学位論文要旨



No 119210
著者(漢字) 池邑,良太
著者(英字)
著者(カナ) イケムラ,リョウタ
標題(和) 摂食制御におけるバゾプレッシンの役割に関する研究
標題(洋)
報告番号 119210
報告番号 甲19210
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2761号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 桑原,正貴
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

エネルギー平衡の維持は生物の根源的な機能であり、高等動物においては摂食という形でエネルギー基質の補給がなされる。したがって、動物にとって摂食量を適切に制御することは生きていく上で非常に重要であり、「食欲はどのようにして調節されるのか」という課題については古くから研究がなされてきているとともに、現在においても依然として生物学上の重要な研究テーマとなっている。従来、過食・肥満といった形質を示す遺伝子変異動物を使用したり、絶食や制限給餌をすることでエネルギー摂取を人為的に変化させて動物の体内環境の変化を解析することにより、摂食制御に関与する物質が数多く発見されてきた。現在までに発見されている生理活性物質のうち、摂食を促進させるものとしては神経ペプチドY(NPY)、メラニン凝集ホルモン(MCH)、アグーチ関連タンパク質(AGRP)、オレキシンやグレリンなどが、食欲を抑制する物質としては、メラノサイト刺激ホルモン(α-MSH)、コカイン・アンフェタミン制御転写物(CART)、コレシストキニン(CCK)やレプチンなどが知られている。また、摂食は視床下部において制御されると考えられており、視床下部外側野(LH)には摂食促進に関与する「摂食中枢」が、視床下部腹内側核(VMH)には摂食抑制に関与する「満腹中枢」が存在するものと理解されている。一方、水分平衡の維持もエネルギー平衡の維持と同様に生物にとって重要であり、動物においては飲水という形で水分補給が行われる。体内の水分環境の維持には体液浸透圧が密接に関与しており、一般に脱水などにより体液の浸透圧が上昇すると飲水が促され、浸透圧が低下すると飲水は抑制される。飲水も視床下部により制御されており、浸透圧を感受する浸透圧受容器が視床下部前部に存在することが示されている。また、抗利尿作用により浸透圧調節に関与するホルモンであるバゾプレッシンは、視床下部室傍核(PVN)や視索上核(SON)に存在するニューロンにおいて産生されている。バゾプレッシンは浸透圧受容器の興奮や、腎血流量の低下等によりレニン・アンギオテンシン系が活性化されて産生されるアンギオテンシンIIの中枢作用により、下垂体後葉からの分泌が促進される。

従来の研究により、動物を絶食状態にすると飲水量が低下すること、実験的に体液浸透圧を上昇させると摂食行動が抑制されること、また摂食促進に関与するNPYやオレキシンを投与すると同時に飲水量も増大し、さらにこれらの物質は絶食負荷時のみならず絶水負荷によっても発現が促進されることなどが示されている。これらのことは、エネルギー平衡の維持機構と水分平衡の維持機構の間には密接な関係があることを示唆している。摂取した食物の消化吸収のためには大量の水分が消化管内に分泌される必要があることなどを考えると、体内の水分環境に応じて摂食量を制御する機構が存在することは、合目的的であると考えられる。本研究においてはバゾプレッシンに焦点を当て、体液浸透圧上昇時の摂食抑制機構の解明を試みた。そのために、第1章では体液浸透圧の上昇に伴い分泌の上昇する内因性バゾプレッシンが生理学的に摂食抑制に関与しているかどうかを検討した。さらに、第2章では視床下部におけるニューロンの活性化、および摂食制御に関与する遺伝子群の発現に対するバソプレッシンの効果を検討し、バソプレッシンの中枢作用の機序について検討した。

