学位論文要旨



No 119174
著者(漢字)
著者(英字) Saha,Nil Ratan
著者(カナ) シャハ,ニル ラタン
標題(和) 魚類免疫グロブリン産生の内分泌制御
標題(洋) Endocrine control of immunoglobulin production in fish
報告番号 119174
報告番号 甲19174
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2725号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,譲
 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 小川,和夫
 東京大学 助教授 金子,豊二
 日本大学 教授 中西,照幸
内容要旨 要旨を表示する

水産増養殖上の重要課題である魚病問題の克服のためには,魚類の免疫系に関する理解が不可欠である.近年哺乳類では,神経系,内分泌系,免疫系のクロストークが注目されているが,魚類においても免疫系が内分泌系の制御を受けている現象が以前より知られていた.例えば,産卵期のサケ科魚は耐病性が低下するが,これにはコルチコイドや性ステロイドが関わっていることが知られている.その一方,そうした免疫系の内分泌支配は魚種により差があることが指摘されている.特に病気にもならずに健康を維持した状態で産卵する魚種では,免疫グロブリン産生がどのような内分泌制御を受けているのだろうか.本研究ではまずコイを用いて季節変動やステロイドホルモン作用を検討したのに続いて,分子生物学的レベルでの解析を進めるため,ゲノム情報が充実しているトラフグを用いて免疫グロブリン遺伝子のクローニング,発現解析,そしてステロイドホルモンの作用を調べることを目指した.

コイ免疫能の季節変化

実験的に内分泌系の免疫系に対する作用を解析する前に,まず自然条件下で飼育したコイの免疫系,内分泌系がどのような季節変動を示すのか,特に性成熟に関連付けて観察した.屋外32平米コンクリート水槽から約1kgのコイを1〜2ヶ月間隔で取り上げ,直ちに麻酔後,採血,解剖した.分離した血漿中の,免疫グロブリン(IgM),コルチゾル(F),テストステロン(T),11ケトテストステロン(11KT),エストラジオール17β(E2)を測定した.また,末梢血,脾臓,頭腎から密度勾配遠心により分離した血球中のIgM産生細胞数をELISPOT法により測定した.

春の産卵期になると,雄ではTと11KTが,雌ではTとE2の上昇が見られた.IgM量,IgM産生細胞数は,産卵期を含む高水温時に高く,低水温で低下したが,性ステロイドとの相関は明瞭でなかった.産卵期,高水温時にはFの上昇も見られ,よく知られるFの免疫抑制は認められなかった.ニジマスでは産卵期に向かう過程で,性ステロイド上昇と共に顕著なIgM量,IgM産生細胞数の減少が見られるが,コイの結果はこれとは異なり,魚種による違いが明確に示された.

in vitroにおけるステロイドホルモンのIgM産生に対する影響

ステロイドホルモンのIgM産生細胞数,IgM産生量に対する作用を,培養白血球を用いて調べた.末梢血,脾臓,頭腎から白血球を分離し,各ステロイドを添加して培養した.経時的に培養液中のIgM量を測定すると共に,IgM産生細胞数の変化を調べた.その結果,ニジマスでは,性ステロイドによる顕著な免疫抑制が報告されているが,コイでは,高濃度のTは脾臓,頭腎リンパ球のIgM産生を抑制したが,末梢血リンパ球には影響を与えない他,E2,11KTの作用は全く認められず,明らかに異なる結果が得られた.一方,FによるIgM産生の抑制が認められた. これは,季節変化の結果と全く異なっている.高水温による免疫系の活性化がFによる免疫抑制を相殺している,あるいはFによる抑制を補完する何らかの仕組みを備えている,といったことが考えられるが,今後の課題である.

ステロイドホルモンによる白血球のアポトーシス誘導

FやTで生じるIgM産生の低下は,個々の血球の産生能力低下と培養期間中のアポトーシス誘導によると考えられる.ここではまず簡便なアポトーシス検出法を開発し,ステロイドホルモンの影響を調べた.細胞のエステラーゼにより発色物質を得るフルオレセインジアセテート(FDA)法により生細胞を,膜抵抗性を失った細胞の核を染色するヨウ化プロピディウム(PI)法により死細胞を染色し,フローサイトメーターで解析すると,両染色法で陰性となる細胞としてアポトーシスが始まった細胞を検出することができた.結果はアネキシンVを用いる一般的な方法と高い相関が見られたが,より簡便な優れた方法である.

末梢血,脾臓,頭腎,および胸腺から白血球を分離し,各種ステロイドホルモンを添加して培養した.経時的にFDA-PI法によりアポトーシス検出を行なったところ,性ステロイドによる影響は認められなかったが,Fによるアポトーシス誘導は顕著に認められ,IgM産生低下の一因であることが明らかとなった.この時のF濃度は,正常血漿中レベルと同等であることから,非ストレス時であっても,生体のIgMレベル調節にFが重要な意味を持つことが明らかとなった.

