学位論文要旨



No 119238
著者(漢字) 橋本,夏彦
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ナツヒコ
標題(和) 血圧調節における青斑核ニューロンの役割に関する研究
標題(洋)
報告番号 119238
報告番号 甲19238
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2789号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
 東京大学 助教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

脳の機能は、受容体やイオンチャネルなどを介した神経細胞間の情報伝達とそれらの活動の精密な調節・連携により発揮され、生命活動の基本である恒常性維持から学習や記憶といった高次の神経機能まで多様である。自律神経系は、循環・呼吸・消化・代謝・体温調節・生殖など生命維持の上で必須の諸機能を効率良く成し遂げるための重要な調節系であり、その活動は視床下部および脳幹網様体に含まれる中枢神経系の制御下に置かれている。

青斑核(LC)は脳幹の橋背側に存在し、自律神経系機能の調節系の一部として何らかの役割を担っていると考えられる、メラニン色素を多く含む神経核である。ラットでは約1500個のノルアドレナリン含有ニューロンからなる。LCニューロンは大脳、小脳、海馬、延髄などの中枢における主要な領域に軸索を投射し、それらの部位を支配する一方で、視覚、聴覚、痛覚、体性感覚など末梢からのあらゆる感覚入力を受容する領域とされている。これまでに、侵害刺激下おける脳の覚醒水準の上昇やストレス行動の表出などの状況下において視床下部-下垂体-副腎系を介した生体影響との関わりについて多くの研究がなされてきた。また近年では、LCニューロンが加齢性変化に伴い脱落するという特徴を有することから、パーキンソン病や自律神経の異常興奮とされるパニック障害などの病態への関与も示唆されてきている。一方、自律神経系を介したLCによる循環機能調節作用に関しても注目されてきているものの、圧受容器からの入力経路、自律神経系への出力経路、ニューロンの発火活動と血圧変化との相関性、血圧の日内変動に対する関与などが十分に明らかになっているとは言えず、血圧調節に関してもLCが昇圧作用および降圧作用のどちらが生理的な働きであるのかさえ明確にされていない。

そこで、本研究では、LCの血圧調節機構への関与とその性状を明らかにすることを目的として下記の実験を行った。

第I章では、序論として血圧調節機構における自律神経系機能ならびに中枢神経系の関与について概説するとともに、自律神経系を介した血圧調節機構におけるLCの機能に関して、現在までに報告されている知見を整理することにより本研究の目的を述べた。

第II章では血圧調節作用に対するLC機能の一端を明らかにするために、両側LC破壊に加えて、迷走神経刺激による一過性の血圧低下刺激を与えた際の、回復過程における血圧の変化率および回復時間を測定した。その結果、LC破壊群において有意な血圧回復遅延が認められた。次いで、その回復遅延の機序を検討するために、α遮断薬投与群においても同様の血圧低下刺激を与えた。その結果、α遮断薬投与群においても血圧回復時間に同様の回復遅延が認められた。以上の結果から、LCの破壊による血圧回復の遅延は末梢血管収縮能の低下によるものであることが示唆された。また、その回復遅延は血圧低下後の数秒間にみられる現象であることから自律神経系、特に交感神経系の緊張低下が関与することが示唆された。

第III章ではLCの出力経路として古典的な昇圧領域である視床下部後部(PH)に注目した。PHは交感神経前運動ニューロンに対する直接的な投射を有し、血圧変化に対応したノルアドレナリンの変動が認められる領域である。PH電気破壊ラットにおいて、LC電気刺激時の血圧上昇作用の低下ならびに第II章と同様の血圧回復の遅延が観察され、LCの血圧上昇作用にはPHの介在が考えられた。続いて、LCニューロンの軸索終末を電気刺激し、逆向性スパイクを記録したところ、LCからPHへの投射を同定することができた。さらに、PHに投射があるニューロンの自発活動をガラス微小電極により細胞外記録し、脱血および容量負荷による血圧変化刺激に対するニューロンの応答性を観察したところ、血圧上昇時に発火頻度を減少させ、血圧低下時には発火頻度を増加させるという応答性を観察することができた。以上の結果より、LCの血圧上昇作用の一出力経路として、LC→PH→交感神経作用の発現という新たな経路の存在が明らかにされた。また、PH刺激からの逆向性スパイクが認められるニューロンはLC内の吻側部と体部に多く認められたことから、血圧変化情報を受け取るニューロンにLC内における局在性がある可能性が考えられた。

第IV章ではLCを吻側部・体部・尾側部の3領域に分割し、ガラス微小電極による細胞外記録を行い、血圧変化刺激に対するLC内における応答様式の局在性を検討した。すなわち、個々のLCニューロンが血圧低下および上昇のどちらに応答を示すかについて調べた。その結果、各部位において大部分のLCニューロンは血圧上昇時に発火頻度を減少させ、血圧低下時には発火頻度を増加させるという応答性を示した。また、血圧変化に反応を示さないニューロンも存在し、そのニューロン数の割合においても記録部位による差は認められなかった。また血圧上昇時に発火頻度を増加させることにより血圧低下作用を示すといった降圧領域の存在は認められなかった。以上の成績より、血圧変化時におけるLCの働きはその興奮性を伝える投射先に依存するものであると考えられた。

