学位論文要旨



No 119159
著者(漢字) 吉田,尚郁
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,タカフミ
標題(和) 黒潮前線波動が日本南岸沿岸海域の流動環境に及ぼす影響
標題(洋)
報告番号 119159
報告番号 甲19159
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2710号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉本,隆成
 東京大学 教授 青木,一郎
 東京大学 教授 新野,宏
 東京大学 助教授 小松,輝久
 東京大学 助教授 木村,伸吾
内容要旨 要旨を表示する

日本南岸の黒潮に面した開放的な湾や水道では、急潮に代表される黒潮前線波動に関連した海況変動が発生している。黒潮前線波動は東シナ海から黒潮続流域にかけての黒潮と沿岸の境界域に形成され、低気圧性の前線渦と高気圧性の暖水舌が対となった形に発達し、波長100-200km、周期が10-20日、位相速度10-20cm/sで黒潮下流へと移動する。黒潮が接岸して流れる九州から紀伊半島の間には、100km 程度の湾口幅の土佐湾や紀伊水道が存在しており、これらの海域の短・中期的な海況変動に黒潮前線波動が密接に関係している。しかし、従来の研究は、黒潮前線波動の特性について行われたものは若干あるが、複雑な陸岸地形との相互作用に関する力学的研究はほとんど行われてこなかった。また、日本南岸の沿岸域は多くの魚類の産卵場や生育場、漁場となっており、流動環境の変動が、その分布・生産構造を大きく変化させる可能性がある。そのため、黒潮前線波動の沿岸域への影響を定量化することは、水産資源の再生産や漁場形成の機構を解明する上で、極めて重要である。

そこで本研究では、黒潮前線波動が密度および流速の鉛直・水平勾配に起因する傾圧不安定によって発生していることから、陸岸・海底地形の影響やパラメータの解析に適していると考えられる回転水槽実験を用いて、黒潮前線波動の再現、黒潮前線波動と陸岸地形との相互作用の実態を解明し、流況変動や海水交換におよぼす影響を定量的に評価することを目的とした。

沿岸域の流動と海水交換に対する黒潮前線波動の影響を明らかにするために、実験の項目を 3 つに分けて行った。その一つ目は、回転水槽実験によって黒潮前線波動を再現し、その形成条件を把握することが目的である。二つ目は、陸岸地形および海底斜面存在下における黒潮前線波動の挙動を解明すること、三つ目は海水交換に及ぼす影響を定量的に評価することである。

黒潮前線波動は、二重円筒容器を用いた回転水槽実験によって再現を試みた。二重円筒容器は外径が30cm、内径10cm である。水槽は外側が内側よりも高くなっており、水面は内側の水槽よりも若干高くなるように設定した。黒潮前線波動の再現は、内側円筒容器内を加熱することにより上層を溢れ出した暖水が形成する帯状流が傾圧不安定を起こすことによって行った。また、黒潮前線波動の沿岸域での影響を明らかにするために、陸岸地形と海底地形を設置した実験を行った。土佐湾・紀伊水道に代表されるような正三角形に近い陸岸地形に囲まれた海域(Case I)をスタンダードケースとして、黒潮前線波動通過に伴う湾内の流動環境の変動の解明を行った。さらに、九州東方海域や遠州灘のように、海岸線が黒潮流軸となす角が比較的小さな半島に囲まれた海域(Case II)、相模湾のように直角に張り出した地形に囲まれた海域(Case III)との違いを調べた。測定方法は、水面にまいたアルミ粉の動きをデジタルビデオカメラで撮影して流動場を測定し、水温変動は湾内に設置した熱電対センサーにより測定を行った。最後に、実際の土佐湾・紀伊水道との比較を通して再現性の検討を行い総合考察した。

得られた成果の概要を以下に示す。

黒潮前線波動の再現性

実験によって、実際の海洋で見られる前線渦を伴った前線波動を再現できることが分かった。形成される波動の形状は傾圧不安定の安定性の指標である熱ロスビー数(RoT=αgdΔT/Ω2L2:αは流体の体膨張率、gは重力加速度、dは密度流厚、Tは水温、Ωは容器の回転角速度、Lは水槽の内外径差)によって支配され、前線渦を伴った前線波動はRoTが0.36以上という条件で形成される。

