学位論文要旨



No 119182
著者(漢字) 中村,健一
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ケンイチ
標題(和) セルロース微結晶の力学物性
標題(洋)
報告番号 119182
報告番号 甲19182
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2733号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 空閑,重則
 東京大学 教授 小野,拡邦
 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 教授 太田,正光
 東京大学 講師 和田,昌久
内容要旨 要旨を表示する

結晶性高分子物質に含まれる高分子結晶は高分子材料に強度を与えており、その物性は材料研究のうえで重大な関心を集める。また近年は量子化学計算の発達により新たに材料研究上の価値が見出されている。本研究は、セルロース結晶の弾性定数を測定することを試みたものである。

セルロース結晶は、ほとんどの結晶性高分子に含まれるのと同様、長さ数μm程度の微小なもの(微結晶)しか得られない。このような材料には通常の力学試験を行えないため、さまざまな手法が開発されている。本研究ではX線回折法を用いた。これは試料に加えた荷重によって生じる面間隔の変化をX線回折により測定するもので、もっとも一般的に用いられる方法である。

試料に加えた荷重から結晶に生じた応力を得るには、試料内における非晶と結晶のあいだの応力分配についてなんらかのモデルを仮定することが必要となる。また、応力方向を制御するために、完全に配向した資料を用いる必要があるが、このような試料は実際には得られない。従来の研究では、応力分配モデルとして非晶と結晶が直列に結ばれたモデル(直列モデル)を仮定し、さらに配向の不完全さを無視してきた(homogeneous stress hypothesis)。homogeneous stress hypothesisは、高分子材料研究における難問のひとつであり、これを解く努力が重ねられてきたが、はっきりした結論はいまだに得られていない。

X線回折法により高分子結晶の弾性定数を求めるには、資料中に存在する結晶の断面積が必要となる。この問題は従来あまり注目されてこなかったが、通常の高分子材料を試料に用いるかぎり、ほとんど解決不可能な問題を含んでいる。すなわち結晶性高分子物質を非晶と結晶の2成分化すること自体が便宜的なものであり、現実の物質は結晶の乱れの程度が連続的に変化しているからである。

本研究ではこれらの問題に取り組み、微結晶を高度に一軸配向させた繊維試料(微結晶配向繊維試料)を新たに開発することでこれに答えようとした。

微結晶配向繊維試料は、微結晶の水系サスペンジョンをベースにしてPVA - ホウ酸ゲル(PVAスライム)を調製し、これを引き伸ばして乾燥させたものである。PVAスライムは通常の高分子ゲルと異なり、ゲル状態を保ったまま塑性変形できるという特徴がある。棒状の微結晶はゲルのマトリックスに回転を拘束されたままマトリックスが引き伸ばされることにより、延伸方向に長軸を配向させる。

X線回折法は試料に荷重を加えるものであり、その試料は引張試験に適した形状や強度を備えている必要がある。微結晶配向繊維試料は太さ100μm程度という扱いやすい形状と、弾性率5 - 10 GPa、破断強度25 - 30 MPaと、引張試験に適した強度を備える。

配向の程度を示すため、(004)面の回折ピークを通るβプロファイルを図1に示す。綿由来の微結晶はその長さが短い(100 nm程度)ためあまり優れた配向を示さないが、ホヤ由来の微結晶(長さ数μm)は、ラミー繊維をしのぐ高配向を示した。なおラミー繊維は一軸配向のセルロース材料として広く用いられているものである。

微結晶配向繊維試料は、弾性定数測定のみならず、X線回折測定一般の繊維試料としても優れている。

図2はいくつかのθについて赤道面のプロファイルを測定したものだが、同一のプロファイルを示した。すなわち、繊維軸方向以外への配向を持たない。また、試料に含まれるPVAから生じる回折が懸念されるが、微結晶を含まない試料の繊維回折像を図3に示す。これに見られるとおり、試料に含まれるPVAは等方性のハローを生じるのみであり、高度に一軸配向した微結晶の回折とは容易に分離される。

原料となる微結晶は、セルロース微結晶に限定されない。棒状粒子であり、水系サスペンジョンを得られるものであればよい。本研究では一例として珪藻βキチン微結晶から微結晶配向繊維試料を調製した。

4種類の微結晶について、微結晶配向繊維試料の繊維回折像を図4から6に示す。

高分子結晶の弾性定数は従来、もっぱら分子鎖方向の弾性率のみが測られていた。これは、分子鎖方向の弾性率が高分子材料の物性に特に大きく関連するものであることや、他の弾性定数を得るにはより高精度の測定が必要とされることが理由と考えられる。しかし近年、量子化学計算の発展が新たに弾性定数の価値を見出したのに伴い、また測定精度の向上もあって、分子鎖方向の弾性率以外の弾性定数を測定する試みが現れてきた。本研究でもポアソン比を測定した。

試料として、藻類のGlaucocystis由来のセルロース微結晶(セルロースIα)および原索動物のマボヤ由来のセルロース微結晶(セルロースIβ)をそれぞれ原料とする2種類の微結晶配向繊維試料を用いた。さらに、精製ラミー繊維(伝統的に用いられてきたセルロースI試料)およびそのマーセル化物(セルロースII)も用いた。ラミー繊維試料についてはポアソン比のみ求めた。

