学位論文要旨



No 119209
著者(漢字) 崔,先柱
著者(英字)
著者(カナ) チェ,ソンジュ
標題(和) バクテリア染色体におけるゲノム再編成に関する研究
標題(洋) Studies on genomic rearrangements in bacterial chromosomes
報告番号 119209
報告番号 甲19209
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2760号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大坪,栄一
 東京大学 助教授 横田,明
 東京大学 助教授 田中,寛
 立教大学 助教授 関根,靖彦
 東京大学 講師 大坪,久子
内容要旨 要旨を表示する

どのような生物でも、それが生き残るために獲得してきた戦略と様々な生活史は、ゲノムのなかに書き込まれており、その情報を理解することによって、その生物の進化の過程を理解することができる。これまでの研究によって、原核生物のゲノムでは、種間或いは一つの種の各株間で異なる様々な再編成に関わる変異(欠失、挿入、逆位、等)が起こっていることが示唆されてきた。そのような変異の創出の要因の一つに、転移因子がある。転移因子とは、原核生物から真核生物にいたるまで、ゲノムに広く存在する固有の長さをもったDNA断片である。多くの場合、内部に自分自身の転移反応を司るトランスポゼースをコードしており、そのトランスポゼースの非相同組み換え機能によってゲノムのある部位から他の部位に転移する遺伝因子である。我々の研究室ではこれまでに、バクテリアの転移因子(挿入因子; IS)がDNAの再編成に深く関与していることを明らかにしてきた。

近年、様々なバクテリアのゲノムの全塩基配列が決定されている。本研究は、ゲノム上の再編成に関わる変異を同定し、それらの存在様式からゲノムの進化を理解しようとしたもので、以下のように要約される。

各種大腸菌、及び、赤痢菌のゲノム再編に関わる変異の解析

大腸菌(Escherichia coli) K-12のMG1655株のゲノムの全塩基配列がアメリカの Winsconsin 大学のグループにより既に決定されている。そこで、E.coli K-12 MG1655 株の塩基配列を基にして、各種大腸菌株(E. coli K-12 の W3110 と JE5519 株、E. coliC、ECOR コレクションの6株)のゲノム上にどのような遺伝的再編成が起こっているかを各株から抽出した全ゲノムDNAを鋳型とし、ゲノムの0-10分に相当する領域(約465kb)において、5 kbずつの間隔でハイブリダイズするプライマーを使用してPCRを行い、生じた産物のサイズを電気泳動で解析した。その結果、株によってMG1655から生じる断片とは大きさが異なるものを見い出した。違いがあったDNA断片の塩基配列を決定し、MG1655の塩基配列と比較した結果、挿入、欠失、置換、重複などの変異が存在することが分かった。これらの変異に加えて、配列や長さが菌株間で大きく異なる外来性と思われる巨大な領域が2ケ所存在することも分かった。

これまでに、病原性大腸菌EHEC O157:H7や赤痢菌のいくつかのゲノムの全塩基配列が決定されているが、これらを含めて見い出される変異には、各株特異的に存在するものと、任意の幾つかの株で共通に見られるものがあった。この分布状況から、これらの変異が垂直伝播のみならず、水平伝播によっても生じたことが示唆される。

E. coli K-12 由来の2株、W3110 と MG1655、の全ゲノム比較

大腸菌K-12 MG1655株のゲノムの全塩基配列の決定に続き、極く最近、日本のグループにより大腸菌K-12 W3110株ゲノムの全塩基配列が決定された。この大腸菌K-12の2株の全ゲノムを比較したところ、両者の塩基配列にはほとんど違いは無いが、ゲノム再編成に関わったと思われる次のような変異が生じていることが分かった。(1)複製起点を含んだ大きな領域の逆位、(2)W3110においてMG1655にはない付加的なISが全部で12個存在すること、一方、MG1655においてW3110にはないIS及び prophage の挿入がそれぞれ異なる座に存在すること、そして(3)W3110においては2個のIS5に挟まれた12.6 kbの領域(大腸菌染色体地図上67.4分の位置)が一単位となって縦列に反復していること、などがあげられる。(1)の逆位は、逆向きに存在する2個のrRNA遺伝子間における相同組み換えによって生じたものであるが、他のほとんどはISが関与するものであり、このことからISによるゲノム再編成が短時日の間に起こることを示唆する。W3110株にのみ見られる12個の挿入因子のうち6つは遺伝子領域に挿入していることが分かった。一般的にISの挿入により標的となった遺伝子はその機能を失うと考えられるが、6つのコピーの挿入による表現型に違いが無いことから、機能的に重複性の遺伝子に挿入したことを示唆する。

