学位論文要旨



No 119247
著者(漢字) 村田,幸久
著者(英字)
著者(カナ) ムラタ,タカヒサ
標題(和) 低酸素誘発性肺高血圧症における肺動脈内皮機能障害機構と治療法に関する研究
標題(洋) Studies on the mechanism of vascular endothelial impairments and approaches to therapy for hypoxia-induced pulmonary hypertension
報告番号 119247
報告番号 甲19247
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2798号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 尾崎,博
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 教授 局,一博
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
 東京大学 助教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

肺高血圧症は慢性気道閉塞疾患や僧帽弁狭窄など生体が低酸素状態になる心肺疾患に併発し、肺血管に限局して発症する。本病態は有効な治療手段がなく死の転帰をとる疾患であるため、肺高血圧症の病態解明、更には新たな治療法に関する研究には多くの関心が寄せられている。

血管内皮細胞は物質の選択的透過性を有し、NO(一酸化窒素)を始めとする血管弛緩物質を放出することによって、血圧を調節する働きを担っている。肺高血圧症患者においてNOによる血管内皮依存性弛緩反応の減弱が報告されており、内皮細胞の機能障害が肺高血圧症の病態発症と進行に重要な要因であると考えられてきたが、その詳細な機構は明らかにされていない。

これまで肺高血圧症に関する研究は、個体レベルでの様々な血管収縮物質や血管拡張物質の発現量に関する検討が主であった。一方、培養細胞を用いた基礎実験では、低酸素環境下における様々な遺伝子の転写調節機構に関する研究が目覚しく進んできた。しかし、これら細胞レベルでの基礎研究の成果を個体レベルでの肺高血圧病態発症機序に直接結びつけることには困難であり、両者の関連付けに大きな乖離がみられていた。このことは治療薬開発の研究に遅れをもたらす要因の一つともなっている。

また現在治療薬開発と並行して、肺高血圧症を含む多くの血管病態に、ウイルスベクターを用いての遺伝子治療法が有効であると考えられ、基礎レベルでの研究が進んでいる。しかしその遺伝子導入効率の低さ、ベクター感染によって誘起される血管壁の炎症が問題となり、現在のところ血管病変に対する遺伝子治療は禁忌である。

これらの背景を踏まえ、本研究では1)肺高血圧症における肺動脈内皮機能障害機構の解明、2)肺高血圧症治療薬の探索、3) 血管内皮細胞をターゲットとした遺伝子導入法の改良について、肺動脈の低酸素下器官培養技術(in vitro)と低酸素誘発性肺高血圧症モデルラット(in vivo)の2つの実験系を用いて検討した。

低酸素誘発性肺高血圧ラット肺動脈における血管内皮NO産生障害のメカニズムの解析

本項目では低酸素環境下(10%O2)で1週間飼育したラットを肺高血圧症モデルとして用いた。低酸素環境下で飼育したラットでは肺高血圧病態モデルの特徴とされる体重減少、末梢肺動脈の肥厚、右心室肥大が観察された。以下、病態作成後左右の中心内肺動脈を摘出し実験に供した。

低酸素負荷肺動脈では、Carbachol(CCh)によるNO依存性の弛緩反応が有意に低下しており、CCh刺激時のNO産生量減少はNO感受性色素、DAF-2DAの蛍光量測定とcGMP含量測定でも確認された。続いて肺動脈内皮細胞のCa2+流入機構について検討した結果、低酸素負荷標本では、CCh刺激によるの細胞内へのCa2+流入に有意な減少が認められた。

内皮型NO合成酵素(eNOS)はCa2+流入後、HSP90との結合や細胞膜構造蛋白質caveolin-1からの解離、さらにはAktなどのリン酸化酵素によるeNOS-Ser1177のリン酸化等の複雑な制御を受ける。本研究では内皮細胞へのCa2+流入後、eNOS活性系に関わるこれら機能蛋白質群とeNOSとの相互関係を中心に検討を進めた。Westernblotting により低酸素負荷肺動脈標本においてeNOS、caveolin-1、HSP90の蛋白質発現量は対象標本と比較し有意な差は認められなかった。しかし、Whole-mount immunostaining解析により、肺動脈内皮細胞の萎縮とeNOS蛋白質の細胞膜への濃縮が観察され、さらに免疫沈降法を用いた検討で、低酸素負荷標本においてCCh刺激によるeNOSのcaveolin-1からの解離が減少していた。さらにeNOSとcalmodulin、ならびにHSP90との結合も減少し、eNOS(Ser1177)リン酸化量の有意な減少が観察された。

