学位論文要旨



No 119235
著者(漢字) 田島,木綿子
著者(英字)
著者(カナ) タジマ,ユウコ
標題(和) 鯨類遺残骨盤とその周囲領域に関する比較解剖学的研究 : 進化学的ならびに機能解剖学的考察
標題(洋)
報告番号 119235
報告番号 甲19235
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2786号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 會田,勝美
 国立科学博物館 室長 山田,格
 東京大学 助教授 九郎丸,正道
内容要旨 要旨を表示する

鯨類(イルカ・クジラ)は約六千万年前に,有蹄類のあるグループが陸棲生活より水棲生活へ再適応し,その進化の過程で形態学的にも生理学的にも様々な変化を遂げた.その結果,現在我々が目にする鯨類の体型は陸棲哺乳類とはかけ離れてはいるが,「哺乳類」であることは自明の理である.一方で,現生の鯨類に見られる形態は先祖と考えられる陸棲四足哺乳類が長い進化の過程で水棲生活に適応し,大規模に変化した結果であるといえよう.しかし古生物学にせよ,分子発生系統学的研究にせよ,現生の鯨類の形態が正確に把握されていることが前提であるにもかかわらず,肉眼解剖学的記載および理解は十分になされておらず,先祖とされる陸棲哺乳類との比較もほとんど行われていないのが現状である.中でも,系統進化の過程においても個体の発生段階においても鯨類は後肢を失い,骨盤が痕跡的な形に変化したことは興味深い.さらに,これに伴う骨盤周囲構造の変化について詳細な記載を行い,鯨類と陸棲哺乳類の当該部位を比較解剖学的に検討することは鯨類が進化の過程で獲得した形態学的変化を理解する上で非常に重要な分野である。本研究では鯨類の中でも小型から中型のハクジラ3種(スナメリ,オウギハクジラ,シロイルカ)の骨盤骨周囲構造に着目し,骨盤骨の機能的意義について考察し,周囲構造の解釈を明らかにすることを目的とし,肉眼解剖学的精査した。

材料と方法

本研究では以下の材料(固定材料ならびに非固定材料)を使用した.メナメリ Finless porpoise Neophocaena phocaenoides 6頭 オウギハクジラ Stejneger's beaked whale Mesoplodon stejnegeri 1頭 シロイルカ White whale (Beluga) Delphinapterus leucas 1頭 セミクジラ Northern right whale Eubalaena glacialis 1頭

固定材料は10%フォルマリンに浸漬あるいは10%フォルマリンを尾動脈から注入して固定したのち,50%エタノール中に保存したもの,非固定材料は,病理学的剖検ののち骨格標本作成を行う過程で観察した.解剖には,とげ抜きピンセット(渡辺)あるいは精密時計ピンセット (Dumont) を使用し,必要に応じて手術用顕微鏡をもちいて詳細な解剖を行った.所見は,直接スケッチと写真をテンプレートとした作図によって記録した.写真は4×5ビューカメラ,35mmカメラ,デジタルカメラを使用した.4×5写真は引き伸ばし陽画に鉛筆で描き込みを行りて印画を消し原図とした.デジタル化した35mm写真とデジタル写真はデジタル画像としてパーソナルコンピュータに取り込んだ.パーソナルコンピュータ上のデジタル画像はAdobePhotoshop 6.0/7.0JおよびAdobe Illustrator 9.02/10.0Jによって加工した.

骨盤骨周囲構造から考察する水棲適応

骨盤骨周囲構造は腹壁筋群とともに,原則的には陸棲哺乳類の腹壁から会陰部にかけての構造,ならびに骨盤内臓を保持していた.一方,水中生活に再適応した結果,後肢が消失したことに伴い,後肢に関連する構造は存在しないことが明らかとなり,体幹尾側端ではいくつかの特異的な変化を観察した,腹直筋の停止部位は体幹尾側で背尾側方向へ移動した構造は尾ビレの背腹屈伸運動の際に著しい発達を遂げた軸下筋とともに体幹を腹側に屈曲する機能をもち,こちらも強大化した背側の軸上筋と拮抗する構造であった(Fig.1). また,体腔尾側端付近で腹壁筋尾側端が軸下筋表層を今回観察されたように腹側から背側に横切るよう走行することは(浅指屈筋の遠位部が深指屈筋の停止部を押さえつけているように),収縮する腹壁筋が体軸屈曲に伴う大腰筋の弛みを防ぐ構造を実現しているといえよう(Fig.1). そのため腹腔はその大きさを縮小化させ, 体幹の尾側端が形成され,腹壁は消失するが,これと交代して軸下筋が深層から現れ,尾に向けてのなめらかな体表面を実現していた.体形の流線形化はすべての水棲動物に見られるが,鯨類に見られる四足動物体形からの流線形化の主要な要素は上述のように体壁筋と尾筋の巧みな交代によるものであり,遊泳する際に水の抵抗を最小限にすることを可能とした.