第V章では各章で得られた結果を総括し、総合考察を行った。なかでも、PHへ投射するLCニューロンの存在とそのPH投射ニューロンが血圧変化刺激に対して、血圧上昇時に発火頻度を減少させ、血圧低下時には発火頻度を増加させるという応答性を示したことは興味深い。

LCニューロンは血圧調節作用において、従来の侵害刺激下の視床下部-下垂体-副腎系による血圧上昇経路のほかに、PHを介した自律神経系による血圧上昇経路があることが明らかとなった。今回実験に用いたラットはノルアドレナリンのみを伝達物質として含んでおり、伝達物質の多様性を有するヒトのLCとは大きく異なるものと考えられる。しかしながら、今回の実験結果は、哺乳類における主要なノルアドレナリン細胞群である青斑核の出力経路およびニューロン特性についての新しい知見といえる。

一方、LC内において血圧変動情報を受容するニューロンの局在性は認められず、また血圧上昇時において発火頻度を増加させるニューロンも少数しか認められなかったことから、LCを介した血圧降下作用については、ノルアドレナリンによるニューロン発火活動の増加によって直接的あるいは間接的に血圧低下作用を示す中枢領域を新たに同定し、LCからの投射を確認する必要があると考られた。

審査要旨 要旨を表示する

青斑核(Locus coelureus; LC)は脳幹の橋背側に存在し、自律神経系機能の調節系の一部として何らかの役割を担っていると考えられるメラニン色素を多く含む神経核である。LCによる循環調節機能に関心が持たれているものの、動脈圧受容器からLCへの入力経路、自律神経系への出力経路、LCニューロンの興奮性と血圧変化との関係などが十分に解明されておらず、またLCニューロンの興奮が血圧を上昇させるのか、あるいは低下させるのかといった基本的な部分も明確になっているとはいえない。本研究は、血圧調節におけるLCニューロンの役割と自律神経系に対する投射経路を明らかにする目的で行われたものである。

第1章では序論として、血圧調節機構の全体像を概説するとともに、自律神経系を介したLCの機能に関して、これまで報告されている知見を整理した。

第2章では、血圧変動とLCとの間に何らかの関連性があるかどうかを明らかにするために、両側のLCの電気的破壊と、迷走神経遠心性線維を一過性に電気刺激した際の血圧低下およびその回復過程に及ぼす影響を観察している。LC無傷のラットでは迷走神経の一過性刺激による血圧低下後直ちに血圧の回復が認められ、回復の末期には刺激前の血圧レベルを超えるオーバーシュート現象が明瞭に認められた。LC両側破壊はそれ自身は血圧に明瞭な変化をもたらさなかった。しかしながら、迷走神経刺激による血圧低下後の回復過程を遅延させるとともに、オーバーシュートの消失が認められた。この回復過程の遅延とオーバーシュートの消失は、LC無傷のラットにα遮断薬(フェントラミン)を前投与した場合においても同様に生じることが明らかになった。これらの実験結果から、LCには血圧低下後の血圧上昇を促進すること、その作用には交感神経興奮が伴っていることが示唆されると述べている。

第3章では、LCの血圧調節にかかわる投射領域を同定するために、以前から昇圧領域として知られている視床下部後部(PH)への投射の有無を検討した。PHの電気的破壊によって、迷走神経刺激後の血圧回復過程の遅延、オーバーシュートの消失が認められた。このことから、LCの血圧調節機構の少なくとも一部はPHを介していることが明らかになった。ついでLCニューロンの軸索終末を電気刺激し、逆行性スパイクを記録することによりLCからPHへの投射を同定することができた。このようなニューロンはLC内の吻側部と体部に多く認められた。さらに、PHに投射があるニューロンの自発活動を微小ガラス電極により細胞外記録し、脱血および容量負荷による応答性を観察したところ、昇圧時に発火頻度を減少させ、降圧時に発火頻度を増加させるニューロンが多く認められた。

第4章では、LCニューロンの血圧変化刺激に対する応答性のLC内分布を観察した。脱血および容量負荷実験では、降圧時に発火頻度を増加させ、昇圧時に発火頻度を減少させるニューロンがLC内でほぼ均一に分布することが示された。しかしながら、容量負荷実験では、ニューロン活動の抑制が尾側部でもっとも強く、吻側部でもっとも弱いといった傾向が明瞭に認められた。これらの成績からLCニューロンの応答様式の基本パターンは同じであるが、その発火頻度にはLC内での局在性が存在することを明らかにしている。

第5章では、総括として、LCニューロンは血圧レベルの維持に不可欠なものではないが、急激な血圧低下からの回復を早め、また回復時の過補償を緩和する役割があることが明らかになった。このような機能は運動、睡眠・覚醒、ショックなど生体に対する負荷が大きく変動する場合や生体の内部環境が変化する場合に、血圧の微調整を行うことで生体の恒常性を維持する重要な役割を担っているものと考えられた。また、このような機能は視床下部後部への神経連絡を介して行われることが明らかになった。

以上を要するに、本論文はこれまで、血圧調節機構の中での位置づけが不明瞭であった青斑核ニューロンの役割を明らかにしたものであり、その研究成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク