学位論文要旨



No 119222
著者(漢字) 古橋,元
著者(英字)
著者(カナ) フルハシ,ゲン
標題(和) 中国省市自治区別食料需給と農業過剰労働力の予測に関する研究
標題(洋)
報告番号 119222
報告番号 甲19222
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2773号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大賀,圭治
 東京大学 教授 谷田貝,光克
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 助教授 川島,博之
内容要旨 要旨を表示する

近年の中国の経済発展は目覚ましい.中国の世界における経済的な立場が大きくなるにつれて,日本においても中国に関するトピックスが農業から工業分野まで至る所で,幅広く議論されることが増えている.その際に,中国を肯定する論調から否定する論調まで,さまざまな意見が述べられているが,浅い認識の基に極端な議論がまかりとおっている場合がある.中国は世界の人口の2割を占め,国土の占める範囲は熱帯から亜寒帯まであり,砂漠地帯にまで及んでいる.また,経済発展のレベルも沿岸部と内陸部では10倍以上の開きが存在する地域もある.地域間の格差が非常に大きい中国において,中国を一国として扱ってしまうと,場合により認識を誤る可能性も否定できない.本論文は中国の地域格差に焦点を当て,食料生産・需要,関税率・輸送費の生産への影響,農業部門の過剰労働力について検討を行った.

第1章では,中国の食料需給問題が1995年に発表されたレスター・ブラウンの“Who will Feed China?”の発表以降,世界で大きな注目を集め,その後も,中国の食料問題に関する悲観論と楽観論による議論が続いたことから,悲観論のレスター・ブラウンと楽観論のミッチェルら(1998),スミル(2003)らの分析を述べ,逸見(2003)による評価を示している.そして,これらの分析が基本的に中国全体を扱いアプローチを行っていることに対し,本研究では中国が広大な国土と膨大な人口を抱え,多様性と地域格差を持つ国であることを示し,各省市自治区別に分析を行う必要性述べた.

第2章では,中国の食料需給におけるレスター・ブラウンの分析への反論をベースに,中国全体および各省市自治区別の耕地面積,単位面積当たりの収量,人口,1人当たり品目消費量等について,統計を用いて現状認識を行った.そして,主要食料品目の生産について,中国全体および各省市自治区のそれぞれの視点から,統計データを用いて現状比較を行った.

第3章では,1990年代央から,世界的に中国の食料需給が関心を集めた中国の食料需給について,省市自治区別のモデルを開発し,検討を行った.1995年にレスター・ブラウンにより“Who will Feed China?”が発表され,同年の中国の穀物輸入量が2700万トンを超え(FAOSTAT),1995年秋から96年春にかけて穀物の国際相場が高騰(経済企画庁物価局1996)したことにより,世界における中国の食料需給問題が大きくクローズ・アップされた.先進各国に共通にみられる「植物性食品から動物性食品への移行」(森島,金井,大賀ら1995)という現象が,経済成長に伴って,中国においても起こっているとみられている.以上を踏まえ,中国における将来的な食料需給について,地域的な格差を考慮して省市自治区別の食料需給を具体的に予測している.

本論文で用いた中国省市自治区別食料需給予測モデルは,農業部門の部分均衡モデルであり,価格により需給調整がなされることを前提とする価格均衡モデルいわれる特徴を持ち,需給が均衡するように価格が同時決定する仕組みについて,構造方程式および定義式から説明を加えた.

予測の結果,中国では2020年までに,主食となるコメおよび小麦に関しては,緊急を要する不足は生じないと予測され,主食の穀物自給は中期的には達成される.沿岸部における需要の増加に対しても,主要産地を中心とする生産の拡大によって,両品目ともにほぼ需給がバランスすることが予測される.そして,畜産に関しては,経済成長に伴い植物性食品から動物性食品への移行がさらに加速することが分かり,畜産品目の需要の増加にも2つの方向が見いだされる.中期的に中国は,基本的な食には困ることはないが,食料消費の嗜好の変化による動物性食品の需要が拡大するとともに,高級化が進み,豚肉の自給は達成されるが,牛肉等の消費の増加よって,輸入に頼らざるを得ない状況が生み出される.中国政府は,主食の自給は可能であり,畜産品目とトウモロコシの輸入超過を看過するか,それとも対策を立て主食以外の品目についても自給を目指すか重要な岐路に立たされている.