大腸菌ゲノムに生じた変異による大腸菌・赤痢菌の近縁関係の推定

上記の研究において、任意のいくつかの大腸菌株で共通に見いだされる変異が存在することを述べたが、これらの変異は大腸菌の分類と系統関係を知る上での良いマーカーになると考えられた。そこで、これらの変異の有無をバーコード化し、得られたバーコードを用いて系統樹を作成した。ここで得られた系統樹は、幾つかのハウスキーピング遺伝子の塩基配列に基づいて作成した系統樹と、よく一致することが分かった。このことは、ゲノムの構造に基づいて得た大腸菌の分類と近縁関係が妥当なことを示す。

ゲノム上に見い出された変異の有無による系統樹の作成は簡便であり、多種多様な大腸菌の分類と系統関係の解析に有用と考えられる。実際、この方法により数多くの病原性大腸菌及び赤痢菌株の近縁関係の推定に応用してみた結果、大きくは3つのグループに分けられ、さらに多くのサブグループ(少なくとも8つ)に分けられることが分かった。調べた種々の大腸菌株においては、病原性の表現型に基づいた分類とは必ずしも一致しないが、抗原型(O、H、或いは、K型)とは比較的よく一致することが分かった。また、赤痢菌、例えば S. flexneri の系統は大腸菌のサブグループの内の一つを形成することが分かった。このことは、赤痢菌が本質的には大腸菌の一部に属することを示す。

特定部位に挿入する新規ISエレメント、IS621、の発見

ゲノム上に生じた変異の解析中に、一つの大腸菌株ECOR28ゲノム上に長さが1,279 bpの挿入変異が存在することを見い出した。この配列は少なくともゲノム中の10ヶ所に存在することから新たな挿入配列(IS621と命名)であることが分かった。IS621は内部に326個のアミノ酸からなるトランスポゼースをコードすると思われる一つの open reading frame を持っていた。DNA配列を用いた相同性検索では病原菌の細胞外膜の抗原性タンパク質(繊毛;pili)の産生に関わる部位特異的組み換え酵素 [pilin gene invertase (PIV)] をコードする遺伝子(piv)と高い相同性を示したが、トランスポゼースのアミノ酸配列を用いた相同性検索からは、IS11O/IS492ファミリーのメンバーがコードするトランスポゼースとも部分的な相同性を持つことが分かった。IS110/IS492ファミリーのメンバーにコードされるトランスポゼースも低いながらPIVと相同性を持つことが分かっていたが、IS621は既知のどのメンバーよりもpiv遺伝子に一番近い関係にあることが分かった。PIVとトランスポゼースのアミノ酸配列には、四つの酸性アミノ酸残基が各々対応する位置によく保存されていることが分かった。これらのアミノ酸残基は恐らくD-E (或いはD)-D-Dモチーフとして活性中心を構成する可能性が示唆される。

興味深いことに、ECOR28ゲノム中で見いだされた10コピーのIS621は全て散在性配列REP(repetitive extragenic palindromic)の内部にあり、REP間で良く保存されている約15 bp配列の特定部位に挿入していることが分かった。また、IS110/IS492ファミリーに属する因子には、IS621のように、ゲノム内の反復配列中の特定部位に転移するものが幾つか存在していることも分かった。

古細菌 Sulfolobus tokodaii に存在する挿入因子の同定によるゲノム再編の解析

S. tokodaii は、好熱・好酸性硫黄古細菌 (Crenarchaeon) である。九州の別府温泉から単離・同定された S. tokodaii のstr. 7株は、80℃以上の高温、pH 2〜3程度の酸性条件、好気的な環境で一番盛んに生育できる。最近、この株のゲノムの全塩基配列が決定された。これまで、我々の研究室ではISに関する研究から真正細菌の染色体ゲノムとそのプラスミドにおいて、ゲノム再編成にISが深く関与していることを実証してきた。この観点から極限環境で生育する古細菌 S. tokodaii のゲノムもISにより様々な再編成が生じているかどうか興味が持たれる。そこで、S. tokodaii str. 7株のゲノムに存在する挿入因子を調べた結果、17種類のISが合計223コピーで存在することが分かった。これらの因子の中で約72%のコピーが標的配列の重複が見られないもの、或いは、欠失変異を持つような不完全なものであることが分かった。このことは、S. tokodaii str. 7株のゲノムに激しい再編成が生じている可能性を示唆することである。

S. tokodaii と類似の生育環境で生育する他の Crenarchaeon の S. solfataricus が、地理的には全く異なる地域(Naples,Italy)で単離・同定されており、既にそれのゲノム全塩基配列が決定されている。興味あることに、両株の全ゲノム間の相同性は非常に低いにも関わらず、両株で見出される挿入因子の中には比較的高い相同性を持つものが存在することが分かった。これはISがこの2つの株間で進化的時間において最近に水平移動したことを示唆する。