第1章においては、まず成熟雄ラットにバゾプレッシンを腹腔内へ投与したところ、バゾプレッシンは20μg/kg以上では用量依存的に、少なくとも投与後11時間に渡って摂食行動を抑制することが分かった。そこで、バゾプレッシン(20μg/kg)と同時にV1受容体拮抗薬([β-Mercapto-β,β-cyclopentamethylenepropionyl1,O-me-Tyr2,Arg8]-Vasopressin,40μg/kg)あるいはV2受容体拮抗薬([Adamantaneacetyl1,O-Et-D-Tyr2,Val4,Aminobutyryl6,Arg<8,9>]-Vasopressin 40 μg/kg)を同時に投与したところ、バゾプレッシンの摂食抑制効果はV1受容体拮抗薬によりほぼ完全に阻害されたが、V2受容体拮抗薬によっては影響を受けなかった。次に、腹腔内へ高張液(20%塩化ナトリウム溶液、2ml/kg)を投与したところ、血中バゾプレッシン濃度には投与後15分をピークとする一過的な上昇が見られ、また摂食量は投与後12時間に渡って有意に抑制された。この高張液投与による摂食量の低下は、V1受容体拮抗薬の同時投与により阻害された。さらに、第三脳室内に留置したカニューレを介して無麻酔条件下でバゾプレッシン(40ng/2μl)を脳室内投与したところ、有意な摂食量の低下が見られた。これらの結果より、体液浸透圧の上昇時に放出の高まるバゾプレッシンは、V1受容体を介して脳に作用し、摂食を抑制することが示唆された。ただ、血中バゾプレッシン濃度の上昇は一過的であるのに対し、摂食抑制作用は長時間持続することから、バゾプレッシンにより誘発される摂食抑制はさらに他の長時間変化の持続する因子を介して発現するものと考えられた。バゾプレッシンの中枢作用が、ホルモンとして下垂体後葉から血液中に放出されたものによるのか、あるいは脳内で神経伝達物質として放出されたものによるのかについては今後さらなる検討を要する課題であるが、視床下部内にはバゾプレッシンニューロンの神経終末が豊富に見られることか、筆者は後者の可能性が高いと想定しておる。

第2章においては、第1章で見られたバゾプレッシンの摂食抑制作用の機序を検討するために、視床下部におけるニューロンの興奮性、および摂食関連遺伝子群の発現に対するバゾプレッシンの影響を解析した。まずバゾプレッシン(20μ/kg)を腹腔内へ投与し、1時間後に脳を採取して視床下部の組織切片を作製し、神経興奮の指標としてc-Fosの発現を免疫組織化学的に検討した。その結果、PVNにおいてc-Fos陽性細胞の数がバゾプレッシン投与により有意に増加していることが明らかとなった。しかし、SON、VMH、弓状核など今回検討した他の視床下部神経核においては、c-Fos陽性細胞の数に変化は認められなかった。また、PVNのc-Fos発現に対するバゾプレッシンの促進効果は、V1受容体拮抗薬(40μg/kg)を同時投与することにより阻害された。これらの結果より、バゾプレッシンによりPVNの神経細胞が活性化されていることが示唆された。PVNには、バゾプレツシンニューロンやオキシトシンニューロン、副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRH)ニューロンなどが存在することから、バゾプレッシン投与によってこれらのニューロンのいずれかが活性化されたものと考えられた。次に、やはりバゾプレッシン(20μg/kg)を腹腔内投与し、その3時間後に脳を摘出して視床下部におけるNPY、AGRP、MCH、CART、オレキシン、プロピオメラノコルチン(POMC)の遺伝子発現をリアルタイムRT-PCRにより検討した。その結果、バゾプレッシン投与によりこれらの遺伝子のなかではPOMC遺伝子にのみ有意な発現上昇が見られ、他の遺伝子の発現には変化は認められなかった。POMCは幾つかの神経ペプチドの前駆体であり、そのプロセシング産物であるα一MSHは摂食抑制作用を有するため、POMCの発現増加に伴うα-MSHの増加がバゾプレッシンによる摂食抑制作用を仲介していることが示唆された。また、POMCは副腎皮質刺激ホルモンの前駆体でもあり、CRHによっても発現が上昇することから、先にPVNで活性化が見られたニューロンの少なくとも一部はCRHニューロンである可能性が考えられた。

以上、本研究により、脱水による体液浸透圧の上昇や血液量の低下により分泌が促進されるバゾプレッシンが中枢に作用して摂食を抑制するという機構により、体液量に応じた摂食量の調節がなされているものと考えられた。バゾプレッシンはおそらくV1受容体を介してPVNニューロンを活性化することによりPOMC遺伝子の発現を持続的に上昇させ、それに伴い産生の高まるα-MSHにより摂食を抑制していることが示唆された。本研究で得られた知見は、バゾプレッシンがエネルギー平衡と水分平衡の協調的制御という極めて重要な役割を演じていることを示すものである。

