学位論文要旨



No 119202
著者(漢字) 西村,教子
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,ユキコ
標題(和) 新規 RhoGAP 蛋白質 RICS の脳神経系における機能解析
標題(洋) Studies on RICS, a Novel Rho Family GTPase-activating Protein, in the Central Nervous System
報告番号 119202
報告番号 甲19202
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2753号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 助教授 加藤,久典
内容要旨 要旨を表示する

ヒトの脳には約1011個の神経細胞が存在すると考えられている。それら神経細胞同士が構築する複雑な神経回路網によって、脳は認知、思考、感情、意志などの複雑な高次精神機能を司っている。機能的な神経回路網は、いくつかの全く別個の形態形成の段階を経て形成される。新生神経細胞はそれぞれの固有の位置へと移動し、目的の領域へ適切に樹状突起や軸索を伸展し、相応しい他の神経細胞とシナプスを形成する。これらの異なる過程は全て、神経細胞の形態的発達を指揮する細胞外あるいは細胞内の刺激に応答した、細胞骨格の制御により行われている。

Rho ファミリー蛋白質 (RhoA、Rac1、Cdc42) はアクチン骨格の制御を行う重要な分子である。Rho ファミリー蛋白質は GTP 結合型の活性状態と GDP 結合型の不活性状態との両状態の相互変換が行われることで、様々な生体反応のスイッチとして機能している。Rhoファミリー蛋白質のGDP結合型からGTP結合型への変換は GDP-GTP exchange factor (GEF)によって触媒され、一方GTP結合型から GDP 結合型への変換は Rho GTPases activating protein (RhoGAP)によって促進される。また、GDP結合型蛋白質には、GDI (guanine nucleotide dissociation inhibitors)が結合し、GDP の解離を抑制することにより、不活性状態が維持さされている。これまでに RhoGAP は約30種類が報告されており、更に多くの RhoGAP が哺乳類のゲノム上で見つかっている。一方 Rho ファミリー蛋白質は約20種類のファミリー分子が報告されている。Rho ファミリー蛋白質に対してそれを上回る数の RhoGAP が存在することから、個々の RhoGAP は Rho ファミリー蛋白質の活性制御や、それらの特異的機能を媒介する過程で、それぞれが専門化された役割を担っていると考えられる。

当研究室で単離同定された、新規蛋白質 RICS(RhoGAP Involved in the β-Catenin-N-Cadherin and NMDA Receptor Signaling)は、腎臓、精巣、心臓そして特に脳において高く発現している蛋白質である。RICS はヒトでは1738アミノ酸、マウスでは1740アミノ酸からなり、N末に RhoGAP ドメインを有している。その後の解析により、RICS は Cdc42 と Rac1 に特異的な GAP であることが明らかとなった(Okabe, T., et al., J. Biol. Chem., 2003)。本研究ではジーンターゲティング法により RICS 遺伝子欠損マウスを作製し、脳における RICS の機能について、分子レベルから個体レベルに及ぶ解析を行った。

神経突起伸展における RICS の機能解析

RhoGAP と Rho ファミリー蛋白質は、軸索の成長、ガイダンス、樹状突起の伸展、そしてシナプスの形成といった神経細胞の多段階な形態発達の制御に関与していることが知られている。ラット海馬の初代培養神経細胞を抗 RICS 抗体を用いて染色したところ、細胞体のみならず成長円錐にも RICS の発現が観察されたことから、神経突起伸展への RICS の関与について検討した。

PC12 細胞に野生型 RICS あるいは RICS-R58M ドミナントネガティブ変異体を遺伝子導入し、NGF刺激により突起の伸展を誘導したところ、RICS-R58M変異体導入細胞で著しい突起の伸展が観察された。この結果を受け、神経細胞の突起進展における RICS の機能について更に検討するため RICS ノックアウトマウスを作製した。

RICSノックアウトマウスは正常に生まれ、成長し、繁殖力も正常であった。また組織学的解析を行った結果、RICSノックアウトマウスの脳、腎臓、心臓、肝臓、そして大腸のいずれの組織においても構造上の異常は認められなかった。

同腹の生後1日目のマウスを用いて海馬神経細胞の初代培養を行い、培養24時間後に突起発生率について計測したところ、RICS ノックアウトマウス由来の神経細胞の方が野生型マウス由来の神経細胞に比べ、高い突起発生率を示した。また生後8-9日目のマウス由来の初代培養小脳顆粒細胞においても同様の結果が得られた。