以上の結果から、長期低酸素負荷肺高血圧症モデルラットの肺動脈内皮細胞におけるNO産生能の低下は、Ca2+流入機構の異常、NO合成系に関わる機能蛋白質とeNOSの相互関係異常、さらにそれに続くeNOS活性系の異常によることが示された。

HMG-CoA還元酵素阻害剤、Fluvastatinの低酸素誘発性肺高血圧ラット肺動脈における内皮細胞保護効果の検討

本項目ではHMG-CoA還元酵素阻害剤Fluvastatinの低酸素誘発性肺高血圧症ラットの肺動脈内皮細胞機能障害に対する効果を検討した。1 mg/kg Fluvastatinの連日経口投与は1-3週間低酸素環境下(10%O2)で飼育したラットに観察される右心室圧の上昇、右心室肥大、末梢肺動脈の肥厚、更には肺浮腫を有意に抑制することが明らかにされた。

続いてFluvastatinの肺動脈内皮細胞に対する保護効果について検討を進めた。1-3週間の低酸素負荷による肺組織中のNO産生減少、また肺動脈における内皮依存性弛緩反応障害はFluvastatin投与により有意に回復した。RT-PCRとWestern blotting法によりFluvastatinの持つ肺動脈内皮保護作用はeNOS (NO合成酵素)のmRNAや蛋白質発現上昇を伴わないものであった。しかし、eNOSの蛋白翻訳以降の活性機構に対するFluvastatinの効果をWhole-mount immunostainingにおいて検討した結果、Fluvastatinは低酸素負荷による肺動脈内皮細胞の萎縮、内皮細胞内のeNOSとcaveolin-1蛋白質の濃縮を抑制し、その結果受容体刺激によるeNOSリン酸化量減少を有意に回復させることが分かった。

これらの結果から、HMG-CoA還元酵素阻害剤FluvastatinはeNOSの蛋白質翻訳以降の系に作用することにより低酸素誘発性肺高血圧病態の発症、進行抑制に効果を発揮することが明らかとなった。

長期低酸素負荷ウサギ肺動脈組織培養標本における血管内皮NO産生障害のメカニズムの解析

本項目ではウサギ内肺動脈を無菌的に摘出し、低酸素環境下(5%O2)で1週間培養したものを用いて検討した。低酸素環境下において7日間培養した肺動脈において、Substance PならびにIonomycin刺激によるNO産生量の低下とそれに伴う内皮依存性弛緩反応の低下が認められた。一方、この内皮機能障害は、末梢血管である腸間膜動脈では観察されなかった。また肺動脈の内皮依存性弛緩反応の障害は、NO合成酵素(eNOS)のmRNAならびに蛋白質発現量、NO産生のための基質や補酵素の減少に起因するものではなかった。組織学的な検討の結果、低酸素環境下で培養した内肺動脈内皮細胞では、細胞は萎縮し、細胞内のeNOSとeNOSの活性化に関わる細胞膜構造蛋白質であるcaveolinの細胞内局在に変化が認められた。

以上の成績から、肺動脈内皮細胞は他の動脈内皮細胞に比べ低酸素に対する抵抗性が低いこと、また低酸素負荷による内肺動脈内皮細胞におけるNO産生能の低下は、内皮細胞の形態変化に伴うeNOSの細胞内分布の変化に起因するものと考えられた。

糖質コルチコイド、Dexamethasoneの低酸素負荷肺動脈組織培養標本における内皮細胞保護効果の検討

本項目ではウサギ肺動脈の1週間低酸素環境下(5%O2)肺動脈組織培養標本を用いて、糖質コルチコイド、Dexamethasone (DEX)の低酸素の肺動脈内皮細胞機能障害に対する効果を検討した。3 μM DEXの同時処置は1週間低酸素負荷肺動脈標本において見られたSubstance PおよびIonomycin刺激による内皮依存性弛緩反応障害とcGMP産生量を指標としたNO産生能低下を有意に回復させた。DEX処置は血管平滑筋細胞の収縮性やNO感受性には影響を及ぼさなかった。RT-PCRの結果、DEX処置は正常酸素肺動脈、低酸素負荷肺動脈の両標本においてeNOS mRNA発現量を有意に上昇させた。さらに、形態学的検討によりDEXは長期低酸素負荷による肺動脈内皮細胞の萎縮を抑制することを見出した。