審査要旨 要旨を表示する

エネルギー平衡の維持は生物の根源的な機能であり、高等動物においては摂食という形でエネルギー基質の補給がなされる。動物にとって摂食量を適切に制御することは重要であり、「食欲はどのようにして調節されるのか」という課題は生物学上の重要な研究テーマとなっている。一方、水分平衡の維持も生物にとって重要であり、動物においては飲水という形で水分補給が行われる。動物を絶食状態にすると飲水量が低下すること、実験的に体液浸透圧を上昇させると摂食行動が抑制されることなどから、エネルギー平衡と水分平衡の維持機構の間には密接な関係があることが示唆されている。本研究は、バゾプレッシンに焦点を当て、体液浸透圧上昇時の摂食抑制機構を明らかにすることを目的としたものである。そのために、第1章では体液浸透圧の上昇に伴い分泌の上昇するバゾプレッシンが生理的に摂食抑制に関与しているかどうかを検討した。さらに、第2章では視床下部におけるニューロンの活性化、および遺伝子の発現に対するバソプレッシンの効果を検討し、その作用機序について検討した。

第1章においては、まず成熟雄ラットにバゾプレッシンを腹腔内へ投与したところ、バゾプレッシンは20 μg/kg以上では用量依存的に摂食量を抑制することが分かった。そこで、バゾプレッシン(20 μg/kg)と同時にV1受容体拮抗薬(40 μg/kg)あるいはV2受容体拮抗薬(40 μg/kg)を投与したところ、バゾプレッシンの摂食抑制効果はV1受容体拮抗薬によりほぼ完全に阻害されたが、V2受容体拮抗薬によっては影響を受けなかった。次に、腹腔内へ高張液(20%塩化ナトリウム溶液、2 ml/kg)を投与したところ、血中バゾプレッシン濃度には投与後15分をピークとする一過的な上昇が見られ、また摂食量は投与後12時間にわたって抑制された。この高張液投与による摂食量の低下は、V1受容体拮抗薬の同時投与により阻害された。さらに、バゾプレッシン(40 ng/2 μl)を脳室内投与したところ、有意な摂食量の低下が見られた。これらの結果より、体液浸透圧の上昇時に放出の高まるバゾプレッシンは、V1受容体を介して脳に直接作用し、摂食を抑制することが示唆された。ただ、血中バゾプレッシン濃度の上昇が一過的であるのに対し、摂食抑制作用は長時間持続することから、バゾプレッシンにより誘発される摂食抑制はさらに他の長時間変化の持続する因子を介して発現するものと考えられた。

第2章においては、バゾプレッシン(20 μg/kg)を腹腔内へ投与し、神経興奮の指標としてc-Fosの発現を免疫組織化学的に検討した。その結果、視床下部室傍核(PVN)においてc-Fos陽性細胞の数がバゾプレッシン投与により有意に増加することが明らかとなった。しかし、視索上核(SON)、視床下部腹内側核、弓状核ではc-Fos陽性細胞の数に変化は認められなかった。PVNには、バゾプレッシンニューロン、オキシトシンニューロン及び副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRH)ニューロンなどが存在する。バゾプレッシンニューロンとオキシトシンニューロンはSONにも存在しているが、SONのc-Fos発現には変化が認められなかったことから、PVNにおいてc-Fosを発現しているのはCRHニューロンである可能性が高いと考えられた。次に、やはりバゾプレッシンを腹腔内投与し、視床下部における神経ペプチドY、アグーチ関連タンパク質、メラニン凝集ホルモン、コカイン・アンフェタミン制御転写物、オレキシン、プロピオメラノコルチン(POMC)の遺伝子発現をリアルタイムRT-PCRにより検討した。その結果、バゾプレッシン投与によりPOMC遺伝子にのみ有意な発現上昇が見られた。POMCはメラノサイト刺激ホルモン(α-MSH)の前駆体であり、α-MSHはCRHを介して摂食を抑制することが知られている。したがって、バゾプレッシンにより発現が上昇するPOMCを前駆体としてα-MSHが産生され、それがPVNに作用してCRHニューロンの興奮性を高めることにより摂食が抑制されることが示唆された。

以上、本研究により、脱水などにより分泌の促進されるバゾプレッシンが中枢に作用して摂食を抑制するという機構により、体液量に応じた摂食量の調節がなされているものと考えられた。本研究で得られた知見は、バゾプレッシンがエネルギー平衡と水分平衡の協調的制御という極めて重要な役割を演じていることを示すものであり、さらにバゾプレッシンを介した摂食制御や摂食障害などの病態の改善にも貢献できるものと考えられ、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものとして認めた。

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