学位論文要旨



No 119199
著者(漢字) 古賀,恵子
著者(英字)
著者(カナ) コガ,ケイコ
標題(和) 大腸菌増殖定常期の開始機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 119199
報告番号 甲19199
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2750号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 田中,寛
 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 教授 徳田,元
 東京大学 教授 正木,春彦
 立教大学 教授 河村,富士夫
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

大腸菌は枯草菌のような耐久胞子を形成しないが、外界栄養源の枯渇に伴い、増殖を停止し、DNAや蛋白質、膜などの細胞構成要素を守るために、様々なストレスに耐性の定常期細胞へと分化する。本研究では、増殖細胞が栄養飢餓応答等を経て耐久細胞へと分化する過程(相転移)について、モデル微生物である大腸菌を用いて解析を行った。

大腸菌増殖相転移の研究は、定常期特異的なシグマ因子 RpoS の活性化機構を中心に解析されてきた。そして、このプロセスには ppGpp や H-NS 、cAMP などの関与が報告されているが、未だ完全に解明されたとは言えない。また、RpoS を欠損した大腸菌でも増殖相の転移は起こることから、相転移を制御するシステムにはこれまで未知の分子機構が多く存在するに違いない。本研究は、遺伝学的解析の結果、RpoS や ppGpp とは無関係に相転移期に起こることが分かっている現象を解析することにより得られた、大腸菌相転移に関する新しい知見を報告する。

ADLAの発見とその実体

当研究室では大腸菌相転移期における遺伝子発現についての解析を Vibrio fisheri ルシフェラーゼを用いて行ってきた。その過程で、コンセンサス型プロモーターlacUV5 とルシフェラーゼの融合遺伝子(PlacUV5-lux)に由来するルシフェラーゼ活性(Lux 活性)が、栄養増殖期から増殖定常期への相転移のある時点から急激に低下することを見出した。この現象は、LB 培地や最少培地など培養条件によらず、相転移期において認められることから相転移期における基本的な分子機構を反映したものと考えられた。そこで、この時点を増殖相転移の基準点(T0)と定義し、さらに、Lux 活性がT0から急激に低下する現象をADLA (abrupt-decrease of luciferase activity) と呼ぶことにした。

まず、ADLA が PlacUV5-lux の遺伝子発現レベルで起こっている可能性を検討するため、ルシフェラーゼ LuxB 抗体を作製し、T0前後の蛋白質量をウエスタンブロット法で比較した。その結果、Lux 活性がT0前後で約100分の1に減少するにも関わらず、蛋白質量はほとんど変化しないことを見出した。従って、ADLA はレポーターの発現レベルで起こっている現象ではない。Vibrio fisheri ルシフェラーゼの発光反応は、補酵素FMNH2と、基質が酸素により酸化されるときに起こる。また、Lux 活性の測定は、細胞破砕を行うことなく培養液をサンプルとして行っているため、検出される活性は細胞内生理状態の影響を受けやすい。もし、ADLA が発光反応レベルで起こっているとするならば、リミットとなりうる要素は、酸素、ルシフェラーゼ自体の酵素活性、細胞内 FMNH2 濃度、基質濃度、の4つが考えられる。そこで、まず、過剰量の基質添加実験を行ったところ、基質添加の有無に関わらず、ADLA は認められた。つまり、基質が ADLA のリミットになっているのではない。次に、細胞破砕したサンプルの活性を、発光に必要な基質を過剰添加した状態で測定したところ、T0前後で同レベルの活性が認められた。つまり、ルシフェラーゼの酵素活性がT0で急激に低下する訳ではない。さらに、レポーター遺伝子に、FMNH2の代わりに ATP を必要とするホタルルシフェラーゼを用いたところ、ADLA は認められなかった。以上のことより、ADLAのリミットは、酸素、基質、酵素活性ではなく、FMNH2であることが分かった。

ADLA に関する因子のターゲット・スクリーニング

FMNH2 の細胞内レベルは、酸化型 FMN が NAD(P)H から電子を受け取って還元される段階で規定されると予想される。その場合、ADLA の原因は、細胞内の NAD(P)H 濃度の低下である可能性が高く、その制御機構は相転移期におけるエネルギー代謝の切り換えシステムであると考えられる。大腸菌は実際の環境に最も効率的な代謝システムを選択することが知られており、その調節機構は ArcAB 二成分制御系と転写因子 FNR が主に司っている。このことから、これら因子の変異株を用いて解析を行ったところ、FNR、ArcAB は ADLA に関与しないことが分かった。

さらなる解析の結果、バクテリア型核様体蛋白質 hns と hupA、himA の変異株において、ADLA が認められなくなることが分かった。核様態蛋白質は染色体のコンパクト化機能を有するだけでなく、複製・転写・組み換え等の染色体プロセスにグローバルに関わることが知られている。現在のところ、これらの蛋白質が何らかの遺伝子発現を介して ADLA に影響を与えていると考えている。