湾内の流況変動に対する黒潮前線波動と陸岸・海底地形の影響

陸岸地形として半島を設置して実験を行った結果、前線波動の挙動に大きな変化が生じることが明らかとなった。Case Iにおいて、前線渦を伴った波動が通過する場合、半島が前線波動を高気圧性の峰の部分と低気圧性の前線渦に分断する効果があることが観察された。このため、半島の後流側の湾や水道では、波動の峰と前線渦が交互に通過することによって、時計回りから反時計回りへと循環形態が遷移することが見い出された。このことは、実際に土佐湾や紀伊水道で観測されている循環流のパターンの変動が、前線波動の通過によって引き起こされていることを示唆している。また、紀伊半島西岸で観測される振り分け潮も前線波動の峰部と渦部の分断過程において発生する現象であることが分かった。Case IIでも、Case Iと同様、湾内の循環形態は遷移する。しかし、Case IIは海岸線の角度が波動の峰部の進入角度とよく一致するため、波動の峰は湾奥にまで進入し、湾全体が時計回りの循環に覆われる。さらに、半島の張り出しが小さいため、前線渦が半島の前後にまたがって楕円状に移動する。Case IIIの場合は、前線波動の湾内への侵入ではなく、半島に峰部が衝突することによって発生した沿岸境界密度流によって反時計回りの循環が駆動される。これらの結果から、陸岸地形の形状が湾内の循環流の形成に大きく影響していることが分かった。また、前線波動通過に伴う湾内への暖水流入は、主に半島の海岸線の角度と波動の侵入角度の比、波長と湾口幅の比、波動の振幅と離岸距離の比の3つのパラメータによって支配されていると推測された。さらに、測定された表面の流速分布から、陸岸地形の形状によって、湾内の滞留時間が変化することが明らかとなった。原型に換算した滞留時間は、Case Iでは20日、Case IIでは40日、Case IIIでは10日と見積もられた。

また、模型全域の海底斜面は前線波動の形成を抑制するため、湾内にのみ海底斜面をつけて実験を行った。この海底斜面の勾配の大きさによって、湾内の流動パターンが変化し、勾配が0.5を超える場合、湾内に前線波動が進入できず、流れは生じなかった。0.5以下になると、前線波動の峰部が進入し、低気圧性前線渦の湾内への進入には、勾配が0.1以下でなければならないことが明らかとなった。

前線波動通過に伴う湾内の海水交換

黒潮前線波動が湾内の海水交換に及ぼす影響を定量的に評価するため、アルミ粉による表面流速、水温センサーによる湾内の水温変動を測定し、湾内への暖水の流入量を見積もった。流入量は、流入速度×流入幅×流入厚×流入時間によって求めた。また、湾を原型値で120km×30km×100mのボックスに単純化し、湾内の海水交換率を算出した。その結果、海底斜面がない場合、前線波動が離岸している状態では原型換算値で4.4×1010m3の流入であるのに対し、接岸時には10倍近い2.9×1011m3もの黒潮系暖水が一回の波動通過に伴って湾内へ流入していることが明らかとなった。この暖水流入によって、土佐湾では離岸時は約10%であるが、接岸時には80%もの海水交換が行われることが示された。

海底斜面を設置した場合、斜面の勾配によって暖水の流入量に変化が生じ、前線渦が湾内へ進入できる勾配0.1を境に、湾内の海水交換率が大きく変化する。海底斜面勾配が0.1の場合の海水交換率は60%に減少し、一ヶ月余りで湾表層全体の海水交換が行われる。

回転水槽実験における前線波動の現場との比較

実験で観測された前線波動の流速および位相速度を、スケーリングによって原型換算した結果、従来観測されてきた黒潮前線波動と同程度の値となり、現実に近いものが再現できている。陸岸地形を設置して行った実験における流れの検証を行うため、紀伊水道東岸沖の水深 700m 地点の 280m 深に係留系を設置した結果、観測された流速の南北成分に10日、14日の周期性が見られ、実験における前線波動の通過周期とほぼ一致していた。このことから、紀伊水道東部における流速変動は前線波動の通過が最も大きな要因であると考えられる。原型で見られる前線波動の峰部と低気圧性前線渦部の進入のパターンは、模型で一様な岸沖の斜面勾配を0ないし0.1以下に小さくした場合に対応しており、海底地形がすり鉢状の湾への等深線に沿った暖水流入に対して、海底斜面の効果は小さいと判断された。また、前線波動に伴う暖水進入は、流速約40cm/s、進入厚が200m程度であることを考慮すると、一回の前線波動通過に伴う湾内への暖水流入量は5.9×1011m3となり、紀伊水道を 100km×50km×50km×200m の台形のボックスに単純化すると、この場合も前線波動の一周期の通過で約80%の海水交換が行われると概算された。

