学位論文要旨



No 119240
著者(漢字) 増田,宏司
著者(英字)
著者(カナ) マスダ,コウジ
標題(和) イヌの気質に関する行動遺伝学的研究
標題(洋)
報告番号 119240
報告番号 甲19240
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2791号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 小川,博之
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

イヌは家畜としてヒトとの長い共存の歴史を持ち,狩猟や使役などさまざまな目的に応じて人為的な育種改良が進められた結果,現在では国際的に普及している主なものだけでも140種以上の犬種が作り出され,小さなチワワから巨大なセントバーナードまで,形も大きさも様々である。その容姿と同様に,性質についても犬種差は大きく,例えば見知らぬ人に対して友好的に振る舞えるイヌもいれば,攻撃的なイヌもいる。また,攻撃行動や不安傾向あるいは常同症などといった問題行動についても,犬種によって発生頻度が異なることから遺伝的な素因との関連が指摘されている。こうした行動特性の情動的基盤は気質と呼ばれるが,気質およびその個体差の生物学的背景の理解は,脳神経科学の基礎的研究発展に貢献するだけでなく,ヒトと動物の適正な共存関係を模索していく上でも意義が大きいため,獣医学領域における重要課題のひとつといえよう。

個性は遺伝によって決まるのか,それとも初期環境がより重要なのかは古くから多くの論議を呼んできた。初期環境の影響については発達臨床心理学的研究が大きな成果をあげているが,一方の遺伝的背景については最近になってヒトで気質関連遺伝子の存在が指摘され注目を集めている。しかしながら個人をとりまく内的・外的環境要因はあまりに複雑であり,ヒトを対象とした研究では遺伝的要因についての明快な解釈は困難になりがちである。視床下部・大脳辺縁系を中枢とする情動反応系は高等哺乳類の間でよく保存されていることから,個性の背景となる気質の本体を解明するためには適切な動物を用いた研究モデルの作出が不可欠と考えられる。

本研究ではイヌを研究モデルとして選択し,これまでヒトで性格や精神疾患との関連が示唆されてきた遺伝子群をターゲットとして,まずイヌにおける遺伝子配列を決定した。次いで翻訳領域上の遺伝子多型を同定し,見いだされた多型とアンケート調査により得られた各個体の気質情報との関連を解析することで,犬種特異的な行動あるいは犬種を越えて一様に保存されている気質に関わる遺伝子多型を特定することを目的とした。本論文は次の五章から構成される。

第一章は総合緒言であり,気質関連遺伝子に関する研究やイヌにおける気質調査の現状など本研究の背景を概説するとともに,本研究の目的や意義について述べた。

第二章では,イヌの気質関連候補遺伝子として注目した5種類の遺伝子,すなわちカテコールO-メチル転移酵素 (COMT),トリプトファン水酸化酵素 (TPH),セロトニン受容体1B, 2A, 2C (5-HTRlB, 2A, 2C) 遺伝子の翻訳領域全長および断片の塩基配列を得た。イヌCOMT遺伝子は,ヒトと84%,マウスと82%の相同性を,イヌTPH遺伝子断片は,ヒトと92%,マウスと85%の相同性を,5-HTR1B遺伝子は,ヒトと91%,マウスと90%の相同性を,5-HTR2A遺伝子は,ヒトと89%,マウスと87%の相同性を,5-HTR2C遺伝子は,ヒトと90%,マウスと88%の相同性をそれぞれ有していた。全遺伝子はヒトの遺伝子と高い相同性を有していたことから,種を越えて良く保存されている遺伝子であることが推察された。また,これらの領域の中で遺伝子多型を検索したところ,COMT遺伝子で3ヶ所,5-HTR1B遺伝子で6ヶ所の一塩基多型が同定された。このうちCOMT遺伝子の翻訳領域216番目 (G216A),482番目 (G482A),さらに5-HTR1B遺伝子の翻訳領域246番目 (G246A),660番目 (C660G),995番目 (T955C),および1146番目(G1146C)の遺伝子多型では出現頻度に有意な犬種特異性が認められたことから,犬種特異的な行動特性と関連している可能性が示された。こうした結果は,一般に遺伝子多型頻度が遺伝的距離に依存するという事実を考慮に入れると,本研究で供試した5犬種(ゴールデンレトリバー,ラブラドールレトリバー,マルチーズ,ミニチュアシュナウザーおよびシバ)の遺伝的および歴史的(地域的)背景の異なりを推察することができ,特定の犬種に強く発現しがちな行動特性との関連や,人為的選択交配の影響を示唆するものと考えられた。