さらに,骨盤が存在する陸棲哺乳類では腹横筋は寛結節より尾側へは広がれないため,腹直筋最尾背側は腹横筋によって被われることはない.しかしスナメリの腹横筋は前述したように腹直筋の停止が背尾側方向に移動したことで,脊柱の屈筋として効率よく機能する(テコ効率を高くするよう配置する)ために腹側正中線に平行に,なるべく後ろまで走行することが要求された.そのため,腹直筋の走行・位置を規定する構造として腹直筋鞘がより尾側まで長く続いていることが必要となったのであろう.

一方,同じく水棲生活者である魚類の場合,水中遊泳のロコモーション手段は身体を左右にくねらせる方式である.このロコモーションパターンは上陸後の両棲類と大半の爬虫類に継承されたが,陸上ロコモーションの効率化の経緯の中で哺乳類は主要なロコモーションパターンを体幹の背腹の屈伸に変化させた.完全に陸上生活に適応した状態から水中に再適応した海棲哺乳類では,鰭脚類 (Pinnipedia) が陸上でのロコモーション装置である四肢を遊泳の原動力として継承しているのに対し,鯨類は海牛類と同じく体幹尾側部と尾ビレを原動力とする.これは本質的には魚類と同じ原則をとっている.しかし,魚類ではこの部位を左右にくねらせることによって推進力を発生するのに対し,鯨類では尾を背腹方向に打ち振ることによって推進力を生み出していることを強調したい,これは祖先形の陸棲哺乳類で体幹の動きを生み出す筋群などの配置や構造がすでに背腹方向の屈伸に適応していたためであろう.そのため前述したような一連の特異的な変化が登場した.このことは系統的にも距離のある海牛類が同一の適応をとっていることによっても支持される.これらの動きは疾走する陸棲哺乳類に見られる体幹の背腹方向への屈伸を反映しているといえよう.

また,オス生殖器(精巣)は遊泳の障害となるため,水棲生活に再適応した過程の中で腹腔内に留まることを選択したのだろう.また,過去の報告と同様に本論でも生殖腺に特異的な血管分布を観察したことは興味深い(Fig.5).

後肢の消失に伴う骨盤周囲構造

系統進化の初期においても,個体発生の初期段階においても後肢成分を有していた鯨類であるが,本研究のスナメリ(現生ハクジラ類であり,出生後個体)では,後肢に関連した構造は基本的には全て失っていたことが改めて明らかとなった.スナメリに限らず鯨類では,水棲適応の一つの結果として後肢がきわめて退化するか消失しているので,後肢に分布する筋肉ならびに神経.血管も消失しているのは当然の帰結であるかもしれない。一方で,スナメリのいわゆる骨盤内臓に関しては,骨盤骨は遺残的であるにもかかわらず,生殖器の拠り所としての重要な意義を持ち合わせていたこと(Fig.2),鼡径靱帯と血管裂孔(Fig.1),ならびに深鼡径輪と後腹壁動脈(Fig.1)というそれぞれの関係を保持していたこと,また骨盤骨腔内を占有していた尿生殖隔膜相当構造(Fig.3)により腹腔の尾側端は決定されていたことなど,陸棲哺乳類における骨盤内蔵の主要な構造における重要な関係が維持されていたことは特筆すべき所見である.加えて,それらに分布する神経(Fig.4)および血管(Fig.5)に関しても陸櫛哺乳類と同じ構成をとっていることは興味深い.また,一般に,鯨類が骨盤骨を維持していることを,「後肢の遺残」であることを強調し,鯨類がかつて四足性であったことの論拠として挙げる記述が多いが,鯨類の骨盤骨に関して最も重要なことは,骨盤内臓との関連であり,特に小骨盤としての意義が大きいことを強調しておきたい."図表見出し上

M32590(スナメリ:メス、体長:152cm)腹直筋 M. rectus abdominis 尾側部 模式図

M33569(スナメリ:オス)骨盤骨周囲構造 模式図

M33569(スナメリ:オス)骨盤骨周囲構造 背側面

M33556(スナメリ:オス 125.1cm)第8, 9, 10腰椎神経から供給される脊髄神経の骨盤骨腔への分布様式模式図.用語は Nomina Anatomica Veterinara(1983)に準拠

M33556(スナメリ:オス 125cm). A. abdominalis およびV.cava caudalis の腹腔内臓器および骨盤骨腔への動静脈分岐様式 模式図 Nomina Anatomica Veterinara(1983)などに準拠