次に、Cdc42、Rac1 が神経突起の伸長を正に制御することが知られていることから、初代培養小脳顆粒細胞を用いて神経突起伸展時のこれら分子の活性化状態について検討した。培養24時間後の初代培養小脳顆粒細胞を用いてPBD Assay を行ったところ、野生型に比べRICSノックアウトマウス由来の神経細胞では活性型Cdc42の量が増加していることが分かった。以上の結果からRICSは神経突起の伸展においてCdc42のGAPとして機能し、神経突起伸展を負に制御することが示唆された。

神経突起伸展を担うシグナル伝達機構には様々な経路が存在することが知られているが、その1つに PAK キナーゼを介する経路がある(Joneson, T., Science, 1996, Lamarche, N., Cell, 1996, Abo, A., et al., EMBO J., 1998, Dan, C., et al., Mol. Cell. Biol., 2002)。最近PAKファミリーの中でも特にPAK5が、Cdc42と協調して神経細胞の突起伸展を直接制御していることが明らかとなった(Dan, C., et al., Mol. Cell. Biol., 2002)。加えて、PAKと直接結合することにより、その局在や活性を制御する GEF が存在することから(Manser, E., et al., Mol. Cell, 1998, Feng, Q., et al., J. Biol. Chem., 2002)、RICSとPAK5の相互作用について検討した。

Flag-RICSと3種類の GFP-PAK5(野生型、S573Nドミナントアクティブ変異体、K478M ドミナントネガティブ変異体)を 293T 細胞に過発現させ、免疫沈降法を用いて複合体形成の有無を確認したところ、RICSは野生型あるいはK478Mドミナントネガティブ変異体 PAK5 と複合体を形成することが分かった。またこれら両分子の結合が直接的なものかを検討するため、in vitro でGST-pull down assay を行ったところ、PAK5 は RICS の 1226-1454 アミノ酸を介して、RICSはPAK5の223-720アミノ酸を介して直接結合していることが確認された。このことから RICS は神経突起の伸展において PAK5からあるいは PAK5へのシグナルを直接伝達し得る分子であることが推察される。

spine の形態形成、シナプス伝達機構における RICS の機能解析

ラット海馬初代培養神経細胞の抗 RICS 抗体を用いた細胞染色により、RICSが spine にも局在することが明らかとなったことから、RICSの spine の形態形成、シナプス伝達機構への関与について検討し、これまでに以下のような知見を得ている。

成体マウスの脳を分画すると、RICS は postsynaptic density (PSD)に局在する。さらにPSD画分においてRICSはβ-カテニン、N-カドヘリン、NR2A/2B、PSD-95と複合体を形成している。また、ラット海馬初代培養細胞におけるRICSの局在は、NR2BおよびPSD-95と一致する。PSD画分中の RICS は CaMKII によってリン酸化を受け、さらにリン酸化を受けた RICS の Cdc42 に対する GAP 活性は抑制される。このことから、RICSはシナプス形成および NMDA を介した細胞骨格の再編成やシグナル伝達において機能していることが推察される。

まとめ

最近、RICSと同一の分子が他の4つのグループから相次いで単離同定され、報告された(Nakamura, T., et al., Mol. Cell. Biol., 2002, Moon, SY., et al., J. Boil. Chem., 2003, Nakazawa, T., et al., Mol. Biol. Cell, 2003, Zhao, C., et al., J. Biol. Chem., 2003)。いずれのグループもPC12細胞、N2a細胞そしてN1E-115細胞といった細胞株を用いて、RICSの神経突起伸展への関与を示唆している。また Nakazawa, T. らはp250RhoGAP/RICSがNR2Bとも直接結合することを明らかにし、p250RhoGAP/RICS が NMDAR を介したシグナル伝達に関与することを示唆している(Nakazawa, T., et al., Mol. Biol. Cell, 2003)。

本研究では、RICSノックアウトマウスの解析を通じて、これまで推測の域を脱し得なかったRICSの生体内における実際の機能について、一部ではあるが明らかにすることができた。現在RICSとPAK5との相互作用がもたらす影響や、CaMKIIを介した RICS の活性制御がもたらす細胞骨格への影響、及び NMDAR を介したシグナル伝達とそれらの関係を含むシナプス可塑性への影響について検討中である。今後このような RICS ノックアウトマウスを用いた RICS の機能解析により、複雑な神経回路の伝達機構が明らかとなることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