第4章では,WTO加盟によって関税率が引き下げられ,中国の食料生産がどのように変化するか,そして,中国国内における輸送費の削減による国内の食料生産がどのように変化するかを,中国省市自治区別食料需給モデルを用いて予測し,検討を行った.中国のWTO加盟は,中国経済を新たな段階へ導くと考えられているが,農業分野においては負の影響も懸念されている.その影響の一つとして,輸入量の急増が考えられているが,その際輸入された食料が広大な中国全体に行き渡るかについては疑問が残る.今後,道路などインフラの整備が進むことにより,輸入された穀物が国内のより広い地域で消費される可能性があり,内陸部などに大きな影響があると考えられる.そして,中国の農産物関税の引き下げおよび輸送インフラの改善が中国の各地域の農産物生産にどのような影響を及ぼすかについてのモデルを開発し,シミュレーションを用いて検討を行った.

結果として,関税率の低下による中国国内の食料生産への影響は,限定的だといえる.関税引き下げの影響は,輸送費用が低下しない限り内陸部にあまり浸透せず,沿岸部のみに変化を及ぼすという状態になっている.輸送費低下の影響は関税率低下よりも大きく,特に中国の内陸部の食料生産に影響を及ぼしている.内陸部は,大消費地である沿岸部にアクセスすることが容易になり,生産を刺激されていることが分かる.将来の中国農業発展のためには,広域流通のためのインフラの整備が最も重要なものの一つとして,確実に実施されなければならない.

第5章では,中国の農業部門における過剰労働力の問題が,世界的にも注目され,中国国内においても農業・農村・農民の問題を総称する「三農問題」の根幹として,大きくクローズ・アップされている.中国の農業過剰労働力は,高い経済成長を達成するなかで農業と非農業部門間の所得格差拡大の大きな原因の一つとなっている.中国の農業労働力がどう変化するか,所得格差がどの程度拡大するかという問題は,世界的に注目されている.これらの問題に対する一つの考察として,中国における農業過剰労働人口について,ペティ=クラークの法則を基に,中国省市自治区別食料需給モデルの結果を用いて,予測した.また,農業部門と非農業部門間の労働力1人当たりのGVA(Gross Value Added)についても予測を,第5章から第6章にかけて行った.

現在までの過剰労働力に関する定義と推定方法,そして,中国の過剰労働力の推定方法について述べ,中国および各省市自治区の農業部門における労働人口に関連する統計データを用いて,中国全体の国際比較,各省市自治区別の比較を行った.農業部門の過剰労働人口の推計については,ペティ=クラークの法則を基に,「総労働人口に対する農業部門の労働人口の割合は,国内総生産(1人当たりGDP)と農業が占める総生産の割合との両方の作用によって生み出される」(World Bank 1983) という考え方を,世界各国のクロス・セクション・データに当てはめて,推計される農業労働人口を標準農業労働人口とし,これを超える農業就業人口を農業部門の過剰労働人口として,推計を行った.

その結果,中国全体の農業過剰労働人口は24.5%となる.そして,内陸部の地域の多くが20%を超える農業部門の過剰労働人口を抱えているが,農業部門の過剰労働人口率が最も多い地域は,上海,広東などの沿岸部の地域であり,都市部の経済成長を余所に,農業部門では過剰労働人口を多く抱えていることが分かる.

第6章では,第5章において推定した標準的な農業労働力の割合の推定式を含み,現在の中国の経済成長と人口増加が維持することを前提にした食料需給予測をベースに,各省市自治区の標準的な農業労働力および過剰労働力を予測し,さらに農業部門と非農業部門の所得格差についても予測し検討した.

結果として,農業部門の過剰労働力の移転を制限する最大の要因として存在する戸籍制度によって,農業部門の過剰労働力を滞留させたままであれば,農業部門と非農業部門の格差はより一層拡大していくことになるだろう.そして,高い経済成長を達成しても,農業部門の過剰労働人口はさらに拡大し,滞留する農業部門の過剰労働人口によって,都市部はより大きな労働力の移転圧力に晒されることになる.高すぎる経済成長の持続は所得格差を拡大し,農業過剰労働人口も増加させ,過剰労働力の問題はより深刻化する.中国政府はある程度の経済成長,所得格差の是正,戸籍制度による移動制限の緩和,大都市部への人口集中,大量流入を防ぐという厳しく困難な舵取りが求められると結論した.