トラフグ免疫グロブリンのcDNAクローニング

ゲノム情報の充実したトラフグは,免疫研究の良いモデルとなり得ることから,最も重要な免疫因子である免疫グロブリンのクローニングを行なった。

A.分泌型,膜型IgMのH鎖のクローニング

既知の動物で知られているIgM定常領域配列に相同の配列をトラフグゲノムデータベースから求めた.その配列を基にRACE法によりcDNAクローニングを行なった.分泌型IgM(sIgM)の定常領域は,哺乳類同様CH1からCH4までの4つのドメイン構造をとっていた.一方,B細胞の膜上に発現している膜型IgM(mIgM)では,既知の魚種と同様,哺乳類IgMと異なりCH4を欠き,代わりに膜貫通ドメインが存在していた.可変領域(VH)については,5つのクローンが得られたが,配列の類似性から2つのグループに分けられた.

B.IgMのL鎖のクローニング

L鎖についても同様にRACE法によりcDNAクローニングを行なった.他の多くの魚種で報告されているのと同様,可変領域(VL),定常領域(CL)1つずつのドメイン構造からなっていた.ゲノム配列を見ると,可変領域は,VL1とVL2とからなり,その下流に結合領域とCLが存在した他,さらに下流にVL1の重複が見られた.

C.IgDのH鎖のクローニング

魚類の主要な免疫グロブリンはIgMであるが,最近IgDの存在がいくつかの魚種で報告されるようになった.RACE法によりH鎖のcDNAクローニングを行なった結果,IgDは,可変領域,IgM H鎖のCH1,そしてIgD H鎖定常領域の7つのドメイン(δドメイン),そして膜貫通領域で構成されていることが分かった.この構造はヒラメのそれと同様であったが,ナマズ,ニジマス,タラのIgDとは大きく異なっている.フグの脾臓cDNAライブラリーの検索により,7つのδドメインの内いくつかが,N末端領域に重複して存在する変異型の存在も明らかとなった.膜貫通領域を持たない分泌型のIgDは他魚種と同様見出せなかった.

フグ免疫グロブリン遺伝子の発現解析

免疫グロブリン遺伝子が発現している組織を確認するため,ノザンブロット解析を行なった.その結果,IgMの膜型H鎖,分泌型H鎖,L鎖,そしてIgDの遺伝子発現は魚類のリンパ器官,すなわち脾臓,頭腎,腎臓,それに胸腺に明瞭に認められたほか,皮膚,鰓,消化管など,病原生物の侵入経路となる組織にも認められ,粘膜免疫系の存在が示唆された.In situハイブリダイゼーション解析の結果,IgM陽性細胞は脾臓,頭腎,腎臓,胸腺に広く分布していることが分かった.また,皮膚や消化管の上皮間隙,消化管の粘膜固有層にも分布していた.IgD陽性細胞の分布もほぼ同様であり,B細胞には哺乳類の場合と同様,膜型IgMとIgDの両者が発現していることも考えられるが,証明はできなかった.

トラフグIgM産生におよぼすさまざまな因子

IgM遺伝子の構造が明らかとなったことから,IgM遺伝子発現やアポトーシスを指標に,トラフグのリンパ球に対するステロイドホルモンや,マイトジェンとしてLPSのin vitroでの作用を調べた.Fは末梢血,脾臓,頭腎リンパ球のアポトーシスを誘導したが,T,11-KT,E2は影響を与えなかった.LPSで刺激した血球の場合,脾臓,頭腎リンパ球についてはアポトーシスが抑制されたが,F添加により誘導に転じた。末梢血リンパ球ではLPSによるアポトーシス誘導が見られ、その効果はFにより増強された.脾臓,頭腎リンパ球のIgM mRNA量はFにより減少したが,LPSのみの刺激では逆に増加した。また、F とLPSの同時投与では同mRNA量が減少したことから、LPSによる刺激効果はFにより抑制されることが示された.末梢血とリンパ様組織というリンパ球の起源の違いによる結果の違いは,リンパ球の成熟段階の違いによるものと思われるが,今後の課題として残された.

以上,本研究では,魚類免疫系の内分泌系制御を,特に性成熟に関係するステロイドホルモンの免疫グロブリン産生に対する作用を検討してきた.産卵期に耐病性が低下するサケ科魚とは異なり,コイやトラフグでは性ステロイドによる抑制がなく,ストレスホルモンであるコルチコイドによる免疫抑制のみが明瞭に認められた.今回,コイによる基礎的観察に続き,トラフグを材料に免疫グロブリン遺伝子の構造を解析すると共に,ステロイドホルモンの作用を観察したが,トラフグはゲノムサイズが小さい上にゲノムデータベースが利用できることから,今後,発現調節機構の面からも詳細な検討が加えられることが期待される.