第三章では,第二章で Genotyping に供試したイヌ193頭の気質についてのアンケート調査を飼い主および主治医である獣医師に対して実施した。視点の異なる両者にアンケートを実施することにより,各個体について,長期間同一個体を見続けてきた飼い主からしか得られない評価と,これまで多数の個体を診てきた経験のある獣医師ならではの客観的な評価を得ることができたと思われる。これらのデータを多変量解析(因子分析および数量化三類)により解析することで,複数の気質成分が抽出された。中でも攻撃性や反応性といった気質については両アンケートに共通した成分であったことから,飼い主と獣医師のいずれもが独立した気質と考えていることが推察された。各犬種の行動特性では,ゴールデンレトリーバーは社会性が高く,ラブラドールレトリーバーは同様なもののやや興奮性が高く,マルチーズは臆病,ミニチュアシュナウザーは攻撃的でよく吠え,代表的な日本犬であるシバは神経質で攻撃的な傾向が認められた。また,年齢の若い個体は反応性が高く,雄は雌よりも高い攻撃性を有していた。これらの解析結果は,気質関連候補遺伝子との関わりを考察する上で重要な手掛かりとなるであろう。しかしながら,飼い主に対するアンケート調査では評価の客観性に関する問題が存在し,獣医師に対する調査では限られた気質に対してのみしか評価が得られないといった問題のあることが示された。それゆえ今後の研究では,より客観性に優れかつ多面的な気質を調査可能な評価法の開発が望まれる。

第四章では,第二章で同定された遺伝子多型に加えて,ヒトで新奇追求性などの性格との関連が示唆されイヌでもその遺伝子型に犬種差のあることが報告されているDRD4遺伝子のexon1およびexon3領域の遺伝子多型と,第三章での解析から得られた各個体の気質情報を用いて,遺伝子多型と気質との関連性について検討した。その結果,因子分析により抽出した因子についてはDRD4遺伝子のexon3多型領域と「依存性」,5-HTR1B遺伝子のG246Aと「攻撃性」に,飼い主に実施したアンケートの質問項目についてはDRD4遺伝子のexon3多型領域と「飼い主依存」および「来客攻撃」,5-HTR1B遺伝子のG246Aと「犬攻撃」に,数量化三類分析により抽出した軸についてはDRD4遺伝子のexon3多型領域と「攻撃性-社会性弁別軸」に,獣医師に実施したアンケートの質問項目についてはDRD4遺伝子の exon3 多型領域と「過敏」,「神経質」,DRD4遺伝子のexon1多型領域と「過敏」,T955C及びG1146Cの遺伝子型と「よく吠える」などにそれぞれ有意水準を満たす関連性が認められた。本解析では,全ての供試個体をプールして実施したため,得られた結果について,それぞれの遺伝子多型が犬種を越えて気質と関連するのか,もしくは犬種特異的な気質と関連するものかといった点についてを判断することは統計学的に不可能であった。今後は,これらの点を再検証すべく,個体数を増やし犬種の範囲を広げるなどしてさらに詳細に調査する必要があろう。

第五章では,総合考察を行った。本研究により,ターゲットとしたイヌの気質関連候補遺伝子の多型に犬種特異性が存在すること,個体ごとの気質に加えて犬種特異的な行動傾向が認められること,そしていくつかの遺伝子多型が気質に関連する可能性が示された。本研究より,イヌ自身の進化やヒトによる選択的交配などからもたらされた進化的スケールの違い(遺伝的距離の多様性)により遺伝子多型の多様性が生じ,加えて環境の違い,性差,年齢などの要素が複雑に絡み合って気質の多様性が生み出されていると推察された。今後は,本研究において同定された気質に関連すると想定される遺伝子多型が遺伝子発現に際してどのような機序でどのような役割を果たすのかといった機能的解明が必要となるであろう。また,ひとつの遺伝子が特定の気質に与える影響はおそらく限られており,複数の遺伝子あるいは遺伝子多型の複合的な作用によって気質が形作られると考えられていることを考慮すると,ハプロタイプ解析やマイクロアレイ解析を見据えた候補遺伝子多型リストの拡大が不可欠と考えられる。