以上本論文において、大腸菌・赤痢菌さらには古細菌のゲノム上に様々な再編成が生じていることを示し、バクテリアの進化が大規模なゲノム再編によって促されてきたことを示すと共に、大腸菌・赤痢菌においては再編成に関わる変異の存在様式の解析を通して、様々な系統の分類のみならず、系統関係も推定できることを示した。

審査要旨 要旨を表示する

いかなる生物でも、それが生き残るために獲得してきた戦略と様々な生活史は、ゲノムの中に書き込まれており、その情報を基にその生物の進化の過程を理解することができる。原核生物のゲノムでは、様々な再編成に関わる変異(欠失、挿入、逆位、等)が起こっている。そのような変異の要因の一つに、固有の長さの DNA 断片を持ち、内部に自身の転移を司るトランスポゼースをコードし、ゲノムのある部位から他の部位に転移し、様々な再編成を促す転移因子がある。近年、様々なバクテリアのゲノムの全塩基配列が決定されているが、本論文では、ゲノム上の再編成に関わる様々な変異を同定し、それらの存在様式からゲノムの進化を理解しようとしたもので、6つの章からなる。

第1章で研究の背景を述べた後、第2章では先ず各種大腸菌及び赤痢菌のゲノム再編に関わる変異の解析結果を述べている。ゲノムの全塩基配列が分かっている大腸菌K-12 MG1655株の配列を基にプライマーを設計し、他の9種の大腸菌各株から抽出した全ゲノム DNA を鋳型とし、約 465 kb(染色体地図上0 - 10 分)領域において5 kbずつPCR で増幅することによって、長さ違うDNA断片が生じることを見出した。これらの断片の塩基配列を決定することによって、挿入、欠失、置換、重複、などの多くの変異を同定し、さらに全塩基配列が決定された病原性大腸菌 O157:H7や赤痢菌のいくつかの配列と較べることにより、多くの変異が任意の幾つかの株で共通に存在することを見出した。これらの変異の有無をバーコード化し系統樹を作成したところ、幾つかのハウスキーピング遺伝子の塩基配列に基づいて作成した系統樹とよく一致することが分かった。そこで、多種多様な他の病原性大腸菌及び赤痢菌株を調べ、これらが3つのグループからなり、さらにサブグループ(少なくとも8つ)に分れること、この分類が病原性の表現型と一致しない場合があるが、抗原型とはよく一致することを示した。また、赤痢菌S. flexneriの系統は大腸菌の一つのサブグループを形成することを示し、赤痢菌が大腸菌に属することを明らかにした。

第3章では、大腸菌K-12 MG1655株と、最近決定された大腸菌K-12 の他のW3110株の全ゲノム配列とを比較し、両者の塩基配列には大きな違いは無いが、MG1655 には付加的なIS及びprophageの挿入がそれぞれ1個、一方W3110には 付加的なISが12個存在すること、さらに2 個の IS5 に挟まれた 12.6 kb の大きさの領域が縦列に反復していることを明らかにした。このことから大腸菌K-12 ゲノムにおいては、ISによる再編成が短時日(50年)に起こることが示唆された。

第4章では、大腸菌ゲノム上に生じた変異の解析中に大腸菌ECOR28 株のゲノムで見出された新規挿入配列(IS621と命名)について述べている。この配列は、長さが 1,279 bpで少なくともゲノム上の10ケ所に存在すること、それがコードするトランスポゼースが病原菌の繊毛の産生に関わる部位特異的組み換え酵素[pilin gene invertase (PIV)] と高い相同性を持つが、IS110/IS492 ファミリー因子のトランスポゼースとも部分的な相同性を持つことを明らかにした。興味深いことに、10 コピーの IS621 は全て散在性配列REP (repetitive extragenic palindromic) の内部にあり、REP内の約15 bp の特定の配列の特定部位に挿入していることを明らかにした。IS110/IS492 ファミリーに属する因子には、IS621 と同様、ゲノム内の反復配列中の特定部位に転移するものが幾つか存在することを指摘した。

第5章では、全塩基配列が決定されている好熱・好酸性硫黄古細菌Sulfolobus tokodaii のゲノム内の挿入因子によるゲノム再編について述べている。このゲノムには、17種類のISが合計 223 コピーで存在すること、これらの因子中の約 72% のコピーには標的配列の重複が見られないこと、また、欠失変異が生じた不完全なものが存在することを明らかにした。このことから、S. tokodaii は、真性細菌と同様、激しいゲノム再編成が生じている可能性が示唆された。第6章では、得られた結果全体の総括をしている。

以上、本論文は、大腸菌・赤痢菌さらには古細菌のゲノム上に様々な再編成が生じていることを示し、バクテリアの進化が大規模なゲノム再編によって促されてきたことを示唆すると共に、大腸菌・赤痢菌においては再編成に関わる変異の存在の有無の解析を通して、様々な系統の分類と関係が推定できることを示したもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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