審査要旨 要旨を表示する

鯨類(イルカ・クジラ)は約六千万年前に,有蹄類のあるグループが陸棲生活より水棲生活へ再適応し,その進化の過程で形態学的にも生理学的にも様々な変化を遂げた動物群である.古生物学的研究および分子発生系統学的研究では先祖である陸棲哺乳類との相関性を論じた報告を多く目にするが、現生鯨類の形態を正確に把握する肉眼解剖学的記載および理解は十分になされておらず,先祖陸棲哺乳類との比較もほとんど行われていないのが現状である.中でも,系統進化の過程においても個体の発生段階においても鯨類は後肢を消失し,骨盤は痕跡的な形(骨盤骨)に変化したことは興味深い。そこで本論文では、鯨類の骨盤骨周囲構造の変化に着目し、第一章では腹壁筋との関係および機能について、第二章では骨盤骨周囲構造との関係および機能について、第三章では骨盤骨腔の神経および脈管に関する局所解剖学について、それぞれ詳細な記載を行い,陸棲哺乳類の当該部位と比較解剖学的に検討している。また、「付」では参考事項を報告している。最終章では骨盤骨ならびに周囲構造に関して進化学的ならびに機能解剖学的考察を試みている。本論に使用された標本は、ハクジラ3種(スナメリNeophocaena phocaenoides,オウギハクジラMesoplodon stejnegeri,シロイルカDelphinapterus leucas)で「付」にはヒゲクジラ1種(セミクジラEubalaena glacialis)をそれぞれ用いている。結果および考察を以下にまとめる。体幹尾側端でいくつかの特異的な変化を観察した.腹直筋停止部は背尾側方向へ移動しており(Fig.1)、これは著しい発達を遂げた軸下筋とともに体幹を腹側に屈曲する機能を強化し,こちらも強大化した背側の軸上筋と拮抗する構造と考える.また,腹壁筋尾側端が軸下筋表層を腹側から背側に横切るよう走行することは,収縮する腹壁筋が収縮の強度に合わせて体軸屈曲に伴う軸下筋の弛みを防ぐ構造を実現した (Fig.1).さらに、体形の流線形化はすべての水棲動物に見られるが,鯨類に見られる四足動物体形からの流線形化の主要な要素は体壁筋と尾筋の巧みな交代によるものであり,遊泳時の抵抗を軽減することを可能とした.また,腹直筋鞘が骨盤骨中央部まで伸長していたが、これは背尾側方向に向きを変えた腹直筋停止腱の変曲点と体軸との距離が最大限に維持され,その結果としてテコ効率が向上し,脊柱の屈筋として効率よく機能することを可能とした.完全に陸上生活に適応した状態から水中に再適応した鯨類は体幹尾側部と尾ビレを原動力として推進力を発生しており、本質的には同じ水棲生活者である魚類と相同の原則をとっている.しかし,魚類ではそのロコモーション手段が左右方向のくねりであるのに対し,鯨類では尾部を背腹方向に打ち振る方式である.これは祖先形の陸棲哺乳類で体幹の動きを生み出す筋群などの配置や構造がすでに背腹方向の屈伸に適応していたためと考えられる.そのため前述したような一連の特異的な変化が登場したものと考えられる.また、「付」に記載したセミクジラでは下腿成分が関節腔を維持した状態で観察したが,これは鯨類の系統進化の過程を垣間見る参考種として貴重な例であったといえよう。

さらに、後肢が消失したことに伴い,後肢に関連する構造は見事に消し去られていたことが改めて明らかとなった。一方で、陸棲哺乳類の腹壁筋群、会陰部構造および骨盤内臓と相同構造をそれぞれ保持していた.特に、骨盤骨は遺残的であるにもかかわらず,生殖器の拠り所としての重要な意義をもつこと(Fig.2),鼡径靱帯と血管裂孔ならびに深鼡径輪と後腹壁動脈(Fig.1)の局解関係をそれぞれ維持していたこと,また尿生殖隔膜相当構造(Fig.2)により腹腔尾側端が決定されていたことなど,陸棲哺乳類における主要構造の重要な関係を維持していたことを確認した.加えて,それらに分布する神経(Fig.3)および脈管も陸棲哺乳類と同じ様式を示していた.これらの構造はいずれも哺乳類にとって子孫の継代および個体の維持にとっては重要な構造である.一般に,鯨類が骨盤骨を維持していることを,「後肢の遺残」であることを強調し,鯨類がかつて四足性であったことの論拠として挙げる記述が多いが,鯨類の骨盤骨に関して最も重要なことは,骨盤内臓との関連であり,特にヒトの小骨盤に相当する意義が大きいことが明らかとなった.

本論文は、鯨類の骨盤骨ならびに周囲構造の特異性ならびに先祖である陸棲哺乳類との相同性を明らかに、進化学的および機能解剖学的解釈を報告したものである。この結果は新規の知見および概念を含み、獣医学学術上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

骨盤骨周囲構造

M32590(スナメリ メス 152cm )腹直筋尾側部

M33569(スナメリ:オス)骨盤骨周囲構造 背側面

M33556(スナメリ:オス)第8, 9, 10腰椎脊髄神経からの骨盤骨腔への分布様式

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