審査要旨 要旨を表示する

水産増養殖において,魚病問題は克服が困難な重要課題である.病気への対応や,耐病性育種のためには,魚類の免疫系に関する理解が不可欠であるが,魚類においては最も基本的なことですら,知見が不十分な状態にあるのが実情である.本論文は,免疫グロブリン産生の内分泌系制御という重要課題に取り組んだもので,産卵期のニジマスでは耐病性が低下するのに対し,コイではなぜ低下しないのかという疑問から出発し,遺伝子レベルでの解析を進めるため,ゲノム情報が充実しているトラフグを用いた解析を行なったものである.

第1章から第3章は,コイ免疫能とステロイドとの関係を論じている.

自然条件下で飼育したコイでは,春の産卵期に性ステロイドの上昇が見られるが,IgM量,IgM産生細胞数は,産卵期を含む高水温時に高いことから,性ステロイドとの相関が明瞭でないこと,産卵期,高水温時にはコルチゾール(F)の上昇も見られ,よく知られるFの免疫抑制は認められないことを示している.そして,末梢血,脾臓,頭腎から得た培養白血球に,直接ステロイドホルモンを作用させたところ,FによるIgM産生細胞数,IgM産生量の抑制は顕著だが,性ステロイドの作用は明確でないという結果を得ている.高水温時の高いF濃度がなぜ免疫抑制につながらないのかについては今後の課題としている.さらに,ステロイドによる白血球のアポトーシス誘導を調べている.生細胞を染めるフルオレセインジアセテートと,死細胞を染めるヨウ化プロピディウムを用いたフローサイトメーター解析で,両染色法で陰性となる細胞としてアポトーシス細胞を検出する新たな手法を開発し,末梢血,脾臓,頭腎,胸腺から分離した白血球に各種ステロイドを添加して培養したところ, Fにより顕著にアポトーシスが誘導されることを見出している.これらの結果は,ニジマスとは異なり,魚種によるステロイドの作用機序の違いが明確になったとしている.

以後,遺伝子レベルでの詳細な解析のために,魚種をゲノム情報の充実したトラフグに代えている.

まず第4章では,免疫グロブリン遺伝子のクローニングについて記している.分泌型IgM(sIgM)と膜型IgM(mIgM),それぞれのH鎖,共通のL鎖,そしてIgDについて,既知の動物で知られる配列に相同の配列をトラフグゲノムデータベースから求め,RACE法を適用しているが,sIgMの定常領域が哺乳類同様CH1からCH4までの4つのドメイン構造をとっているのに対し,mIgMでは CH4の代わりに膜貫通ドメインが存在していること,可変領域(VH)については得られた5つのクローンが配列の類似性から2つのグループに分けられること,L鎖が可変領域,定常領域1つずつのドメイン構造からなっていること,を明らかにしている.さらにIgDについては,可変領域,IgMμ鎖のCH1,そしてIgDδ鎖定常領域の7つのドメイン,そして膜貫通領域で構成されていることを明らかにしている.

第5章では,免疫グロブリン遺伝子の発現解析について述べている.ノザンブロット,in situハイブリダイゼーション解析により,IgMの膜型H鎖,分泌型H鎖,L鎖,そしてIgDの遺伝子発現は,リンパ組織の細胞に明瞭に認められたほか,皮膚,鰓,消化管など,病原生物の侵入経路となる組織にも認められ,粘膜免疫系の存在が示唆されたとしている.

最後に第6章では,トラフグIgM産生におよぼすさまざまな因子の影響を調べている.IgM遺伝子発現やアポトーシスを指標に,ステロイドやLPSのin vitroでの作用を調べた結果,Fがリンパ球のアポトーシスを誘導したのに対し,性ステロイドが影響を与えないこと,LPS刺激では,リンパ球の由来組織により,アポトーシス誘導される場合, Fによるアポトーシス誘導が抑制される場合があること, FがIgM mRNA転写量を低下させるが,その効果はLPS刺激した血球でも同様であり,LPSによる刺激効果相殺することを明らかにしている.

以上,本研究は,魚類免疫系の内分泌系制御を,特に性成熟に関係するステロイドホルモンの免疫グロブリン産生に対する作用に魚種による違いがあり,それが産卵期の耐病性と関係することを示した極めて興味深い内容を含んでいる.さらに,ゲノム情報が充実して,免疫研究の進展が期待されているトラフグについて,最も根本的な分子である免疫グロブリンの一次構造を明らかにした点,今後の基礎となる極めて重要な研究である.この論文の高い完成度と,将来への貢献の大きさは,審査員一同高く評価するところであり,博士(農学)の学位を授与するに値するものと認めた.

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