これらの結果からDEXはeNOS mRNA発現上昇効果があること、さらにeNOSの蛋白質翻訳以降の系に作用することにより低酸素負荷による肺動脈内皮細胞機能障害を回復されることが示唆された。

アデノウイルスベクター感染に対する肺動脈内皮細胞の抗ウイルス感染機構の解析とデキサメタゾンの遺伝子導入効率向上効果

本項目ではウサギ肺動脈組織培養標本を用い、アデノウイルス感染による血管内皮細胞機能障害機構の解析と遺伝子導入に対するDexamethasone (DEX)の作用を検討した。1.5×108-1.5×109 PFU/ml のb-galactosidase adenovirus vector (β-gal-Ad)を肺動脈組織培養標本に感染させると、β-galは血管内皮細胞において濃度依存的に発現した。しかし、7.5×108 PFU/ml β-galAd感染により内皮依存性弛緩反応障害が観察され、形態観察において内皮細胞はアポトーシスを起こし、内弾性板より剥離していることが観察された。RT-PCRの結果これらの障害は内皮細胞内の炎症(IL-1β、TNFα、IFNα、VCAM、ICAM mRNA発現上昇)を伴っていることが分かった。3μM DEXをβ-gal-Ad感染と同時、さらに感染後処置するとサイトカイン発現は抑制され、内皮細胞の形態と機能を維持したままβ-galの発現量は大幅に上昇することが分かった。また人単離血管内皮細胞さらにはラットを用いた個体レベルでの遺伝子導入実験においてもDEXの遺伝子導入率向上効果は確認された。

以上の成績より、血管内皮細胞には細胞特異的に抗アデノウイルス感染機構が存在し、かつ遺伝子導入効率に抑制をかけていること、さらにDEXは感染による内皮障害を抑制し遺伝子導入効率を有意に上げることがわかった。

総括

本研究の結果から、長期低酸素負荷肺高血圧症モデルラットの肺動脈内皮細胞におけるNO産生能の低下はeNOS蛋白質発現の変化によるものではなく、内皮細胞の形態変化、蛋白質の細胞内局在変化を伴ったCa2+流入機構の異常、NO合成系に関わる機能蛋白質とeNOSの相互関係異常、さらにそれに続くeNOS活性系(リン酸化)の異常などによることが初めて示された。HMG-CoA還元酵素阻害剤はこれらeNOS蛋白質翻訳以降の異常を改善することにより、低酸素誘発性肺高血圧病態の発症、進行抑制に効果を発揮することが明らかとなった。

他方組織培養法を用いた研究においては、低酸素が直接肺動脈内皮細胞に障害を誘起すること、他の動脈と比較し低酸素抵抗性が低いことが明らかとなる一方、病態モデルラットの肺動脈で観察される内皮細胞障害を再現することが可能であり、治療薬を簡便に評価することができる実験系であることが分かった。Dexamethasoneは組織培養系において低酸素誘発性肺動脈内皮細胞障害に回復効果を示し、今後本病態適応の可能性が示唆された。

最後に血管壁遺伝子治療を行う際、血管内皮細胞には細胞特異的に抗アデノウイルス感染機構が存在し、かつ遺伝子導入効率に抑制をかけていること、さらにDexamethasoneは感染による内皮障害を抑制し遺伝子導入効率を有意に上げることが明らかにされた。これら本研究ので得られた成果は、今後肺高血圧治療の展開に大きく寄与するものと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

肺高血圧症は慢性気道閉塞疾患や僧帽弁狭窄など生体が低酸素状態になる心肺疾患に併発し、肺血管に限局して発症する。血管内皮細胞はNOを始めとする血管弛緩物質を放出することによって、血圧を調節する働きを担っている。内皮細胞の機能障害は肺高血圧症の病態発症と進行に重要な要因であると考えられてきたが、その詳細な機構は明らかにされていない。また近年ウイルスベクターを用いた遺伝子治療が様々な血管病態に有効であると考えられているが、ベクター感染によって誘起される血管壁の炎症が問題となっている。

これらの背景を踏まえ、本研究では1)肺高血圧症における肺動脈内皮機能障害機構の解明、2)肺高血圧症治療法の探索について、肺動脈の低酸素下器官培養技術(in vitro)と低酸素誘発性肺高血圧症モデルラット(in vivo)の2つの実験系を用いて検討し、以下の結果を得ている。