第7章では,考察のまとめと今後の課題を述べた.そして,結論として,中国はあまりにも巨大な人口を抱え,高度経済成長によって,世界にとって無視できない存在となった.中国は巨大さと多様性によって,一つの枠で捉えることは不可能であり,多様な視点から中国を多面的に捉える必要があると筆者は考えている.中国の多様性の一つは,各省市自治区の地域間において様々な相違があり,経済格差も大きいことから生じている.その地域格差を認識した上で,中国を分析する必要性は大いに存在し,その地域格差からの検討にしか得られない結果があり,本研究はその要件を満たし,一定の成果をあげることに成功したと考えている.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は世界的に注目を集めている中国の食料需給問題と農業過剰労働力という大問題に、現状分析を基礎に、モデルによる計量的予測という方法で正面から取り組んだ大作である。

古橋が本論文で提示した中国のモデルは、まず中国全土を省市自治区別に区分した農産物需給モデルであることに特徴がある。また、穀物のみならず畜産物を含めて、主要な農産物を品目(コメ・小麦・トウモロコシ・大豆・豚肉・牛肉・羊肉・家禽肉)の需要と生産、価格、純移出入などの相互依存関係を明示的に組み込んだ、本格的な中国の農産物需給予測モデルとしては世界で最初のものである。

本論文では、まず、周知となっている農地の過少推計を修正した耕地をベースとして, 1998年を基準年として2020年までの予測を行い、コメおよび小麦に関しては,沿岸部における需要の増加に対して,主要産地を中心とする生産の拡大によって,両品目ともに基本的に自給を維持すると予測しているが、大豆については油脂需要の拡大によって輸入が増大することを予測している。また、畜産に関しては,豚肉・家禽肉は需要に見合った生産が行われるが、畜産需要の拡大によって,沿岸部では飼料用のトウモロコシの海外からの輸入が拡大すると予測し、中国の食料需給についてのレスター・ブラウンらの悲観論、ミッチェルらの楽観論のいずれに対しても批判的な見通しを示している。

このモデルを用いた、中国のWTO加盟に伴う農産物の関税率が引き下げと,中国国内における輸送インフラの改善による輸送費の削減の効果についてのシミュレーション予測では、関税率の低下による中国国内の食料生産への影響は,かなり限定的であり、輸送費用が低下しない限り内陸部にはあまり浸透せず,沿岸部のみに変化を及ぼすという注目すべき結果を示し、広域流通のためのインフラの整備が極めて重要であることを示唆している。

次に、本論文では農業過剰労働力の推計について,世界各国の経験的な農業労働人口から,ペティ=クラークの法則を基に推計した構造方程式を用いて,国際比較により標準的な農業部門の労働力を推定・予測するというきわめてユニークな方法によって、農業過剰労働力の推定・予測を行っている。しかも農業過剰労働力の予測の対象地域を中国の各省市自治区にすることによって,地域間の格差を明確に示している。

本論文では、1998年時点における国際的にみて標準的な農業労働力従事者数を基準として見ると、中国の農業過剰労働人口は,内陸部の地域の多くが20%を超える農業部門の過剰労働人口を抱え,上海,広東などの沿岸部の地域では,都市部の経済成長を余所に,農業部門に過剰労働人口を内陸部の2倍近く抱えていることを初めて明らかにした。

さらに、中国食料需給モデルの予測をベースとすると、2020年においても沿海部においても相対的に多くの農業過剰労働力を抱え,内陸部でも20%強の過剰労働人口となり、世界的には非常に高いレベルで維持されると予測している。また、農業部門の過剰労働力の移転を制限する最大の要因となっている封戸制度といわれる戸籍制度によって,農業部門の過剰労働力の滞留を人為的にも強めた状況が続くならば,農業部門と非農業部門の格差はより一層拡大し、過剰労働力の問題はさらに深刻化することを計量的な予測値によって確認している。

なお、これまでの多くの中国の食料需給予測は、農産物の国際価格等を与件として扱い、中国の変化が外部の世界に影響することを無視した「小国の仮定」に立っているが、本論文で提示された中国の食料需給モデルは、中国の外の世界との貿易を組み込んだ上で世界全体の品目別の需要と供給が一致する点で国際価格が決まるという、「大国の仮定」に立っているという点でも新しいモデルである。この点については、本論文では省市自治区別の分析に焦点を当てたため、モデルの独自性を生かし切れていないと思われるので、今後の研究の発展に期待したい。

以上のように、本論文は、各省市自治区別に、食料需給と過剰労働力及び農工間の所得格差の現状の分析と長期予測を行うためのモデルを開発し、シミュレーション分析によって地域間の格差を具体的な数値により中国の農産物需給と農業労働力の現状と将来世について地域的な多様性を明らかにする上で大きな成果をあげている。

よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)として十分価値あるものと認めた。

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