経が侵入している事は舌下神経が本来脊髄神経であり、頸神経と密接な関係にあることを示している。

ハクジラ類の気道と食道とは完全に分離しているので、肺を使って息を吸い込む要領で液体を口の中に吸引することはできない。口腔内容量を急激に増大させる事によって強力な陰圧を口腔内に作り出して海水と一緒に獲物を口の中に吸い込む必要がある。スナメリは吸引摂餌に先立って少しだけ口を開ける。そして強大な胸骨舌骨筋を収縮させる。舌骨は左右の後端を結ぶ軸を中心として前のめりに傾き、舌根部が引き下げられる。さらに舌骨間筋の収縮により茎状舌骨が甲状舌骨に引き付けられると同時に舌根部両端も下方に引かれる。すなわち、口腔底全体が一気に引き下げられて口中の容量が増して陰圧が生じ、餌が水と一緒に吸い込まれる。口中の餌は、舌を前後にうねらせる、あるいは再び口中に陰圧を生じさせることにより喉までおくられてから嚥下される。

ハクジラ類の吸引摂餌機構のメカニズムは共通していると考えられるが、種によってその吸引力には差がある。

外耳および中耳の構造と機能

耳介はなく、外耳道は閉じている。耳の位置は目の後方に小さな窪みとして観察できる。外耳道は軟骨でできた管状で、皮下の脂肪層の内部を蛇行して耳骨(鼓膜孔)に至る。大耳介神経(C3)が後方から多数の枝に分岐し外耳道に至る。耳介唇筋(顔面神経)、後耳介筋(顔面神経)は外耳道を頭蓋骨に引きつける、あるいは前方に引く働きをする。耳骨は、周耳骨と鼓胞との複合体で非常に緻密な骨である。頭蓋骨からは完全に切り離されており、その周囲の靭帯で頭蓋骨と連結しているにすぎない。耳骨の前端はやや内側を向き、下顎の後端に覆われている。周耳骨が内側、鼓胞が外側に位置している。鼓胞は膜で内張されており、その内部には静脈体が前後方向に走り、静脈体と鼓胞の内側の隙間は粘液で満たされている。鼓胞を内張りする膜と周耳骨の隙間(中耳)に耳小骨が位置している。そしてその周囲は粘性の高い液状の物質で満たされている。拳状のツチ骨はツチ骨柄で鼓胞の内側に癒合し、その後端では2つの半円形の関節面でキヌタ骨と関節して複合体を形成している。キヌタ骨の短脚の先端には小さな凸面の関節面があり、周耳骨の窪み内部に関節している。後端部の半楕円形関節面でアブミ骨と関節している。アブミ骨はやや扁平な釣り鐘型をしている。アブミ骨底は楕円形で前庭窓にはまり込んでいる。鼓膜円錐は陸棲哺乳類の鼓膜に相当するものと考えられているもので、円錐形の靭帯様の組織でできており、鼓膜孔から侵入する外耳道と結合している。また、鼓膜円錐の頂点部分はツチ骨体に付着している。ツチ骨からはツチ骨筋が起こり周耳骨に停止する。アブミ骨筋はアブミ骨から起こり、周耳骨に付着する。

鼓膜円錐(外耳道)が上方に引かれるとツチ骨とキヌタ骨の複合体はキヌタ骨の短脚の先端を回転の中心としてねじれあがる。その際キヌタ骨とアブミ骨の関節面も回転し、それに伴ってアブミ骨が斜めに傾きながら持ち上がる。すると前庭窓内のリンパ液が揺れる。つまり外耳道自体の振動ががツチ骨とキヌタ骨の複合体を回転させ、アブミ骨が上下して蝸牛内部のリンパ液を振動させて音を脳に伝えると考えられる。