引張荷重を加えながらX線回折測定を行うために、図7に示す引張試験機付き繊維試料台を用いた。測定の幾何学配置を図8に示す。装置の都合上、赤道面と子午線綿の回折プロファイルは別々に測定した。

微結晶配向繊維試料について弾性率を表1に示す。全試料のポアソン比を表2に示す。

ν[200]について比較すると、セルロースIαがセルロースIβより大であることがほぼ確実にいえる。セルロースI がセルロースIαより小さいかどうかは確実ではない。セルロースIαとセルロースIβの結晶構造の違いは主にa 軸方向に存在し、またν[200]はb軸方向の構造を直接反映する値である。この結果は、セルロースIαとセルロースIβの結晶構造の違いを力学物性の違いとして捉えたものであるといえる。

ν[110]は結果に誤差が大きいが、高分子物質のポアソン比としてはかなり大きな値を取ることはほぼ確実である。これは、γに大きな変形が生じているためと考えられる。

セルロースII の結果のなかでも、ν[11-0]が負の値をとることが特に注目される。ν[110]が0.485 と大であることや、ν[110] >ν[110] であることと考えあわせると、これもγの大変形を示唆している。

高分子結晶の物性は従来、もっぱら分子鎖方向の水素結合と共有結合の観点からのみ理解されてきた。しかし本研究で得られた結果は、全方向の、またファンデルワールス力を含む、より精密な理解を要求している。このような精密な理解は、高度材料設計への道を開くものになるだろう。

PVAのみ

Glaucocystis

ホヤ

キチン

引張試験機付き繊維試料台

X線回折測定

弾性率

ポアソン比

審査要旨 要旨を表示する

本論文は最多量の天然有機物セルロースの物性と構造の関係に関わる基礎研究である。セルロースの特徴は、その分子構造の対称性に基づき分子鎖が規則正しく充填された結晶を作ることである。この結晶性はセルロースの高い物理的強度のもとであり、結晶の物性値は材料研究において中心的な重要性を持つ。しかしセルロースの結晶は天然状態においても人為的再構成状態においても、幅数十ナノメートル以下の微小なものしか得られない。このような微結晶の物性値の測定には特別の工夫が必要となる。本研究はそのための有力な手法であるX線結晶弾性率測定を用いて、従来得られなかった高い精度での力学物性測定を行おうとしたものである。

微結晶の集合体であるマクロな試料に加えた荷重から結晶にかかる応力を求めるには、試料内での非晶と結晶のあいだの応力分配についてなんらかのモデルが必要となる。また応力の方向を制御するために、高度に配向した試料を用いる必要がある。従来の研究では、応力分配モデルとして非晶と結晶が直列に結ばれたモデルすなわち均一応力仮説(homogeneous stress hypothesis)を採用してきたが、その妥当性の検証が不十分であった。また、用いる微結晶試料の配向も不完全であった。これらの問題を解決するため、本研究では特殊な天然セルロースから得られる微結晶を性質の分かった非晶マトリクス中に分散し、かつその中で微結晶を高度に一軸配向させた繊維試料を作成した。

上記マトリクスとしては「スライム」として知られるポリビニルアルコール-ホウ酸ゲルを利用した。このゲルは通常のゲルと異なり架橋点が可逆的に生成消滅するので、ゲル状態を保ったまま塑性変形できる。このゲルに微結晶を分散させ、制御された条件で延伸変形させることにより、高度に配向した繊維試料を調製する手法を確立した。これを用いて セルロースIβであるホヤ、セルロースIαである海藻 Glaucosystis の微結晶配向試料を調製した。これら試料はc軸の配向度が高い一方で、α軸とβ軸に関しては特異的面配向を持たず、結晶構造解析の試料として理想的なものである。

本研究ではこれら配向試料を用いてセルロースIαの結晶弾性率として189±15 GPa、セルロースIβの値として142±4 GPaを得た。このうちIβの値は従来報告されていた高等植物での実測値及び計算機シミュレーションの値に近い。しかしIαの値は従来実測値がなく、計算機シミュレーションによればIβのそれよりも小さいと予測されていた。したがって本研究の結果はセルロースIαの詳細構造モデルの検証に新しい問題を投げかけるものである。

本研究では上記微結晶試料のほか、伝統的な配向天然セルロース試料であるラミー繊維及びそのマーセル化物(セルロースII)についてもX線回折による力学測定を行った。これらについては結晶部と非晶部の量比に不確定性があるため弾性率はできないが、同条件の変形のもとで複数の格子面間隔の変化を決定できたので、それらより変形の異方性の指標であるポアソン比を決定した。

その結果セルロースIについては 各方向とも0.4〜0.5という、高分子結晶としては大きなポアソン比が得られた。これは応力による変形が結合角の変化よりは結合角の変化によるものであることを示唆している。他方セルロースIIについてはある方向のポアソン比が負になるという予想外の結果を得た。これはセルロースIIの結晶構造の異方性の顕著な現れであり、セルロースの水素結合及び van der Waals 相互作用様式の理解に対して新しい問題を投げかけている。

これらの知見は従来の測定・解析法では得られなかったものであり、セルロースの構造と物性の完全な解明に対していくつもの新しい足がかりを与えるものである。

以上を総合して本論文はセルロース結晶の物性測定法の改良とそれに基づく正確な物性値を与えたものであり、学位授与の要件を満たすと判定される。本論文内容の大部分は既に専門学術誌に発表されている。したがって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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