以上、本研究により、沿岸域における黒潮前線波動の特性とその影響について、新たな知見が得られた。これらの成果は、黒潮前線波動に伴う沿岸域の流況変動と海水交換率の定量的評価を行ったものであり、魚類の再生産機構を解明するために必要な、輸送環境を理解する上で重要な基礎的知見になるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

日本南岸の黒潮に面した開放的な湾や水道では、急潮に代表される黒潮前線波動に影響された海況変動が発生している。黒潮前線波動は東シナ海から黒潮続流域にかけての黒潮と沿岸の境界域に形成され、低気圧性の前線渦と高気圧性の暖水舌が対となった形で存在する。その水平スケールは100-200km、発生周期は10-20日であり、10-20 cm/sの速度で下流へと移動する。黒潮が接岸して流れる九州から紀伊半島の間には、100km程度の湾口幅の土佐湾や紀伊水道等が存在しており、これらの海域の短・中期的な海況変動に黒潮前線波動は密接に関係していると考えられる。また、日本の南岸沿岸海域は多くの魚類の産卵場や漁場となっており、流動環境の変動がその構造を大きく変化させる可能性がある。そのため、黒潮前線波動による沿岸域への影響の定量的な評価を行うことは、水産資源の再生産機構、漁場の形成機構を解明する上で、極めて重要である。

そこで本研究では、陸岸地形や海底地形の影響が大きい、沿岸域における黒潮前線波動の挙動を解明し、海水交換や漁海況、魚卵・仔稚魚の輸送等に及ぼす影響を定量的に評価することを目的とした。方法としては、黒潮前線波動が密度の異なる沿岸水と黒潮系暖水の傾圧不安定によって発生していることから、傾圧不安定波の再現、現象の把握、パラメーター解析に適していると考えられる回転水槽実験を用いた。実験は外径が20cm、内径10cmおよび30cm、10cmの二重円筒容器を回転台に設置して行われた。水槽は外側が内側よりも高くなっており、内側の水槽が水深よりも低くなるように設置された。内円筒容器内を加熱すると、上層を溢れ出した暖水が帯状流を形成し、条件によっては傾圧不安定によって前線波動が生じる。本研究ではこのように再現された黒潮前線波動の沿岸域の流況への影響を明らかにするために、陸岸地形と海底斜面を加えた実験が行われた。

得られた研究成果の大要は以下の通りである。

黒潮前線波動の再現性

形成される波動の形状は傾圧不安定波の安定性の指標である熱ロスビー数(RoT=αgdΔΤ/Ω2L2:αは流体の熱膨張率、gは重力加速度、dは密度流厚、Ωは容器の回転角速度、Lは水槽の内外径差)によって支配され、実際の海洋で見られる前線渦を伴った前線波動が形成されるには、本実験ではRoTが0.36以上という条件でなければならないことが分かった。

陸岸地形と海底地形が黒潮前線波動に及ぼす影響

陸岸地形は前線波動を峰の部分と前線渦に分断する効果があり、陸岸地形の形状が湾内の循環流の変動過程や、湾の滞留時間にも大きな変化を生じさせることが定量的に示された。

また、海底斜面の効果として、海底勾配が0.1以下でなければ前線渦は内湾へと進入できないことが示された。さらに、現場の海底地形を考慮すると、西部に陸棚の発達した土佐湾では左旋環流の形成は東部寄りに限定され、すり鉢状の紀伊水道外湾では、前線渦が奥部にまで進入しやすいことがわかった。

前線波動による湾内の海水交換

アルミ粉で表面流速、水温センサーで湾内の水温変動を測定し、湾内への暖水の進入量が見積もられた。海底勾配をつけない実験では、一回の前線波動通過に伴う湾内への暖水流入は、黒潮の流軸の接岸時には離岸時の10倍近くなり、土佐湾ではこの暖水流入により、離岸時に約10%、接岸時には80%の海水交換が行われることが示された。

黒潮の離接岸および黒潮前線波動がブリの回遊に及ぼす影響

ブリは産卵回遊のため冬に東北沖から南下回遊し、熊野灘、土佐湾では定置網によるブリの漁獲が盛んである。黒潮流路の比較的長期の離接岸に加えて、黒潮前線波動に伴う暖水流入が 10-20 日周期で発生し、高温水を嫌うブリの回遊や定置網での漁獲量に明瞭な影響を及ぼしていることが示された。

以上、本研究の成果は、黒潮の離接岸と前線波動、および陸岸地形、海底斜面が、沿岸域における流況変動と生物や物質の輸送環境に対する影響を明らかにした研究として、学術上、応用上寄与するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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