ハクジラ類は水中音を下顎の後方部分(下顎窓)を通して音響脂肪と呼ばれる下顎孔内部の特殊な脂肪組織の振動として受信し、それを内耳から脳に伝えているという考え方が現在広く受け入れられており、外耳道は退化形質で機能していないと認識されることが多いが、皮下の厚い脂肪層に埋まっている外耳道自体の振動が耳小骨を振動させ得る構造が示された。過去に外耳道付近にも水中音に対して感度の良い部分があることを示すいくつかの実験報告がある。以上のことからスナメリが下顎窓から内耳に音を伝えるというルートの他に、外耳道から中耳を経由して音を内耳に伝えるという第2のルートを有している可能性が示唆された。

皮筋と頸部の構造と機能

ハクジラ類の広頸筋(顔面神経)と体幹皮筋(腕神経叢)とは連続しており両者の境界線は不明瞭であるが、両者の支配神経を肉眼解剖学的に追うことによって両者の境界線は体側の頸部の高さにあることを明らかにした。眼輪筋、頬筋、口輪筋、頬筋は顔面神経の枝を受ける。

ハクジラ類の体幹皮筋は前肢(胸ビレ)を背側に持ち上げる。頬筋、口輪筋は広頸筋と連続し、咬筋、内側翼突筋、側頭筋ととともに下顎を閉じる働きをする。ハクジラ類の皮筋は全般に陸棲哺乳類のそれとは異なり、積極的な役割を担う。

頸椎は7個で、第1〜3頸椎が癒合している。胸骨乳突筋、乳突上腕筋、肩僧帽筋は副神経と頸神経の交通枝を受ける。なお、頭部僧帽筋はない。

頸椎全体が非常に短く、軸椎が独立していないハクジラ類が頭部を上下・左右に動かすためには後頭顆と環椎の関節部分を動かす必要がある。スナメリの後頭顆はゆるい凸面でその表面積は環椎の上関節窩に対して比較的大きく、後頭顆の頸椎に対する可動域は広く、骨格から推定するかぎりスナメリの頭部は上下に約40度動かすことができる。胸骨乳突筋、乳突上腕筋は頭部を下方、あるいは左右に引く。

本研究ではスナメリの頭頸部腹側の構造を観察することにより、その吸飲摂餌機構、外耳道から中耳を経て内耳に至る音の伝達機構、頭部を動かす機構を明らかにした。水圏に棲みその行動をつぶさに観察することが難しい動物の生態を知るために、形態を詳細に観察してその機能を考察することが必要である。さらに現生の鯨類の形態学的研究を進めることによりその進化の過程を推測することは可能で、化石の復元にも大きな貢献ができると考えている。

審査要旨 要旨を表示する

鯨類は古くから人々の関心を喚起し続けており,解剖も数多く行われてきたのだが,適当な解剖図譜がなく,筋肉名の記載にも混乱があるのが現状である。本研究の主目的はスナメリ(Neophocaena phocaenoides)の頭頸部腹側を解剖し,各筋肉をその起始,停止そして支配神経の情報を総合的に判断して同定し,記載することにある。その上でそれらの機能を考察した。

スナメリの解剖学的な所見は非常に少ないのでスナメリの筋肉の記載自体に意義がある。頭頸部には海棲哺乳類に特有の構造がある。さらに鯨類の中では小型で比較的扱い易いなどの利点もある。これらの理由からスナメリの頭頸部腹側を解剖対象とした。本研究では,スナメリ4個体をフォルマリン固定し,肉眼解剖に供した。また,比較のためネズミイルカ(Phocoena phocoena)とイシイルカ(Phocoenoides dalli)各1個体を用いた。本論文の大要は以下のとおりである。

第1章 舌骨周辺部の構造と機能

舌骨器官は1個の底舌骨と各1対ずつの甲状舌骨,角舌骨,上舌骨,茎状舌骨,鼓室舌骨で構成される。舌骨上筋群の顎二腹筋前腹,顎二腹筋後腹,顎舌骨筋,オトガイ舌骨筋と,舌骨下筋群の胸骨舌骨筋,胸骨甲状筋,甲状舌骨筋,そして舌筋群のオトガイ舌筋,舌骨舌筋,さらに舌骨間筋を記載した。本種には茎突舌骨筋,肩甲舌骨筋は無い。