低酸素誘発性肺高血圧ラット肺動脈における血管内皮NO産生障害のメカニズムの解析

本項目では低酸素環境下(10%O2)で1週間飼育したラットを肺高血圧症モデルとして用いた。低酸素負荷摘出肺動脈では、Carbachol (CCh)刺激時のNO産生量減少が確認された。内皮型NO合成酵素(eNOS)はCa2+流入後、細胞膜構造蛋白質caveolin-1からの解離、さらにはリン酸化酵素であるAktによるeNOSのリン酸化などの複雑な制御を受ける。本研究ではeNOS活性系に関わるこれら機能蛋白質群とeNOSとの相互関係を中心に検討を進めた。Whole-mount immunostaining解析により、肺動脈内皮細胞の萎縮とeNOS蛋白質の細胞膜への濃縮が観察され、さらに免疫沈降法を用いた検討で、低酸素負荷標本においてCCh刺激によるeNOSのcaveolin-1からの解離が減少していることを明らかにした。

HMG-CoA還元酵素阻害剤、Fluvastatinの低酸素誘発性肺高血圧ラット肺動脈における内皮細胞保護効果の検討

1mg/kg Fluvastatinの連日経口投与は1-3週間低酸素環境下で飼育したラットに観察される肺高血圧症状を改善することが明らかにした。eNOSの蛋白翻訳以降の活性機構に対するFluvastatinの効果を検討した結果、Fluvastatinは低酸素負荷による肺動脈内皮細胞の萎縮、内皮細胞内のeNOSとcaveolin-1蛋白質の濃縮を抑制し、その結果受容体刺激によるeNOSリン酸化量減少を有意に回復させることが分かった。

長期低酸素負荷ウサギ肺動脈組織培養標本における血管内皮NO産生障害のメカニズムの解析

本項目ではウサギ内肺動脈を無菌的に摘出し、低酸素環境下(5%O2)で1週間培養したものを用いて検討した。低酸素環境下において7日間培養した肺動脈において、NO産生量の低下とそれに伴う内皮依存性弛緩反応の低下が認められた。組織学的な検討の結果、低酸素環境下で培養した内肺動脈内皮細胞では、細胞は萎縮し、細胞内のeNOSとcaveolinの細胞内局在に変化が認められた。

糖質コルチコイド、Dexamethasoneの低酸素負荷肺動脈組織培養標本における内皮細胞保護効果の検討

本項目においても上記ウサギ肺動脈の1週間低酸素環境下(5%O2)肺動脈組織培養標本を用いた。3μM Dexamethasoneの同時処置は1週間低酸素負荷肺動脈標本において見られた内皮依存性弛緩反応障害とNO産生能低下を有意に回復させた。さらに、形態学的検討によりDexamethasoneは長期低酸素負荷による肺動脈内皮細胞の萎縮を抑制することを見出した。

アデノウイルスベクター感染に対する肺動脈内皮細胞の抗ウイルス感染機構の解析とDexamethasoneの遺伝子導入効率向上効果

β-galactosidase adenovirus vector (β-gal-Ad)を肺動脈組織培養標本に感染させると内皮細胞はアポトーシスを起こし、内弾性板より剥離していることが観察された。RT-PCRの結果これらの障害は内皮細胞内の炎症を伴っていることが分かった。3μM Dexamethasoneをβ-gal-Ad感染と同時処置するとサイトカイン発現は抑制され、内皮細胞の形態と機能を維持したままβ-galの発現量は大幅に上昇することが分かった。

以上、本研究の結果から、長期低酸素負荷肺高血圧症モデルラットの肺動脈内皮細胞におけるNO産生能の低下は内皮細胞の形態変化を伴った、NO合成系に関わる機能蛋白質とeNOSの相互関係異常によることが初めて示された。HMG-CoA還元酵素阻害剤はこれらeNOS蛋白質翻訳以降の異常を改善することにより、低酸素誘発性肺高血圧病態の発症、進行抑制に効果を発揮することが明らかとなった。他方組織培養法を用いた研究においては、低酸素が直接肺動脈内皮細胞に障害を誘起すること、更にDexamethasoneは本系において低酸素誘発性肺動脈内皮細胞障害に回復効果をもつことを明らかにした。そして、血管内皮細胞には細胞特異的に抗アデノウイルス感染機構が存在し、かつ遺伝子導入効率に抑制をかけていること、さらにDexamethasoneはこの内皮細胞の抗アデノウイルス感染機構を抑制し遺伝子導入効率を有意に上げることが明らかにされた。

以上のように、本研究は難治性疾患肺高血圧症に関し、低酸素モデルを用いて多角的に検討したものであり、学術上寄与するところは少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位に値するものと判断した。

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