ADLA に関する因子のランダム・スクリーニング

バクテリア型核様体蛋白質はその生理作用が多面的であるため、それらの ADLA への作用を特定することは困難と考えられた。そこで、ADLAに関する新規因子の同定をトランスポゾン・ミュータジェネシスにより試みた。本研究を進める過程で、硝酸還元酵素 narGHI オペロンのプロモーター活性が、PlacUV5-lux の Lux 活性と逆相関的な活性を示めすことを見出した。すなわち、PnarG-lacZ のβ-ガラクトシターゼ活性はT0 で活性化され、さらに、この活性化は ADLA と同様に hns や himA の変異株では認められない。そこで、PnarG-lacZ の活性化に影響の与える因子は ADLA にも影響を与えるのではないかと考え、PnarG-lacZ を指標に変異株のスクリーニングを行った。約 5000 コロニーのスクリーニングを行った結果、PnarG-lacZ の活性に影響のある新規変異株を7株選抜することに成功した。これらは、シグナル伝達に関わる因子ではなく、硫黄同化酵素、リポポリサッカライド合成酵素、ピリミジン合成酵素、重金属トランスポーターであった。

ADLA と亜鉛イオンの解析

次に、トランスポゾン・ミュータジェネシスにより同定された因子の中でも、亜鉛の高親和性取り込み装置の ATPase サブユニット znuC の変異株について解析を行った。この変異株は PnarG-lacZ の活性化が認められないだけでなく、野生株と比較して、増殖が遅く、ADLA も認められない。また、これらの表現型は、培地中の亜鉛濃度が低いときにのみ認められ、硫酸亜鉛を添加することにより回復した。従って、znuC 変異株では、低亜鉛条件下で細胞内の亜鉛が不足しているために、ADLAが起こらなくなったと考えられる。以上より、ADLAには亜鉛依存的な因子、もしくは亜鉛そのものが関与しているのではないかと考えた。

亜鉛は生体機能に必須な重金属であるが、過剰な亜鉛イオンが細胞質中にフリーで存在すると毒性を示す。また、亜鉛が様々なエネルギー代謝酵素を阻害することが報告されており、細胞内のフリーな亜鉛イオンの新たな機能が解明されつつある。もし、大腸菌相転移期において、亜鉛が直接的なシグナルであるなら、その時期に細胞内の亜鉛濃度が上昇しているはずである。そこで次の2つの方法を用いて細胞内の亜鉛イオン濃度の測定を行った。(1) 亜鉛のメタロセンサーZntRは亜鉛と結合すると、亜鉛排出装置 zntA の転写を活性化する。このシステムを利用し、zntA の転写調節領域とβ-ガラクトシターゼの転写融合遺伝子 PzntA-lacZ のβ-ガラクトシターゼ活性を測定することにより、細胞内のフリー亜鉛濃度の相対的推移のプロファイルを行った。(2) 亜鉛との結合に依存して蛍光を発する FluoZn-AM により、細胞内の亜鉛濃度のプロファイルを行った。

その結果、どちらの測定方法においても、相転移期にフリーの亜鉛濃度が一過的に上昇することが示唆された。さらに、T0において認められる PzntA プロモーター活性の一過的な上昇は、H-NS や ZnuC 破壊株では認められなかった。このことは、細胞内亜鉛の一過的な上昇と ADLA が深く関係していることを示唆している。

まとめ

本研究において、(1) 相転移期のある時点 (T0)から細胞内のルシフェラーゼ活性が急激に低下する現象 (ADLA)を見出した。また、(2) 生理学・生化学的解析の結果、ADLAは細胞内の FMNH2 濃度の減少が原因であることが分かった。さらに、(3) 遺伝学的解析の結果、ADLA はバクテリア型核様体蛋白質 H-NS、IHF、HU 及び亜鉛トランスポーター ZnuC の変異株において認められなくなることが分かった。一方で、(4) 細胞内の亜鉛濃度を PzntA-lacZ と FluoZn-AM によりプロファイルしたところ、T0で濃度上昇することを見出し、さらに、(5) この現象は H-NS と ZnuC 変異株において認められなくなることが分かった。

以上の結果から、ADLA の起こるメカニズムは次のように考えることができる。細胞内生理状態から何らかのシグナルを感知した核様態蛋白質が遺伝子発現に影響を与えた結果、細胞内の亜鉛濃度の上昇が起きる。上昇したフリーな亜鉛イオンが解糖系や TCA サイクル等のエネルギー代謝酵素群を阻害するために細胞内の NAD(P)H 濃度が低下する。その結果、ルシフェラーゼに FMNH2 が供給されなくなり、ADLA が起こる。

審査要旨 要旨を表示する

大腸菌は枯草菌のような耐久胞子を形成しないが、外界栄養源の枯渇に伴い、増殖を停止し、DNA や蛋白質、膜などの細胞構成要素を守るために、様々なストレスに耐性の定常期細胞へと分化する。この過程には ppGpp や H-NS、cAMP、RpoS といった因子群の関与が示唆されているが、実際の分化過程がどのような制御のもとに、どのような順序で進められるのかについては殆ど判っていない。本論文は、増殖定常期への移行過程の初期に新たに見いだされたルシフェラーゼ活性の急激な低下に注目し、分子生物学的、遺伝学的な解析を進めた結果をまとめたもので、5章からなっている。

第一章の序論では、大腸菌のバッチ培養系における増殖相の定義について議論するとともに、増殖定常期への移行に伴って起こる様々な生理学的変化について、これまでの知見をまとめている。特に RNA ポリメラーゼの転写特異性の決定因子であるシグマサブユニットについては、定常期の移行に伴う RpoD と RpoS の置換。RpoS の発現調節、活性化機構について詳しく述べている。また、栄養飢餓応答因子として重要なppGpp、核様体構造の変換に重要な H-NS、相転移により大きな影響を受ける主要代謝系などの背景についても述べられている。

第二章では、対数増殖期から定常期への移行期に起こるルシフェラーゼ活性の急速な低下について解析を行った。発光細菌 Vibrio fisheri のルシフェラーゼ遺伝子(luxCDABE)遺伝子を大腸菌のコンセンサス型プロモーター(lacUV5)の下流に連結し、大腸菌におけるルシフェラーゼ活性の増殖相の移行に伴う変化について経時的に観察した。その結果、増殖定常期の開始に伴う一時点 (T0) から急速にルシフェラーゼ活性が低下する現象を見いだし、これを ADLA (Abrupt Decrease of Luciferase Activity) と命名した。ルシフェラーゼ活性には酵素蛋白質以外に、基質となる長鎖アルデヒド、酸素、還元型フラビンモノヌクレオチド (FMNH2) が必要であることから、本論文では、これら因子についてT0前後での変化について検討を進めた。その結果、1) T0の前後でルシフェラーゼ量が変わらないこと。2)ホタルルシフェラーゼでは反応に酸素を要求するにも拘わらず ADLA が起こらないこと。3)培地への基質アルデヒドの添加で ADLA に影響が見られないことから、ADLAの原因は急速な FMNH2 の濃度低下によることを結論した。細胞内でのフラビンモノヌクレオチドの還元は、還元型ピリジンヌクレオチド (NAD(P)H) からの電子転移により起こる。このことから、細胞内の NAD(P)H 濃度を実際に測定した結果、T0後の顕著な濃度低下を観察し、NAD(P)H 濃度の低下が ADLA の原因であることを強く示唆している。

第三章では、相転移期の生理的変化に重要な役割を果たす核様体蛋白質である H-NS を中心に、核様体蛋白質欠損の ADLA への影響を解析している。その結果、H-NS、IHF、HU のαサブユニット遺伝子を破壊した株において、ADLA が顕著に弱まる表現形質を見いだした。そして、これら核様体蛋白質が何らかの特異的遺伝子発現の制御を介して、ADLA に関与しているものと考察している。

第四章では、ADLA に関与する因子の同定を遺伝学的に進めている。本論文では、ADLAによる急速なルシフェラーゼの低下が、硝酸還元酵素をコードする narG 遺伝子の発現と逆相関にあることを発見し、narG 遺伝子の転写活性化の低下を指標に ADLA に関与する遺伝子のスクリーニングを行った。トランスポゾンミュータジェネシスにより得られた約 5,000 株のライブラリーからスクリーニングを行った結果、数種の候補変異株を得た。これらへのトランスポゾンの挿入位置のマッピングを行った結果、硫黄同化酵素、リポポリサッカライド合成酵素、ピリミジン合成酵素、亜鉛イオントランスポーター遺伝子への挿入が確認された。本論文ではこれら変異株のうち、亜鉛トランスポーター (znuC) 変異株について更に解析を進めている。znuC 遺伝子は、亜鉛イオンの高親和性トランスポーターの ATPase サブユニットをコードする。znuC 変異株では narG 転写活性化が起こらないと同時に ADLA が起こらなくなっており、この表現形質は培地中に高濃度の亜鉛を添加することにより相補された。従ってこの結果より、細胞への亜鉛の取り込みが実際に ADLA に関与している可能性が強く示唆された。亜鉛は生体機能に必須な重金属であるが、過剰な亜鉛イオンは様々な酵素を阻害することにより毒性を示すことが知られている。そこで本論文では、細胞内の亜鉛濃度が実際に T0において上昇しているかどうかを調べるために、亜鉛により活性化されるプロモーター (zntA) の活性を指標とした解析を行った。その結果、T0における zntA プロモーターの一過的な活性化が観察され、T0 における亜鉛イオン濃度の一過的上昇が示唆された。

第五章では、第二章から第四章の結果を総合し、相転移期において特異的トランスポーターによる亜鉛イオンの取り込みが起こり、これが呼吸酵素を阻害することで NAD(P)H が低下することで ADLA を引き起こすという包括的モデルを構築し、その妥当性について考察を加えている。

以上本論文は、大腸菌の増殖相転移期に起こるこれまで全く未知であった現象 (ADLA) について、基本的な性質を決定するとともに、その原因について実験的にアプローチすることで亜鉛イオンの関与を明らかにしたものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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