以上,本研究では,イヌの気質に関わる遺伝子多型を検索する目的で,気質関連候補遺伝子の配列決定と遺伝子多型の同定,供試個体の気質を評価するための2種のアンケート調査および解析,そして同定された遺伝子多型と気質の関連解析を行った。その結果,同定された多型には犬種差が存在すること,イヌにおいては気質の個体差のみならず犬種による行動特異性が認められること,イヌの気質に関連すると考えられる数種の遺伝子多型が存在することなどが判明した。高等哺乳類における気質の複雑な形成機構を解明する上で,気質関連遺伝子の多型同定は今後の研究に新たな方向性を示すものであり,こうした研究が発展することにより早期の遺伝子診断が実現すれば,各個体の気質に合わせた飼育環境の選択や飼育方法の提案,あるいは適性に応じた使役犬(盲導犬,聴導犬,探知犬など)の選抜などへの応用も可能となるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

イヌは家畜としてヒトとの長い共存の歴史を持ち,狩猟や使役などさまざまな目的に応じて人為的な育種改良が進められた結果,現在では非常に多くの犬種が作り出され,形や大きさなど外貌上の特徴がさまざまであるのと同様に、行動特性上も大きな変異が認められる。行動特性の情動的基盤である気質の個体差を生み出す生物学的背景の理解は,脳神経科学の基礎的研究発展に貢献するだけでなく,ヒトと動物の適正な共存関係を模索していく上でも意義が大きいため獣医学領域における重要課題のひとつといえよう。個性の遺伝的背景については気質関連遺伝子の存在が指摘され注目を集めている。本研究は、犬種による気質の差異が明瞭なイヌを研究モデルとして、気質の背景となる遺伝子多型を探索することを目的に行われたものである。

本論文は以下のように全5章から構成されている。

第1章は総合緒言であり,過去の研究成果が概観され、本論文の目的が述べられている。

第2章では,イヌの気質関連候補遺伝子として5種類の遺伝子すなわちカテコールO-メチル基転移酵素(COMT),トリプトファン水酸化酵素(TPH),セロトニン受容体1B,2A,2C(5-HTR1B,2A,2C)遺伝子について塩基配列の決定、多型検索、および多型による遺伝子型判別が行われた。いずれの遺伝子もヒトやマウスの遺伝子と高い相同性を示したが、イヌの遺伝子において今回見出された9箇所の多型のうちの6箇所には出現頻度に犬種特異性が認められ,行動特性の犬種差に関連している可能性が示された。遺伝子多型頻度が遺伝的距離を反映するという観点から,本研究で供試された5犬種(ゴールデンレトリバー,ラブラドールレトリバー,マルチーズ,ミニチュアシュナウザーおよびシバ)の遺伝的・歴史的背景の違いや,人為的選択交配の影響についての考察が展開されている。

第3章では,前章の遺伝子型判別に供試された193頭の各個体について、その気質に関するアンケート調査が飼い主および獣医師に対して実施された。得られたアンケートデータを多変量解析(因子分析および数量化三類)することにより,攻撃性や反応性などに関する複数の気質成分が抽出され,犬種や年齢,性別による行動特性の差異が明らかにされた。こうした情報は,気質関連遺伝子を探索する上で重要な手がかりとなることが期待される。

第4章では,前2章で得られた成果を基盤として,遺伝子多型と各個体の気質との関連が検討された。その結果,5-HTR1B遺伝子のG246Aは「攻撃性」との間に統計学的に有意な関連が見出された。また、イヌで多型の存在が既に報告されていたドーパミン受容体4型(DRD4)遺伝子のexon3多型領域についても検討を行った結果、「依存性」および「攻撃性 - 社会性」との間に関連が見出された。

第5章は総合考察であり、イヌにおける気質関連遺伝子の多型性と行動特性との関連について考察が展開されている。本研究により,標的としたイヌの気質関連候補遺伝子の多型には犬種特異性が存在すること,個体ごとの気質に加えて犬種特異的な行動傾向が認められること,そしていくつかの遺伝子多型が気質に関連する可能性などが示され、今後の研究の基盤となる重要な知見が得られたものと判断される。

以上,要するに本研究は、行動特性の基盤となる気質の遺伝的背景について検討を行ったものであるが、イヌを対象とした気質関連遺伝子多型の同定と行動特性の解析は、高等哺乳類における気質の複雑な形成機構を解明する上で有用な研究モデルを提供するものであり、得られた研究成果は学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は申請者に対して博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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