Rho family GTPases(RhoA、Rac1、Cdc42)はアクチン骨格の制御を行う重要な分子である。Rho family GTPases はGTP結合型の活性状態とGDP結合型の不活性状態との両状態の相互変換が行われることで、様々な生体反応のスイッチとして機能している。Rho GTPases activating protein (RhoGAP) はRho family GTPases のGTP結合型からGDP結合型への変換を促進する蛋白質である。これまでにRhoGAPは約30種類が報告されており、また更に多くのRhoGAPが哺乳類のゲノム上で見つかっていることから、個々のRhoGAPはRho family GTPasesの活性制御や、それらの特異的機能を媒介する過程で、それぞれが専門化された役割を担っていると考えられている。申請者の所属する研究室にて単離同定された、新規蛋白質 RICS (RhoGAP Involved in the β-Catenin-N-Cadherin and NMDA Receptor Signaling) は、腎臓、精巣、心臓そして特に脳において高く発現している。本研究は、ジーンターゲティング法により作製したRICS遺伝子欠損マウスを用いて、RICSが神経突起伸長やシナプス形成、および NMDA を介した細胞骨格再編成やシグナル伝達、さらに情動記憶において機能することを明らかにしたものである。

第1章では神経突起伸長における RICS の機能について明らかにした。まずラット初代培養海馬神経細胞の細胞体及び成長円錐においてRICSが発現していることを細胞染色により示した。続いてラット褐色細胞腫由来の PC12 細胞への RICS-R58M ドミナントネガティブ変異体の遺伝子導入が、NGF 誘導性の突起伸長を著しく促進させることを明らかにした。この結果を受け、神経細胞の突起伸長におけるRICSの機能について更に検討するためRICSノックアウトマウスを作製した。RICSノックアウトマウスは正常に生まれ、成長し、繁殖能力も有していた。組織学的解析を行ったところ、脳、腎臓、心臓、肝臓、そして大腸のいずれの組織においても構造上の異常は認められなかった。同腹の生後1日目のマウスを用いた初代培養海馬神経細胞では、RICS ノックアウトマウス由来の神経細胞の方が野生型マウス由来の神経細胞に比べ、培養24時間後に高い突起発生率を示した。また同腹の生後8-9日目のマウスを用いた初代培養小脳顆粒神経細胞においても同様の結果が得られた。更に培養24時間後の RICS ノックアウトマウス由来の初代培養小脳顆粒神経細胞では、野生型に比べ、活性型Cdc42の量が増加していることが分かった。以上の結果からRICSは神経突起の伸長においてCdc42のGAPとして機能し、神経突起伸長を負に制御することが示唆された。次に神経細胞の突起伸長を直接制御しているとされるPAK5との相互作用について検討したところ、RICSは野生型あるいはK478Mドミナントネガティブ変異体PAK5とin vivoで複合体を形成することが分かった。また in vitroでGST-pull down assayを行い、PAK5はRICSの1280-1317アミノ酸を介して、RICSはPAK5の445-720アミノ酸を介して直接結合していることを確認した。更にマウス脳抽出物を用いたGST-pull down assay によりRICSは活性型Cdc42及びPAK5と三者複合体を形成することを明らかにした。以上の結果より、RICSは神経突起の伸長においてPAK5からあるいはPAK5へのシグナルを直接伝達し得る分子であることが推察される。

第2章では spine の形態形成、シナプス伝達機構における RICS の機能について明らかにした。まずラット初代培養海馬神経細胞の細胞染色により、RICSはspineにも局在することを示した。次に成体マウスの脳の分画を行い、RICSはpostsynaptic density (PSD)に局在し、さらにPSD画分においてRICSは、β-catenin、N-cadherin、NR2A/2B、そしてPSD-95と複合体を形成していることを明らかにした。また、ラット海馬初代培養細胞におけるRICSの局在は、NR2BおよびPSD-95と一致することを示した。PSD画分中のRICSはCaMKIIによってリン酸化を受け、さらにリン酸化を受けたRICSのCdc42に対するGAP活性は抑制されることを明らかにした。以上の結果から、RICSはシナプス形成およびNMDAを介した細胞骨格の再編成やシグナル伝達において機能していることが推察される。またC57BL/6Nとの戻し交配3代目のRICSノックアウトマウスを用いて Fear Conditioning Test を行ったところ、Cued Test においてRICSノックアウトマウスでは野生型マウスに比べ、嫌悪刺激に対する記憶学習の低下が観察された。このことからRICSは扁桃体を介した情動記憶学習に関与していることが示唆された。

以上、本論文はRICSノックアウトマウスの解析によりRICSの神経突起伸長やシナプス形成、およびNMDAを介した細胞骨格再編成やシグナル伝達における役割を示し、さらにRICSの情動記憶における役割を明らかにしたもので、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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