一般にハクジラ類において顎二腹筋は単腹の筋肉とされているが,スナメリ,ネズミイルカ,イシイルカにおいて顎二腹筋が二腹を有することを確認し,それぞれを顎二腹筋前腹,顎二腹筋後腹と同定した。これは上記の3種における顎二腹筋後腹の新記載である。

顔面神経,下顎神経,舌下神経の走行を調べた。鼓策神経は認められない。咬筋を貫く顔面神経と下顎神経の交通枝がある。舌骨下筋群の支配神経は他の哺乳類と比べて1分節頭側に寄り,舌下神経の支配領域が大きい。

ハクジラ類は吸引摂餌を行っている。その機構は,まず少しだけ口を開け,次に胸骨舌骨筋を収縮させて舌骨を前傾させることにより舌根部を引き下げ,口腔底全体を一気に引き下げることにより,口腔内容量を増して口中に陰圧を生み出す。すると餌が水と一緒に吸い込まれる。これまでの知見を考え合わせるとハクジラ類の吸引力には種によって強弱の差があるが,吸引力を生み出すメカニズムは共通していると考えられる。

第2章 外耳および中耳の構造と機能

耳介はなく,外耳道は閉じている。外耳道は軟骨でできた管状で,皮下の脂肪層の内部を蛇行して耳骨(鼓膜孔)に至る。大耳介神経は外耳道に至る。耳介唇筋,後耳介筋は外耳道を前・下方に引く,あるいは頭蓋骨に引きつける。これらの構造から外耳が完全な退化形質であるとは考えにくい。また,拳状のツチ骨はキヌタ骨と関節して複合体を形成し,アブミ骨はやや扁平な釣り鐘型である。鼓膜円錐は靭帯様の組織でできており,外耳道と結合している。また,鼓膜円錐の頂点部分はツチ骨体に付着している。小さいが筋腹に富んだツチ骨筋,アブミ骨筋がある。鼓膜円錐(外耳道)が上方に引かれるとツチ骨とキヌタ骨の複合体はキヌタ骨の短脚の先端を回転の中心としてねじれがあり,それに伴いアブミ骨が持ち上がる。すると前庭窓内のリンパ液が揺れる。つまり外耳道自体の振動がリンパ液に伝わる構造がある。

現在,ハクジラ類は水中音を下顎で受信して脳に伝えているという考え方が広く受け入れられており,外耳は退化形質で機能していないと認識されることが多い。しかし上記の構造的特徴とともに,外耳道付近にも水中音に対して感度の良い部分があることを示すこれまでのいくつかの実験の結果を考え合わせると,スナメリは下顎から内耳に音を伝えるというルートの他に,外耳で音を受信してそれを内耳に伝えるという第2のルートを有している可能性がある。

第3章 皮筋と頸部の構造と機能

広頸筋の支配神経を肉眼解剖学的に追うことによって体幹皮筋との境界線を明らかにした。ハクジラ類の体幹皮筋は胸ビレを背側に持ち上げる。頬筋,口輪筋は広頸筋と連続し,咬筋,内側翼突筋,側頭筋ととともに下顎を閉じる働きをする。頸椎は7個で,第1?3頸椎が癒合している。頸椎全体が非常に短く,軸椎が独立していないハクジラ類が頭部を上下・左右に動かすためには後頭顆と環椎の関節部分を動かす必要がある。後頭顆の頸椎に対する可動域は広く,骨格からみてスナメリの頭部は上下に約40度動く。

以上,本研究は,これまで知見が少なかったスナメリ頭頸部の構造を肉眼解剖によって確定し,新記載となる構造を発見するとともに,新たな機能を推察したもので,学術上寄与するところが多い。よって審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位に値するものと判断した。

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